32稿 「癌と共に~CPT-11からXELOX療法へ~」 2015年7月2日

1.   CPT-113クール1投目、2投目

2.左尿管ステント留置術

3.京都での同窓会

4.2015年度の病気見舞

5.死生観

 

1.   CPT-113クール1投目、2投目

64日採血、消化器内科外来受診、主治医の小松医師は学会(ASCO:米国癌治療学会)出席の為、中積医師の代診となった。前日撮像したPET/CTの結果も届いており、画像で見ると水腎症により左に炎症がある事が確認されが、前回と同様に癌病変については変化なく、全体としては良い経過になっていると診断された。本日の血液検査の結果は白血球数6,000、好中球数3,894CPT-11を点滴するに問題なく、腎機能の指標である尿素窒素は正常値となり、血清クレアチニンも前回1.37から1.30に改善している。尿管にステントを入れ尿の通りを良くするために、10日に恵み野病院で手術する為入院する事を伝える。中積医師も、戸井医師同様に今のところ左腎は何とか機能していると思うが、ステントは入れた方がいいとの意見であった。腫瘍マーカーCA19-9が今回も前回に比べて332.9に増加したことに付いては、気になるところではあるが本日のCPT-11投与については問題なく実施できるので、詳しくは次回の外来で小松医師に相談してくれとの事であった。以上の結果を踏まえてCPT-113クール1投目の点滴静注は、外来治療センターにて常法通りCPT-11160㎎を点滴静注した。

527日胃カメラにて消化管の狭窄の程度をみたが、特に詰まっている箇所は無いと言う判断であったが、胃カメラが進入できる範囲には狭窄は認められないと言う事であり、私の実感としては奥の方が詰まっていると思うので、主治医小松医師と相談する事になる。

2投目は、618日採血、消化器内科外来受診時に、左水腎症による腎機能の低下や腫瘍マーカーCA-19-9の微増ながら右肩上がりの状況は、CPT-11の効果が認められないと主治医の小松医師は判断し、今回の外来治療センターでのCPT-11の点滴は中止となった。

CPT-11には大いに期待していただけに残念である。CPT-11投与にあたり、私にとっては重篤な下痢や白血球減少は認められず、投与量が少なすぎたのではないかと考え、せめて常用量の1割減でチャレンジ出来ないかと提案したが、3クール1投目までの効果を考え、左腎の炎症も改善されず、排尿痛も生じてきたことなどを考えてか、納得してもらえなかった。

今後の治療についてはXELOXoxaliplatincapecitabine)療法で行う事になった。この療法は通院治療出来、1クール3週間の治療を繰り返す。クールの1日目に北大でエルプラット(一般名:オキサリプラチン)を点滴し、その後2週間は自宅でゼローダ(一般名:カペシタビン)を服用して7日間休薬する。この治療法は本来大腸癌の治療法として用いられているが、本年3月にoxaliplatin2011年適応拡大されたcapecitabineと共に胃癌に使えるようになったので私の再発胃癌も薬価基準での治療が可能となった。XELOX療法の開始は629日からである。

 

2.  左尿管ステント留置術

528日近くの恵み野病院にて診察を受け、左の尿管が狭くなり左の腎盂が腫れて水腎症になっている。この事は北大でPET/CT撮像でも確認されていたが、北大泌尿器科の手術基準では手術対象にならないであろうと判断し、戸井医師の計らいで近くの恵み野病院で、排尿痛の改善と発熱予防の為に611日に左尿管ステント留置術を行う事になった。日頃より炎症が起こると発熱や左背中やわき腹の痛みの原因になっていた様である。その為、先ず、腰椎麻酔をかけ、尿道から膀胱に内視鏡を入れ、左の尿管に細いガイドウイアーを入れて、尿管ステントを留置する手順であったが、操作中、尿管の狭窄が予想した以上に狭く、抵抗がありステントの留置は断念した。全身麻酔でなく、局所の腰椎麻酔であったので、手術中、モニターで観察していたが、ガイドウイアー先端部が入って行かない事がわかり、少しがっかりしたが、それなりに腎臓の状況が把握できて、当面は右腎に働いてもらうしかないと理解し、CPT-11の効果が出て、あわよくば腎機能の回復も果たせればと思うことにした。それにしても医学は日々進歩しているというのに事前の画像診断でステントを留置出来るか出来ないかの判断がつかないで、手術して出来なかったと言う事では患者が痛い目を合うだけで医療費の無駄遣いというものである。排便については人工肛門(ストマ・パウチ)で対応しているし、この上、尿まで人工的に体にぶら下げる事は受け入れがたい思いがあり、人工尿の袋の体外留置は先送りすることにした。翌日、尿道のカテーテルを抜き、麻酔の影響も取れ腸管も正常に動き出したので退院させてもらった。

