15稿 「癌と共に~癌患者は冷静に世の中が見える~」 201442

目 次

1.SP療法~スムーズに行かなかった第5クール目~

2. 昨今の憲法論議に対する雑感

3.戦後の経済発展とその恩恵を受けた高齢者世代の社会貢献

4.北海道開拓に携わった薩摩男達

 

1.   SP療法~スムーズに行かなかった第5クール目~

5クール目の結末については、前報で報告した通りである。結局11日間ティーエスワンを服用しただけで、家でも出来た事を高い入院費用を払って、病院に寝泊まりして、本を読んだだけで終了した。看護師は、こんな状態で治療を中断し、退院する私を不安視して心配してくれ、いろいろと気遣ってくれたが、逆に私が看護師に、抗癌剤を長期間服用しているので蓄積毒性に原因があると思うので大丈夫だと告げるとホッとした表情を見せた。担当医の説明は、24日までティーエスワンも服用を止め、24日の採血後に次の治療を考えるという事であった。そして、24日の血液検査でも好中球数は回復せず、またまた1週間後の31日に血液検査だけの為に北大病院まで行く事になった。2週間の休薬で31日現在、白血球数4,20024日:2,600)、好中球2,054933)に回復した。結果として最終のSP療法6クール目はシスプラチンの点滴靜注は可能となったが、白血球、好中球の回復が遅いので、無理せずにティーエスワン及びシスプラチンの減量で治療を続行するか、ティーエスワン単独で様子を見るかどうかの提案を主治医より受けたので、シスプラチン併用による相乗効果より骨髄抑制の方が気懸りだったので、ティーエスワン単独での治療をお願いした。331日よりティーエスワンを50㎎/日、10日の朝まで服用し、417日にCT撮影し、24日に画像を評価し、癌細胞が画像的に確認(発見)出来なければ治療終了とするか、SP療法が無効と考えられた場合は、腹膜転移した私の場合はパクリタキセル(商品名:タキソール)が二次治療として選ばれるのではないかと思っている。タキソールは水に溶けにくい為、アルコールに溶かして使用するので、酔う人患者もいるらしく、私の場合酔うのかどうか楽しみだが、特に気になるのは脱毛が8割以上の確率で発現する事である。標準治療としての二次治療は他にもいくつかあるが、どれも私の今の生活を維持出来そうにないので、その点は若干不安ではある。

 

2.昨今の憲法論議に対する雑感

 正直言って、これまで憲法を意識して生活してきたとは言い難いし、法律に対しても、スピード違反くらいが気になる程度の認識であった。そんな私が憲法について雑感とは言え、意見を述べる事に対してご容赦願いたい。

憲法は、国家にとって一番大切なものであり、明治維新は国家の主権が徳川から天皇に移転し、大日本帝国憲法は1889年(明治22年)に公布され、官僚機構を擁する直接的君主制に移行した。大日本帝国憲法第10条は管制大権が天皇に属すると想定している。我々が慣れ親しんでいる日本国憲法は1946年(昭和2111月)に公布され、1947年(昭和225月)に施行された。私が2年と2か月もの間、大日本帝国憲法下で育っていたとは…大発見である。主権が天皇から国民に移り、これに伴い、国家、社会の価値観が大きく変貌したと言ってよい。こんな時代の青年達の人間形成は、挫折や混沌とした世情にあって前向きに希望を持つ事は難しかったと想像する。反面、明治維新時の青年達は、封建時代から近代国家への移行期で身分制度が崩壊した事で、抑圧から解放され、特に苦学力行の貧乏士族に立志伝が数多くみられる様である。若き士族等は、貧乏を克服して時勢に飛躍するという強い意志、発奮の意気が盛んであった。戦後新たに日本政府が作成した憲法草案はGHQに全面的に修正され、マッカーサーにより基本的人権を制限又は廃棄する憲法改正を禁止する規定が削除された上で、国民主権の原則に基づいて、象徴天皇制となった新たな憲法を日本政府に受け入れさせる事になった。何故日本は戦後に憲法を変える必要があったのか考えてみたい。

