22稿 「癌と共に~改めて日本敗戦の経緯とアメリカという国を考えてみる~」 2014914

目 次

はじめに

1.   wPTX療法2クール2回目の点滴靜注

2.  アジア地域での日本の興亡

3.  帝国主義時代の欧米列強のアジアへの進出

4.  戦勝国日本の第一次世界大戦から敗戦国となった第二次世界大戦(太平洋戦争)へ

5.  アメリカと日本の150年の交流から考える

6.  日本、アメリカの過去・現在・未来

7.  今後の日本とアメリカとの関係

結 語

 

はじめに

 今月919日、私は満70歳の古希を迎える。戦後69年経過した事になる。日本は明治維新後、列強に対抗する為に急速に近代化を成し遂げ、ロシアの南下政策を阻止すべく、大陸に進出した。欧米列強国との本格的な戦争は、満州事変(1931年)勃発から第二次次世界大戦(1945年)終結までの54年間である。我々及び団塊の世代は日本国憲法の恩恵をもって戦後70年の長きに亘り、平和で幸せな時代を過ごしてきた。

 

1.   wPTX療法2クール2回目の点滴靜注

726日北大病院退院後、癌治療は北大、ケアは自宅として、札幌在宅クリニック・訪問看護ステーションそよ風(以下、そよ風)に訪問看護・治療をお願いしてから1ヶ月余りが過ぎた。821日のパクリタキセル2クール1回目の投与後から腸排液がイレウス管より出なくなり、ストマ(人工肛門)に排出し始めたので、北大小松主治医、そよ風戸井Drと相談の上で、825日に自宅で抜去してもらった。2m以上のチューブを曲りくねった腸管から引き抜くので、今まで経験した事の無い気持ち悪さであった。我慢の限界と、戸井Drに意思表示しようと思った時に終っていた。恐らく2分もかからなかったのであろう。身体的にも精神的にも身軽になり、家庭菜園の手入れや陶芸も何とか出来る様になり、家内や花摘看護師(以下、Ns)、戸井Drに感謝する毎日である。2回目の点滴による副作用は少し両膝関節の痛みがあったが、それ以外の症状は特に認められず平穏な1週間であった。願うべくはパクリタキセルの効果が持続し、腸管も詰まらず、今の生活が続けられる事である。28日は2クール2回目の点滴から、前回2000mlの輸液(以下、HPN)を1000ml仕様に替えてもらったので、リックに1000ml弱のHPNを入れての移動はとても楽であった。とにかく鼻から挿入のイレウス管が取れた事で他人の目を気にする事も無く、如何にも病人といった姿を世間に晒さずに済み精神的にもとても爽快である。北大で9時半に血液検査を済ませ、10時半の外来受診まで病院内のレストランでコーヒーを飲み10分前に消化器内科外来で待機していたが、代診の腫瘍グループ中積医師に呼ばれたのは2時間後の12時半であった。2時間座位を継続した経験はないので背中が痛くなり、手足のしびれもあって、何とか気を紛らわそうと、備付の癌関係冊子や手持ちの新聞を読み、病院の受付票を眺めながら過ごした。受付票に「wPTX②-2投目」という記号が目についた。私はこれまで勝手にウィークリー分割投与パクリタキセル療法「2クール2回目」と本稿に書いてきた。これからは病院の約束事に合せてwPTX②-2投目を「パクリタキセル2コース2投目」と書く事にする。時間がたっぷりあったので発見出来たと言える。細やかな時間の有効活用であった。診断は、パクリタキセル点滴実施条件である白血球数、好中球数は7900/4464と基準を満たしていたので外来治療センターでの点滴静注は可能であったが、ヘモグロビン値が7.0Lg/と胃全摘以来最低値になり、10.0 Lg/より下限値だったので、輸血を行うべきか否か中積医師は判断しかねていた。結果として13:00より、2コース2投目の点滴はパクリタキセルの副作用を防止する為のアレルギー予防・吐き気止めにデカドロン13.2㎎+ファモチジン20㎎+クロールトルメリン10㎎+グラニセトロンバック3㎎を30分かけて点滴静注し、AM13:30よりパクリタキセル120㎎(5%ブドウ糖液250ml)を1時間かけて14:30まで点滴静注し、常法通り実施された。腫瘍グループの福島医師、ソーシャルワーカーの奈良Ns,外来の富樫Ns,外来治療センターの顔見知りのNs等が、いつもの様に家庭医の戸井Drの報告書を見て、生の私に出会い、イレウス管が無く、目の充血も改善した姿を確認して、自分の事の様に喜んでくれた。取り敢えず2コース2投目は無事に終え、次回の3投目を行うにあたって、ヘモグロビン値が回復しない場合は、輸血をする事を考えなければならない様である。

輸血をする根拠は、私の場合、血液中の赤血球数231×10000(正常値;400557)、ヘマトクリット21.2%(正常値;38.950.7)、ヘモグロビン値は7.0Lg/正常値;13.417.6)と正常値よりかなり低い事で貧血と診断せざるを得ない。恐らくパクリタキセル由来の有害事象であると思われ、滴前には脈拍数80を超え、軽微な眩暈や倦怠感等も発現した。本日は3分粥、コーヒーゼリー、プリン、アイスコーヒーを味わった。詰まる事なくストマからは順調に排便出来ている。

 

2.  アジア地域での日本の興亡

原始、古代の46大文明を経て、中世期の西欧列国による大航海時代が始まり、各国は領土拡大を競い、列強間の戦いが始まり、北米、中米、南米、東南アジアにおける植民地化はほぼ終わりに近づいていた。そして最後の地域が東アジアの清(中国)、日本、朝鮮であった。清国は、イギリスによって阿片戦争(1842年)での敗北を契機に南京条約を結び、広州、福州、厦門、寧波を開港させられ、日本は、アメリカによって1854年にペリー来航を契機に下田、箱館で日米和親条約を結ばされ、下田、箱館を開港し、朝鮮は、日本によって江華島事件(1876年)を契機に日朝修好条約を結び、釜山、仁川、元山を開港させられ開国に至った。東アジア3国の中で最後に開国したのは李氏朝鮮で、日本より22年、宗主国の清より34年遅れての開国であった。

