17稿 「癌と共に~昭和を考える~ 2014424

 

目 次

1.   日本の昭和史と近隣諸国

1)  歴史認識の共有…?

2)日本の侵略戦争の真実(第一次世界大戦)

3)日本の侵略戦争の真実(第二次世界大戦)

4)戦後の国際社会における日本

2.  昭和史番外

1)韓国に考えてもらいたい事実

2)朝鮮戦争の実体と戦後日本の経済発展への貢献

3)竹島(独島)問題

 

1.日本の昭和史と近隣諸国

私は癌摘出をきっかけに、日頃より興味のあった昭和史を精読する機会をはからずも得、数々の書物を読破した。現在の日本にとって近代日本の歩みの良し悪しを判断するのは難しいが、この時代が日本の分岐点であった事は間違いないと思っている。戦争はそれぞれの国の身勝手な論理・国益で始まっており、解放軍であったり、聖戦であったり、大東亜共栄圏であったりするが、単なる戦争をする為の大義名分に過ぎないと私は結論付けている。それに昭和19年から約70年間、昭和の大半を生き抜いて来た私の昭和史を確認する意味で私なりの昭和史として纏めてみた。雑文ではあるが、読まれた方にはこれをきっかけにして昭和史を考えてもらえると幸いである。

これまでの世界規模の戦争は、有色人種を白人の為に資源を供給し、且つ隷属すべき国々と見なしていた列強国の驕り(まさに人種差別、人を人と思わない心根である)が引き起こしたものであると確信している。大航海時代のスペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ等の北米、中南米、アフリカに対する資源(金、銀等)の奪取や原住民への残虐な殺戮はこの時代にあっても許される行為ではない。この事を記憶して以下を読み通して欲しい。

1)   歴史認識の共有…?

我々の世代は、学業期に昭和史を習った記憶はなく、国は未だ敗戦国故に近隣諸国に気兼ねしての事か、政治的配慮なのか真実を開示出来ないでいる。一方で中国や韓国は幼児期から反日教育を行い、日本を一方的に極悪人と教え込み、政権が危うくなると必ず南京虐殺や従軍慰安婦問題を持ち出して自国民を煽って政権の弱点を糊塗しているのが実情である。中・韓・日は真摯な態度で大東亜戦争(敢えて第二次世界大戦、東京裁判で米のいう太平洋戦争とは言わない)に向き合い、各 国共に歴史の真実を曝け出して、欧米諸国の干渉を抜きにして、そろそろ東アジアの安定を自力で創出し、共通の歴史認識を構築すべきではないか考える。とは言え歴史はそれぞれの国が、ある意味都合よく作るのが常であり、認識を同じにする事は甚だ困難である事は認めざるを得ないが、それでも事実を互いに確認、且つ議論する事は必要不可欠であると考えている。特に我が国は戦争に至った経緯、目的、占領地での実態(特に南京虐殺、従軍慰安婦の真実、アジア諸国の戦後独立に至った経緯・事実等)等全てを明らかにすべきと思うし、共通の歴史認識が相互に許容できる段階になった時点で、一定の昭和史を纏め、教科書に載せるべきと思っている。半藤一利の昭和史は客観的に書かれていると思うが、どうも日本罪悪史観に基づいて書かれている様で、当時のアジア、世界情勢をほとんど無視している様に思われる。なかなかこれだ!という昭和史の本は無い様だ。

朝日新聞に陸川監督の中国映画「南京!南京!」の記事が出ていた。陸川監督は沢山の日本兵の日記を読み、日本の友人が収集した2,000冊以上のモノクロ写真を参考にして映像化したそうである。従来の抗日映画とは異なり、日本兵の視点から描かれていると言う事だが、相も変わらず慰安婦のシーンも大きな割合を占め、被害者30万人という中国側の絶対主張も健在で、この2点を除くと、日本の保守派の中からも公正に描かれた映画と思われている様である。前後したが、この映画は、20128月に東京都の中野区で12回上映されたそうだが、その日の会場の周辺は警察や機動隊によって厳しく警備され物々しい上映会だった様である。中国では杭州で20094月に試写会が開かれたそうだが、観客の一部からは日本軍に対していつもの様に罵声が飛んだそうだが、多くの観客は好意的で拍手で一杯になり、日本人俳優もこれには深い感動を覚えたと言っている。戦争の本質や過ちを描いた作品であり、決して抗日映画ではないそうであるが、是非この目で観たいものである。見識ある中国人は、単なる抗日映画を求めている訳ではない様で、過去の歴史について、真実を知りたがっている様である。いくら日本側から真実を発信しても、被害者の中国人は反日教育も手伝って理解できる環境になく、中国人自らがより真実に近づいた報道・書籍・映像を国内で発表すれば、日中が冷静に議論出来る様になり、ある程度の共通した歴史認識を持つ事も可能になるのではないかと思うが、今の共産党一党支配の中国に言っても詮無い事かもしれない。

