28稿 「癌と共に~重症感染症で緊急入院~

特別編『1杯のかけそば』」 201527

目 次

1.   パクリタキセル5コースの総括

2.  重症感染症26日間の緊急入院

3.  息子の婚約・結婚~上京~

4.  一杯のかけそば

 

☆長期入院の為、1215日以来の寄稿になりました。入院期間中に中東で日本人が2人殺され、これを機会に日本国憲法を国際社会に大々的にアピールし、永久に戦争には参加しない国、国連に貢献していく国として、一方で、安部さん(自民党や憲法改正を望む人達)の悲願である憲法改正の是非を戦後70年の今日、これからの日本はどういう国体であるべきかを考えてもいいのではないかと強く思いました。私は前者の考えですが…。

 

1.   パクリタキセル5コースの総括

1010日以降の発熱はポートが原因であると判明し、入院と同時に右鎖骨下のポートを抜去し、同時に入院中は平熱になった事考えると感染はポート由来であったと思われた。10日後に左鎖骨下にポート再導入手術を行い、翌日(1029日)、退院し、外来治療センターでパクリタキセルの4コース1投目の点滴を行った(1030日)。2投目、3投目も順調に治療出来、2週間後の休薬後に(1127日)5コース1投目を点滴し、3日目より高熱が発現し、腰から背中にかけて痛みもあり、更に小松医師との外来診断中に震えが来たこともあり、更にWBCCRPの値も上昇しており、2投目は、スキップする事になった。

家庭医の戸井Drは、腰の痛みは化膿性脊椎炎の疑いがあると言い、小松医師に精査するように連絡した。1124日よりクラビットを128日からセフゾンカプセルを追加し1224日まで服用したが、結局は除菌出来ず、1224日の入院を持って服用中止となった。整形外科の診断結果が出るのは12月19日であったので、12月11日の2投目の点滴については、微熱は続いていたものの他の検査値(白血球数6,000、好中球数4,014CRP2.55)は、CRPの正常値を0.000.39を陰性とするとかなり高い数値ではあったが、小松医師と相談の上で点滴に踏み切った。3投目は12月18日で、白血球数6,000、好中球数3,816は問題なかったが、熱は37.5℃、CRP3.58と判断の難しい局面であり、小松医師はスキップを考えた様であったが、私・家内はこれといった根拠も無く、小松医師に点滴を行うようにお願いし実施した。

そのせいかどうかは分からないが3日後には39℃を越え、前日に整形外科で診断し、緊急にMRIを撮像し、化膿性脊椎炎と診断が確定したので、12月24日より1か月間以上の入院が決まった。化膿性脊椎炎を未治療のままにしておくと、細菌により脊椎がとけたり、壊れたりし、歩行も儘らなくなる事も考えられる。そう聞かされると治療をせざるを得なくなるものである。

パクリタキセル5コースは以上の様にその都度投与の際、困難な状況に見舞われたが、結果オーライで1218日に3投目をどうにか終了させた。6コースはどのような治療になるか現段階では判断出来ないが化膿性脊椎炎の治療結果を待って20151月或いは2月に抗癌治療は再開されると思っている。1ケ月以上の未治療期間が私にどのような結果をもたらすのか少々不安もあるが、事、此処に至っては主治医を信頼し、任せるしかないと思っている。

