21稿 「PTX療法開始と訪問医療・看護を中心に」「見舞客の治療効果!」

2014826

 

目 次

1.2次治療PTX療法の開始

 1)北大病院での入院治療

2)自宅での訪問看護の開始と通院治療

2.自宅でのサポーティブ・ケア

1)  花摘看護師(Ns.)と戸井医師Dr.の役割

2)花摘看護師(Ns.)のプロフィール

3)  戸井医師のプロフィール

3.在宅での使用薬剤

1)モルヒネ塩酸塩注射液10㎎「タケダ」11ml50㎎「タケダ」15ml

2)フェントステープ1㎎、2㎎

3)アンペック坐剤{白色}10

4)ボルタレンサポ25ml(白色)坐剤

5)ロペミン

6)セフィローム(セフェム系抗生物質)

7)ローラスパップ30㎎10cm×14cm

8)エルネオパ2号輸液2000

9)ストマ関連グッズ

4.腸閉塞再発後の見舞客

1)入院中の見舞客

2)退院後自宅への見舞い客

 

1.2次治療PTX療法開始

1)北大病院での入院治療

 入院中の714日、AM6:00に病棟病室にて血液採取し、PTX療法1クール1回目の治療に支障が無い事を確認し、翌日AM10:0010:30にパクリタキセルのアレルギー予防・吐き気止めにデカドロン13.2㎎+ファモチジン20㎎+クロールトルメリン10㎎+グラニセトロンバック3㎎を点滴静注、AM10:3011:301回目のパクリタキセル120㎎(5%ブドウ糖液250ml)を1時間かけて点滴静注した。靜注後、事前に説明を受けていた副作用の発現は認められなかった。2回目の投与は1週間後の22日を予定していたが、高熱が続き延期となった。私は在宅療養を希望し、自宅で輸液(以下、HPN)、イレウス管排液処理の訓練を受け、実際に夫婦でHPN管理出来るかを1日の試験外泊で確認し、ソーシャルワーカー奈良看護師(以下、Ns)のコーディネートで受け入れ先の札幌在宅クリニック・訪問看護ステーション「そよ風」のメンバーと北大12F.病棟会議室で顔合わせし、引き継ぎ後726日に退院した。

2)自宅での訪問看護の開始と通院治療

退院当日は帰宅後に花摘Nsと戸井医師(以下、Dr)が来てくれ、自宅での継続的な医療サポートについて意見交換し、最期は自宅で終えたい私の気持ちを伝え、長い付き合いになる為にお互いを知り、信頼関係を築く為に、取り敢えず土、日曜日を除き、毎日、花摘Ns.に自宅に来てもらう事になった。731日北大に通院し、血液検査後、小松主治医の外来診療を受け、白血球5900/好中球3888と回復しており、支障なしと判断し、腫瘍センターで2回目のPTX療法を、アレルギー及び吐気止め予防対応の点滴30分後に引き続き、パクリタキセル120㎎を1時間かけて点滴静注した。この日より脱毛が始まり、1回目の点滴静注から17日目の事であった。軽微ではあったが点滴後しびれも感じたが、すぐ消失した。9:0015:00までの6時間の外来治療であった。自宅に戻ってからは入院時に比べて体温、血圧、体重、尿量も普段通りになり筋力も回復傾向にあり、HPNをリックに入れて家周りを歩け、家庭菜園も少しずつ手入れ出来る様になった。やはり我が家は良いものである。