1)序 論

織田信長は天下を目前にして明智光秀に襲われ自刃した(1582年)。この頃の世界は大航海時代(14001600年前半)で西欧人が新航路、新大陸を発見し、西欧諸国では活発な植民地活動が起こり、政治、経済に重大な影響をもたらした時代であった。宣教師を通じて西欧の情勢に通じていた信長は、国内統一後は、当時、アフリカ東海岸にまで勢力を伸ばしていた明朝(13681644年)に目を向け、本気で領土拡大を考えていた。アジア大陸を植民地化しようと考えた最初の日本人であったと私は思う。秀吉は天下を統一した事で、尊敬する主君信長の夢であった明国(中国)進出を秀吉自身の領土的野心もあって、二度に亘って朝鮮出兵した。既に平定した日本国内には大名や家臣に分け与える領土は限界にきていた事も一因だったのだろう。しかし、秀吉の病没によって大陸進出は頓挫し、再び国内での覇権争いとなった。大陸進出は国策ではなく秀吉の独断・妄想であり、その結果、残ったものは各大名の経済的疲弊、未だに続く朝鮮人の恨みを買っただけで、何ら国益にもつながらなかった愚かで一方的な出兵であった。政権は徳川に移り、徳川幕府は、長期政権を維持する一策として19世紀末まで鎖国し、およそ250年間日本国内は平和な時代が続いた。

2)帝国主義を加速させた日清・日露戦争

1)清の列強国租界

 イギリス(18401842年)は、清朝の阿片禁輸措置から清国との阿片戦争(18401842年)で、清国に勝利し、香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波(ニンポー)、上海の開港、賠償金の支払い等約した。列強との不平等条約締結は、中国の半植民地化の起点となった。1842年南京条約によって上海を開港して以来、上海は外国資本の中国進出の拠点で、金融、貿易、商工業の中心地となった。

租界はイギリスが1845年に上海に創設した。日本も幕末開国時には東京、神奈川、大阪、兵庫、長崎、函館の6か所に居留地を認めていたが1899年に廃止した。国力の無い時に列強が各国と牽制しながら租界(居留地)を強引に許可させ利益を搾取する常套手段(政策)であった。租界とは、外国人がその居留地区の行政・警察を管理する組織、及びその地域である。

清には8か国27か所の租界があり、日本の関東州(大連)、ドイツの膠州湾(青島)、フランスの広州湾(湛江)の様な租借地は租借国の領土と変わらず、租借国が外国人だけでなく中国(清国の後は中華民国)人住民に対する裁判権も行使し、戦時には軍事基地ともなったが、租界では原則として中国住民に対する裁判権は中国側が行使し、中立を原則とし軍事基地として使用する事は出来なかった。又、租借地は無期限契約とされる場合が多かった。上海には、英・米(後に合併して共同租界)、仏、日本(正式なものでなく、あくまで自称である)があり、天津には、日本、英、仏、米、独、オーストリア、ベルギー、イタリア、漢口には、日、英、仏、独、ロシア、広州には、英、仏、鎮江には、英、九江には、英、厦門(アモイ)には、英、共同租界(鼓浪嶼)、杭州には、日、蘇州には、日、重慶には日の租界があった。租界は、第二次世界大戦中に廃止した。

2)日清戦争勃発

明治政府は、日本国内における1877年の西南戦争(明治政府と西郷薩摩の戦争)に勝利し、台湾出兵後、琉球王国を日本領(1879年)とした。国力も充実し、江華島事件以後、1894年の東学(儒教と仏教を折衷し、キリスト教を排斥した民族的宗教)の信徒を主体とし、反侵略・反封建の性格を持つ甲午農民戦争(東学党の乱)の鎮圧を名目として日清両国が出兵した清国国内の内戦であった。この内戦を契機に日清戦争が勃発すると日本軍は連戦連勝で、敗戦国清国は1895年清国と日本の間で下関条約を締結した。この戦争がもたらした国益は計り知れず、日本は、急速に国際間での発言権を強め、勝利による清国からの賠償金を元に国家としても金本位制に移行出来て、貿易も活発に行われる様になった。日清戦争での敗北は、東アジアの伝統的国際秩序であった冊封体制の終焉となった。清国の敗北で、欧米列強は「眠れる獅子」の実体・実力を知る事となり、その後列強は競って清国への侵略を進め、半ば清国は植民地の状態になった。清国分割に対し、出遅れる事になったアメリカは、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)後アジアへの関心を急速に深め1898年「門戸開放宣言」を発し、1899年には「領土保全」を提唱して、中国分割に加わった。日清戦争後の1899年、キリスト教及び列強の清国侵略に反抗し山東省で蜂起し、翌年の1900年に義和団は、北京に入城し外国の公使館区域を包囲した。清朝は、これを支持して各国に宣戦布告した。列国は日本(日)、ロシア(ロ)を主力とするイギリス(英)、アメリカ(米)、フランス(仏)、ドイツ(独)、オーストリア、イタリア(伊)8か国連合軍を組織、派遣して北京を占領し、公使館の包囲を解いて義和団と清国を破った(義和団の乱)。列強は1901年清朝と北京議定書を結び、これにより清は列強に賠償金45千万両(テール)を支払い、外国軍隊の北京駐留を認めさせられた。

「清国の消滅」

19111010日に辛亥革命(清朝を倒した中国の民主主義革命)が勃発し、1912年孫文を臨時大総統に据え、共和制を宣言し中華民国(中国)が建国された。中華民国の革命勢力は弱く、間もなく北洋軍閥の袁世凱が清朝最後の皇帝溥儀を退位させ中華民国の大総統となり、1912212日清朝は滅亡した。

3)日露戦争勃発

露の南下政策から日本本国を守る為の防衛戦争で、日本は、高橋是清が英・米の資本家に日本国債の購入を依頼して回り、戦争の原資を獲得しての国家存亡の戦いであった。結果として日本の勝利に終わったが、事実は日露共に国内事情が戦争継続を困難にし、米セオドア・ルーズベルトの仲介の下、ポーツマス条約が締結(1905年)された。日本の韓国における権益の確認、関東州の租借権及び長春・旅順間の鉄道の譲渡、樺太南端の割譲などを日本は得たが、露からの賠償金は得られず、戦勝国としてのメリットは無く、国内では日比谷焼打ち事件の暴動が起った。1908年高平・ルート協定が締結され、日本の満州、朝鮮支配とアメリカによるフィリピン、ハワイ支配を相互に承認した。1909年アメリカは鉄道中立化案を日露に提案したがポーツマス条約で南満州鉄道を日米共同経営が桂・ハリマン協定で約束されていたが、日、露の反対で提案は流れた。アメリカは、講和を仲介する事で中国での権益を期待していたが、これ以降、反日感情を強くしていった。その後、日本は、朝鮮半島への支配を強化していき、1910年に韓国を併合した。