右腎臓が機能低下すると人工尿も受け入れないといけなくなると思うが、その時は癌の進行も進んでいるだろうし、覚悟しなければならないと思っている。

 

3.  京都での同窓会

1)事前準備

 6月6日~8日の23日に京都に行く事は、主治医、家庭医にも相談し、了解を得ていた。航空会社に薬剤・輸液点滴用のポートを左鎖骨下に留置し、注射針(金属)が常時留置してあるが、医師の診断書の事前提出の有無を確認した。旅客の申告で問題ない事を確認した。輸液セット(チューブ、シリンジ、消毒ガーゼ等)、抗生物質等は事前にホテルに送付し、出発当日にホテルに届いたことを電話で確認した。出発1週間前に39℃以上の発熱があり、体力も消耗するので京都行は断念しなければならないかと観念したが、今回が最後のチャンスと考えて、強い気持ちで経口的に食事もとり、輸液もキチンと点滴し、睡眠も十分に取るようにした。家庭医の戸井医師の懸命の治療で、その後は発熱も無く予定通り6日の午前の便にて飛び立つことが出来た。まさに苔の一念である。

2)友人との出会い

 ホテルには正午過ぎに着いた。体調を慮って、現在京都在住の片柳夫妻にはホテルに足を運んでもらい、2時間程雑談した。ご夫婦は東京、札幌で一緒に仕事をした仲間で2年振りの再会であった。彼が新入社員の頃から一緒に酒を飲んだり、釣りに行ったりした仲で、親子ほどの年の差はあったが、気心の知れた仲間であった。ご夫婦の会話の端々に仲の良さを感じられて、こちらまで幸せを分けて頂いたようで京都行の目的の一つを果たす事が出来た。残念なのは新千歳、伊丹、京都への移動で疲れて、外で一緒に食事が出来なかった事である。その事を彼は察してくれた様で京都で有名な卵サンドを持参してくれ、ホテルには失礼な事ではあったが、喫茶室で美味しく頂いた。又会えるといいなと念じつつ、夫妻とはホテルで別れた。

3時頃クラスメートの松元さん、藤城さんが喫茶室に入ってきた。やあ、やあと挨拶を交わした後、少しばかり雑談した後、部屋で休息を取り、5時に宝塚時代の山田夫妻、西岡さんと5人で昔話に花を咲かせながら夕食を共にした。私だけ別メニューで、焼酎とアユの塩焼でご相伴させてもらった。3時間弱の夕食であったが、病気の事はすっかり忘れて楽しい時間を過ごさせてもらった。部屋に戻り、ツインベッドの間にある絵画を外し、輸液をセットし、点滴しながら寝入ってしまった。翌日は抗生物質を30分かけて点滴し、8時に鹿児島から参加の馬場君、松元さん、春日井からの藤城さん、私ら5人で朝食をとった。朝食後3人は宇治の平等院を観に行くと言う事であったが、私達は部屋で英気を養う事にした。正午参加者30数名が集まり、20人は鞍馬山観光に、その他は自由行動であった。私は鞍馬山観光組で徳留君の車で連れて行ってもらった。頂上まで歩くつもりであったが、久木元君、有川君が休憩していたので、私一人が頑張るとみんなに気を遣わせるようで、みんなが帰るまでのんびり3人で世間話をしながら待たせてもらった。18時から同窓会、34名が近況報告し、2次会、3次会と続いたが、ベッドに横になって付き合せてもらった。

翌日の大原三千院は行きたかったが、無理をしないという家内との約束で、10時に鴨川沿いで記念撮影後、皆に別れの挨拶を交わし、「元気で、元気で、元気で来年会いましょう」と言われる度に感情が昂り堪え切れない気持ちになって・・・本当に心から心配してくれたり気遣ってくれたり、同級生って有難い・・・。

京都駅から伊丹までリムジンバスで・・・空港で出発まで2時間待ちであったが、ソファーで横になり体を休め無事帰宅出来た。京都行きの際、近所の小林さんに通いでロンの散歩、食事を頼んで出かけていたので、ペットホテルとは違いストレスも溜まらなかった様で普段通りの様子で私達を迎え入れてくれた。

 

4.2015年度の病気見舞

 昨年末24日から今年129日まで化膿性脊椎炎で入院していた為、多くの友人、知人に心配させてしまった。

1)病気見舞訪問客

(1)石川君来訪

会社時代の同僚で近所に住んでおり、暑気払い、忘年会等をセッティングして、定年後から一昨年の年末までかかさず参加させてもらっている。この一年は体調が優れず入院、自宅療養していたが、時々様子を見に来てくれていた。年末年始の入院が長引いたことで老水庵への投稿も遅れて、全国の仲間が心配していた様で私の病状を心配して彼に様子を見て来てくれるように依頼があったようで27日に自宅に来てくれた。それがきっかけで急ぎ原稿を書き纏めて1週間後に送付し、220日に第28稿が掲載された。やはり外からのプレッシャーは気になるものである。それから4か月、1ケ月に1稿程度と遅筆になったが、現在32稿目を纏めている。庵主には50稿を目指して「頑張れ!」と叱咤激励されている。期待に応えたいとは思っているが、果たして・・・。

