No.37 最期の様子 「癌と共に~突然シャッターが下りたような」 鵜木正子
2015年12月24日受領
その日は突然やってきた、そんな感じでした。
九月のある日、「ご主人の状態は先ずひと月単位で、それから一週間、三日~四日、そして一日単位で変わって来ます・・」と訪問医・戸井先生に言われました。
腹水が溜まり始めた頃でした。
緊張したことを覚えています。それでも、ピンときませんでした、それは夫が普通に会話をしますし、自分のすべきことをきちんとしていくからです。
しかし、九月二十九日に胸水1ℓ、腹水1ℓを抜きました。二週間後にまた胸水1ℓを。
体力がかなり消耗しているらしいのですが、その辛さを一切口にしません。
淡々と日常を送っていました。
十月十四日から症状全体を少しでも楽にする為にステロイドの服用を始めました。
また、痛み止めのフェントステープからモルヒネに変わりました。
この時期から一週間単位になってきました。
二十九日に鼻血がだらりと出て、口から粘膜性の血を吐いたので、戸井先生の指示で北大に緊急でかかりました。
採血をして、点滴を受けて特に入院は必要ないということでホッとして帰ってきました。
十一月二日に分子治療薬のサイラムザ治療の2クール目が控えていました。
戸井先生は夫の身体が結構大変ということを判断して無理していかなくても・・と言われました。しかし、彼は「行きます。」ときっぱり言いました。
当日、採血の結果を見て、腫瘍マーカーが前回(九月二十八日)の二倍以上になっていましたので、治療を行っても効果が薄いだろうと小松先生は診断されました。
他の検査値はほぼ大丈夫だったせいか、夫は納得出来いようでした。
先生は、何秒だったでしょうか、夫の顔を見て、「では体力が回復したら再開しましょう」と予約を入れてくれました。
その翌日から、何かが微妙に変わってきていました。
それから、3~4日単位になりました。
私は、毎日の行うべき事と夫の状態を見ながら夫の意向に従って動きました。
その週末4人の息子がやってきました。
「何故来る?」
「暫く来てないからでしょう」
「あなたのその冷静な言い方がおかしい・・」
久しぶりの6人での夕餉で、夫は好物の“そい”のお刺身を一切れ食べていました。
精一杯の何気ない風に装っていたように思いました。
静かな時間だったように記憶しています。
十日、お昼頃にピンポンが鳴り玄関のドア―を開けると、鹿児島にいるはずの高校時代の友人が立っていました。驚きました。
二人は、会うとお酒を呑み、他愛のない話をして楽しそうでした。
彼は医者でしたが、病気の話はいつも一切しませんでした、状態だけを聞いていたようでした。その日は、夫は疲れていたようで、“横になるね”とソファーに寝ました。滞在は一時間ほどでした。
十一日、お昼過ぎベッドに寝ていた夫が起きようとして騒いでいました。用事をしていた私が慌てて支えると、動きが理解できなくて、危なっかしくて、それから目が離せなくなりました。30分ほどの付きっきりだけで、私は“神経がやられそう、ハードな介護をしている人の大変さってこんな状態かもしれない・・・”とはじめて、しんどく思いました。
看護師の花摘玲子さんの三時の訪問が待ち遠しかったのも初めてでした。
それから戸井先生が来られて、「ご主人はこのところ睡眠がよく取れていないし、奥様も睡眠不足なので、ご主人に浅く眠っていただきましょう、12時間後には目が覚めるようにお薬を調整します、ただし、病気が進んでいるので深い眠りになることもありますのでそのことを承知してください、息子さんたちと相談を・・」「私に任されていますので大丈夫です」といって一応報告だけはしました。2~3時間かけてドクターとナースで薬の調整をして八時ころ帰られました。
とても、丁寧に対応をして下さいました。
それから、まもなく私の妹の啓子が東京から着きました。
彼はその後、何回か呼吸するのが辛そうで起き上がろうとしました。
当番医の院長の吉崎先生、所長(看護師)の吉崎さん、看護師、田村さんも時間差で来られて呼吸のしやすい体位をご自分が畳に寝て教えて下さり、人間は苦しいと顎と肩の身体の全身で呼吸をします、また浅い眠りの時の舌の状態等々を教えて下さいました。
十二日、明け方の四時前、苦しんでいる夫に、妹が「鵜木さん大丈夫!」夫は「大丈夫!」と目をしっかり開けてはっきりと言いました。
それから、しばらくして、顎の動きが止まったので私は「お父さん、まだ早い!」と耳元で何回か叫びました。
暫くして、顎と肩が動かなくなりました。
時計を見たら四時丁度でした。
30分後位に吉崎先生が来られて診断をされました。
そして、田村さんと、花摘さんで身体を清めて下さいました。
手早くて、見事でした、私はその時、呆然としていたような、何をしていいのかわからないような、憶えているのは、お米を洗っていたことです。
なんだったんでしょう・・・・ね、その行動は。
二年余りにわたり、読んで下さった皆様、有難うございました。
このブログを書くことで、夫は“自分を支えられた”と私は思いますが、あちら側にいる夫に送信すると、“違うね”と返信が来そうです。
最後に、このコーナーを提供して下さった木ノ下さんに大変感謝します。
有難うございました。
妻・鵜木正子
追伸
葬儀は、無宗教で、死に顔は誰にも見せないで、息子だけを呼んで、当地でお骨にして、それを持って東京・立川で身内だけで食事会をしてお別れ会としてほしい。 生前に私に話していました。
十二日、よく晴れた青空で、冬木立の晩秋の日、静かな山間の火葬場で野辺の送りをしました。
急きょ来てくれた、孫の七央、嫁の貴子、そして愛犬ロンの八人プラス一匹で。
十二月五日、お別れ会は立川グランドホテルにて、33名、(身内以外は、ヤクルトの相談役顧問の角邦男さん、私の子育て仲間の石沢由美、上野眞理子、黒野君子、鈴木正子、原悦子)、夫の姉夫婦本田武俊、節子は高齢にもかかわらず九州熊本から出席して下さいましたが、兄、鵜木茂は夫が無くなる数日前に転んで入院していました。
長男、振一郎が“会は歓談を主にしたい”と言うので、初めに、夫のサリーマン時代の話をして欲しくて、わたしの一存でお願いした角さんに当時の思い出話を、長男、 次男正一郎、三男龍一郎、四男健一郎がそれぞれの父親への思いを語り、最後に私の挨拶で終わりました。
後日、友人が「シンプルで、静かで良いお別れ会だった、また、あんなに小さかった子たちが家族をもって・・」と感想を話してくれました。
2015年12月25日 拝受