化膿性脊椎炎は、以下のX線、MRI, PET/CTの撮像によって診断され確定された。

1MRI診断結果

1)整形外科外来の診断とMRI検査

MRI検査は、強い磁石と電波で体の内部を調べる検査で色々な角度からの断面写真を撮像するものである。124日に撮像した画像に対して整形外科の長濱Drの評価は、私が痛いという箇所とMRIの示す箇所が異なり、それでも明らかに脊椎に病変が見られ、単に化膿性脊椎炎なのか転移であるのか判別できない。1219日、病巣を明らかにして今後の癌治療が円滑に行く様に再度別機種のMRIで撮像する様に放射線部MRI検査室に依頼してくれた。22日に撮像を評価し、細菌感染であれば徹底的に治療する為に緊急入院してもらうと言われた。935分に説明を受け、緊急を要する患者であるので最優先で検査してもらう様に放射線部に取り次いでくれた。950分の受付で1135分には撮像を終えた。撮像の手順は、前回(124日)同様に体に付けている金属を外し、ポートの注射針は放射線部では抜けないと言われ、前回は家内が抜いたと告げると、看護師は、「あっ、奥様…」と家内に気付いて了解し、サポートしてくれた。衣服を病衣に着替え、右手首に造影剤用のリザーバーを設置し、MRI室で耳栓、仰向けで体を軽く固定し、トンネル内で撮像を開始した。4種類の轟音(バリバリ…、ドウドウ…、トゥルトゥル…、ガーンガーン…)の後、造影剤を注入し、今度は2種類の轟音(音は忘れたが、単音と混成音)で撮像は終了した。

2PET/CT診断結果

整形外科の見解は、癌(腫瘍)の増殖、転移は認められないが、脊椎の病変は転移の可能性も考えておく必要もあるものの、私の全体像を判断すると、恐らく初期の急性化膿性脊椎炎と考えた方が理解し易いという診断であった。いずれにしてもパクリタキセルを5コース終え、PET/CT検査にて化膿性脊椎炎の確定診断に至り、且つ、パクリタキセツの抗癌(腫瘍)効果も出ており、2週間の休薬(1219日~11日)もあり、更に1週間休薬して今後の癌治療に影響するものは、休薬中に徹底的に治療し、年明けて新たな治療を始める計画になった。24日から年明けのしかるべき日まで入院する様に言われた。

 

2.  重症感染症26日間の緊急入院

 1224日より開けて月29日までの37日間の入院であったが、セファゾリンナトリウム1g4回点滴投与時の20日間は副作用も無くひたすら読書で過ごす事が出来た。全身状態も良く毎日1~2冊の本が楽に読めて、Dルーム(患者の休憩室・見舞客の待合室)に設置してある図書は殆ど読み終わり、家内に本を持参して貰ったり、息子に送って貰ったりした。しかし、セファゾリンナトリウム1g4g/day点滴静注)では除菌効果がもう一つだったらしく入院から21日目にセファゾリンナトリウム1.5g6g/day点滴静注)に増量、かつ内服のダラシンカプセルやミノマイシンカプセルが追加された。この時から悪心・嘔吐、吐き気が生じて朝昼夕食の摂食率も急激に落ちて行った。更に一口、二口目で食物が喉につかえ嚥下しづらくなり、胸も息苦しくなり、トイレで戻したりしながら食事を継続する事が増えた。この事は癌治療による副作用の比ではなく、退院までの16日間は精神的に追い詰められる感があった。健康な時には分からなかったが、食事を普通に食べる事が、食べられる事が如何に有難い事であるか、イレウス管挿入時には輸液のみの食生活であったが、その時以来の食に対する感謝であった。入院当初、54.5kgの体重が輸液を外し且つ、抗生物質の影響で115日から退院時29日まで4.5kg減少し50kgになった。

1)抗生物質点滴静注による除菌の治療経過

入院の目的は化膿性脊椎炎の黴菌を抗生物質の点滴を継続し、除菌する事である。余談ながら北大では医師も看護師も細菌の事を黴菌(バイキン)と言っているのが私の学問的常識からするととても気になることばであった。122410時に入院し、昼食時より日局セファゾリンナトリウム1g(セファロスポリン系抗生物質製剤)を16時間おきに4回点滴静注(0:001:006:007:0012:0013:0018:0019時)した。要するに24時間中、高い有効血中濃度を維持して細菌を殲滅する方法である。この点滴は113日午前中まで80回実施し、18日には陰性になって早期退院も期待出来たが、4日後の12日には再び陽性に転じ、(1/8)CRP0.31/dl、血沈1時間値115㎜、2時間値125㎜⇒(1/12)CRP0.49/dl、血沈1時間値137㎜、2時間値152㎜、思いの外、除菌が進まず、113日昼より1g1.5gに増量し、更にダラシンカプセル150㎎を12カプセル、8時間おきに3回内服(6時-14時-22時)する事になった。更に119日からはミノマイシンカプセル100㎎を朝食後、夕食後2回追加服用することになった。セファゾリンナトリウム点滴は126日に終了し、CRP0.05/dl(陰性の参考値:0.000.39)となり、入院の目的である除菌は達成された。127日よりダラシン、ミノマイシンにセフカペンピボキシルが追加され、今後はこの3つの抗生物質を服用することになった。いつまで飲み続けなければならないのか私には分からないので、整形外科外来受診時に長濱医師に確認したいと思っている。129日の採血結果により、CRP0.03/dl、血沈1時間値35㎜、2時間値66㎜(入院前の125日は、血沈1時間値126㎜、2時間値138㎜と高値)となり、当初の治療目標は達成され退院に至った。

