27稿 「癌と共に~癌に付随するあれこれ~」 20141215

 

目 次 

1.   パクリタキセル療法5コース1投目・2投目

1)  パクリタキセル療法5コース1投目の前の体調

2)パクリタキセルの5コース1投目の治療

3)パクリタキセルの5コース2投目の治療

4)整形外科受診による化膿性脊椎炎の診断

2.もし家内が私の傍らに居なかったら

3.再生医療の実現への期待感

4.現代日本の老人の社会に対する恩返し

5.定年退職の実態

 

1.   パクリタキセル療法5コース1投目・2投目

1)  パクリタキセル療法5コース1投目前の体調

11月27日、いつもの様にロンは留守番、運転は家内である。7時に家を出たが通勤時間帯にかちあい左側車線がバス専用レーンで少し混んでいた。東京と違い混んでいても北大病院には745分には着き、身障者用駐車場にて車内で10分間程休憩した。受付は8時からであり、整理番号を貰ったりするのが面倒な事とその間、立位で並ばなければない事が大きな理由である。それでも810分には器械受付を済ませる事が出来た。受付票を確認すると採血室は830分で、此処も器械受付で沢山の患者が並んでいたので家内に委ねてソファーでゆっくり待たせてもらった。予定外にX-線撮影9時とあり、考えるに家庭医の戸井Drの依頼で主治医の小松医師が加えた様である。それでも段取りよく採血、X-線撮影は9時前には終わり、ATMから振込を行い、ロイヤルで朝食を済ませ、2階の消化器内科外来で待機していると顔見知りの村中、中積Drが診察室に入って行った。主治医小松医師は10分遅れで入室した。私は1番目だったので940分に診断となった。血液検査値に異常はなく、問題なくスムーズに終わると思っていたが、戸井Drからの報告書に20日頃より発熱し、今も発熱の原因を掴めないでいる事が記載されており、CTMRIにて原因を確認する提案があった様で、小松医師は、考えられる発熱の原因を説明し始め、私からもパクリタキセル後の抗癌剤治療について考えを述べた為、50分程時間を費やしてしまった。戸井Drの腰の痛みに対する更なる精査提案については、既に熱は引き、腰の痛みも経験的には今日・明日には完解すると思われ、口腔内の舌炎も改善傾向にあるので、これ以上の検査は不要ではないかと私は小松医師に告げた。

小松医師も内心は私の考えと同じような捉え方に見えた。その結果として戸井Drの要請にはX-線撮影で応えた様に思える。結論としては私の意見を理解してくれた様で当面クラビットを朝1回飲み続けて、様子を見る事になった。更に痛みの改善にロキソニンを服用していることに対してはむしろ麻薬製剤のオキノーム服用を薦めていた。しかも、2時間は十分効くので麻薬と言う事は気にしないで気軽に服用しても良いのではないかとの提案がなされた。しかし、医師からの要請ともなると無視できない様で、戸井Drの腰の痛みに対する精査については、脊椎のつなぎ目の化膿や他にも考えられるので、痛みが続く様だと12月中旬頃にPET/CT.画像で現在治療中の腹部癌の状況を確認すると同時に、合わせて発熱の可能性としての化膿性脊髄炎の再確認も行うとの事であった。翌日、核医学よりPET/CT.画像の撮影日を1216日午後13401階の核医学で行うとの電話連絡があった。

化膿性脊髄炎については、整形外科で診断を受ける様にと小松医師より指示があり、医事課外来新患受付で予約手続きをし、明日(125日)午前9時に受診する事になった。

パクリタキセル点滴静注2投目までの6日間、この背筋痛(結局、ぎっくり腰?)、口内炎、発熱に用いた薬剤は以下の通りである。

・フェントステープ:今までは毎朝1㎎を貼付していたが、少し腹部も痛み出したので2㎎に変更してもらった。

・ロキソニン錠60㎎:痛みや熱を下げるために、特に熱っぽい時と痛み時に服用した。長時間発熱せず痛みにも持続して良く効いた。

オキノーム散5㎎:フェントステープのレスキュー剤として処方された薬。強い痛みを抑える薬で、21日に腹部中心がズキズキするので1包服用したが実に良く効いた。しかし、持続時間に問題を残した。小松医師の指摘もあり、今後は気にせずに痛みを生じたら使う事にする。私には麻薬に対する先入観がある様だ。