 

3.帝国主義時代の欧米列強のアジアへの進出

帝国主義は、西欧列強による領土分割を特徴とする軍事上、経済上他国又は後進の民族を征服して大国家を建設しようとする大航海時代から続く海賊的国家政策に基いた国益優先の考え方である。植民地は列強各国の本国にとって原料供給地、商品市場、資本輸出地をなし、政治上も主権を有しない完全な属領の事である。

 西欧諸国は1600年代初めに東洋貿易の為に東インド会社を設立した。イギリスは1600年、オランダは1602年、フランスは1604年に香料等を輸入する為に設立する一方で、商権拡大の為に植民地経営にも従事していた。イギリスはインドを征服し、1800年初めには東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港を植民地とした(香港は、それから約200年後の1997年に中華人民共和国に返還された)。大英帝国と呼ばれた全盛期のイギリスは、当時、世界史上最大の帝国であり、唯一の超大国の地位にあった。第一次、第二次世界大戦の間もアメリカと共に超大国であったが、戦後の冷戦期はアメリカ、ソ連が超大国になった。フランスは、イギリス、オランダに続いて東南アジアに参入し、1893年の仏泰戦争(フランスとタイの戦争)でタイを圧倒すると1904年に保護国化し、仏領インドシナを完成させた。ロシアは領土拡大の為、東方に進出すべく1855年日露和親条約・1858年日露修好通商条約を締結し、得撫島(ウルップ)以北をロシア領とし、樺太は日露雑居という形にし、明治時代になって樺太・千島交換条約を結び千島列島は日本領に編入され、樺太はロシア領に編入される事になった。又、1858年にアイグ条約を締結し、黒竜江を露・清国間の国境と定め、ウスリー川東の沿海州を共同管理とし、1860年の北京条約で沿海州をロシア領に編入し、ウラジオストックを建設した。

ロシアは、イギリスがボーア戦争に戦力を割かれていた事から、中国東北部から朝鮮半島への勢力拡大を虎視眈々と狙える状況にあった。日本は単独でロシアの南下政策を防ぐ事は出来ず、対ロシアで利害の一致するイギリスと日英同盟(1902年)を締結した。その後、仁川沖海戦(190429日)で日露戦争開戦の火ぶたが切られた。

 

4.戦勝国日本の第一次世界大戦から敗戦国となった第二次世界大戦(太平洋戦争)へ

1)第一次世界大戦での日本

 三国同盟(独、墺、伊)と三国協商(英、仏、露)との対立を背景として起こった世界的規模の大戦争で、サラエボ事件を導火線として19147月オーストリアはセルビアに宣戦し、セルビアを後援するロシアに対抗して、ドイツは、露、仏、英と相次いで開戦し、同盟側(トルコ、ブルガリアが参加)と協商側(同盟を脱退したイタリアのほかベルギー、日本、アメリカ、中国などが参加)との国際戦争に拡大していった。この戦争に日本は、あらゆる軍事物資をヨーロッパに輸出し、著しく富国強兵となり、世界でも有数な経済大国となった。戦後設立された国際連盟では常任理事国になり、大きな発言権を持ち、事務局次長には新渡戸稲造氏が就任していた。この時の日本は、国際感覚にも優れ、外交手腕もあり、自国の実力も客観的に把握していた。政界、経済界、軍人にも人材が数多く輩出し、堂々たる先進国であった。

最後まで頑強に戦ったドイツも191811月に降伏し1919年ベルサイユ条約によって講和が成立し戦争は終結した。

戦争終結後は、アメリカ大統領ウイルソンの主唱により、ベルサイユ条約の規定に従って19201月に成立した世界平和の確保と国際協力の促進を目的として、50数カ国が加盟して国際連盟が発足した。この時、首唱したアメリカは不参加で、日本は19333月に満州事変が原因となり脱退した。ドイツ、イタリアも日本に倣い、一旦加入したロシアもフィンランドとの戦争で除名され、有名無実の国際連盟となった。

2)満州事変から第二次世界大戦へ、

1)日本陸軍の陰謀による満州事変

 柳条湖事件は満州事変の発端となった事件であり、1931918日夜、関東軍は参謀石原莞爾中佐らの謀略計画により、奉天(今の瀋陽)北方の柳条湖で満州鉄道の線路を爆破し、中国軍の仕業と偽り、攻撃を開始した事変であり、忌まわしい15年戦争である第二次世界大戦への入り口となった。1932年に日本は満州国を樹立し、華北分離工作を経て、日清戦争へ展開していった。しかし満州事変は関東軍の陰謀によって引き起こされた事変である事をイギリスのリットンは、1932年、国際連盟調査団長として満州事変に関する報告書を作成し、満州国を否認した。日本は後に禍根を残す事になった。

日本の北京駐留軍が193777日夜、盧溝橋付近で演習中の日本軍が何者かによって攻撃を受け、これを不法として8日早暁中国軍を攻撃し、両軍の交戦(盧溝橋事件)に至った。

2)第二次世界大戦から太平洋戦争へ

後進資本主義国である枢軸国、日本、独、伊3国と連合国、米、英、仏、ソなどの間に起こった全世界的規模の大戦争である。19399月ドイツのポーランド侵入、英、仏の対独宣戦により開戦となり、ドイツ軍は一時欧州諸国を席巻し、19406月にはパリを占領、1941年には独ソ不可侵条約を破ってポーランド東部・ウクライナ地方に侵入、独ソ戦争が勃発した。一方194112月、日本の対米宣戦で太平洋戦争が起こり、戦域は全世界に拡大していった。1942年夏以降、連合軍は総反撃に転じ1943年にはスターリングラードにおけるドイツ軍の全滅、英、米連合軍の上陸によるイタリアの降伏、19455月米、英、ソ軍のベルリン占領によるドイツの降伏、8月には原爆投下とソ連の参戦により、日本の無条件降伏となり第二次世界大戦は終了した。

