第5稿 「癌と共に~癌患者の独り言~」

 

はじめに

1.“Boys,be ambitious!”について

2.多感な青春時代~自分探し~

1)  集団生活で学んだこと~悟り~

2)   将来展望~悟りの本質~

3.癌患者の思い~癌をどう捉え立ち向かったか~

 1) 友人成田さんの死

  2) 陶芸サークル倉橋さんの死

 3) 幼友達の西田君の肺癌

4) 義姉の有棘細胞癌

5) 多くの友人・知人の隠れ癌患者

 

はじめに

北大でのSP療法1クールを終え(1023日)、11月18日まで休薬となり、気持ちの上でとても楽になった。主治医に上京して甥っ子の結婚式に出席したいので、2クール目の開始を1週間先延ばししてもらうようにお願いした。治療に専念する事だけが私の人生の全てではなく、浮世の義理、若者の門出を祝うことも、私の生き方の軸ともいえる敬天愛人に繋がる重要な約束事である。9日、10日の札幌の天候は冬型の大荒れを予報しており、その日は、鹿児島から最も大切な友人夫妻が見舞いに来る日であったので、とても天候が気になっていた。すき焼に必要な鹿児島産の野菜類一式が宅急便で届き、メインの高級牛肉は彼等が自ら携えてきた。我が家が準備するのは、野菜を切り、すき焼鍋と調味料を用意し、器を並べておくだけだった。とても楽しい秋の夜長を、よくしゃべり、よく食べ満喫した。

128日、早朝6時、近所の自然公園は一面銀世界であった。街灯と雪明りの中を愛犬ロンと散歩した。30分もすると積雪が朝焼けに照らされ、彩色された銀世界が際立ち、私とロンの足跡は、芸術的文様を描いていた。帰宅後、朝日新聞を開くと35道内13版に雪の中にひっそり立つクラーク博士の記念碑と寒冷地稲作発祥の碑の写真が掲載されていた。両記念碑は我が家の近くにあり、記事を紹介すると…日本人なら誰でも知っているだろう「名言」…碑は1950年、語った地を後世に残そうと、北海道大関係者が設立した。「青年よ大志を懐け」。…町村金吾元知事による碑文は「寒地稲作この地に始まる」…とある。クラーク博士は僅か8ヶ月間、学生に教えた教師であったが、北海道だけでなく日本人の心に根付いてしまっている。若者に大志を懐け、夢を持て位の事は大人なら誰でもが言いそうなことなのに「青年よ大志を懐け」はクラーク博士の専売特許になってしまっている。