・クラビット:見えない細菌を死滅させる為の抗生物質で、念の為ではあるが、死滅が確認されるまで小松医師とも相談して今後も飲みつ続ける事になった。

ケナログ口腔用軟膏0.1%:口腔内の舌炎の炎症を抑えるために飲んでいる。食後にうがいして、ティッシュで舌の患部を軽く拭いてから指で多めに塗っている。

パクリタキセル後の治療日程及びレジメンの考え方についてはパクリタキセルが効果を示し、腸閉塞の心配をしないで良い間にカンプト注の単独療法から始め、効かない様であればエルプラット注+S-12剤を使っていくプランに概ね賛成して頂いた。私は入院しないで今の形の治療を続けたいので、敢えて提案させて頂いた。小松医師は、カンプト注が欧米では胃癌の標準療法として使われているのに日本はどうも副作用を気にしてか腸閉塞があれば使わない医師がいるが、実際は使えるし、ラムシムマブも使えるので、私にとってのカードは、カンプト注、エルプラット注の2枚だけではないと強調していた。次の治療への切換えはパクリタキセルの5コース2投目をスキップした事で、2投目(12/11)を終え、PET/CT画像(12/16)等も参考にして、3投目(12/18)を終え、総合的に評価した上で年を越してからになるのではないかと思っている

レジメン関連の話で長引き2番目の予約の患者さんには迷惑をかけたと申し訳なく思っている。

2)パクリタキセルの5コース1投目の治療

 1121日から続いた腰痛(ぎっくり腰?)も私の予言通り28日には嘘の様に完解し、舌炎もケナログ軟膏を直接患部(舌)に塗布して改善傾向にあり、熱は、ロキソニン(11/27服用終了)で平熱になったが、クラビットは細菌感染を危惧して継続服用する事になった。白血球5700、好中球3460でパクリタキセルの点滴静注は問題なく実施出来ると判断され外来治療センターへの指示書を頂いた。1045分よりパクリタキセルの副作用を防止する為のアレルギー予防・吐き気止めにデカドロン13.2㎎+ファモチジン20㎎+クロール・トリメトン10㎎+グラニセトロンバック3㎎を30分かけて点滴静注し、1145分よりパクリタキセル100㎎(5%ブドウ糖液250ml)を1時間かけて点滴静注した。いろいろあったが何とか5コース目をスタート出来てほっとした1日であった。支払を家内に任せ、家内の薦めもあって病院内の理髪店で3分刈の坊主にした。帰り道、銀行に立ち寄り12月分の生活費を引き出し、記帳し、三越で昼食の弁当を買い帰宅した。

3)パクリタキセルの5コース2投目の治療

 124日、北大病院にて815分に採血し、9時半に消化器内科外来で診察を受けた。

CRP3.75(前回11/27 2.50 参考値0.000.39)、WBC8500(前回11/27 5,700 参考値3,5009,300)。2投目であれば私のこれまでの経過を考えると5,000前後が論理的数値であると小松医師は考え、WBCCRPの値も上昇しており、感染症や炎症性疾患が体内で起こっている事は間違いないとして2投目はスキップが望ましいと判断した。それに腰の痛み、微熱、発熱(高熱)が持続している事を考えると化膿性脊椎炎が危惧され、確認の為に125日、整形外科を受診する様に指示された。化膿性脊椎炎は、背骨におこる化膿性骨髄炎である。急激に始まる激しい腰や背中の痛みと発熱が特徴で患部をたたくと非常に痛む疾患との事であるが、私は痛みを感じない様である。最近緩やかに発病するケースも増えているらしく、扁桃炎などの化膿した病巣から細菌が血液の流れに乗って、脊椎に進入する場合と膀胱炎等、泌尿生殖器系の炎症が脊椎に広がって発病する場合とがある様である。