(2)龍・順子夫婦来訪(210日~14日)

10日に3男の龍一郎と順子さんが見舞いに来てくれた。私の我儘で北海道に来たことで子供達に散財させている事が心苦しい昨今である。それでも一緒に食事したり、世間話をしたりすることで一時的ではあるが病気のことは忘れ、「いろいろとしてあげたい!」と思う。来てくれるだけで楽しいものである。龍(りょう)は仕事の関係で、13日に帰り、嫁は家内の手伝いをしてくれ、14日に帰って行った。少々寂しい思いもするが仕方ない事とである。

(3)門田君来訪(217日~18日)

函館経由で高校時代の友人が来てくれた。彼も患っているがとても行動的で、不自由な身でありながらとても前向きに土、日は釣りやゴルフを楽しんでいる。さらに、医師ゆえに離島に、近くの脳神経外科病院の院長として本業にも励み、機会あれば全国どこにでも旅行に行くし、彼はまさに私の日常行動の指標になっている。彼が出来るのだから私も出来ると考え、上京したり、京都へ行けた様なものである。函館から千歳まで、列車での移動中は中国人だらけで車両に日本人は彼一人だと言っていた。鹿児島の名産品というより私の好きそうな菓子、漬物、干物、インスタントラーメンなどの土産物を沢山持って来てくれた。食べ終わるのに4か月を要した。日常的には焼酎をもう何年送ってもらっており、いろんな芋焼酎の銘柄を味あわせてもらっている。わが家に泊まって欲しかったが、彼も夜中に頻繁にトイレに立つことも知っていたので近くのクラッセホテルに宿泊してもらった。楽しい一夜であった。

何とか体力を付けて、もう一度鹿児島の霧島の彼の家にいつもの様に23日で行きたいものである。今、一番の夢といえば私の陶芸作品を携えて行くことかな~。

(4)角、石川、佐藤、山本君来訪(313日)

何かの研究会のついでであろうか、部下4人とわが家に見舞いに来てくれた。私が定年退職してから10年を過ぎたと言うのに、有難いことである。家内の心づくしの料理と地場の新鮮な刺身、ビールで乾杯し、私は食べられないので焼酎を少し飲みながら、専ら聞き役である。会社医薬品事業の現状を聞かせてもらい、私の与太話も合間、合間に挟んで、あっというまに数時間が経ってしまった。いつまでも気遣ってもらい幸せな事である。

(5)角、関、関本、山本、茂呂、鈴木君来訪(621日)

医薬品札幌支店の恒例のバーベキュー大会の翌日、見舞いに来てくれた。東京から3人、札幌からの3人の構成で、いつもの様に家内の心づくしの料理とわが家の家庭菜園で取れた旬の野菜、地場の旬の魚でテーブルは溢れる程であった。癌患者である事を忘れるかのように私を盛り上げている様子を感じつつ、時の経つのを忘れていた。11時から15時まで4時間の宴会で少し疲れたせいか翌日は一日中休養した。

(6)啓子・志保来訪(624日~27日)

啓子は家内の妹、志保は啓子の長女で、夜10時新千歳着の為、グランドホテルに1泊して翌日930分に北広島駅で合流して由仁の農村レストラン「ラ・ターブル」で昼食を取った。私は陶芸クラブの14人と食事をし、家内と妹、姪は別のテーブルでの食事であった。私はコース料理にそれぞれ一口、手を付けるのがやっとで周りの陶芸仲間に気を遣わせてしまった。家内たちは満足した様で、私は陶芸仲間に一足先に別れを告げて、途中、毛蟹、刺身を購入して夜のメインのおかずにして二人を歓迎した。翌日は庭でバーベキューをしてビール、ホッケの干物、上等の牛肉、ラムを焼いて食べて、飲んで、しゃべって満足してもらった。私は相変わらず少ししか食べられなかったが、結構楽しんでいた。

(7)石井、北広島市マラソン(628日)

 エルフィン道路30kmの北海道マラソンの前哨戦に参加した帰りに立ち寄ってくれた。

相変わらず刺身と家内の手料理でのもてなしである。彼は私が50歳の頃、札幌に赴任してきた新入社員であった。手のかかる社員で上司と喧嘩する問題児ではあったが、正義感の強い男で、話を聞くと大抵は上司に非があった。その当時新入社員4名のリーダー、親分的存在で同僚の面倒見も良かった様に記憶している。現在は管理職になってバリバリ活躍しているとの事で何故かホッとしている私がいる。来年もまた見舞いに来ますと言うが、それまでこの世にいるかどうか・・・。頑張らないとな~!