ルーズベルトのシナリオ通りに真珠湾攻撃をし、結局、アメリカ人を「リメンバー、パールハーバー!」というフレーズで一致団結させ、日本の得意な精神主義でもこの時負けていた。アメリカは軍艦や飛行機等、豊富な資源、資金で次々に生産・補給していた。この事を当時、日本の海軍は熟知していたのである。反して日本は無い無いずくしで拡大した戦地への補給が窮屈な状況になっていた。戦争自体が巨艦主義から飛行機の時代になっていたにも関わらず、資源も無い事も承知の上で、戦闘機生産を軽視し、無駄な戦艦大和や武蔵を作ってしまった。艦長らは無駄と分かっていながら軍人の宿命とはいえ、大和ホテル、武蔵旅館と揶揄されながらパーティ、飲食に明け暮れ、係留地で大本営の出陣命令を待っていた。質の高い組織の維持・発展に疎かった大本営は最大の戦争責任者であった。

船も飛行機も沈んだり、落とされたりすれば再生産・補給出来ない日本、彼我の戦力差はどうにもならない事はトップにある関係者には分かっていたはずである。外交力があれば、もっと人命の大切さを分かっていれば、国民の生命や財産を守ると言う基本的な考えを持っていれば、戦争を外交努力で早期終結出来たはずである。

3)敗戦後の日本

日本の敗戦は、1933年満州問題で国際連盟を脱退し、この事が日本の分岐点となり、12年後の日本の第二次世界大戦(太平洋戦争)の惨めな敗戦が運命付けられていた。何故ならば、軍関係者、政治家もそうだったのかも知れないが、明治以降の日清・日露戦争からの連戦連勝を実力と錯覚した様で、資源のある無しの問題、軍事力の彼我の比較、戦争する為の戦費の継続性、欧米列強国との友好関係の維持、外交による戦争回避をどう考え、どう正しく評価するかと言う基本的な考えが欠如し、アジアの盟主気取りで、列強と戦いを始めたのである。たちまち戦費は尽き、エネルギーの補給は絶たれ、その補給路を確保するだけの戦線拡大にはしり、数百万の将来を担うべき若者を死なせてしまった。この戦争での死者数は、日本軍人230万人、アメリカ人は約40万5399人の戦死者を出した。その他、日本領であった台湾軍人、周辺国の中国人、インド人、ベトナム人、インドネシア人、フィリピン人、ビルマ人、シンガポール人、モルジブ人、ニュージーランド人、オーストラリア人、一般人の戦死者をだし、太平洋戦争だけで2441万人が死んでいるのである。それでも人類は未曽有の死者を出した第一次・二次世界大戦を忘れ、これからも戦争をするのだろうか?

多くの若者の犠牲の上に、奇跡的な戦後復興、繁栄があったにもかかわらず、70年前の敗戦という戦争後遺症は未だに近隣国との摩擦、北朝鮮による拉致問題、米軍基地等々残っており、右往左往している始末である。戦後の東京裁判の在り方は、連合国側の一方的且つ不公平な裁判であったと今になって言う学者や浅薄な知識の政治家、文化人?がいる。今更であるが、東京裁判で絞首刑になった人の中にきちんと日本人に対して責任を取るべき立場にあった人がいたのかもしれない、あるいはそうでない人もいたのかもしれない。

しかし、日本は無条件降伏し、不承不承でも裁判の結果を認めてしまったのである。繰り言は潔くやめ、受け入れた事は潔く認めて、そこからどうすべきかと言う前向きな対応をすべきである。国家が存続出来た事だけで十分と考える事が日本人らしい潔さであると私は思っている。子供たちの未来を考えると、帝国主義を標榜する侵略国家は、負けて良かったのである

今日また地球上の東西で戦争・紛争が始まっているが、日本は過去に多くの苦い経験をした国として、多くの教訓を得た国家として、70年の長きに亘り平和国家であった事実を国際社会にアピールして、平和国家日本の使命として戦争を回避させるべく政府、外務省に担ってもらい、日本しか出来ない国際貢献として、外交力を発揮してもらいたい。その為には歴史認識に欠け、我が身が公僕である事を忘れた単に私利私欲にだけに走る一部の政治家は主権者たる国民がもっと政治に関心を示して選出しない事である。その為には現在の選挙制度を国民はきちんと理解し、特に人生・社会経験豊かな高齢者3000万人が選挙に(投票)行く事である。上級試験に合格し、社会経験の希薄な若者を登用し、省益と個人的な繁栄しか考えられない官僚に育てあげた事を反省し、真に国家観を持ち、国の現在、将来を考えられる人材を登用出来る仕組みを考え、20年、30年後には真に有能な人材(新渡戸稲造の様に世界の首脳に尊敬された人)を国際社会に送り出して世界平和に貢献して欲しい。

 

5.  アメリカと日本の150年の交流から考える

アメリカの19世紀は、領土拡大と国力の充実の為に注がれた世紀であった。アメリカが諸外国と本格的に事を構えたのは1846年から1848年の米墨戦争(アメリカとメキシコの戦争)のみである。次は1898年の米西戦争(アメリカとスペインの戦争)という事になる。先住民族は殲滅されるか、居留地に押し込められるか、白人との同化を選ぶかの選択を余儀なくされた。1889年、南北アメリカの盟主となったアメリカは、1898年にハワイを併合し、同じ年に起こった米西戦争(1898年)でプエルトルコ、グアム、フィリピンを支配下に治め、キューバを保護国とした。アメリカによる新帝国主義の始まりだった。

1)アメリカの日本観

敗戦を自覚していたにもかかわらず、大本営が立案した戦略は、最期の一兵まで戦うという日本独特の精神論で、玉砕とか神風特攻隊、回転魚雷とか竹やり訓練とか、およそ勝利とは程遠い戦略であった。国家のメンツを履き違えた軍人特に陸軍軍人の愚かなメンツであり、国際社会には理解しがたい敗戦前の姿であった。この戦略を実行した日本国・日本人の底知れない怖さが直接戦ったアメリカの国、アメリカ人の心の奥底に「日本は怖い国である」と焼き付けてしまった様である。太平洋戦争末期は、大砲と竹やりの戦争であったにもかかわらずアメリカは40万5千人以上の戦死者を出し、現在の日本が再軍備する怖さを実感しており、その事も基地返還に繋がらない要員の一つになっているのかもしれない。