4)整形外科受診による化膿性脊椎炎の診断

整形外科は私にとって初診であり、前日に予約し、1258:30までに来院する様に言われた。担当医は長濱医師で、先ず血液検査、X線検査を済ませる様に指示され、それぞれのデータが出そろった11時過ぎに診断結果が伝えられた。X線画像では脊椎に異常は認められず、痛みの患部を叩いても反応が無い事で、全身状態が良いので単に化膿性脊椎炎を抑え込んでいるのかもしれないと言う事であった。しかし昨日の消化器内科の検査結果に加えて血沈-1時間値、血沈-2時間値が126138と高値であるので血液を介して全身に細菌がいる事は間違いないという判断となった。血沈-1時間値、血沈-2時間値が100㎜超える値は高値であり、私の126138㎜という数値は基準値110㎜の10倍以上であり、この様な高度亢進では、白血病などの血液系統の悪性腫瘍、腹膜炎の疑いがある。具体的には感染症、心臓病、消化器病、免疫異常、血液病、癌(進行中)などであり、進行胃癌の現状を考えると、血沈の高値は止むを得ないのかもしれない。しかし、血沈検査は主に炎症を伴う病気の有無や程度が分かり、異常がなくても異常値を示す事があり、逆に明らかに病気であるのに正常値になる事もあるため、この検査だけで判断することは出来ない。又、特定の病気を診断するという性格のものではない。その為、MRIで精査する必要があると言う事で、放射線部に手続してくれ、幸いにもすぐ撮影してくれる事になった。

整形外科で造影剤使用によるMRI検査説明を受け、承諾のサイン後、1階のMRI室で手続し、体中の金属を全て外す様に指示され、下着1枚に病衣を着て、人工肛門、IVH-ポートの有無の確認をし、ポートの針も抜くように指示された。看護師に注射針を抜くように依頼したが、外来治療センターに連絡し、看護師に放射線部まで外しに来てくれと言っていたので、私が家内に抜いてもらうと言うと、びっくりした様で外来治療センターの看護師がその旨を了解した様で、家内に抜去してもらった。家内は看護師に抜針後、出血があると困るのでガーゼか消毒できるものを準備してくれと堂々と指示していた。抜去針を手に取り「これ、何処に捨てたらいいのでしょう?」というと看護師が…ちょっと面白い光景であった。MRIは約30分で撮影終了した。結果は1219日に整形外科外来で説明を受ける事になった。それまでの2週間はクラビットと本日処方したセフゾンカプセルで除菌する様に言われた。セフゾンカプセル100㎎は、朝・昼・夕毎食後1カプセル服用するようにと14日分処方された。クラビットと同様に細菌による感染症の治療に使われる抗生物質である。しかし11日にパクリタキセル2投目を行うので、整形外科長濱医師より、事前に消化器内科小松医師には報告があるのだろう。化膿性脊椎炎が確認されると、今後の治療というより私の延命に致命的な結果となるので、何とか抗生物質で除菌される事を期待したい。9時採血(12/11)、消化器内科外来で臨床検査値を見せてもらうと白血球数6,00012/4 8,500)と細菌感染症の影響は改善され、好中球数(4,014)もパクリタキセルの点滴に支障のない数値に改善している。只、CRP2.55H(前回12/4,3.75H)と数値的には改善している様に見えるが、未だ体内に感染症、何らかの炎症性疾患がある事は疑い様も無くパクリタキセル治療を逡巡する所である。今後の対応としてはCRP値が正常値(0.000.39)になるまで引き続きクラビット15001日朝食後1錠、化膿性脊椎炎対応としてセフゾン100㎎カプセルを朝昼夕食後に服用する事になった。パクリキセルは本年715日に1コース1投目が始まり、9183コース1投目まで120mg点滴靜注していたが、末梢神経障害(しびれ)がでて、癌治療を中止するか、休薬又は減量を行う必要があったが、癌治療を優先する為、投与量を102日より120㎎から100㎎減量した。私の思い込みでその後もパクリタキセル量を120㎎と本稿で表示してきたが100㎎の間違いであるので、27稿目、5コース1投目より100㎎に訂正する。化膿性脊椎炎の心配は整形外科長濱医師、主治医の小松医師、私自身も自覚症状が無い事で杞憂であろうと判断して、私の希望で2投目を実施する事になった。小松医師は若干CRP値が気懸りの様でパクリタキセル点滴に逡巡し、私に意見を求め、私がスキップすると思った様であるが、意に反して治療を申し出たので彼も決心して、外来治療センターへの指示書出してくれた。点滴前の体温37.5℃、脈拍90で担当看護師は発熱を気にしていたが、私の意志の強いのを察知してくれ(小松医師に問い合わせたとは思うが…)、パクリキセル点滴を常法に従い実行してくれた。1145分よりパクリタキセルの副作用を防止する為のアレルギー予防・吐き気止めにデカドロン13.2㎎+ファモチジン20㎎+クロール・トリメトン10㎎+グラニセトロンバック3㎎を30分かけて点滴静注し、1220分よりパクリタキセル100㎎(5%ブドウ糖液250ml)を1時間かけて点滴静注した。何事も無く終了し、帰宅後2時間程仮眠し、18時から陶芸の忘年会に参加した。その後も体調の変化も無く、むしろ身軽になり、輸液チューブも抜いて本日(1212日)も体調も良く痛みも取れ食欲もある。クラビット、セフゾンカプセルが効いたのかもしれないが、自分自身の事ながら不思議な身体である。大変な10日間であったが何とか5コース2投目にこぎつけ安心した1日でもあった。16日に核医学でPET/CT撮影をするので癌の様子や化膿性脊椎炎も含めて明確な診断(判断)が下されるはずである。18日の診断結果とパクリタキセル3投目の点滴が何故か待ち遠しい。