2)病気見舞贈答品

 子供達からは母の日・父の日に、姉からは季節の折々に柑橘類や懐かしい鹿児島の食べ物、友人からは心温まる品々が送られてきた。

(1)       息子達からの贈り物

長男振一郎から、家内に定番の花、私には小学1年生の孫が選んだと言う横縞のシャツが送られてきた。孫が選んだ最初の贈り物で・・・成長したものである。次男正一郎は事前に電話で「何が欲しい?」と言ってきたので、照れもあって「気持ちだけで十分だ」と返事したが、私が30歳前後に愛用していたのを小さいながらに記憶していたのか、長袖のアーノルドパーマーの傘マークの刺繍の入ったワイシャツを送ってきた。また、家内のコーヒー好きを知ってスターバック社の袋入り3種類の珈琲が送られてきた。きっとこれは嫁・貴子さんのチョイスであろう。三男龍一郎からは家内に有名なステンレス製の使い勝手の良い片手鍋が送られてきて、「欲しかったのよ、柳宗理の鍋、高くて我慢していたのよ。きっと順子さんに話したことを覚えていてくれたのね」と言って大層喜んでいた。そういえばスプーンもフォークも紅茶セットも彼の作品と聞いていた。私には7分袖のシャツが送られてきた。四男健一郎からは棒タイ付のカリユシが送られてきた。今やクールビズで公的にも認知された正装になっているが、北海道ではどうだろう?家内には、母親の嗜好を良く承知しているらしく紅茶・マロングラッセ等の詰め合わせが送られてきた。子供達は、父親よりも母親とは日頃よりコミュニケーションが取れているらしくリーズナブルで母親が喜びそうな品物を良く理解している様である。やはり、母親と子供の結びつきは強い様である。いつあの世に逝っても安心というものである。

(2)      姉からの贈り物

いつも食べ物のことで心配してくれて私が食べやすいものを選んで、鹿児島のあくまきや団子、柑橘類のデコポン、タンカン、ポンカン、ネーブル、バンカン等一番美味しい時期に産地より直送してくれる。中学・高校時代の6年間、欠かさず弁当も作ってくれ、私にとって食事は姉の作ったものがおふくろの味である。家内の作ってくれる食事は母親の味がするが30歳前後に1ヶ月ほど鹿児島に4男の健一郎を連れて手伝いに行っていたので、その時母親に手ほどきしてもらったのかもしれない。魚の煮付けの味はおふくろの味そのものである。

(3)      友人からの贈り物

同級生の松元さんからお茶、徳留さんからマーマーレードジャム、門田君には焼酎、池田君には心温まる食べ物を頂いた。会社の1年先輩山岡さんは八丈島で釣った魚を自分でさばいて真空パックして送ってくれる。さすがに会社時代の釣り部の部長である。元気になって皆さんに手作りの何かを送って差し上げたいものだ。

 

5.死生観

 先日新幹線で焼身自殺をした71歳の男性については、新聞ではどのような人生を歩んできたのか知り様も無い。しかし、列車で焼身自殺した事に対しては、例え個人的にどんな事情・理由があったとしても許される事ではない。しかも71歳で先が見えた余生ではないか、富士山の裾野の青木が原に行けば誰にも知られずに誰にも迷惑もかけずに死ねる事を考えなかったのであろうか?毒物自殺を考えなかったのであろうか?飛び降り自殺を考えなかったのだろうか?同世代の男として甚だ残念でならない。それとも根っからの甘えん坊なのか、誰でもいいから自分の死を知ってもらいたいと言う事だったのだろうか、新幹線で焼身自殺は、今迄に例の無い事でマスコミが騒ぎ立てて、当分の間話題になって名を世間に知らしめることが出来ると思っての冷静かつ計画的な自殺だったのだろうか。ゆっくり自分の人生を振り返り、今までどのように生きて来たのか、これからどう生きて行こうか等、真剣にかんがえた事は無かったのだろうか。そして、全く無関係の女性を道連れにした事、約9万人の乗客に多大な迷惑をかけた事はもはや自殺ではなく前代未聞の犯罪である。9万人の乗客の中にも人生の岐路に立った人もいただろうに、同窓会に結婚式にといろんな事情を抱えて移動中の人もいたと思うと罪は深い。発作的な自殺ではなく、用意周到に準備された自殺であり、今後模倣犯が出ない事を祈るばかりである。とても嫌なニュースではあったが、昨今の世相の一面を反映していると言うか、明らかに個人の問題ではあるが、貧困や生活の先行き不安があったのかもしれない等、考えさせられる事件であった。

201572日    No.31へ   No.33へ