そして、戦前の日本と違い今の日本は経済力もあり科学技術も優れており、諸々の研究基盤も世界水準を超えておりアメリカと同等、それ以上の力を発揮するのではないかと恐れている様であり、出来るだけ国際舞台での活躍を牽制している様に思われる。国連の常任理事国に立候補してもアメリカは賛成しかねると言う態度で、これからも弟分のいう立場を願っているのではないかと思われて仕方がない。常任理事国については、中国、ロシアが拒否権を行使するので今の所問題ないが、もし賛成するとアメリカはどういう態度に出るのだろう。国益優先のアメリカの事であるから戦前の様にあらゆる手を使って日本潰しにかかるだろうと思っている。

 

6.日本、アメリカの過去・現在・未来

1)アメリカの戦前・戦後の日本観(過去)

日本人はアメリカが好きである。何故だろう。誰もその事を掘り下げて考えた事はないと思い、過去、現在、未来に分けて、日本に対する真実のアメリカという国の姿を考えてみたい。書く前から言い訳になるがどうもジジーの戯言になりそうで気が重いが…

アメリカとの150年の交流を考えると、どうしても中国の事が気になり、約1800年に及ぶ交流を蛇足とは思うが、考えてみたい。

中国との関わりは200年代から始まっている。歴史の授業で漢倭奴国王と刻まれた倭奴国王印が志賀島(福岡県)で発見された事を学んだ。239年には卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」と刻まれた金印と銅鏡を授かっている。およそ1800年前の話しである。607年には遣隋使として小野妹子らを計5回、630年には犬上御田鍬らを遣唐使として派遣しており、唐からは高表仁が来朝し、冊封関係を要求されたが大和朝廷は拒否している。この時代に既に中国と言う国は中華思想の下、全ての周辺地域は自国の支配下にあると思っていた様である。608年には遣隋使として派遣された人々が632年から640年に帰国し、僧旻、高玄理は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)の政治顧問として645年から古代政治史上の大改革である「大化の改新」を行い中央集権国家成立の出発点時に貢献した。701年から唐との交流が再開され、唐への朝貢を続け、「日本」という国号が認められ、大宝律令が完成し日本の律令国家体制が確立していった。ちなみに平城京は唐の長安をモデルにして整備され、遣唐使であった阿倍仲麻呂らが唐の文化を総合的に学んで来た。753年に鑑真らが遣唐使船で来朝し、天平文化が花開き、804年には最澄、空海が帰国し日本的な仏教の基礎を作り上げた。960年、北宋と朝廷は大宰府を通して限定的な交流を続け、博多、敦賀で密貿易が行われた。1156年の保元の乱、1169年の平治の乱で平氏が台頭し日宋貿易を推進、1274年、1279年にはモンゴル帝国が高麗を通して日本に服属を求めた元寇の襲来があった。

1404年足利義満は明の永楽帝により日本国王として冊封し、永楽帝に評価され日本人で外国から諡号を贈られたのは義満が最初で最後である。室町幕府は明皇帝に対し朝貢する形式で日明貿易を限定的に開始した。

このように日本と中国はおよそ1800年の交流があり、特に古代、中世期の中国には、日本建国の為の多くの恩恵を受けている。それに反して日本は戦後中華民国の復興に貢献はしてきたが、未だ恩恵を受けた事の方が多いように思われる。確かに、今日の日中関係を見ると、中国が中華思想を改め国際協調の出来る新しい国にならない限り、日本との関係は今後とも改善の見込みは甚だ薄い様に思える。日常を考えても、隣人と不仲であると毎日が気鬱なものである。日本は中国のみならず韓国、ロシアとも微妙な関係にあり、知恵を出して何とか気持ちの良い隣人関係を構築したいものである。ここでも島国の常識かわからないが、地続きでない国土からくる安心感か、何とかなるだろう、誰かが何とかしてくれるだろうと高をくくっている様にしか思えない。問題解決の先送りは日本人の国民性かと思わされる。

2)敗戦後の日本に対するアメリカの対応

 戦後はGHQが日本を支配し、当時飢えていた日本人の大多数は、飢餓から救ってくれた援助物資を有難がり、アメリカを偉い国と思う様になった。日本人はアメリカに対して恨む事など無く、日本人の潔さ、良いものは良いと認める心の柔軟性が戦後の親米路線を招いた。とにかく日本国民は長い戦争に倦み、食べる事が最重要な課題だった様に思える。もし戦後GHQが日本を統治しなかったら、日本はどうなっていたかと考えてみる。三国同盟のドイツの戦後処理は第二次世界大戦末期の19452月、米・英・ソ3国の最高指導者ルーズべルト・チャーチル・スターリンでドイツの敗北が決定的となった情勢下で降伏後のドイツの管理、国際連合の召集等について協定がなされた。日本の敗戦は1945726日、ポツダムにおいて米・中・英(ソ連は後に参加)が日本に対して発した共同宣言で戦争は終結し、日本の降伏条件と戦後の対日処理方針とを定めたもので、軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の厳罰、連合国による占領、日本領土の局限(範囲を限る)、日本の徹底的民主化などを規定した。講和の条件は、領土の割譲・賠償支払いを取り決めるのが普通であり、米(GHQ)は事実上「日本占領米軍総司令部」でアメリカが単独で日本占領施策を取り仕切ったのが幸いし、ソ連の北海道占領を阻止してくれた。その大きな理由は日本の共産化を望まなかった事にあろう。更に賠償支払いも米主導で連合国は免除した。GHQが占領しなければ北海道はソ連、本州、四国は米、九州・沖縄は英の統治下となっていたかもしれない。同時に中国も日本領土の割譲を求めたかもしれない。多くの日本人が死に、世界初の原爆も落とされ無条件降伏に至らしめたアメリカに助けられたという皮肉、日本にとって第二次世界大戦という戦争を如何に理解・解釈すればいいのだろう。アメリカのシナリオ通りに動かされ、アメリカの思う通りの戦後が現在に引き続いているとしか思われないのだが。前文にも書いたが、アメリカが日本に対して行った行動とアメリカの本質を窺い知る事柄を箇条書きにする。