 

2.  もし家内が私の傍らに居なかったら

 20116月に癌告知された時、私は治療せずにあの世から迎えが来るまで家でゆっくり過ごそうと考えていた。一旦は家内も同意してくれたが、夜になると手術を大学でしてくれと言う。一旦決めた事を変えるには抵抗もあったが、今まで自由にさせてもらった恩義もあり、素直に従い手づるを使って、KKR札幌医療センター、北大病院で治療を続け、現在の私が今もこの世にいる。家内の一言が私をここまで生き長らへさせていると言える。お蔭で多くの人達が見舞いに来てくれて、心配させている反面、彼・彼女らの優しさを深く感じる事も出来たし、この先どこまで延命出来るか分からないが、良い人生だったなと思える様にもなれた。特に高校時代の友人達は我が事の様に心配してくれ、メールもひっきりなしにくれる。私自身も癌を患った事で家での多くの時間が出来て本を読んだりメールを送ったり、昨年の11月からは闘病記ではなく「癌との共生」をテーマに現在第26稿まで掲載されている。目標は36稿である。誰がこんなに長く続くと思っただろう。一番驚いているのは私自身である。こんな経験を出来たのも結果的には家内のお蔭である。食事も毎日私の食べられるものを作ってくれるし、私一人だと熱いご飯に玉葱と大蒜を甘めに炒めて卵丼、味噌汁を作るくらいだろう。要はワンプレート料理しか作らないだろうと思う。それに対して家内はバラエティに富んだ料理を作ってくれるので、食の楽しみもあり延命に繋がっているのかもしれない。陶芸にも体調の許す範囲で通っているが、それも家内の送り迎えで叶えられている。自分で運転して行けると思うのだが、心配して学童の仕事も辞めて看病に専念してくれるので従わざるを得ない。病院で「あの世」に逝きたくなかったので在宅クリニックそよ風にケアはお願いした。月曜日は医師、火、水、金曜日は看護師が訪問してくるので、家内は訪問医、看護師が来る前に大掃除をして迎えている。親が立川で開業していたので、医師を迎える作法として、身についていたのだろうか。違うな、息子達や知人が来ても同じ様に迎えていたな、私の家内に対する認識不足であった。私一人なら外で会うか家でならビール、焼酎と一寸したツマミくらいしか作らないだろうな。もしかすると見舞客の大半は、私を見舞うと言うよりも、家内の日頃の苦労をねぎらう事が目的かも知れないな。私は病院の雰囲気が好きになれなくて滅多な事では行きたくないが、家内は北大病院で言われた事を忠実に守り、熱が38℃になると受話器を取るので、行かないと言うと、しつこく病院、病院というので、病院に行きたくない気持ちより、家内の執拗さに負けて強制連行された気持ちで出かけてしまう。実際、小一時間の車中はきついのだが逆らえないのである。行くと必ず緊急入院という事になる。入院すればしたで医師や看護師と気楽な話で気は紛れるが、食事は不味いし、3日もいると家に帰りたくなる。今は家で訪問医が週一(月曜日)で来てくれ、治療法についていろいろ相談も出来るし、楽である。それでもクリニックに電話するにしても事務員に電話の趣旨を伝え、本命が電話口に出るまでの時間を待つのが鬱陶しくて、出て来ても病状を説明するのが面倒臭いので、絶対、訪問日の月曜日まで我慢する。休日に限って高熱が出て、クリニックの院長と看護師に最近3回自宅に来てもらった。いずれも夕食時で、なお更、私には相手の状況を慮って電話は出来ないし、家内しか出来ない事である。更に北大病院に休日に電話をすると何人も間にはいるので途中で電話切ってしまいそうでかけられない。家内が電話をして、先方とのやりとりを聞いているだけで、北大には電話は出来そうにない。北大からの連絡も直接私の携帯にはかけない様に、直接、家内の携帯に入れてもらう様にお願いした。最近は訪問医の戸井Drが北大の主治医小松医師にその場から電話し、病状の説明をしてくれ段取りしてくれるので有難い。自宅で高熱になり解熱剤を服用すると睡眠時に汗をびっしょりかいて肌着を何回も取替える事になる。一人だと着替える事も我慢しそうで、朝方にはあの世に逝っているかもしれない。齢をとると一人で生きていく事は大変である。男性の平均寿命が低いのは面倒臭いと言う気持ちが寿命を縮める一端になっているのかも知れない。こんな癌患者は決して私だけでは無い様に思うが、皆さんは如何かな?その様な無精者は元気なうちから奥さんを心から大切にするべきである。北大病院を退院し、これからは在宅クリニックそよ風にケアをお願いする際、北大で家内は、V-ポートの注射針の穿刺及び抜針、更に輸液とチューブの連結・取り外し方を2週間看護師指導の下、繰り返し訓練させられ、特に清潔操作について十分な訓練を重ねてマスターしてくれた。病室で同じ様な指導を受けていた主婦は「私には無理、無理!」と言ってギブアップした。夫の生身に針を刺す怖さ、手順の煩わしさ、清潔操作等々、知識の無い素人には困難な作業なのかもしれない。私自身は出来そうだが、ポートへの針の出し入れは実際やってみないと加減が難しい様に思われる。その結果、自宅での生活(老々介護)は、家内にとっては大変と思うが、私は大変楽させてもらっている。寝具関係についても清潔という観念からか手入れが行き届いており、気持ち良く睡眠出来る様に配慮してくれている。その他にもこれまで私がやってきた事も概ねこなしてくれ、生活環境を従来以上に保ってくれている。家内には感謝以外に言うべき言葉は無い。このまま治療が続いて徐々に悪化していく様だと家内の肉体的、精神的負担も増えてお互い手の施し様が無くなりそうで心配である。私の生存期間の延長は医療の恩恵もさることながら、家内の献身による方が比重は高い様な気がする。いや、確信すると言い直す。それでも戯けた事を言われると「議をゆな!」という薩摩の悪い習慣が出て、心の小ささが出てしまう。聖人君子にはなれないな。