入院中、当初の21日間は平穏な入院生活だったので、採血の都度、検査成績を貰っていたので、抗癌剤治療の条件になっている白血球や好中球、赤血球、ヘモグロビン、肝機能、腎機能、CRPの数値を眺めながら、「今の全身状態ならセファゾリンとパクリタキセルとの干渉作用は無くて同時進行で治療しても問題ないな!」と考え、整形外科の若い医師に提案したが、上司の指示時通りにやらないといけないと言う事で賛意は得られなかった。家庭医の戸井Dr.に聞いたところ、私が無知だった様で、病院のルールとして私は「化膿性脊椎炎で入院」しているので、その時点で診療報酬が大枠決まっている様である。その為、化膿性脊椎炎以外の癌治療は診療報酬外の治療になり、病院は国に請求できない事になっている様である(端的に言えば病院の持ち出しという事かな)。どうしてもと言う事であれば一度退院して消化器内科外来・癌の外来治療センターに出向く必要があるとの事である。医療制度上の問題で医師に言うべき事ではなかった。一方で、患者にとっては、除菌の治療が長引いて本命の癌治療に支障を来す様だと何のための癌治療かと不安にもなる。

参考「血沈とCRPの検査値☆兄9回測定」 CRPの正常値0.000.39

(12/5)CRP3.75mg/dl、血沈1時間値126㎜、2時間値138㎜⇒☆(12/19)CRP4.193.58/dl、血沈1時間値116㎜、2時間値127㎜⇒☆(1/5)CRP0.53/dl、血沈1時間値129㎜、2時間値139㎜⇒☆(1/8)CRP0.31/dl、血沈1時間値115㎜、2時間値125㎜⇒☆(1/12)CRP0.49/dl、血沈1時間値137㎜、2時間値152㎜⇒☆(1/15)CRP0.15/dl、血沈1時間値96㎜、2時間値116㎜⇒☆(1/19)CRP0.53/dl、血沈1時間値89㎜、2時間値114㎜⇒☆(1/26)CRP0.05/dl、血沈1時間値47㎜、2時間値79㎜⇒☆(1/29)CRP0.03/dl、血沈1時間値35㎜、2時間値66㎜  ※は前日の測定

2)化膿性脊椎炎の感染と治療の考え方

 化膿性脊椎炎はどのような病気かと端的に言えば、細菌が血流に乗り脊椎を化膿させる病気である。中年世代に多く見られるが、私の様に癌により免疫機能が低下している高齢者にもたまに見られる様である。症状としては、急性の場合、腰や背中のかなり強い痛みと高熱があり、私も悩まされた。慢性的な症状は急性に比べて痛みは少なく、熱も高くならず、その部位を押すと痛みがあるそうだが私は痛みを感じなかったので、急性の化膿性脊椎炎と思われる。

 私の化膿性脊椎炎は、重症感染症と考えられる。感染症が重いか軽いかは、細菌が増殖し白血球数(正常値は4,0008,000/μ10,00020,000になると、悪化したとし、20,000以上になるとこれはかなり悪化した状況と言えるそうである。CRP(正常値0.000.3/d)についてはCRP25の細菌数の増加で悪化、5以上、特に10以上ではかなり悪化した状況と言える。細菌感染症には抗生物質が有効であるが、血液検査でのCRP値の悪化が強い様な場合は内服薬では治療が追い付かなくなる様である。その為に私は整形外科長濱医師の判断で緊急入院して抗生物質の点滴靜注を施行する事になった。