何故でしょう?記事は道内版ですので、皆様に改めて「Boys, be ambitious!」について私なりに解説してみたいと思います。

1.“Boys,be ambitious!”について

 わが町、北広島市は広島県出身者が入植、開拓した純農村地域である。北広島市役所の正面玄関を入ると、平和宣言都市の額と以下の一文のポスターが遠慮がちに貼り出されている。
 “Boys,be ambitious! Be ambitious not for 
money or for selfish aggrandizement,not  
for  that evanescent thing which men call 
fame. Be ambitious for the attainment of all 
that a man ought to be.”
この言葉の最初のフレーズであるBoys, be ambitious!は、私が大学に入学する昭和39年3月16日の朝日新聞「天声人語」欄に紹介され、その出典として稲富栄次郎著「明治初期教育思想の研究」(19)をあげ,「青年よ大志をもて。それは金銭や我欲のためにではなく,また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然そなえていなければならぬあらゆることを成しとげるために大志をもて」の訳文を添えていた。
 クラーク博士の「大志」の内容は,富や名誉を否定して内面の価値を重んじる倫理的なものとなっている。これは”Boys be ambitious in God”として,神への指向を強調した人々の解釈と通ずるものであるといえる。しかし,この言葉がクラーク博士のものであるか否かの真偽は今日でも不明である。まず,”Boys,be ambitious!”は帰国に際し、第一期生大島正健博士の著書によると我が家の近くの別れの地(国道36号線の島松付近)まで見送った学生達に向って馬上から最後に述べられたもので,その時の状況からみて、これは「さようなら」に代る別れの言葉であったと思われている。この言葉でさえ多くの学生達が聞きとったとは疑わしい程である。次にクラーク博士は決して富や名誉を卑しんでいなかったことである。例えば農学校の開校式の演説でも,学生たちに向って「相応の資産と不朽の名声と且又最高の栄誉と責任を有する地位」に到達することを呼びかけている。
即ち、日本が因襲的な封建社会(身分社会)から脱却した明治期では,本人の努力次第で国家の有為な人材となることを妨げるものは何もないことを述べ,学生達の青年らしい野心(lofty ambition)を期待したと思われる。この為、特に勤勉と節制の必要を説いているが,ここには「神の恩寵」を確信して世俗的な職業に励むピューリタンの精神がよくあらわれているように思える。
 それでは前述の長い英文を書き加えたのは誰かというと,今のところ全く不明である。「天声人語」が引用した稲富氏の著書には典拠を欠いているが,これは恐らくは岩波の「教育学辞典」(昭11)の「クラーク」の項(海後宗臣)であると思われる。小林氏は英文を引用するに当り,これがBoys,be ambitiousの「意図する内容」であると述べ,海後氏はこの英文全体をクラーク博士自身の離別の言葉と述べている。
その後の混同のもとはこの辺にありそうである。 Boys, be ambitiousが札幌農学校時代にどのように伝えられたか? 現在このように広く知られているこの言葉も , 明治の中頃までは農学校内でも余り知られていなかったのではないかと思われている。例えば、後にはこの言葉について講演した第二期生の内村鑑三氏でさえ,学生時代にこの言葉を知っていたかどうかは不明である。その証拠として、内村氏はクラーク博士死去の翌月(明治19年4月22日),アメリカの新聞「The Christian Union」に「The missionary work of William S.Clark」という一文を投稿し,この中で北広島(島松)の別離の事を述べているのにBoys, be ambitiousには触れていない。この事は必ずしも彼がこの言葉を知らなかったことを意味するものではないが,少なくともこの言葉がそれ程重きをおかれていなかったことの証左といえるのではないだろうか。 Boys, be ambitiousが記録の上で最初にあらわれたのは,現在知られる限りでは,明治27予科生徒安東幾三郎氏が農学校の学芸会機関誌「恵林」に掲載した「ウイリアム・エス・クラーク」なる文章中である。その13号に安東氏は書いている。「暫くにして彼悠々として再び馬に跨り,学生を顧みて叫んで日く,『小供等よ,此老人の如く大望にあれ』 (Boys,be  ambitious like this old  man)と。一鞭を加へ塵埃を蹴て去りぬ」この like this oldmanは意味深重であるが,別れの言葉としては一寸芝居がかっている。それに50歳を少し過ぎたばかりのクラーク博士が自分のことをold manと考えていたかどうか。それはともかく語呂の点からみても,まだこの言葉は学生間に充分に定着していなかったことを物語っているように思われる。 次いで明治31年には学芸会が「札幌農学校」という本を編集しており(裳華房刊),その巻頭に「Boys, be ambitious」を掲げ,本文中に日く,「忽ち高く一鞭を掲げて,其影を失ふと云ふ 。 実に巻首載する所の Boys  be ambitiousの語は彼が最後の遺訓にして・・・・・」この本は美文調の風格ある文章で書かれていて,好評を博し3版を重ねた。農学校の出版物にBoys,be ambitiousがあらわれるようになったのは,この本以後のことである。いずれにしても,この言葉は長い間埋れたのち,札幌農学校が確固たる基盤を獲得し,学生たちの間に自信と誇りが培われた頃に思い起され,特別の意味を与えられるようになったと秋月俊幸氏は述べている。

碑文「寒地稲作この地に始まる」は、中山久蔵氏をたたえるため1964年に出来た。明治政府は、寒地に稲作を奨励したが、突然、小麦栽培に方針転換し、中山氏の稲作事業を妨害する側にまわり、氏は散々苦労した末、赤毛米を寒冷地用に普及させた。クラーク博士は、若者に大いなる影響を与え、中山氏は独力で北海道稲作農業の今日の基礎を作り上げた人と言える。

 