東京裁判での米国の首席検察官は、「日本は侵略戦争をやった!」の一点張りで、戦争中に日本政府が使っていた「大東亜戦争」という呼称を意図的に禁止した。戦前・戦中の日本政府が掲げた「大東亜共栄圏の確立」という理念、つまり欧米列強の植民地支配から脱却してアジア全体の共存共栄をはかるという理念を否定し、あの戦争はあくまで日本の侵略戦争だったという事を日本国民に知らしめる為の主張であった。一方で西洋列強のフランスはベトナムやカンボジア等を植民地にオランダはインドシナ、イギリスはニューギニア、マレー半島、インドを植民地にし、富を搾取していた。日本が中国に出て行った背景には、西洋諸国がアジアで植民地を作り、良い思いをしているのを見て、日本も国力を強化したい為に西洋を見習い、同調したという動機があった様に思われる。

要するに明治維新の近代国家を目指した純粋な考えとはかけ離れ、昭和の日本人はアジア諸国民を劣等民族と位置付けて侵略に至ったものと思われる。それでも日本の大陸侵略は、結果論ではあるがアジア諸国の独立の引き金になった事は間違いないと思っている。植民地の功罪については、インドに紡績工場を作ってイギリスは富を収奪し利益を貪った反面、インドの尺度や文明・文化を飛躍的に高度化させたという利と害の両面がある様に、日本の大陸侵略も同様に韓国や中国の独立や戦後の発展にも大いに貢献している事も記憶にとどめなくてはならないと思っている。この様な事実も敗戦国の烙印を押されると全てが悪と見なされ、東京裁判の様な結果になってしまうのである。その結果、日本の持っている精神文明を連合国、特にアメリカは、ことごとく葬り去って新憲法を以て未来永劫戦争を放棄する新たな国家像を想定して、試験的に日本国憲法を制定した様に思われる。安部首相の憲法改正の思いにはこの点にあると思われてならない。安部首相は戦後レジームからの脱却が必要だとして改憲を主張している。戦後は新憲法の下で「再び戦争の惨禍が起こる事のない様にする事を決意」した上で92項によって戦力を持たず、一切の戦争を放棄した。その結果、68年間直接的な戦争をしない国でいつづける事が出来た。戦前は天皇崇拝や軍国主義思想が国民に強制された。国民は66年前に憲法を制定して戦前の旧体制に決別して新しい国になる事を決意した。これが安部首相の言う戦後レジーム(戦後体制)である。日本国憲法は、戦前の様に教育に国家が介入し、宗教(靖国神社)を利用しようとする事、その様な国家の行為を禁止し、これを止めてきた。政府が海外で軍事力を行使しようとする時、憲法が食い止めてきた。憲法は国家権力を縛って我々国民の権利、自由を守ってきた。アメリカ(GHQ)によって作られた憲法であるが、68年間、戦争や内紛も無く、平和な日本であった事は紛れもない事実である。憲法9条は、自衛隊が海外で活動する際の歯止めになっているはずであるが、小泉時代のイラクへの地上派遣にあってはイラク特別法を作り自衛隊をイラクに派遣した。誰が考えても自衛隊の派遣は憲法9条との整合性が無く、理解しがたい特別法であった。更に、法律的には海外での戦闘は出来ないので、日本側がサマワなら非戦闘地域であり戦闘はないと勝手に決めつけた地上派遣はまさに綱渡り的判断であった。本来、憲法は法三章が基本と考えられるが、絶え間ない戦争や、民主化、国際化、個々人の価値観が多様になってくると、それぞれの物差しのどちらが正しいかそうでないかをジャッジする事が必要になり、また立場が異なると正邪の判断すら難しくなってきた為、今日のような複雑で素人には理解しにくい憲法になってきた。社会が単純で常識と見識が共通であれば法三章でも十分社会秩序は維持出来るのではないかと思われるが、今日の様に政治家も企業活動も巷の悪人も法に触れなければ何をしても構わないという風潮があり、その結果、国の支援制度を悪用した不正受給、企業も国の制度を金儲けの一点だけで悪用し、年寄り自身も制度(年金・生活保護に伴う不正、障害者を偽る不正等)を我欲で蝕む様になり、確かに荒廃した人心を一新する為の方法論として現憲法を見直し、進化させる必要はあると感じている。調子に乗って書いているうちに憲法と法律が入り交ざってきた様で…ご容赦願いたい。健全な思考・常識と見識ある高齢者は、あの世に還る前に日本の未来の為、子孫が将来に夢を持てる国にする為に、もう一働きしたいものである。