抗生物質の効果の指標として整形外科はCRP、血沈を重要視している様である。

CRP(C-Reactive Protein)とは、細菌表面のC多糖体という部分と反応(reactive)する蛋白質(protein)として発見されたのでこう呼ばれている。その後、感染症等により炎症反応が起こると出てくる蛋白質である事が分かった。化膿性脊椎炎の原因は脊椎内に細菌が感染する事で起こるが、血液やリンパ液によって脊椎に黄色ブドウ球菌や緑膿菌等の様な細菌が運ばれると、脊椎に細菌が感染する要因になる。又、脊椎周辺の臓器からの各種の細菌も考えられる。カテーテルや注射器の使用を媒介として、脊椎に細菌が感染する場合もある。いずれにしても今回の私の感染についての原因については、医師からの説明は無い。

3)化膿性脊椎炎の検査と診断

 整形外科での最初の検査は、単純X線写真を行った。この検査は椎間板の隙間が狭くなっているかどうかを検査するものである。次にMRI検査で膿(うみ)の有無を検査した。抗生物質の点滴静注は5週間実施し、その後内服で23ヶ月は継続する事になりそうである。副作用で嫌な思いをしたくないので、次の受診日に整形外科長濱医師に服用期間については相談させてもらおうと思っている。

 

3.  息子の婚約・結婚の為の上京

家族の祝い事は私的なものであり、書く事を躊躇ったが、四男坊且つ末っ子であり、病気治療中の私が医師と相談しながら、鎮痛剤や麻薬及び人工肛門用の取替えセットを携えて上京した事も癌患者の行動として、子供を持つ親の心情として、皆様にも知ってもらおうと思い、……書きました。

1)長男振一郎家族との面談

四男健一郎の婚約式を7日(日)に行う事になった。私の体調が万全でない為に、航空券やホテルを予約しても当日無駄になる事を懸念して、家内とすったもんだの末、一か八かであったが、私の判断でANAのシニア空割で上京する事になった。7日当日の9時にロン(愛犬)をペットホテルに預け、新千歳空港への道中、大雪になり大型車が追い越すたびに視界ゼロになり怖い思いもしたが1020分には新千歳空港に着いた。ANAの航空券予約・発売カウンターに行くと10:20発の羽田行は滑走路の除雪が間に合わず運行中止となっており、次の10:30発便が遅れており、運よく予約が取れ、航空券2枚を購入する事が出来た。11:05に搭乗出来たが、除雪に50分程かかり、12:00頃にやっと離陸した。羽田には13:30に到着し、飛行場内で昼食を取った。悪天候で上京出来なかった最悪のケースも勿論考えたが、これが私の人生、いつも一か八かである。幸運なことにこれまで失敗経験はない。ホテルは銀座8丁目のグランドホテルで、長男振一郎家族がロビーで待っていた。部屋は新橋側の809号室で、狭めのツインベッドの部屋で、私達夫婦、振一郎の家族5人と少し話をし、その後、1階の喫茶室でコーヒーを飲んだ。孫の杏奈はイタリアのスイーツとジュースを頼んだ。とてもおしゃまで、よく喋る孫娘であった。杏奈は、来年4月から小学校1年生になる。次はいつ上京出来るかどうか分からない体調を考えて、杏奈に直接、入学祝い金を渡した。その場で開け様としたので、「行儀悪いよ、おうちで開けなさい」、「貰ったら何て言うの?」、「有難うでしょう!」と教えなければならない様である。子供の気持ちとしては開けたいのであろうが、躾の方が大切。めったに会えないのでここは祖父母として少しだけ言わせてもらった。一緒に住んだり、近くにいればもっといろんな事を教えてやれるのだが、いかんとも、し難しである。息子には甘やかすだけでは子供はきちんと育たないぞ、親も子供と一緒に勉強しないとな…と42歳になる息子に…ちょっと言い過ぎたかなと反省している。

15:00に振一郎たちと別れ、少し疲れたので部屋で2時間程仮眠して、18:00前に、43年前の見合いで訪れた時の記憶で、ホテルから真っ直ぐ迷う事無く銀座三笠会館まで5分程歩いて行った。