2)日本の侵略戦争の真実(第一次世界大戦)

戦後の教育は、わが国の無条件降伏により180度転換し、戦争責任と言う点では、全て日本が悪かったと平身低頭し続けて来た。特に戦後の教育は、意図的に大東亜戦争(第二次世界大戦又は太平洋戦争の事)の真実から目をそらし、我々国民は真実を知らされず一方的に近隣国より侵略者となじられ、若者は戦争の真偽を知る機会もなく、反論する事さえも叶わず、ただ耐え忍ぶ(黙して語れず)事を強いられるだけで、日本人としての誇りを喪失し、自分さえ良ければという気風になってしまった。歴史は勝者が創るもので過去の歴史を抹殺し自分だけが最も偉いと作り替えてきた。だから歴史書は全く信頼出来ない。第一次世界大戦は、1914年オーストリアが併合していたボスニアのサラエボでオーストリアの皇太子夫妻がセルビアの青年に暗殺された事で始まった戦争である。この頃のヨーロッパでは激しい植民地争いが行われており、この戦争がヨーロッパの火薬庫と呼ばれていたバルカン半島に火を点けてしまった。バルカン半島はアジアとヨーロッパの境目で、白人と黄色人種の対立、キリスト教とイスラム教の宗教争い等、紛争の絶えない地域であった。この戦争に乗り遅れまいと、各国の思惑で三国同盟(同盟国と呼ばれていた)を形成したドイツ、オーストリア、イタリアと三国協商(連合国と呼ばれていた)を組んだイギリス、フランス、ロシアが激しく争う事になった。日本は当時イギリスと日英同盟の関係にあり、どちらか一方が2か国以上の国を相手に戦争を始めたら、もう一方の国も味方して参戦するという条約(約束)があった。日本は、これを大陸進出のチャンスとし、大義名分にして、中国での勢力拡大に無理矢理にこじつけて出兵し、同盟国イギリスの敵であるドイツの中国基地を攻撃した。その結果、日本は戦勝国として中国に21カ条の要求を突き付けた。まさに言い掛かりである。要求の一部を紹介すると、一、山東省のドイツの権益を日本に引き継ぐ事。二、中国政府への日本人顧問を採用する事。三、旅順、大連の租借期間や満州鉄道の租借期間の延長等であった。21カ条の要求中、中国側が認めたのは16カ条で、この日本の身勝手な要求が中国の国民感情を反日に向かわせてしまった。この頃、ロシアではニコライ2世(皇帝)が処刑(1917年)され、レーニンは世界初の社会主義国、ソビエト社会主義共和国を成立させ、第一次世界大戦から戦線離脱した。ドイツはイギリスを潜水艦で囲み、出入りの商船を攻撃した事で、それまで中立を保っていたアメリカを連合国側に参戦させてしまった。1919年、パリ講和会議で、諸々の取り決めがなされ、ベルサイユ条約でドイツは膨大な賠償金を払わされ、海外の領土も没収された。更に第一次世界大戦、特に第二次世界大戦(大東亜戦争)をきちんと理解する為に、歴史を30年ほど遡り、日清戦争の真実を知る必要を感じた。日本は1882年(明治15年)の壬午事変と1884年(明治17年)の甲申政変を契機に朝鮮国を巡って清と対立し、甲午農民戦争を契機に1894年(明治27年)日清戦争が勃発した。当時の国力は坂の上の雲で渡哲也が苦渋の表情を見せていた様に清が優位であったが、統制のとれた日本軍(海軍?)の勝利に終わり、下関条約で清に以下の事を認めさせた。一、朝鮮の独立の承認。二、領土として遼東半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島の割譲。三、賠償金2億両を獲得。四、重慶、長沙、蘇州、杭州の4港開港。この戦争で日本も列強国の仲間入りを果たし、眠れる獅子の敗戦で欧米列強国の中国大陸での植民地化の動きが加速された。日本にとって日清戦争の賠償金は1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり官営の八幡製鉄所造営(1901年、明治34年)の資金となり、経済的にも多大な影響を与えた。