8月に入ってからは、自宅で花摘Nsと戸井Drに午前中サポートしてもらい、2日、3日の土、日曜日は、朝、体温、血圧、体重を測定し、引き続き家内の看護でHPNの取り替え、イレウス管からの腸排液の吸引・排泄を行ってもらった。2日の午後は体調も良く庭のベンチでコーヒーを飲んだ。3日は腸排液が出ず、ストマからも少量の排泄であり、朝方には腹痛があり、レスキューボタンを押してモルヒネに頼った。午後から調子が悪くなりずっと横になっていた。4日は午前中に花摘Nsの看護を受け、午後2時頃寒気がして震えが止まらなくなり、窓を閉め洋服を厚着し、電気ストーブを点け、座薬を挿入して、何とか37℃代に熱も下がり、5日は花摘Nsに昨日から今朝までの状況を説明し、急遽、戸井Drを呼び出して診断してもらった。鼻粘膜からの感染症或いは腸の蠕動痛に伴う炎症を原因と考え抗生剤を点滴してくれた。8月7日北大外来と言う事も承知で、そよ風で血液検査をしてもらい、白血球は危惧した通り2,500と低値であったが、好中球は1,625であった。ただ、CRPが基準値よりも異常に高く、感染症や炎症性疾患を原因とした発熱であった様である。2日後の北大の検血液査では白血球3,900/好中球1,973と回復し、予定通り1クール3回目の点滴を無事終える事が出来た。小松主治医と面談中に戸井Drから詳細な在宅での診察・治療経過記録が届けられており、又、それが外来Ns、腫瘍センターNsにまで情報が共有化され、外来では富樫Nsが私の様子を見に来て、ベッドで休む様にと気遣って、単に私を預けた「そよ風」との連携・連絡が良いだけでなく、患者に対する配慮が行き届いているなと感心し感動した。そのせいか往復の通院も左程疲れず、満足な1日であった。

821日からPTX療法2クール目の開始である。自宅をAM745分に出て、840分に北大で採血し終えたので、外来面談は1時間半以上待たされる覚悟をした。車中でHPNューブに不具合があり泡で流れなくなったので、Nsに外来のベッドを借りて修復したが、そのまま小松先生が来るまでお使い下さいと言われ、疲れていた事もあり、1時間程睡眠を取らせてもらった。10時過ぎに主治医小松医師の診断を受け、前回87日の3回目の時の白血球/好中球は39001973で、1週間休薬後の本日は83003021と改善している事はもとより他の検査値も軒並み改善が認められるとの説明を受けた。腫瘍センターでwPTX療法の常法に従い、1時間40分かけて、2クール1回目の点滴靜注を無事終えた。wPTX療法のwの意味は、パクリタキセルを1,8,15日に分割投与するというweeklyの事である。1クール終了後自宅で疼痛及び腸排液のイレウス管による管理を続けている中で、1週間後くらいにイレウス管からの腸排液が出なくなり、ストマ(人工肛門)から排出する様になった。この事実は私には朗報であり、一日も早く主治医に知らせて、イレウス管抜去、食事の可能性の相談をしようと思っていたので、小松主治医の見解を聞かせてもらった。結論は賛成して頂いたが、イレウス管を抜去した後、腸閉塞の再発のリスクもあり、再度、イレウス管挿入処置で苦しい思いをする事も考えておく必要があり、決めるのは鵜木さん自身ですと言われた。確かにパクリタキセルは癌細胞を縮小している様だし、今後を見極める必要もあるが、いずれにしても生き残った癌細胞は耐性を獲得し、その都度強力になっていくと考えられるので、当然、次の抗癌剤に何を選択するかも考えておかなければならないと思っている。家庭医の戸井Drからもファックスで、イレウス管抜去は今がチャンスではないかと進言してきた事が知らされた。今回も戸井Drから小松主治医に詳細な治療及び病状記録が届けられており、イレウス管抜去、再設置、抗癌剤の点滴靜注についても、私の自宅近くの恵み野病院を紹介出来るという提案も書かれていたそうである。恵み野病院の医師は小松主治医の北大3内の後輩であり、如何様にでもなるので必要ならいつでも紹介するとの事であった。私の場合、よくよく人の輪が繋がっていくものである。ただ、一番私の癌治療に対する考え方、病歴・治療歴を理解してくれている関係者のいる北大以外の癌治療は考えられない心情にある。22稿で良い報告が出来ればと思っている。

 

2.自宅でのサポーティブ・ケア

1)花摘Nsと戸井医師Drの役割

87日以降の自宅でのサポーティブ・ケアは、癌性疼痛の管理をメインとしている。

花摘Nsは月~金曜日の午前中に来訪し、検温、血圧、腸液の有無の確認、※脈拍数・動脈血酸素飽和度測定、イレウス管固定の為のテープ交換、HPNの取替え及び尿量、排便量、飲水量、痛みの程度確認、疼痛緩和のモルヒネ塩酸塩、HPNや薬剤の在庫量を確認し、随時発注してくれている。