2)四男健一郎&千穂

三笠会館には約束の時間前に着いたが、既に千穂さんと親御さんは到着しており、四男健一郎の進行で婚約式が始まった。先方の父親は体調が悪いという事で、残念ながら会えなかったが、母親と諸々話し、健一郎の事をとても気に入ってくれて、娘が王子様を連れて来たと最大級の表現で息子に好意を持ってもらえた様である。母親の父親は、銀行員で、中学、高校時代はニューヨークに住み、大学卒業後は製薬会社のルセルに勤務し、知財(特許や翻訳)の仕事をされていたとの事である。

3)結婚式について

楽しい2時間を過ごし、21:15ホテルに着き、三男龍一郎と部屋で1時間程話し、息子は、22:00千葉に帰って行った。忙しい一日が終わった。これで男親としては思い残すことは無くなった。取り敢えず式は先に延ばして、201522日に入籍すると言う事で、先日予定通り入籍を済ませた事が家内から聞かされた。あとは長男の振一郎に任せて、都内で兄弟集まって祝ってあげる様に頼んできた。これで4人の息子は全員、名実ともに自立し、もう、思い残すことは何もなくなった。

一泊二日の慌ただしく不安な2日間であったが、翌日(128日)、7:00ホテルで朝食をとり、想像以上の美味しい朝食だったので普段より沢山食べた。9:00に空港に向かった。11:00の便で12:30に新千歳に着き、14:00前にロンをペットホテルに引き取りに行った。ロンがとても嬉しそうだった。

 

4.  一杯のかけそば

暮れの31日大晦日、夕食時に北大病院9階整形外科病棟968室に友人の国分君(神奈川県在住)から1989年に日本中で話題になったという「一杯のかけそば」が携帯電話メールで4回に分けられて送られてきた。この物語については私も記憶はあったが、それだけの事で全文を知っている訳ではなかった。世間は大晦日で慌ただしく、私は病室で無聊な日々を囲っていたので、一気に読んでしまった。最後は涙が止まらなかった。

皆さんも今年の「泣き初め」を「一杯のかけそば」で、そして、その後は笑って楽しく一年を過ごされたい。

この物語は、今から15年ほど前の1231日、札幌の街にある蕎麦屋「北海亭」での出来事から始まる。そば屋にとって一番のかき入れ時は大晦日である。北海亭もこの日ばかりは朝からてんてこ舞いの忙しさだった。いつもは夜の12時過ぎまで賑やかな表通りだが、夕方になるにつれ家路につく人々の足も速くなる。10時を回ると北海亭の客足もばったりと止まる。頃合いを見計らって、人は良いのだが無愛想な主人に代わって、常連客から女将さんと呼ばれているその妻は、忙しかった1日をねぎらう、大入り袋と土産のそばを持たせて、パートタイムの従業員を帰した。最後の客が店を出たところで、そろそろ表の暖簾を下げようかと話をしていた時、入口の戸がガラガラガラと力無く開いて、2人の子供を連れた女性が入ってきた。6歳と10歳くらいの男の子は真新しい揃いのトレーニングウェア姿で、女性は、季節はずれのチェックの半コートを着ていた。

「いらっしゃいませ!」と迎える女将に、その女性はおずおずと言った。「あの―……かけそば……1人前なのですが……よろしいでしょうか」後ろでは、2人の子ども達が心配顔で見上げている。「えっ……えっどうぞ。どうぞこちらへ」暖房に近い2番テーブルへ案内しながら、カウンターの奥に向かって、「かけ1丁!」と声をかける。それを受けた主人は、チラリと3人連れに目をやりながら、「あいよっ!かけ1丁!」とこたえ、玉そば1個と、さらに半個を加えてゆでる。玉そば1個で1人前の量である。客と妻に悟られぬサービスで、大盛りの分量のそばがゆであがる。テーブルに出された一杯のかけそばを囲んで、額を寄せあって食べている3人の話し声がカウンターの中までかすかに届く。「おいしいね」と兄。「お母さんもお食べよ」と1本のそばをつまんで母親の口に持っていく弟。やがて食べ終え、150円の代金を支払い、「ごちそうさまでした」と頭を下げて出て行く母子3人に、「ありがとうございました!どうかよいお年を!」と声を合わせる主人と女将。