・先住民族は、居留地に押しこめるか、殲滅戦争によって根絶やしにするか、白人との同化を選ぶかの選択を余儀なくされた。人権を表にかざしながら非情なまでの残酷さである。

・招いてもいないのに突然、黒船で威圧し幕府に開国を迫った。

・南満州鉄道の日米共同経営を露日に断られ(日本は共同経営を了解していた)、日本にだけ反日感情を強くしていった。

・日本の満州、朝鮮支配とアメリカによるフィリピン、ハワイ支配を相互に承認したが、中国本土に食指を動かしていたアメリカは真から納得はしていなかった。

・パリ講和会議(19192月)で日本代表は、人種差別撤廃提案を行い過半数の賛成を得たが、ウイルソンが全会一致による採択を突然採用した為に否決された。

・アメリカは山東省、赤道以北のドイツ領南洋諸島の委任統治国を日本に決定され、ワシントン会議(1921年)にて、日米を含む9か国で4カ国条約、9カ国条約を締結し、1923年日英同盟を解消させた。日本を追い込む戦略を開始した。

1937年日中戦争は更に日米関係を悪化させ、フランクリン・ルーズべルトは日本を侵略国と非難した。日清戦争で得た日本の勝利、賠償金の獲得にも快く思わず敵対視した。

・日本軍の重慶爆撃で多くの婦女子を含む民間人が死傷した事を理由に当事国ではないアメリカのルーズべルトは、「中国人に成り代わって日本人に思い知らせてやる」と言い、それをトルーマンが引き継いで、理不尽にも敗戦間近に広島、長崎へ原爆投下し、更に都市にも爆撃し、多くの民間人の婦女子を含む死傷者を出した。

・一方的に日米通商航海条約の破棄を通告(1938年)、翌年日米は開国以前の無条約時代に突入した。

これらの事実から分かる様にアメリカは、こと国益が絡んでくると現在の中国と同様に反日になり、あらゆる手段を講じ潰しにかかる理不尽な怖い国である。アメリカは自国の国益の為には日本に対して一片の同情も友好性をも示さない国であった。ここに国としての本質を感じるので、この事を胸に秘め、ただアメリカというだけで盲信する事無く、一歩引いて冷静な交渉をアメリカとも今後はする必要があると考えるのである。

3)安保条約下のアメリカと日本の関係(現在)

 2011年、東日本大震災で在日米軍各部隊は、トモダチ作戦を展開し、救助・復興支援で福島第一原子力発電所事故に対応し430日までにほぼ終了した。現在、在日米軍は約45千人、家族を含めると約95千人駐留している。

我々は日本国内の米軍基地と言えば沖縄県を思い浮かべるが、実際は日本国中に米軍基地は存在している。基地の在り様は、在日米軍専用基地、日米共同使用の基地、在日米軍が一時的に利用可能な施設といった形で存在している。米軍或いは日米共同施設は13都道県に在り、沖縄がダントツの面積(229,245千㎡)を有しており、2位の面積(23,743千㎡)を有する青森県の10倍となっている。3つの形態で考えると日本国内に米軍が利用出来る基地は29都道府県に存在し、土地面積で言うと北海道が基地面積の33%にあたり344,601千㎡、沖縄県が22%にあたる232,933千㎡と2か所に集中している。米軍専用施設に限れば、その74%は沖縄県に集中する一方で、四国、近畿、中京、日本海側には殆ど置かれていない。最近になって近畿初として京都府の日本海側の丹後に米軍専用のレーダー基地を新たに整備しつつある。又、関東圏では東京都の首都中枢を取り囲むように設置されているが、陸上戦力はほぼ皆無である。日本国領土の305k㎡(0.08%)が在日米軍専用及び日米共同使用の基地であり、在日米軍が一時的に利用可能な施設を入れると1,027 k㎡(0.27%)となり、これで独立国と言えるのであろうか。特に在沖縄米軍基地は全国に所在する米軍基地面積の23.5%に相当し、北海道の34.1%に次いで大きな面積を占めている。

もっと分かり易く言うと東京都の総面積に対して、米専用基地・日米共有基地・一次利用可能基地の占める面積は1.54%であり、日本全国の基地面積は東京都の面積の約半分を占有していると言えば、その広さを実感できるだろう。

4)アメリカとどう付き合うべきか(未来)

戦後70年、未だに日本国内には北海道から沖縄まで米軍基地が存在している。基地を縮小し、全てを日本に返すと言った具体的な動きも無く、むしろオスプレイの配備やレーダー基地の新設等、対中国を意識した基地の再構築に移っている様に感じる。GHQは、アメリカ本国の意を受けてか否か定かでないが、理想的とも思われる平和憲法をわが国に導入した。マッカーサーの一存なのか、本国がソ連を意識して、日本が朝鮮をロシアからの侵略を阻止するための橋頭保とした如く、太平洋の最前線基地としての価値を見出した結果なのかわからないが、実際70年間平和であったと言う事実・実績は疑い様無い。只、冷戦は終わり日本に米軍基地を置く必要性はないと考えるが、相変わらず基地は返還される事無く継続している。そして、今度は中国の海洋進出である。ロシアも北方4島を足掛かりに太平洋への進出を画策している。アメリカ自体の国力が沈下した現状で日本は同盟国として友好国として憲法を拡大解釈して集団的自衛権の行使という他国の戦争に関与出来る環境を整えつつある。とても難しい局面を迎えつつある様である。

 

7.今後の日本とアメリカとの関係

1)現行の日本国憲法を引き続き国法とする。

少なくとも戦後70年間日本は何処の国とも戦争する事無く、ただの一人の戦死者も出していない。戦後、日本は戦前の帝国主義から平和国家に変貌した事を、初の核被爆国である事を、70年間戦争も紛争も無く、多大な国際貢献も行ってきている事を国際社会は認識した。特に開発途上国や新興国は、歴史的に列強国に植民地化され、搾取の被害を蒙った国々は、東方の小国であった日本が過去に白人の欧米列強と戦果を交え勝利した事も知っており、信頼のおける誇り高い国家として尊敬の念さえもっていた。しかし、昨今の日本政府の国際感覚の無さが、隣国との軋轢につながり、中国(韓国)等は、国際社会に向けた自分本位な歴史認識によるプロパガンダにより、真実の歴史が歪曲されて各国に理解、指示され始めた。安部首相は精力的に海外首脳に会い、経済援助や中国囲い込みに懸命であるが、今一つ今後の日本が進むべき方向性とは異なる気がしてならない。