日本では、誰しも死んだら仏になるという文化を理解しようとせずに、意図的に国際問題にする近隣の国がある。確かに政治家の靖国神社参拝については、政治家の勝手な解釈で参拝し、国際問題になっても致し方ない様に思われる。参拝は、憲法違反であると思うので、その法的根拠を述べる。憲法に政教分離の言葉はないが、根拠として、日本国憲法第20条1項後段、3項ならびに第89条に挙げられている。一、信教の自由は何人に対してもこれを保障する。二、いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。三、国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。四、公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持の為、これを支出し、又は利用に供してはならない。

従って、政教分離の具体的内容は以下の通りである。一、特権付与の禁止・特定の宗教団体に特権を付与する事、宗教団体すべてに対し他の団体と区別して特権を与える事。二、宗教団体の「政治的権力」行使の禁止。国の宗教的活動の禁止、宗教の布教、宗教上の祝典、儀式、行事等。よって政治家による靖国神社への参拝はこの政教分離原則に反すると言える。

安部政権と言うより安部氏個人が目指すところは、現行の憲法で安部氏の考えや行動を制限している現行法を全面改正する事である。憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認であり、何をする為に集団的自衛権を行使しようとするのかは、彼の心の内・本心は私にはよくわからない。自民党の谷垣氏は、憲法解釈があまりに不安定だと国家の在り方そのものが動揺してしまう。憲法解釈は極めて安定性が必要である。特に憲法解釈は国民の理解を取り付ける必要がある。手順と段取りを踏む事が大事であると言っている。更に、自分の所だけが正しくて人の所が間違っていると言う事ではなく、日本はおおらかな自負心を持てる国だと思う。夜郎自大(自分の力量を知らず幅を利かす態度)にならず、おおらかな自負心を持てる国民が多く住んでいる。それだけのソフトパワーが日本にある。そういう所が大事だと思う、と言っている。安部氏は中国や、韓国、北朝鮮、ロシアを視野にいれ、内閣で、時代の要請、新たな課題に対応した憲法改正草案を作って、よりシンプルに対応したいと考えている様に思える。内容的には現行憲法の全ての条項を見直し、全体で11章、110カ条の構成になっている。一度皆さんにも読んでもらいたい。中国や隣国との領土問題、拉致家族問題を解決するには専守防衛の自衛隊では外交交渉出来ないので、相手以上の軍事力をもって外交交渉したいとする短絡さが安部首相の改憲の目的の様に思われる。ある意味日本国憲法はアメリカの押しつけ憲法であるかもしれないが、戦争放棄は世界に類のない条文であり、アメリカの意志でもあると常に全世界に表明し、日本は今後とも戦争には、どの国とも組する事無く、海外への派遣も今後は法の精神に則って一切協力出来ないと断固宣言すべきである。その上で、我々国民は安部首相の改憲を一提案として受け止め、現行の日本国憲法の体制を維持し、発展させるか、それとも大きく変えて昔に戻すか、あくまでも決定するのは主権者たる我々国民であるので、決して自ら国民主権の権利を放棄する様な事があってはならないと思っている。