新しい年を迎えた北海亭は、相変わらずの忙しい毎日の中で1年が過ぎ、再び1231日がやってきた。前年以上の猫の手も借りたい様な1日が終わり、10時を過ぎたところで、店を閉めようとしたとき、ガラガラガラと戸が開いて、2人の男の子を連れた女性が入ってきた。女将は女性の着ているチェックの半コートを見て、1年前の大晦日、最期の客を思いだした。「あの―…かけそば…1人前なのですが…よろしいでしょうか」

「どうぞ どうぞ。こちらへ」女将は、昨年と同じ2番テーブルへ案内しながら、「かけ1丁!」と大きな声をかける。「あいよっ!かけ1丁」と主人はこたえながら、消したばかりのコンロに火を入れる。「ねえお前さん、サービスということで3人前、出して上げようよ」そっと耳打ちする女将に、「だめだめだめ、そんな事したら、かえって気をつかうべ」と言いながら玉そば1つ半をゆで上げる夫を見て、「お前さん、仏頂面しているけどいいとこあるねぇ」とほほ笑む妻に対し、相変わらずだまって盛りつけをする主人である。テーブルの上の、1杯のそばを囲んだ母子3人の会話が、カウンターの中と外の2人に聞こえる。

「…おいしいね…」「今年も北海亭のおそば食べれたね」「来年も食べれるといいね」食べ終えて、150円を支払い、出て行く3人の後ろ姿に「ありがとうございました! どうかよいお年を!」その日、何十回とくり返した言葉で送り出した。

商売繁盛のうちに迎えたその翌年の大晦日の夜、北海亭の主人と女将は、たがいに口こそ出さないが、九時半を過ぎた頃より、そわそわと落着かない。10時を回ったところで従業員を帰した主人は、壁に下げてあるメニュー札を次々と裏返した。今年の夏に値上げして「かけそば200円」と書かれていたメニュー札が、150円に早変わりしていた。2番テーブルの上には、すでに30分も前から「予約席」の札が女将の手で置かれていた。10時半になって、店内の客足がとぎれるのを待っていたかのように、母と子の3人連れが入ってきた。兄は中学生の制服、弟は去年兄が着ていた大きめのジャンパーを着ていた。2人とも見違えるほどに成長していたが、母親は色あせたあのチェックの半コート姿のままだった。「いらっしゃいませ!」と笑顔で迎える女将に、母親はおずおずと言う。「あの―……かけそば……2人前なのですが……よろしいでしょうか」「えっ……どうぞどうぞ。さぁこちらへ」と2番テーブルへ案内しながら、そこにあった「予約席」の札を何気なく隠し、カウンターに向かって「かけ2丁!」それを受けて「あいよっ!かけ2丁!」とこたえた主人は、玉そば3個を湯の中にほうり込んだ。2杯のかけそばを互いに食べあう母子3人の明るい笑い声が聞こえ、話も弾んでいるのがわかる。カウンターの中で思わず目と目を見交わして微笑む女将と、例の仏頂面のまま「うん、うん」とうなずく主人である。「お兄ちゃん、淳ちゃん……今日は2人に、お母さんからお礼が言いたいの」「……お礼って……どうしたの」「実はね、死んだお父さんが起こした事故で、8人もの人にけがをさせ迷惑をかけてしまったんだけど……保険などでも支払いができなかった分を、毎月5万円ずつ払い続けていたの」「うん、知っていたよ」女将と主人は身動きしないで、じっと聞いている。「支払いは年明けの3月までになっていたけど、実は今日、ぜんぶ支払いを済ますことができたの」「えっ!ほんとう、お母さん!」「ええ、ほんとうよ。お兄ちゃんは新聞配達をしてがんばってくれるし、淳ちゃんがお買い物や夕飯のしたくを毎日してくれたおかげで、お母さん安心して働くことができたの。よくがんばったからって、会社から特別手当をいただいたの。それで支払をぜんぶ終わらすことができたの」「お母さん! お兄ちゃん! よかったね! でもこれからも、夕飯のしたくはボクがするよ」「ボクも新聞配達、続けるよ。淳!がんばろうな!」「ありがとう。ほんとうにありがとう」「今だから言えるけど、淳とボク、お母さんに内緒にしていた事があるんだ。それはね……11月の日曜日、淳の授業参観の案内が、学校からあったでしょう。……あのとき、淳はもう1通、先生からの手紙をあずかってきてたんだ。淳の書いた作文が北海道の代表に選ばれて、全国コンクールに出品されることになったので、参観日に、その作文を淳に読んでもらうって。先生からの手紙をお母さんに見せれば……むりして会社を休むのわかるから、淳、それを隠したんだ。そのこと淳の友だちから聞いたものだから……ボクが参観日に行ったんだ」「そう……そうだったの……それで」「先生が、あなたは将来どんな人になりたいですか、という題で、全員に作文を書いてもらいましたところ、淳くんは『一杯のかけそば』という題で書いてくれました。これからその作文を読んでもらいますって。『一杯のかけそば』って聞いただけで北海亭でのことだとわかったから……淳のヤツなんでそんな恥ずかしいことを書くんだ!と心の中で思ったんだ。作文はね……お父さんが、交通事故で死んでしまい、たくさんの借金が残ったこと、お母さんが、朝早くから夜遅くまで働いていること、ボクが朝刊夕刊の配達に行っていることなど……ぜんぶ読みあげたんだ。そして1231日の夜、3人で食べた1杯のかけそばが、とてもおいしかったこと。……3人でたった1杯しか頼まないのに、おそば屋のおじさんとおばさんは、ありがとうございました!どうかよいお年を!って大きな声をかけてくれたこと。その声は……負けるなよ!頑張れよ!生きるんだよ!って言っているような気がしたって。それで淳は、大人になったら、お客さんに、頑張ってね!幸せにね!って思いを込めて、ありがとうございました!と言える日本一の、おそば屋さんになります。って大きな声で読み上げたんだよ」