2.多感な青春時代~自分探し~

 彼の父上は大学の先生で、威厳があり近寄りがたい人であった。彼は鹿児島大学付属中学校出身で、高校3年時に同じクラスになった。いくら思い出そうとしても彼とどの様ないきさつで友達なったのか、お互い思い出せないでいる。二人で将来を語り合ったことも無ければ、一緒に勉強をした記憶も無い。彼の友人の事は殆ど知らないし、50年経って彼の口から初めて彼の友人の事を聞いた。ただただ、これといった目的もなく一緒に鹿児島市内(専ら天文館)をぶらぶらしていた思い出しかないが、それでも付き合いは半世紀になる。只、一緒にいるだけで落ち着くのである。他の友人に彼とのことを聞かれても、「彼は友達ではない、兄弟でもない、勿論、恋人でもない、…、何なのだろうね」と、それ以上説明出来ないし、考えもしなかった。友人の定義があるとすれば、お互いの知識、経験が混ざり合い、そこでお互いを相容れ、共通の話題、価値観を共有し友人という関係が構築されるのではないかと思っている。私と彼はお互いの知識や経験、育ちが混じりあうという無機的な混在ではなく有機的に融合しお互いを別物として認識出来なくなって、同一化していると思っている。彼が悪性の膀胱癌を告知された時、自分自身の癌告知には全く動揺しなかったのに、電話口で声が出なくなり、涙が止まらなくて、すぐにでも鹿児島に行こうと思ったことがその証になっている。

私は、一浪後、東北大、東京医科歯科大に入学願書を出し、受験は、二期校の東京医科歯科大学を受けたのみで、桜散るに終わってしまった。東北大を受けなかった理由は、一浪した友人等が東大や東京外語大や一橋大、東工大、横浜国大等を受験すると聞いて、東京以北に単身行きたくなくなり、東京医科歯科大学で良いと思ってしまった。後に国会議員を父に持つ友人の兄に露見して「君は人生を甘く見過ぎている!」と叱られた。国会議員の父上には「君は御父上に似て掴みどころのない人だね」とも言われた。

確かに私は、人生の岐路に立った時、自分の意志を通したことは無く、いつも父親の意見に従ってきた。そして努力しない割には根拠のない自信を持っており、一方で自分の将来を思い悩む性格で、いつもそんな得体のしれない自分自身にイライラしていた。

 

1)  集団生活で学んだこと~悟り~

彼は父上の勧めもあったのか、広島大学文学部受験し、合格した。私は一浪後、医学部進学は叶わず、滑り止めの一つ、東京薬科大に進学した。1年時の教養課程は高校の授業のおさらいの様なもので、又、世間は東京オリンピックで騒々しくて、ほとんど下宿でゴロゴロしていた。今度こそ背水の陣で勉強して医学部に再チャレンジしようと夏休みに丸坊主になり、広島で途中下車して広島大学2年であった友人を誘って一緒に医学部を受けるため帰省し、父親にあと一年浪人させてくれるように頼んだが、許してもらえなかった。その時、彼の父親は浪人を許してくれ、翌年、彼は鹿児島大学の医学部に合格し、現在も癌サバイバーながら脳神経外科医として活躍している。私はそれから4年間悶々として大学に籍だけは確保し、下宿や二年時に入舎した寮・同学舎で無為に過ごしていた。人間万事塞翁が馬で、同学舎での生活は、その時は気付かなかったが、多くの先輩、同僚、後輩と同じ釜の飯を食べ、議論し、本を読み、物事を深く考えられるようになり、この時自然に大人として社会人として自分自身の生き方が定まったように思われる。識見に富んだ人が周囲に多ければ多いほどその人の将来は保障されていると私は既に感得していた。若い頃、これと言った学歴もなく、ましてや財産もなく、人様に自慢するものは一切なく、その中で判断力、人を見る目だけは、同世代の誰よりも磨かれたと感じていた。武道館で毎年行われていた旧制高等学校の寮歌祭や政治家のパーティのアルバイトで石原慎太郎や佐藤栄作首相等多くの著名人に会い、挨拶を交わした経験も名声に臆することなく、相手の飾りをはぎ取って冷静に相手を観察出来る様になったと思っている。それでも全盛期の彼らはオーラがあって、二十歳そこそこの私には眩しくて恰好良くて興奮したことも忘れられない経験であった。