※パルスオキシメーター;指先に付けて、侵襲せずに脈拍数と経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)をモニターする医療機器である。一番の用途は入院患者のバイタルチェックで、健常者のSpO2は概ね9699%の範囲であり、この範囲から34%下降すれば何らかの急性疾患を引き起こしている可能性がある。

戸井Drは、北大外科出身で本年3月末まで江別にある恵み野病院に勤務しており、4月より訪問医に転身したという経歴のDrである。彼は我が家へは週1の訪問を基本としているが、花摘Nsの報告で必要に応じ来訪し私の症状に対応してくれ、北大の主治医小松医師にファックスで情報を提供している。これまで在宅12日間でモルヒネ点滴から、より身軽に動ける様にとフェンタニルテープに切換え、パクリタキセルの副作用パターンに対応した薬剤の処方に工夫してもらっている。

2)花摘Nsのプロフィール

恵佑会札幌病院外科病棟、東札幌病院化学療法センター、緩和病棟いわゆるホスピスでスキルアップし、同郷の秋田出身の吉崎院長にヘッドハンティングされてそよ風開設時から訪問看護師として勤務している。とても真面目で知識も豊かで頼れる看護師である。年齢不詳であり、家内や嫁らの話題になっていたが、1ケ月間の訪問看護の中で打ち解けてくれたのか、コーヒーブレークの時に何気なく本人より32歳であると事が告げられた。今時の32歳にしては落ち着きもあり、仕事もてきぱきとこなし、知識も豊かでしっかりした女性である。何故か今迄以上に親しみを感じた。

3)戸井Drのプロフィール

1997年北大医学部卒業と同時に第一外科に入局し、釧路労災病院、旭川厚生病院、札幌厚生病院、恵み野病院で臨床経験を積み、本年4月より札幌在宅クリニックそよ風に転身して来た経歴のDrである。所属学会は、日本外科学会、日本消化器病学会、日本消化器外科学会、日本肝臓学会に所属し、それぞれの所属学会の専門医である。臨床現場での抗癌剤の使用経験も多く、話をしてもじっくり考えた後に的確な回答をしてくれる物静かなDrである。更に、私の自宅での病状をきめ細かに主治医の小松医師に報告してくれる信頼おけるDrである。趣味はマラソンで東京マラソンのフルマラソンに申し込んでいるとの事であった。

最終的には、戸井Dr、花摘Nsが私の最期を看取ってくれる事になりそうである。

 

3.在宅での使用薬剤

1)モルヒネ塩酸塩注射液10㎎「タケダ」11ml50㎎「タケダ」15ml

北大に入院中、疼痛に苦しみ、ブスコパン内服錠・筋肉注射を使っていたが、効果時間が短く、プレフィルド注射器内臓のモルヒネに切り替えた。2日間で202mlを持続点滴靜注出来るもので効果も期待通りであったが、効果の持続日数が短く感じられ、レスキューボタンを押す頻度も高くなり、2日間30㎎に増量してもらった。私はモルヒネを疼痛緩和の最終薬剤と考えているが、日常生活での持ち運びが不便であった事から、戸井Drのサジェッションで、何時でもモルヒネに切り替えられると聞き、フェントステープの使用を検討した。

2)フェントステープ1㎎、2㎎(数日分を常に在庫)

2㎎は、モルヒネ塩酸塩20㎎相当量であり、フェンタニルとして0.6/dayを吸収する医療用麻薬である。問題点としては40℃以上になるとオーバードーズの危険性があるので即刻、医師に相談する必要が生じる。

3)アンペック坐剤{白色}10㎎(数日分を常に在庫)

フェントステープの効果が減弱したと感じた時のレスキュー剤で痛みを抑える坐剤である。モルヒネ塩酸塩のレスキューボタンと同様の考え方で腹部の疼痛緩和の役割である。

4)ボルタレンサポ25ml(白色)坐剤(数日分を常に在庫)

 発熱時1回挿入。痛みや炎症を抑え、熱を下げる薬である。

5)ロペミン(常時在庫)

 下痢時に11カプセル服用している。

6)セフィローム(セフェム系抗生物質)(訪問時必要に応じ点滴)

 高熱時に感染対策で点滴静注した。

7)ローラスパップ30㎎10cm×14cm(数日分を常に在庫)