カウンターの中で、聞き耳を立てていたはずの主人と女将の姿が見えない。カウンターの奥にしゃがみ込んだ2人は、1本のタオルの端を互いに引っ張りあうようにつかんで、こらえきれず溢れ出る涙を拭っていた。「作文を読み終わったとき、先生が、淳くんのお兄さんがお母さんにかわって来てくださっていますので、ここで挨拶をしていただきましょうって……」「まぁ、それで、お兄ちゃんどうしたの」「突然言われたので、初めは言葉が出なかったけど……皆さん、いつも淳と仲良くしてくれてありがとう。……弟は、毎日夕飯のしたくをしています。それでクラブ活動の途中で帰るので、迷惑をかけていると思います。

今、弟が『一杯のかけそば』と読み始めたとき……ボクは恥ずかしいと思いました。……でも、胸を張って大きな声で読みあげている弟を見ているうちに、1杯のかけそばを恥ずかしいと思う、その心のほうが恥ずかしいことだと思いました。

あの時……1杯のかけそばを頼んでくれた母の勇気を、忘れてはいけないと思います。……これからも淳と仲良くして下さい、って言ったんだ」 しんみりと、互いに手を握ったり、笑い転げるようにして肩を叩きあったり、昨年までとは、打って変わった楽しげな年越しそばを食べ終え、300円を支払って「ごちそうさまでした」と、深々と頭を下げて出て行く3人を、主人と女将は1年を締めくくる大きな声で、「ありがとうございました!どうかよいお年を!」と送り出した。

 また1年が過ぎて――。北海亭では、夜の9時過ぎから「予約席」の札を2番テーブルの上に置いて待ちに待ったが、あの母子3人は現れなかった。次の年も、さらに次の年も、2番テーブルを空けて待ったが、3人は現れなかった。北海亭は商売繁盛のなかで、店内改装することになり、テーブルや椅子も新しくしたが、あの2番テーブルだけはそのまま残した。真新しいテーブルが並ぶなかで、1脚だけ古いテーブルが中央に置かれている。「どうしてこれがここに」と不思議がる客に、主人と女将は『1杯のかけそば』のことを話し、このテーブルを見ては自分たちの励みにしている、いつの日か、あの3人のお客さんが、着てくださるかも知れない、その時、このテーブルで迎えたい、と説明していた。その話が「幸せのテーブル」として、客から客へと伝わった。わざわざ遠くから訪ねてきて、そばを食べていく女学生がいたり、そのテーブルが、空くのを待って注文をする若いカップルがいたりで、なかなかの人気を呼んでいた。