 

2)  将来展望~悟りの本質~

就職して、中途入社であったせいか、会社内研修もなく即戦力として現場を任された。上司と言われる人達は会社のルールに則って地位を得、それに見合った給与を得ていた。地位や給与は客観性に基いたものではなく、組織内の年功序列、人間関係や情緒面で決められていることも理解でき、その後の私にとっての不利益、不条理な上司の指示・命令も上手に処理し、受け流すことが出来た。事にあたって先ず考えてから行動に移す私に、新しい仕事に取り組むにあたり、上司が今迄の自己の経験を下に指示し、命令する事は無意味なのである。後に私の事を厄介な新入社員、現代っ子が来たと酒の席で言われた。食品会社で医薬品事業に進出する事、しかも新薬を手掛けることは極めて難しい仕事であった。ノウハウのない頃は製薬会社に教えを乞うたことや厚生省のしかるべき部署にお伺いを立てたり、医療関係者のサジェッションを受けたり、組織も人材も無いに等しく大変苦労した。その苦労は、他社との共同研究や大学の教授、官公庁の関係部署のキャリア官僚等と率直に渡り合えるようになり、この経験が後に新薬を世に出す大きな財産になった。一番苦労したのは民間企業との共同研究で、部長や役員の肩書を持つ一部の輩は、会議中に他社の人間の肩書を見て見下すような態度を取ったり、座席も勝手な序列で配置させたり、いかにも自分は偉い人間だと言わんばかりに、自社の部下に訳のわからない指示を出したり、会議の合間には、黒塗りの社用車が支給されているとか、行きつけの高給クラブがあるとか、鬱陶しい思いをさせられた。会社の代表者として参加している相手(私)に対しての無礼かつ暴言には堂々と叱責(クレーム)したし、そのことで仕事を失うことにはならなかった。相手の会社の部下もこのような上司には日頃より閉口しているようで、会議終了後に丁重なお詫びをされたこともあった。更に自社の上司も他社の役職者と張り合いたいのか、外で自社の部下に恰好を付けたいのか無駄な発言をする輩がおり嫌な思いもさせられた。サラリ-マンと言う人種は功成り遂げると虚勢を張るしか残されていないと言うことであろうか?私は若い頃から肩書に臆することも無く、飾りを剥ぎ取って人間を見る習慣があったので、社会人(サラリーマン)になっても人と向き合う際は、良し悪しは別にして、サラーリマンを終えるまで決してぶれることなく、そのお蔭で仕事もマイペースで大きな目標に向けて取り組めたし、定年までさしたるストレスも感じることも無く過ごす事が出来た。

 

3.癌患者の思い~癌をどう捉え立ち向かったか~

 1)友人成田さんの死

北大病院で血液検査、外来診療を終え、帰宅時に例年通り陶芸の作品展の案内を成田さんに伝えようと思い、立ち寄ろうと思ったが、疲れていたので明日にすることにした。翌日、成田さん(会社時代の2年上の同僚)の奥さんから電話があり、昨日、脳腫瘍で亡くなった(平成251021日)ことを知らされた。3月頃会ったきりだったので、びっくりして電話口で言葉を失った。

本日(1210日)、葬式の挨拶状が奥さんより届き、内容を読むと、彼はきっと悔いのない人生を送ったのだろうと感じて、皆さんには無関係な人の人生ではありますが、是非紹介したいと思いました。