 

3.再生医療の実現への期待感

1126日の朝日新聞に再生医療の製品化加速という大きな活字が目にはいった。法律も施行されたと言う事であるので読まれた方もいるとは思うが紹介したい。再生医療をより早く、安全に患者に届ける事を目指した法律である。この分野の研究水準は高いが実用化は遅れているのが現状であった。先ず施行された二つの法律の要点として4つを紹介する。

・医薬品、医療機器とは別に「再生医療製品」を新設

・再生医療製品を条件付きで早期承認できる仕組みを導入

・医療機関が細胞加工を外部委託することを認める。

・再生医療の実施計画の届出を各医療機関に義務付け

この法律のポイントは条件、期限付きで製品を早期承認し、実用化を加速すると言うものであるが、一方で実施計画の国への届出を義務化し、規制を強化するものでもある。

再生医療については「第25稿3iPS細胞について」山中伸弥氏のノーベル賞に関連して紹介したが、昨今、新聞、週刊誌、テレビでも紹介され、人々の知識も高まってきているが改めて新聞記者の原稿を原文通り転記する。

「再生医療」

 細胞や組織を人工的に培養するなどして体に移植することで、病気やけがで機能が損なわれた臓器や組織の働きを再生させようとする医療。臓器移植のドナー不足などの問題を解消する可能性があると期待されている。iPS細胞から様々な細胞や組織を作る研究も進んでおり、理化学研究所などは9月に世界で初めて患者に移植する手術を実施した。