私は日本国憲法を改正する事無く、維持発展させるべきであると考えている。先ず、現行法を何故改正する必要があるのかと言う点である。何故、70年間の長きに亘って戦争をせずに今日まで平和に来られたのか検証する必要がある。

1)米軍基地が敵対する隣国への抑止力になっていた。

冷戦構造が崩壊し、アメリカが最大の軍事国家となり紛争地域に派兵し、平和維持に努めていた事も隣国には抑止力になっていた。

2)日本は、軍隊を持たない国(法律上)として、国連の平和維持軍としての参加も拒否出来る立場であったが、無理な法解釈の下で、膨大な戦費を供出し、後方支援すると言う理由で派兵もしてきたが、運よく戦闘に巻き込まれる事は無かった。

3)日本国憲法を批判する国は見当たらない。むしろ今回の集団的自衛権の行使につい

ては、戦前の帝国主義時代を想起するとの懸念の声が聴かれる。

4)アルゼンチン人は、600年前後に既に東方の小国日本に聖徳太子が憲法十七条を制定していた事に、驚きと尊敬の念で今でも熱烈な親日国である。アルゼンチンが日露戦争時に巡洋艦日清、春日を提供し、敗戦後も連合国に属していたにもかかわらず、大量の小麦粉を日本まで運んで提供してくれた。

…基地返還を阻む風潮もある…

1)若い世代にとって戦争は既に遠い過去の話として風化しつつあり、基地問題を容認する国民も増えてきた。中国の領土拡大政策とも相まって、基地問題はアメリカに乗じられている。

2)アメリカの国際社会に対する影響力の低下が、中国、ロシアの台頭、アジア、中近東の不安定につながり、日本の集団的自衛権行使への移行にアメリカは期待を寄せている危険な状況になりつつある。

2)国家としての日本は今後如何に在るべきか。

 まず「専守防衛」と言う国を守る考え方を考え直す必要がある。日本の予算でアメリカの基地を維持すると言う考え方、他国の侵略に対して直接対峙するのは自衛隊でなくアメリカ軍が戦うといった不自然さを再考しなければならない。自国は自国民で守ると言う誰が考えても分かる形にする事である。それには国民の理解が不可欠である。

1)安全保障条約の考え方

  一方的にアメリカに守ってもらうのではなく、同盟国として対等の立場で役割分担する。

2)基地の撤退・一部の憲法改正

  将来的(例えば10年以内)に他国からの侵略には自衛隊独自で対応する。米軍基地は撤退する。専守防衛の文言は、国際社会(国連193か国)の理解を得ながら、例えば「領土不法侵入の敵は国際法に照らし、即時拿捕、場合によっては殲滅する」と改正する。領土防衛力の増強と兵器の強力化、日本の領土内に限り、同盟国(アメリカ)への他国の攻撃には自衛隊が即刻出撃する。

3)海上自衛隊、航空自衛隊の増強。

  日本は四方海に囲まれた国土と多くの島も領有している。その為国境線が広く現実的には他国の侵入に十分対応出来ていない。海上自衛隊員は2014331日現在45,517人、航空自衛隊員は47,097人で、それに比べ陸上自衛隊員は151,061人である。海上自衛隊員、航空自衛隊員は大幅に増やし、陸上自衛隊員は大幅に減員する。

4)他国への抑止力アピール、日本の領土には踏み込めないと思わせ得る防衛能力の拡大

  海上自衛隊は、原潜、イージス艦を増やし、抑止力を高め、航空自衛隊は高性能戦闘機を配置し、スクランブル体制を充実する。戦闘機の領空侵犯は国際法に則り、対応するが、状況によっては躊躇する事無く撃墜する。陸上自衛隊は、敵国の本土・島への上陸を阻止するハイテク高性能戦車、等を増強する。

3)国際社会への宣言

 「日本国憲法は今後とも踏襲していく」日本の戦後処理に賠償金の請求を放棄し、領土割譲の要求もしなかった英、仏、露、中等の連合国の寛大な措置、戦後処理、敗戦後の日本の復興に尽くしてくれたアメリカに感謝の念を示し、平和憲法を下に今まで以上の国際貢献を行っていく。当然抑止力にしか使えない核兵器の廃絶や人類の制御不能な原発の廃炉も視野に入れ、唯一の核被爆国として国際社会に啓蒙していく。日本国憲法は連合国が戦争のない平和な国際社会を創る為に、戦争終結時に二度と戦争をしない為の実験的な憲法として、アメリカが連合国の代表として起草し、制定、施行した法律である。それは戦後70年、平和国家として実証されてきた。今後とも日本国憲法の下、平和維持の為の国連軍としての派兵は法律上出来ないが、別の役割・責任分担として日本は戦争・災害当事国の復興の手伝いや経済支援をもって対応する。米軍基地は日限を設けて、日本が防衛の為の法整備が出来、軍事力の整備が出来た時点で撤退してもらい、その後は対等な同盟国として協力関係を築き上げていく。恐らくアメリカは自国の本土防衛を胸の内に置き、撤退に難色を示すだろうが、連合国及びアメリカ草案の日本国憲法を更に発展させるという日本の建設的な提案に対して日本を真のパートナーと信じるならば、戦前の野心的なアメリカと違い、70年間交流してきた今のアメリカであれば妥協点を見いだす努力をしてくれるであろう。国際社会に対する手前、基地撤退の打開策及び可能性はあると思っている。