・・・主人は71歳で人生の幕引きとなりましたが定年後の十年間は大変充実したものでした。定年後すぐに取り組んだのは自社ビルの設計でした。色や材質、形と細部に至るまで自分の好みを反映させたまさに自分の「終の棲家」を完成させました。「学び」につきましてはとどまることを知らず二十年以上も続けている人生大学の賢人会で、そして大好きな「竜馬の会」でと見聞を深めつつ仲間たちと熱い議論を交わすことを続けておりました。サントリーモルツのビール会で舌鼓をうち、いつでも大好きなカラオケを歌えるようにとお気に入りのステレオセットを自社ビルの地下に設置し、友人や、妻である私の会社スタッフ、孫たちを招いては、のど自慢大会を開く日々。又、絵が好きだった故人はこだわりのスケッチブックにお気に入りの絵具一式を持ってバスに乗って絵画教室にも通っていました。自宅の廊下はさながら故人の個展会場の様に作品が所狭しと飾られています。夫婦ではパークゴルフを楽しみ、忙しい合間を縫って積極的に旅行にも行きました。私の会社の社員旅行にも必ず同行し夫婦二人だけの旅行では三年前から神社仏閣巡りを自然にするようになった故人。私の故郷の長崎にある諏訪神社と渕神社から始まって翌年には出雲大社、厳島神社、昨年は伊勢神宮へ行き今年は熊野古道を通って高野山までの旅を果たし只々感激の連続を経験。今にして思いますと故人の七十一年間のお礼参りは合掌の気持ちだったように思われます。最後は癌患者特有の激痛や苦痛は一切なく自宅で家族に見守られながら静かに息を引き取りました。・・・

2)陶芸サークル倉橋さんの死

  とても存在感のある女性でサークルのリーダー的存在であった。作風もシックで、作陶技術も秀でており、会員に聞かれれば丁寧に教えていた。一昨年9月、私の術後療養中に彼女よりハガキが届いた。…その後いかがですか。大変でしょうが愛妻奥様の心温まる手料理で早く回復なさいますように、お祈り致しております。私ですが、未だ痛さが取れず時間がかかりそうです。早く皆様と作陶が出来る日を楽しみに致しております。…或る日、腰が痛くてしばらく休みますと言われ、その時はさほど気も留めず、数カ月が過ぎ、年度末の総会資料を持って彼女の自宅にお邪魔した。手作りのケーキをご馳走になり、ご主人と世間話をしてお暇し、その時はそろそろ復帰するのだろうなと思っていた。4月になり、会員に「倉橋さんを札幌医大病院で見かけた」、「豊平の札幌東病院で見かけた」と言う事を聞いて、嫌な予感がした。彼女はその後3か月後に膵臓癌で亡くなった(平成24721日)。思えば腰痛治療でわざわざ大学病院には行かないし、ホスピス専門の札幌東病院に行くのも尋常ではないし、癌を予見できる行動であった。身近な人の癌を見ぬくことは本人が言いださない限り難しい事である。恐らく末期だったのだろうが、家に引きこもり、夫に、誰にも癌であることを言わないでくれと頼み、覚悟の上で治療を拒み、ホスピスで生涯を終えたのであるが、もし相談してもらえていれば、私が関与した塩酸イリノテカンが膵癌の適応を取得するべく治験中であった事や以前に比べて化学療法の使われ方も格段に進歩していたので、専門医を紹介することは出来たと思うと、彼女の潔さが悔やまれる。

特に膵臓癌は難治性癌の代表格であり、超音波検査、CTMRI、更には超音波内視鏡等の精度が向上し、かなり早期の癌も発見され、早い時期の手術で救命される場合もあるものの、未だに膵臓癌患者の生存率は極めて悪い。抗癌剤や放射線に対しても抵抗性が強く、診断、治療共に対応の困難な癌である。膵臓は、腹部の深い部分にあり、早期の癌を見つけにくく、また、膵臓は胃や腸と違って周囲を強い膜で被われていないので、癌が出来るとすぐに周囲に広がり易いこともあり、治療が難しく命を落とし易い癌である。そのような膵臓癌は周囲に食い込むように増殖する「浸潤性膵臓癌」と言われるものである。恐らく倉橋さんは、腰痛だけでなく、腹痛や黄疸、食欲不振、体重減少等の初発症状があったと思われる。画像診断や膵腫瘍マーカーの検索もされと思うが、抗癌剤の開発に携わった者として、気づいてあげられなかったことが残念でならない。

3)幼友達の西田君の肺癌

   彼は、小細胞肺癌に罹患し、私が抗癌剤の開発に携わっていたという事で、神奈川方面に病院を紹介してくれとの依頼があり、治験で御協力いただいた北里大学病院の呼吸器科の増田典幸教授にお願いした。当病院は肺癌の気管支鏡検査は全国でもトップクラスの件数をこなし、治療も科学的かつ実証的根拠に基いた効果的な肺癌化学療法を行う専門病院である。彼は治療後、既に8年が経過し、今も元気に旅行もし、お酒も嗜むといった、ごく普通に生活している。