製品化の実例としては、IT企業の富士ソフトが東大と共同で、耳の軟骨細胞を培養して作る「鼻の軟骨」を治療に使う臨床試験を目指している。富士ソフトは、早ければ2016年発売を考えている。2007年に承認されたやけど治療用の培養表皮の場合、医療機器として審査され、確認申請から承認まで7年かかった。早期承認で企業は治験の費用を抑えられるため、参入のハードルが下がり、実用化が後押しされると期待されている。患者もより早く治療を受けられる様になる。テルモは法施行を先取りして10月末、自分の足の筋肉の細胞をシート状に培養して病気の心臓に貼り付ける「細胞シート」を、再生医療製品として承認申請した。再生医療製品には、組織や臓器を再生させるものだけでなく、癌治療の為に免疫細胞を培養して患者に入れる免疫療法など、再生を目的としないものも含まれる。

バイオベンチャー・テラは、主に自由診療で実施している癌免疫療法で用いる細胞の早期承認をめざし、治験を2015年に始める計画である。再生医療安全性確保法も新しい法律である。医療機関内で行っていた細胞の培養加工を企業に外部委託出来る様にした。細胞を加工する施設は国の許可や届け出が必要になる。タカラバイオは、10月滋賀県内に細胞加工できる施設を稼働させ、病院などから患者の細胞を受け取り、注文通りに手を加えて培養。受注元に販売する。将来、この施設では、受託が8~9割を目指すと言っている。今回の大幅な制度改正は海外からも注目されている。スイスのバイオ企業ロンザの担当者は「日本は大きな市場。ビジネスチャンスに絶対なる」と語っている。日本は再生医療に使う承認済み製品は2品目しかなく、欧米や韓国より遅れている。経産省の生物化学産業課長は「日本企業が海外進出するだけでなく、海外企業を日本に呼び込むきっかけにしたい」。経産省は、2012年に90億円だった再生医療の市場規模が2050年には25千億円に拡大すると試算している。

 

4.現代日本の老人の社会に対する恩返し

 戦後生まれの一番上が69歳という事になろうか、この年代(根拠はないが戦争を実感できない73歳まで含む)の人々は戦勝国アメリカに敵意を抱かなかった世代で、戦後の高度成長を体感し、とても恵まれた温室育ちの世代と言える。人を疑う事も知らず、組織も人もひたすら信じ、国民の三大義務も忠実に果し、電化製品や車や家を購入する為に、子供を大学に行かせる為に、只ひたすらみんな一生懸命働いてきた。大多数の人がハッピーリタイアで退職金も満額貰い、退職後は夫婦で海外旅行の夢も叶えたとても幸せな世代である。戦前の大人たちは、大多数の人が神主、僧侶、教師、医師、議員、両親、目上の人等に対して尊敬の念を持ち、貧乏しても社会のせいにせず、他人に頼らず、払うべきものは払い、国に頼るのも恥と思っていた。その一方で弱者に対する憐憫の情もあり、篤志家(慈善家)が町々にいた。幼少の頃は子供同士の世界があった。近所のおじさん、おばさんに叱られたり褒められたりした。ガラス窓を割っても弁償しろとは言われなかった。そんな時代に生きてきた人たちである。我々73歳以下の戦後育ちは、幸せだった反面、真の自由や権利を履き違えたアメリカナイズされ、日本人としての精神面がおざなりになってしまった。戦後の高度成長期は、先輩たちが脇目も振らずに作り出してきたもので、決して全てを自分自身の力で切り開いて来たとは言い難い。運が良かったと言うのがこの世代の特徴であろう。大多数人は、言い過ぎかもしれないが、何も考えずに、大した業績も出さずに、能力が無くても年功序列で地位も給料も上がって行った時代であった。政治にも関心が薄く、戦争の怖さも知らずマイペースで、ローンで家を買い、電化製品を買い揃え、車を買い、子供達の教育にも一生懸命であった。ある意味では自分の夢を全て叶えられた世代であった。一方で失ったものも多い。子供達は、親を尊敬している様には思われない。核家族が増え、家も狭く、その中で親の背中を見て育った事例は極めて少ない様に感じられ、親の懸命な躾や教えで育てられた訳でも無くて、パソコンや溢れるほどの情報に振り回され、教師の熱血指導も無く、心の通じない同世代に気を遣いながら成長し、大人になった様に思われる。親達も生活の豊かさにだけに目を奪われ、社会の一員である事を忘れ、家族旅行(旅行社頼み)、外食、塾、習い事等、全て人任せで過ごしてきた。更に昨今の世相として母親が食に対する関心が薄れ、安直にコンビニで取り揃え、年に1回のお節も自分で作らず、購入する始末である。核家族故に親からのお節づくりの伝承も無く作れないのが真実であろう。こんな調子では家庭の食文化は遅かれ消滅の一途を辿り、子供達も味音痴になり、家庭(母親)の味・温かさを知らない儘に大人になり、精神までも荒廃していくのではないかと懸念している。金、金、金で済ませてきたツケが真の家族を作って来られなかった原因の様に思われる。そして、1000兆円を超す借金も我々世代の政治への無関心さが作り出したものである。子孫が払えない程の借金を残してあの世に逝く事は許されないのではないだろうか。0歳~22歳までと高齢者の大多数は、いわゆる無職で収入は無い。現在は、壮年期の人達が稼いで国を維持している構図であると言って過言ではない。人口構成はピラミッド形が理想であるが、今になっていっても詮無い事であるので、蓄えの多い高齢者は無収入の学業期の世代(0歳~22歳までの無収入者)に対して、何らかの方法で還元するべきではないかと思う。例えば3000万人とも言われる高齢者は、少子化が進んでいる今、年一人一口10,000円寄付すれば年間3,000億円の資金が調達できるのである。金銭的に不自由な人もいるだろうから1,000万人で1,000億円でも、5年も続ければ22歳以下の人達の大きな力になるのではないだろうか。それぐらいしても良い。阪神大震災後、建築家の安藤氏は各界の名士に呼びかけて、資金を集め既に奨学事業として始めている。震災から19年、どのように資金を運用して来たのか、その収支も聞きたいものである。