更に、少しだけ視点を変えると、国連加盟国は、全て軍隊を有している独立国家であり、にもかかわらずわが国は、自衛隊を法律上軍隊ではないという問題を内包している。故に自衛隊の海外派兵についても、常に法的判断に苦悩し、外圧に配慮し、資金供出をするだけでは国際社会で自立した国家とは言えない現実がある。軍隊を持つ事が最善とは思わないが、領土問題は、相手国に対して抑止力がないと、同じ土俵での交渉は甚だ困難である事はこれまでの事例で明白であり、戦後68年の今日、足枷になっている憲法の第9条を再吟味し、真の独立国家を目指し、日本国民もいい加減な民主主義を考え直しても良い国内状況にあるのではないかと、自己矛盾ではあるが、心の片隅で思っている。アメリカは自国の論理だけで行動し、国連への不満を莫大な滞納金でしか表現できない国であり、日米安保という大義名分で68年に渡り、わが国に基地を置き、無償で居座り、思いやり予算という名目の年貢まで取り立てている。政府が基地問題をどのように解決したいのか見極めにくいが、今まさに喧喧諤諤の議論の最中であることは確かであるので、安部政権となった今こそ機を逸することなく在日アメリカ軍の存在意義を議論すべ時である。政治家や評論家の大多数は日米安保によって日本の安全は守られ、今後も継続すべき最重要事項であると言っている。日本の将来を次の世代に引き継ぐことを考えれば、いつまでもアメリカの弟分的な国家に甘受していないで、真の独立国家を目指す為に、日米安保を解消し、再出発すべきである。借金という負の遺産を次世代に遺すのではなく、又、国際社会に信頼、尊敬される国を創出する為に、まさに政権交代した今、政治家には、私利私欲に走ることなく、国民・国家のために粉骨砕身働いてもらいたいものである。

 

3.戦後の経済発展とその恩恵を受けた高齢者世代の社会貢献

今や60歳以上の世代が3,000万人に達するという。私が小5の頃、当時30歳であった長兄が手回しの洗濯機(擬き)を持って来て、実演した。サッカーボウルより一回り大きな形で丸型の蓋があり、ワイシャツ2枚くらいが限度で、お湯を入れ、洗剤を入れ、蓋を閉めてひたすらハンドルを手回す代物である。確かにワイシャツは綺麗になったが、物珍しさだけでとても便利とは言えなかった。冷蔵庫は恐らく堅い木の枠組みで出来ており外を鉄板で覆った木箱で、一番上の段に氷を入れて冷やす構造になっていた。洗濯はタライと洗濯板と固形石鹸、娯楽は真空管のラジオ、そんな時代であった。昭和50年代の後半、小6になると、世の中は神武景気とやらで、一般庶民の生活も戦後十数年経過して、メリケンさんのお蔭か、日本人の勤勉さによるものか、若干ゆとりも出始めた頃に、電化製品が店に並ぶ様になってきた。長兄は白黒テレビ(14インチで7万円くらい)を買ってきた。恐らく給料は78千円だったと思うが、日を置かず電気冷蔵庫、電気洗濯機も買ってきた。母、姉にとっては著しく洗濯時間も労力も短縮され、いちいち氷を注文して木箱に補充しなくても済み、日々の雑用から解放され、ラジオやテレビを楽しむ事が出来てとても満足そうであった。テレビは未だ走りで、近所の老若男女がわが家に集まり、力道山VSシャープ兄弟とのプロレスに興じており、母はそのおもてなしで茶菓を出すなど、忙しそうであった。電話もそれほど普及はしておらず、私も近所に度々取次に行かされていた。父は戦前から戦後まで無給の市会議員で、面倒見がよく、かつ無欲で、心から地域の人を大切にする人であった。わが家は神武景気の象徴ともいうべき「三種の神器」はいち早く導入されていた。高度成長期となった1960年代(昭和35年頃からだったかな)は列島改造で全国の道路網が整備され、都内は高速道路が出来、国民は所得倍増となり、3C時代となり、カラーテレビ、クーラー、カー(自家用車)に一般庶民が手を出せる様になり、特に1959年、4月に沿道に50万人の観衆を集めた皇太子・美智子妃の世紀のご成婚、続いて東京オリンピックも開催され、カラーテレビが一挙に普及した。平成の今、少し時代遅れになっているかもしれないが、デジカメ、DVDレコーダー、薄型大型テレビのデジタル家電が「新・三種の神器」と呼ばれている様である。