   しかし、今年になって前立腺癌に罹患していることが分かり、現在、主治医には少し様子を見てから治療方法を考えましょうと言われている。前立腺癌の治療については知識がないので文献検索し以下の情報を得た。

前立腺癌は昨今の日本人の食生活が西欧化したことが原因で罹患率・死亡率が上昇している。前立腺癌の予防は、生活環境、特に食生活の改善が重要であり、薬剤による発癌の予防や癌進展の抑制には、男性ホルモンの制御が重要な戦略である。前立腺癌の危険率を高める可能性のある栄養因子は、総脂肪・飽和脂肪酸・肉・乳製品であり、反対に発生を抑制する因子は野菜であるとしている。特に大豆中のイソフラボンが、男性ホルモンの活性の調整作用や抗癌作用を持つことが多数報告されている。疫学研究でも日本人のイソフラボン摂取量と血中濃度の高さが明らかにされ、大豆製品を日常的に摂る食事が前立腺癌リスクを低くしている可能性が示唆されている。このような事実があるのであれば今後はタバコを控え、大豆製品を意識し、精一杯生野菜を摂ることを彼に勧めたい。

 4)義姉の有棘細胞癌

     友人の病気見舞いのついでに福岡の兄宅へ途中下車し、久し振りに義姉に会って、不自然な歩行を見て愕然とした。義姉はパーキンソン氏病を患って以来、歩行困難な状態が既に数年続いていると言う事であった(平成24925日)。その年の師走に義姉は庭で転んで足を骨折し、二日市の済生会病院に入院した。義姉が入院したことで高齢の兄は一人暮らしとなり、ケースワーカーやヘルパー、町内会長に今後の生活に関していろいろ提案され、北海道に住む私に福岡に来てくれと電話があった。義姉の有棘細胞癌については前述した通りで、重複する点も多々あるが、ここに報告すべきと思ったのでご容赦願いたい。義姉の入院先の二日市済生会病院に見舞いに行くと、主治医に骨折よりも下腹部に紅色のしこりがあり、検査を受けるように言い聞かせてもらえないかと言われた。義姉は下腹部を医師に見せるのが恥ずかしいようで、少し痒いだけで心配ないと言っていた。どうにか皮膚科で診てもらい、有棘細胞癌の疑いがあると言う事で、生験と腫瘍の浸潤の深さや転移を調べるために胸部レントゲン、腹部の超音波、CT検査を行った。病期はⅢ期という診断で過去心臓病を患っており、手術に耐えられるか心配したが、年明けに6時間程かけて有棘細胞癌の手術を行った(平成25117日)。術前に、左リンパ節転移は確認していたが、右側鼠蹊部リンパ節転移が見られ、切除出来て肺や肝への転移は認められなかった。5年生存率は50~60%くらいであるが、義姉の場合、腎機能、心臓に問題がありシスプラチンやアドリアマイシンによる化学療法ができないので、1~2年外来で様子を見て、高橋皮膚科部長は、再発時点で治療方法を考えると言う事であった(平成2428日)。高橋先生は、癌センターで研修を積んできたオンコロジストで良い医師に出会えたと思った。3月に無事退院し、今後に問題を抱えつつも、不自由ながら住み慣れた自宅で老夫婦二人静かに暮らしている。

  5)多くの友人・知人の隠れ癌患者

    癌患者であることを知られたくないという心理、同情されたくないという思い、それぞれの考え方、死生観もあると思うが、今の時代、癌患者は、癌はありふれた病気であると認識して多くの情報を集め、専門医にざっくばらんに相談すべきではないかと私は思っている。私の周りには私が癌と知らせた事で、自分も実は癌の治療中であることを十数名の友人、知人より告白された。本当の自分の敵である癌の正体を見抜き、戦った上で天命を待つことが、残された家族にも良い精神状態で見送りしてもらえるのではないかと思っている。癌であることを表明して楽な気持ちで治療を受けましょう!

以上   3.へ  6.へ  トップへ