 

5.定年退職の実態

いつの頃からか定年退職者が安穏と暮らせなくなってきた。反面、官僚達は多額の退職金に満足せず、既得権の如く天下りし、更に、多額の給与・退職金をせしめ、不遇な人々を踏みつけ、この不景気な時代に、わが世の春を謳歌し続けている。政府は公務員給与や国会議員の定数削減も実現出来ず、年金暮しの高齢者から、いろんな形で集金し、1,000兆円超の借金は国民の予貯金1,500兆円をあてにした消費税の8%アップ、更に10%アップ等を進めている。一方で、唐突に65歳定年延長を企業に義務付けようとしているが、55歳でラインアウトするのが最初の定年、5年後が正式な定年というのが実情で有り、5年間は企業の特段の計らいで仕事を与えられ、無為に過ごしているのが現実である。とても曖昧な企業任せの定年延長と言える。当然の事ながら、ラインアウトした当事者にとっては、役員、年下の上司には無視され、若者(元、部下)には疎まれ、精神的に耐えがたい日々になっている。また60歳過ぎまで居残るケースでも給与は三分の一から4分の一くらいになり、労働環境は最悪で、精神的抑圧は更に増幅され、その結果、退職後に地域に溶け込むには難しい無気力な老人になってしまうのである。後輩の話しでは、年金支給が始まるまでのつなぎの雇用という形も取られ、62歳、63歳で雇用契約を打ち切られ、65歳までの定年延長は絵に描いた餅であるという。国は、安直に税金をあげるのではなく、60歳あるいは65歳までラインアウトにならず組織の一員として社会に貢献しているという思いを持てるような仕組みを早急に構築すべきである。今日の定年退職者は国に、会社に忠実に尽し、戦後の日本の繁栄に幾ばくかは貢献した人達であり、少なくとも彼等の老後は最低限、可もなく不可もない生活を保障してあげるべきではないだろうか。それで地域に貢献する余裕も生き甲斐も出来て、逝くまでに決して地獄を見せるのではなく、自分の人生は良き人生であったと思わせる温かい思いやりのある政策を国も企業も行って欲しいものである。

 

次稿では私の再発進行胃癌の行く末が明らかになりそうである。生きる事に欲の出てきた今、いい結果を来年早々に皆さんにお知らせしたいものである。羊の様に穏やかで健康な一年をお過ごし下さい。

以上 20141215日    No26へ    No.28へ