 筋肉痛や関節痛を抑え、痛みや炎症を抑える外用剤である。北大腫瘍センターでパクリタキセル2回目の点滴静注後、4日目で両膝関節の激しい痛みがあり、パップ剤を使った。

8)エルネオパ2号輸液2000(常に在庫)

 私の栄養の全てをこの輸液2000ml/24時間持続点滴で賄っている。総熱量は1640Kcalで、糖、電解質、アミノ酸、混合ビタミン、微量元素液を含む輸液である。

9)ストマ関連グッズ(パウチは1ケ月分10枚在庫)

人工肛門を維持して行く事は、中23日毎に袋を取り替える作業があり、とても面倒である。健常人ではないので熱があったりすると作業をする事で体調悪化の懸念もありスキップする事も再三ある。長く張り付けていると皮膚が赤くなったり、かぶれたりするので…、面倒この上ない。以下はパウチ取替え為の補助品である。

モイスコート(必要時購入)

 ノンアルコール性保護膜形 内容量30ml 肌の刺激や汚れから保護する噴霧式液体である。

皮膚用リムーバー 非アルコール性 低刺激タイプ(必要時購入)

粘着製品Hollisterを優しくストマから剥がす液体である。Hollisterは人工肛門であるストマ(穴)に張り付けるパウチ(ビニール袋)の事である。

プロケアパウダー(必要時購入)

皮膚保護剤

Cohesive(必要時購入)

Hollisterをストマに張り付ける際の補強剤

リードクッキングペーパータオル(必要時購入)

肌に優しい紙製のタオルでパウチ取替え時にストマ周辺の汚物を拭き取ったり、新しくパウチを取り付ける際の拭き取り様に利用している。

Hollister(1カ月毎に10枚購入)

 人工肛門にとって一番重要なグッズであり、中23日おきに新しいものに取り換えている。①~⑤はHollisterを取り替える際の小道具である。1ケ月に約10枚使うので、その都度10枚発注している。

 

4.腸閉塞再発後の見舞客

私の身内、知人は道外がほとんどで、見舞いに来るのも時間のやりくりが大変で迷惑をかけているなと思いつつ、一方では気心の知れた人達ばかりなので心を開いて話も出来るし、その結果、一時でも病人である事を忘れられるし、どこかで待ち望んでいるところがある。元気になって恩返ししないといけないな~。

1)入院中の見舞客

1)次男正一郎

624日退院後2日目に腸閉塞で緊急入院した事で次男正一郎が1泊2日で、病室に来てくれ3時間程話し込んで帰って行った。彼も既に40歳になる一人前のサラリーマンに成長していた。これまで親子でありながら忙しさにかまけて二人で話す機会は殆どなかったが、病気をしたお蔭で、彼の勤めるアルファシステム(株)でのソフト開発業務の内容、取引企業、会社の将来性、現在のポジション、家族、特に孫娘の日常について素直にいろいろ話が出来てとても充実した時間を持てた。時代なのか、一人っ子のせいなのかわからないが娘に月~金曜日まで英語、算数、国語、理科(実験)で塾へ、それにピアノと水泳、やり過ぎではないかと思うが、これも時世なのかと思わざるを得ない。小学3年生なので見届ける事は出来ないが、静かに見守ってやろうと思っている。それにしても常識的で物静かに淡々と話す息子の成長、姿が眩しい。私との話の中で、「ベッドでパソコンを弄れたら楽だけど…」の一言を捉えて端末を付けられるように準備して帰って行った。

2)長男振一郎

翌日、抜けられない仕事があるにも係らず日帰りで見舞いに来てくれた。見舞するにあたり、現実を受け止めたくなく、痩せこけた私を見たくないと言っていた。現在42歳で東京の西多摩地区で会社を経営している。病室に入ってきた時、彼の表情、服装等から随分落ち着いてきた印象を持った。やはり会社を運営していく責任感、家族を養って行かなければならない事が、日々の生活をも充実させていることが十分感じられた。後日、手紙が来て、前回見舞いに来た時に私がさりげなく話した生きる責任について聞かされ感動した事、立川、小金井近辺に墓を探す様に頼まれた事を真剣に考えて具体的に調査した事、これまで大切に育ててくれた事への感謝の念が述べられ、極め付けは、父親の私が一番尊敬する人であり、家庭を持ち、子供に私の様に尊敬される父親に成りたいと結んでいた。父親冥利に尽きる感動的なフレーズに家内共々感動のあまり落涙した。原文を紹介したいが、私の宝物としてあの世に持っていきたいと思っている。