戦後68年、団塊世代を含む戦後世代が60歳を過ぎ、既に25%の国民が第一線から退き、年金暮しとなり、しかも長生きするだけでなく、核家族の影響が原因になっているのか、贅沢に慣れて広げ過ぎた生活レベルを縮小(質素)出来ないのか、病弱で働けないのか、生来怠け者で、他力本願で生きて来たのか、とにかく生活保護世帯が異常に多く約158万世帯、単純に考えると平成18年度の老人の医療費は8兆円(厚労省資料で平成18年度の医療費は32兆円)、平成23年度には約10兆円(厚労省資料で平成23年度の医療費は37.8兆円)に膨らむと推測でき、今後も伸び続ける事は確かである。60歳以上のハッピーリタイアー世代の多くは、良い時代に生まれ、納税や諸手続きは会社の総務や役所に任せきりで自己責任と言うものが甚だ希薄であった。飲む・打つ・買う、の三拍子そろった社員でも年功序列で地位も給料も上がり、退職金も自動的に満額払われ人生設計を狂わされる事はなかった。少子化が進み高齢化が進む昨今、若い世代がどんなに頑張っても高齢者3,000万人は支えきれないところまで来ている。だからこそ、60年以上に渡り年々生活はレベルアップし、家族を守りきった男(大黒柱)の達成感、刺激的な時代を享受してきた世代の人々は恐らく2,0003,000万円の資産を保有(総務省の調査によると、65歳以上の人の平均預貯金1,500万円)していると私は推測している。仮に一人当たり1,500万円を預貯金しているとすれば450兆円/3,500万人を高齢者が蓄財していることになる。更に不動産や有価証券を合算すると、1,000数百兆円は保有していると思われる。お金の使い方を知らずに数千万円を残してあの世に逝く人も多いと言う。このような高齢者に提案したい。

老人医療費が社会保障費を食い尽くそうとしている昨今、これから孫・子に残してやれる事は直接財産贈与する、自らはセルフメディケーションを実践し、少々の事では病院へは行かない、地域に溶け込み高齢者同士のコミュニティーを充実させ相互扶助する、治癒不可の病は延命をせずに尊厳死を日頃より考え、家族にその旨を伝えておく、社会資本は国民平等に使われなければならないと言う認識・見識を持ち、どの様に老後を生きれば子孫に自分たちが享受した幸福感を残せるか、決して目先の小遣いをやって自己満足するのではなく、より多くの子孫の為にと言う考えが重要であると私は思っている。仮に1,000万人が年10,000円寄付してくれれば、奨学金1,000億円/年が集まり、優秀な子供に学費を無償提供できる。頭も身体も自由ではない我々は、堂々と、はした金で社会貢献出来る。政府の教育予算をゆくゆくは主権者である国民が公平に分配出来る様になれば理想である。国家と言う雲をつかむ様な所から支援して貰うのではなく、直接、身近な祖父、祖母に学費を出してもらった方が孫も感謝の気持ちが湧き、年寄りを大切にするのではないだろうか。昨今、日本人は質素倹約、明治、大正生まれの人々の互助の精神、見識は失われつつあると思っていたが、先の東関東大震災で見せた被災者への思いやりは日本人の変わる事のない根本的な精神であると再確認出来た。アインシュタインが来日した時、日本人の印象を述べている。「家族の絆は欧米に比してはるかに緊密である」と日本人の特筆をあげ、「生活に施された芸術的造形、個人的な欲の抑制と質素、日本人の心の純粋さと平穏を守り続ける事を忘れないで欲しい」と言っている。これが長い歴史を育んできた日本人の在るべき姿、今でも国際社会の人々に尊敬される日本人の特質、精神であると私は思っている。

 

4、北海道開拓に携わった薩摩男達

 北大入院中の合間にキャンパス内にある博物館を覗くと、明治期の薩摩の先達等が紹介されていた。平成4年に転勤で札幌、北広島市に住む様になってから今日まで薩摩出身者としては黒田清隆と村橋久成は知っていたが、こんなに多くの薩摩の関係者が北海道にいたとは知らずに、我が無知さに恥じ入るばかりで…、遅ればせながら薩摩の関係者をピックアップしてみた。