4)日本国憲法を正々堂々と継続維持していく考え方

 国連での敵国条例を撤廃させ、国連の常任理事国に立候補し、唯一の核被爆国として世界平和の推進役になる。中国とは1800年に亘る交流を下に、歴史認識の摺合せを行うべくお互い真摯に向き合い意見交換する。例えば日清戦争は、富強を目指す国同士の戦いで、領土のやり取りは当時としては当たり前の事で、決して日本の中国侵略と言うものではなかった。戦後、中国は1980年代までは日本との友好関係を最優先としていたが、1990年代以降になると中国の発展に寄与・貢献した事実など忘れたかの様に日本の侵略を強調する様になった。それは何故か?当時日本がアジア諸国に戦果を広げ市民を巻き込んだ事は事実であり過去からの教訓を引き出す事も忘れてはならない。経済力が付いた昨今、かつてのアジアの宗主国としての野望がまたぞろ蘇ってきて、或いは共産党一党独裁を継続しようとの悪あがきかもしれないが、領土拡大、資源確保など他国にお構いなしに振る舞いだした。大航海時代、戦前の列強の植民地化時代を想起させる。中国を起点にした第三次世界大戦を起こさせてはならない。今、中国は経済力に物を言わせて、東南アジアへの投資、インド洋ではインドを包囲する様な港湾の建設、アフリカ全土に道路、交通網を整備し、将来アフリカへの影響力を強める政策をあからさまに進めている。目先の現金収入になる現地の人々は、日々の雇用に感謝している様であるが、完成し利益を生み出すと、中国本土が潤うばかりで現地は一層疲弊する事を当事国の政治家は察知している。欧米、日本の不動産や文化施設も買い漁っている。まさにかつての太陽の沈まぬ国イギリスを目指しているかの様である。英国の例を示すまでも無く、栄枯盛衰は世の常である。世界がグローバル化した今日では、もし中国が経済破綻した後の国際社会への影響の大きさが危惧される。日本一国だけではなく・・・・、残念ながら中国に対してはいいアイディアは私には無い。

5)防衛軍事力の増強

日本がアメリカ抜きで独自に軍事力を整備し、自国は自国の自衛隊が守ると言う考えを打ち出した時、中国、韓国の反応は想像つくが、アメリカはどう反応するか、考えてみる。

日本の領土を守る為の自衛隊基地の再構築、日本への攻撃の可能性のある仮想敵国を想定した基地の立地を再検討し、適地に移す。アメリカとは日本の領土内の集団的自衛権の行使についての摺合せは必要であるが、それ以外は一定の距離を置き、国連、国際社会との調和を重視する。新たな21世紀型の日本独自の防衛、集団的自衛権の行使を発揮するケースは領土内の出来事に限定し、現憲法の「専守防衛」を例えば「領土(領空・領海侵入の場合、国際法に則り対応し、状況によっては躊躇なく攻撃する」に改定する。それには、日本海を重点地域として原潜の配置、イージス艦の配備、空軍の増強、事前に敵の動きを察知する為のレーダー基地の拡大など、日本の技術力を最大限に生かしたハイテクの軍需用武器開発、核兵器を上回る敵国に対し抑止力のある強力かつ使える武器の開発が不可欠である。戦争をしない為の抑止力という考え方である。外交の場で背景に強力な軍事力が無ければ単に外交努力だけでは交渉が前に進まない、北朝鮮やイランが核兵器を保有し有利な交渉に結び付けているのも事実である。

6)基地撤退後のアメリカの国益

 自衛隊の組織改編が最重要であり、現状は戦争の出来ない組織になっている。「専守防衛」は自衛隊が無くても良いと言っている文言であり、防衛省組織は、シビリアンコントロール下にあるが、有事の際、戦争出来ない・迎え撃てない組織図であり、単に官僚のポストを増やしている様にしか見えない。真から日本を守ろうと思うならば総理大臣・国家安全保障会議―防衛大臣―制服組に直結させる事である。それには恒久的に隊員数を確保する事も考えなければならない。18歳から25歳まで1年間は自衛隊に入隊する事を義務付け、除隊時は社会復帰のメリットを国が示す事で、例えば大学・大学院入試では科目数を減らすとか、就職を有利にするとか、愛国心に頼るのではなく入隊後のメリットを約束・履行する事である。正式に自主的に入隊する若者を確保出来るかも知れないし、実行してみるべきである。70年という長い年月、平和に慣れきった国民にはアレルギー以外の何物でもないかも知れない。しかし、日本国憲法を守っていくには、今、具体的に多くの国民が試行錯誤しながら、考えないといけない時期に来ている。私は、戦争は決して二度としてはならないと思っている。決してである。戦争をしない為に、北方海域、津軽海峡、馬関海峡、種子島から与那国の海の防衛を強化する事で、日本海から太平洋へ出る為の関所にしてアメリカを安心させる事に在る。今はアメリカの信頼を得、大陸からの脅威に対しては自衛隊に任せ、基地撤退を促す事である。具体的に日本海側に原潜、イージス艦を何隻配備するか、鹿児島、沖縄与那国間のシーレーンの防備方法、台湾との連携などアメリカと協議する事も必要な作業かも知れない。評論するばかりでなくアクションプランをアメリカ側に示すべき時かも知れない。

同盟国としてかつて中曽根首相が、レーガンに日本の国土自体を不沈空母として、アメリカ本土防衛の為の最前線基地(橋頭保)として今後とも考えてくれても…と言った事が物議をかもした記憶があるが、遠回りではあるが、将来、真の独立国になる布石にはなると思う。その為には日本は東アジアが混沌としてきた現在、自衛隊の組織、基地を見直し、一撃必殺のハイテク基地を民間企業と協力して創出する。有事にはアメリカや同盟国?と連携を深め、領土内基地はアメリカとの共同管理・利用し、最大の打撃で瞬時に敵を殲滅する。領土外の戦争・紛争に関しては、例え同盟国のアメリカであろうとも集団的自衛権の行使は行わない事を国際社会に約束し、国連で世界に宣言する。相手が領土侵犯しない限り日本国は、永久に戦争を放棄し平和国家であり続ける。物事を進める時グレーゾーンでの解決の仕方は国益を目的とする国同士では必要で、何がアメリカの国益に反し、何が国益になるのか考えて長い目で見て行けば解決出来るのではないだろうか。

 

結 語

人は何故戦うのだろう。国家は何故領土を拡大したがるのだろう。大航海時代から帝国主義による度重なる戦争の歴史は、決して平和への教訓とはならず、今も地球上の各地で戦乱は続いている。今後の日本にとって「戦争はしないという憲法」と「戦争をするという憲法」のどちらを国民は指示するだろうか?言わずもがなである。

竜頭蛇尾、老人の支離滅裂、纏まりの無い雑文になってしまった。結論は良くわからないが、相変わらず戦争は無くならないし、核や原発の廃絶・廃炉は今後とも難しい問題として残る事は動かしがたいと思っている。

それでは何のための文章なのか?と言う事になる。「ごめんなさい!」というしかない。

 

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