3)友人門田夫妻

二人は高校時代のクラスメートで鹿児島に帰省の際の寝泊まりは、勝手に彼の家に逗留させてもらい、必ず3人で土・日はミニクラス会を霧島の高千穂で開催している。時間があると宮崎や鹿児島の観光地に連れて行ってもらう。彼は現役の医師、彼女は薬剤師、現在は社会貢献に精出す2児の母で、息子2人は立派に自立し、それぞれ子供にも恵まれ、悠々自適にそれぞれが人生を楽しんでいる様である。私が患ってからもちょくちょく来道してくれ何も言わずにただ一緒に焼酎を飲んでくれる。お土産も彼と私にしかわからないような工夫がなされ、それが結構時間をかけて作った事が分かり、感動させられるのである。南日本新聞やANAの機内誌も今の私には何よりの土産である。何とか元気になって霧島で、ビールを飲みながら高千穂を愛でたいものである。彼女の一言も面白く、記憶に残る。宮沢賢治を孫らに素読させる、ツリーハウスを実家の森に専門家を呼び寄せ作らせ、田舎の子供らに開放し、近所のボランティアに定期的にメンテナンスさせる、鹿児島市内にある一軒家(私は迎賓館と呼ぶ)を利用して高齢者と定期的に食事会を開く、兎に角、行動的である。私より3カ月ほど早く生まれているので、満年齢でも既に古希は過ぎている。時折の私への説教の内容は忘れたが的確である。今回の北大での一言は是非紹介したい。もう先は長くないと言うと「長く生きれば良いといものではなく、長生きすればするほどいつも友達を見送るばかりで、80歳を超えると認知症にもなるし、良い事なんて一つもないよ」と病人の私に向かって真面目な顔で言う。そうだそうだと笑ってしまった。私の母も80歳を過ぎた頃、指折りしながら、もう、一高女時代の友達は何人も残っていないと良く言っていた事を思い出した。

4)陶芸仲間中井さん

兎に角、人様に気遣い出来る性格である。出会いは市で企画した陶芸教室であった。お互い陶芸は初めての経験で、2週間の初心者訓練を終え、市担当者の斡旋で陶芸サークル陶樹を15名で発足させた。会長、副会長、事務局長を決めて、市教育委員会に届ける手続きが必要だったので、何となく私と彼が名乗りを上げて会長、副会長の世話役を引き受けてサークルとしての活動が平成186月からスタートした。偶然、年齢も一緒で、定年退職の動機・引き際も似ており、これまで仲良くお付き合いさせてもらっている。彼は総務省の人権委員でもあり、社会貢献にも積極的であり、彼とは陶芸の夢、歴史・文化、経済・政治と話も広がり、今や大切な友人の一人でお互いの家を行き来している。私が患った後も気遣いの中にも変わりなく付き合ってもらっている。早く元気になってまた作陶を始めたいと思う。

5)姪の志保

私の入院を聞いて知的障害者施設で働く忙しい身でありながら、23日で来てくれた。犬の散歩や家事、買い物等を手際よくしてくれ、大いに家内の役にたってくれた。

6)病院で会えなかった幼馴染の平本夫妻

小学、中学時の幼馴染である。ご主人と北海道旅行を計画し札幌で会う事を約束していたが、病状が急変して入院した事で全ての計画がちぐはぐになり申し訳に事をした。その上、こちらに来ているのに自宅のパソコンのアドレスしか知らせておらず、家内に広島の彼女の自宅に札幌で連絡出来るように、電話番号、携帯番号をはがきで確認してもらい、私の携帯に登録した。彼女は事前に私のパソコンに自分の携帯番号を知らせて来ていたが入院中で確認出来ず、家内から聞いた携帯に何度しても繋がらず、やっと退院時に彼女より連絡があった。私の携帯番号を登録し忘れ、非通知の電話は着信拒否にしていた様で、やっと何回もかかってくるので、不安を抱えながら、もしかして私からの連絡ではないかと悟った様で意を決し、リダイアルしてくれた様である。お互い歳のせいもあるが、緊急入院が全てであった。レンタカーのナビで私の自宅を確認し、入院先の北大病院へも来たと後日連絡があった。北大病院で受付に一言尋ねてくれれば、会えたものをと悔やまれる。