1869年(明治2年)、鹿児島は、強制分領という形で十勝、日高5群の開拓を明治政府に強制され、7,300戸、4万人が北海道に移住し、75,000ヘクタールの原野を開拓した。しかし、交通の不便、漁業利益の薄益から分領地を明治政府に返上した。この屯田兵開拓の基礎は西郷隆盛の構想に従い、開拓使長官黒田清隆が実行した。この負い目で以後多くの薩摩人が北海道開拓に寄与している。公人では、屯田兵の父と言われる永山武四郎は、北海道の守りと開拓に一生をささげた。黒田清隆の樺太放棄構想に反対した永山弥一郎、国後、択捉島を含む北海道東部の道路建設に尽力した永山在兼、札幌農学校(現、北海道大学)の開設に尽力し、初代校長となり、札幌県令にもなった調所広丈は、クラーク博士を教頭として招いた。

村橋久成は、英国へ密航した留学生で北海道開拓に全身全霊をかたむけた。彼の写真は、北海道大学図書館にあり、爛々と輝く大きな目をした決意に満ちた顔写真である。胸像は知事公館の前庭にある。高橋はるみ知事は彼の北海道での功績を取り上げ、ビール事業を殖産興業の一環として官営事業としてスタートし、1876年(明治9年)に北海道開拓使によって官営の「開拓使麦酒醸造所」が設立、後に民間に払い下げられ、1888年(明治21年)札幌麦酒(現、サッポロビール)となった。ドイツの気候に似た北海道が最適と考えた人で「ビールの父」と称された。その他、公人としては、初代根室県令の湯地定基、初代函館県令の時任為基、農商務相北海道事業管理局長の安田貞則等がいた。民間人では、幌加内村で鉄道敷設に活躍した吉利智弘、炭鉱産業の発展に寄与した堀基や園田実徳、園田実徳は、北海道初の電車を函館・東川町―湯の川間に走らせ、函館船渠、北海道銀行を創立させる等、函館を中心に北海道の経済界に貢献した。

前田正名は、釧路で製糸業を始め、僅か2年で失敗した。阿寒湖畔にあった前田所有の山林約3,800ヘクタールを基礎に「前田一歩園財団」が設立され、今でも阿寒湖畔の自然を後世に残している。

1898年(明治31年)、島津公爵による開墾地は、上富良野町の500ヘクタールと長沼町の500ヘクタールにおよび、1936年(昭和11年)に自作農を創設するため、美田が小作人に開放され、富良野町の人達はこれを旧島津農場と呼び、また島津神社に島津家を祭って今でも感謝しているらしい。

加世田市生まれの松山丈之助は、松音知(中頓別町の一地区)に加世田村を作るべく1,800ヘクタールの原野を開墾地に加世田から多くの青年達を呼び寄せ、砂金事業で得た利益で学校、神社、鉄道を建設した。この様に薩摩人は、関ヶ原の戦いで負けながら領地を召し上げられた事も無く、400年の長きに渡り島津家が繁栄してきたのは時代に合わせ自分たちの考えや行動力を変えて行ったからに他ならない。故に、明治維新も然り、北海道開拓への尽力も然り、それが今の北海道を支える礎になっていると確信している。

札幌農学校出身者の岩崎行親は第七高等学校造士館の初代校長を務めた。我々の時代には学制改革で消えてしまった「七高」について少しだけ触れたい。設立は1901年(明治34年)3月で、前身は薩摩25代藩主島津重豪(斉彬の祖父)によって創設された藩校、造士館であった。七高は旧藩主島津忠重の絶大な支援で鹿児島にナンバースクール「第七高等学校造士館」が明治政府によって設立された。独自の学風を誇り、あまたの人材を輩出し、明治維新の原動力になった。明治から昭和の太平洋戦争終了時まで続いた。昭和21年に第七高等学校造士館から第七高等学校と改め、1949年(昭和24年)に鹿児島大学第七高等学校となり1950年(昭和253月)に半世紀にわたる歴史を閉じた。校舎は鶴丸城址にあった。七高は、鹿児島大学理学部の起源である。

北海道と鹿児島の関係についてはもっと詳しく調べて紹介したかったのですが…、是非、この地を訪れてサッポロビールを飲みながら、現地の人々と交流して各自が調査してもらえればと思っています。

以上 201442日  14.へ