それから更に数年の歳月が流れた12月31日の夜のことである。北海亭には同じ町内の商店会のメンバーで家族同然のつきあいをしている仲間達がそれぞれの店じまいを終え集まってきていた。北海亭で年越しそばを食べた後、除夜の鐘の音を聞きながら仲間とその家族がそろって近くの神社へ初詣に行くのが5~6年前からの恒例となっていた。

この夜も9時半過ぎに、魚屋の夫婦が刺身を盛り合わせた大皿を両手に持って入って来たのが合図だったかのように、いつもの仲間30人余りが酒や肴に手を次々と北海亭に集まってきた。『幸せの2番テーブル』の物語の由来を知っている仲間達のこと、互いに口にこそ出さないが、おそらく今年も空いたまま新年を迎えるであろう「大晦日10時過ぎの予約席」をそっとしたまま、窮屈な小上がりの席を全員が少しづつ身体をずらせて遅れてきた仲間を招き入れていた。海水浴のエピソード、孫が生まれた話、大売出しの話。賑やかさが頂点に達した10時過ぎ、入口の戸がガラガラガラと開いた。幾人かの視線が入口に向けられ、全員が押し黙る。北海亭の主人と女将以外は誰も会ったことのない、あの「幸せの2番テーブル」の物語に出てくる薄手のチェックの半コートを着た若い母親と幼い二人の男の子を誰しもが想像するが、入ってきたのはスーツを着てオーバーを手にした二人の青年だった。ホッとした溜め息が漏れ、賑やかさが戻る。女将が申し訳なさそうな顔で「あいにく、満席なものですから」断ろうとしたその時、和服姿の婦人が深々と頭を下げ入ってきて二人の青年の間に立った。店内にいる全ての者が息を飲んで聞き耳を立てる。「あの―……かけそば……3人前なのですが……よろしいでしょうか」その声を聞いて女将の顔色が変わる・十数年の歳月を瞬時に押しのけ、あの日の若い母親と幼い二人の姿が目の前の3人と重なる。カウンターの中から目を見開いてにらみ付けている主人と今入ってきた3人の客とを交互に指さしながら「あの……あの……、おまえさん」と、おろおろしている女将に青年の一人が言った。「私達は14年前の大晦日の夜、親子3人で1人前のかけそばを注文した者です。あの時、一杯のかけそばに励まされ、3人手を取り合って生き抜くことが出来ました。その後、母の実家があります滋賀県へ越しました。私は今年、医師の国家試験に合格しまして京都の大学病院に小児科医の卵として勤めておりますが、年明け4月より札幌の総合病院で勤務することになりました。その病院への挨拶と父のお墓への報告を兼ね、おそば屋さんにはなりませんでしたが、京都の銀行に勤める弟と相談しまして、今までの人生の中で最高の贅沢を計画しました。それは大晦日に母と3人で札幌の北海亭さんを訪ね、3人前のかけそばを頼むことでした」

うなずきながら聞いていた女将と主人のめからどっと涙があふれ出る。入り口に近いテーブルに陣取っていた八百屋の大将がそばを口に含んだまま聞いていたが、そのままゴクッと飲みこんで立ち上がり「おいおい、何してんだよお。10年間この日のために用意して待ちに待った『大晦日10時過ぎの予約席』じゃないか。ご案内だよ。ご案内」

八百屋に肩をぽんと叩かれ、気を取り直した女将は「ようこそ、さどうぞ。おまえさん、2番テーブルかけ3丁!」「あいよっ!かけ3丁!」期せずして上がる感性と拍手の店の外では、先程までちらついていた雪もやみ、新雪にはね返った窓明かりが照らしだす『北海亭』と書かれた暖簾を、ほんの一足早く吹く睦月の風が揺らしていた。     ―完―

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