2)退院後自宅への見舞い客

1)会社の友人角君、関本君、佐藤君

725日に退院し、翌日、角君が自宅へ見舞いに来てくれた。リタイアして10年になるが、毎年12度程、東京から会いに来ていろいろ会社の話題を提供してくれる友人であり8歳年下の後輩である。彼が入社以来30数年の付き合いになる。思えば良く飲んだものである。酒を飲みながらそれぞれの話しを肴に議論する、お互い良い酒飲みであった。今回は腸閉塞で一緒に食事が出来ず、アルコールも嘗める程しか付き合えずに私はとても残念であったが、それを特に気にする様な事も無く楽しんでくれていたので、その姿を見ているだけでも満足であった。又、近々来訪すると言っていたので再会が楽しみである。石川、佐藤君は私が仕事で札幌に関わりを持ち出してからの古い友人で長い付き合いになる。二人とも、もともと北海道出身で公私共にお世話になってきた。家も近いので、今でも盆と正月には自宅近くの酒場で一杯飲む機会を作ってくれ、こちらに友人の少ない私に気遣ってくれる心優しい友人である。

2)本田夫妻(熊本在住の姉)

9歳離れた実姉である。大の飛行機嫌いの姉であるが、今回の入院がとても気懸りであった様で、私は心が通じているのだから高齢を押してわざわざ来てくれなくてもいいと言ったのだが、ご主人共々23日で見舞いに来てくれた。お互い80歳前後の年で我が家に泊まるには階段の上り下りや気遣いも面倒なのでわが家から車で10分程の新札幌駅に隣接するシェラトンホテルを予約していた。2日間来てくれ、一緒に食事をし、昔話に花を咲かせた。私は水かコーヒーで参加していたので、姉も義兄も、その姿が不憫でならなかった様で、シェラトンまでの道中涙が止まらなかったそうである。翌日、玄関先での挨拶の時も握手した段階で二人の気持ちが私にも伝わってきて落涙を我慢するのがやっとであった。止むを得ない事であるが心配かけてしまって申し訳ない気持ちで一杯になった。

3)会社の後輩杉本君

大学、会社の後輩でとても優秀なサラリーマンである。会社の業績アップにも貢献している様である。現役時代会社が富士通のCPを導入し、我々世代はキーボードに触れる事に一種のアレルギーがあったが、彼は違和感なく使いこなしていた。私は「これ、動かん、何とかして」を繰り返し、「いい加減にして下さいよ、先輩!」と言われながらCPをどうにか同年代の者よりは彼のお蔭で先んじる事が出来る様になった。正義感の強い正直な人間で、心を開いて付き合ってくれる得難い後輩である。私の家にもちょくちょく顔を出してくれ、会うのが楽しくなる。84日に北広島駅に家内が彼を迎えに行っている間に、私の体調が急変し、発熱し、震えが止まらなくなり、両膝に激痛が走り、パニック状態の時に家内共々帰宅したので、窓を閉め、厚着をし、ストーブを点け、座薬を入れ、その間、彼は心配しつつも冷静に家内のサポートをし、私を見守ってくれた。家内が訪問看護師を呼ぼうと言ったが、少し待とうと家内に言い、その後、奇跡的と言っていいのか30分程で身も軽くなり、座れるようになり、彼とビールで乾杯した。まさに奇蹟である。

4)大学の友人大久保君

製薬学科1回生として大久保君に出会った。最初の会話は「出身は何処?」「とやま!」だった。彼は「戸山高校だ。」と言ったのを私は富山県出身と早とちりしてしまったのだ。当時の日比谷、新宿、西、戸山の受験高「戸山」だったのである。同級生達は浪人組が多く、何処かいじけた若者が多かった様に感じた。後日、教師に言わせると1回生は優秀な生徒が多かったと評価してくれたが、恐らく彼と私は共通の別の評価をしていた様な気がする。私は入学後も大学には行かず、教科書も買わず、小金井の下宿で、何とかこの場所から逃げ出す事をばかり考え、父親を説得する方法ばかりを考え、駅前でパチンコ三昧の毎日であった。彼は空手や軽音楽部でクラブ活動に精をだし、夜はレストランでベースを弾く等、取り敢えずキャンパスライフを楽しんでいた様な気がする。その彼が、遠い昔の話しなので記憶は定かでないが、下宿を訪ねてくれて、それから大学に顔を出す様になった。夏休みに意を決して鹿児島に帰り父にあと1年だけ浪人をお願いしたが、許しを得られず、東京に戻った。それからは新宿南口に在った彼の家に行く機会が増え、母上には良くご馳走になった。下宿も引き上げて文京区の東大農学部前の鹿児島奨学会同学舎(県人寮)に入れてもらい、新宿大久保まで総武線で通った。坊主頭、下駄ばきだったので守衛によく呼び止められ、学生証の提示を求められた。私の学生生活は入学後5か月後から始まったのである。大学で胸襟を開いて話し合える無二の親友は彼しかおらず、半世紀も過ぎた今も変わらない。学生時代は彼の知る新宿南口のション便横丁の河童寿司、三幸町のクラブ、私の宿舎である同学舎、お茶の水の公衆衛生院、ボルガ、スンガリー等、本当に良く遊んだ記憶が蘇ってくる。結果、お互い最初の試験成績は散々であった。でも私も彼も全く気にせずその後も遊びまわっていた気がする。3年になり、彼は目覚め成績優秀となり、私は変わらずだらだらと過ごしていた。卒業できたのは彼のお蔭と今でも感謝している。彼は70歳の今でも現役の学者として世界中を飛び回っている。彼と縁で結ばれ巡り会えた事に感謝している。86日に自宅に来てくれ、最期にこれまでのお礼、感謝の気持ちを伝えようと思っていたが、もう一度だけ何とか復活して彼と一杯飲みたいと心から思った。私にはかけがえのない恩人であり且つ大切な友人である。

5)四男龍一郎夫妻

息子は一泊して、美味しいものを沢山食べて、翌日、社員等とのバーベキューがあるとの事で帰った。その際、家庭菜園のじゃがいも、にんにく、トマト、サンチュ等の菜っ葉類もダンボール一杯持たせた。後日北海道産であると言う事、わざわざ持ち帰ってくれた事もあってとても評判が良かったと聞かされた。仕事では部下も沢山いるらしくコミュニケーションに苦労しているとの事であったが、年長者にはこれまで通り言葉遣いは丁寧に挨拶も自分からする様に、部下には相手の性格を把握して第三者から見ても公平に見える様な指導、会話に心がける必要があるとサジェッションした。嫁の順子さんは我々夫婦に結婚当初から心を開いてくれており、私の事もごく自然に「お父さん!」と呼んでくれている。結婚出来たのは両家で婚約式として食事をした時、少し酔った私が息子に、「いつ結婚するんだ?」と言った一言が引き金になって、更に順子さんの父親にも「そうそう、いつ結婚するんだ?」と追い打ちを掛けられて、それまで経済的な面で逡巡していた息子が延び延びにしていた様で、二人の親の発言で、出来るだけ早いうちに式を挙げると約束したと言う事を初めて聞かされた。順子さんは家内の手伝い、ロンの散歩をしてくれ、二人で楽しそうに語り合いながら食事をしていた。45日共に生活してくれ、家内の手作りのジャムなど土産に持たせ、我が家を楽しんで帰ってくれた様である。

6)家内の妹啓子さん

45日で手伝いに来てくれた。現在64歳でしんどい筈だが犬(ロン)の散歩、皿洗い、掃除等精力的にこなしてくれた。家内は実妹と言う事で遠慮なくこき使っていた。ロンがとても懐いており、家中付け回していた。二階に彼女が上がると階下から二階に向かって「降りてきて!」と言っているのだろうか吠え続ける。21日は北大まで付いて来てくれ治療が終わるまで家内と過ごしてくれた。帰り道三越により、彼女は二条市場で降りて土産を買いに行った。彼女らしいエピソードを紹介すると、二条市場は数年前に母親を連れて来ており、その際お世話になった店の○○さんに土産を持っていくと言うのである。普通なら土産物を沢山買ったのだからそれで十分なはずであるが、そこが普通でないところである。今回もきっと沢山の海産物を買ってあげたはずである。更に母親と私からと言って見舞金までおいて行った。

 

以上 2014827日  No.22へ  No.20へ