この一件で大日本帝国は外国との不平等条約の破棄を公然と要求できる様になった。日露戦争の経緯については割愛するが、勝利した事で、ポーツマス条約で以下の事が取り決められた。一、ロシアは日本の韓国においての政治、軍事、経済の優先権を認める。二、清領内の旅順、大連の租借権及び長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡する。三、北緯50度以南の樺太(南樺太)とその付属の諸島を譲渡する。四、オホーツク海、ベーリング海の漁業権を認める。しかしながら日露戦争は、日本国民に耐乏生活を強いて、多くの戦死者を出したにもかかわらず賠償金をロシアから全く取れず、国民の怒りは爆発し日比谷焼打ち事件に発展した。アジア人にとっては、日露戦争における日本の勝利は白色人種の大国ロシアに対する有色人種の小国日本の勝利であり、世界史上の意義も大きかった。有色人種国家独自の軍隊による白色人種国家に対する近代初の勝利といえる。この事実は、アジアにおいて日本軍を「解放軍」と受け止め、実例として、フィリピンやビルマでは日本軍の助力により独立が達成されている。インドネシアや台湾もいずれは独立の道は拓けるとされていたが、日本が戦争に負けた事で戦時中の独立は叶わなかった。真偽は今となっては分からないが、当時の軍部の考えは、日本中心主義で全ての人民や資源は国体を守る為に配置されるものであったので、植民地の権利を破棄する発想は無かったとも考えられる。植民地の自決(独立)は日本中心主義からすれば最も可能性のない考え方とも思われる。それでも日本の統治は植民地独立の機運を高めたという一点では確かであり、アジア諸国にとっては、欧米白人からの解放の一助になった事はたまたまの話しであったとしても、間違いのない事実であると思っている。大東亜戦争の真実からすると例外かもしれないが…、アジアを欧米列強国から解放すべく、日本は、イギリスから1947年にインドを、マレーシアについても南方特別留学生制度を創設し、独立への道筋をつけて1963年独立に導き、1948年スーチーさんで知られるビルマ(ミャンマー)も独立に導いている。中国、韓国の言う侵略がどこまで真実であったのか疑問はあるが、一方であまり知られていない戦時中の真実が具体的なコメントとして存在するので紹介する。マレーシアの独立に半生をささげた上院議員のラジャーノンチックさんは「日本軍はマレー人を一人も殺していない。日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍やそれに協力した中国共産ゲリラだけです。それに日本の将兵も血を流しました」言っている。インドは、日本の江戸時代には既にイギリス東インド会社が支配しており、軍隊もイギリス人3万8千人、インド人傭兵20万人を抱えていた。1858年、イギリス本国は東インド会社を解散させインド全土を直接支配する事になり、1877年(明治11年)にイギリスはインド帝国を成立させ皇帝にはイギリス国王のヴィクトリアが兼任した。イギリスはインドの綿花を独占すべく、綿花地帯を鉄道で結び、収穫した綿花は本国に持ち帰り、製品にしてインドで売りさばき莫大な富を得た。インドはイギリスにとっては無くてはならない植民地で、大英帝国のドル箱と言う位置付けであった。イギリスは日本と同じ海洋国であるが、植民支配においては狡知な国で、戦後も被害を受けたどの国からもこれと言った非難の声を聞く事はない。日本の数段上を行く侵略国・極悪人で大英博物館には無法に奪取した金銀財宝が収蔵され、当事国から返却の運動をしている事実も聞かれない。ロシアの南下に中国での利権が侵されると感じたイギリスは、朝鮮での利権を危惧する日本と日英同盟を締結したが、日露戦争でロシアが負けて、日本がアジアで権益拡大、領土拡張を謀ると、日本が米・英の脅威となり関係は悪化して行った。とにかく利害に聡い海千山千の国である。

3)日本の侵略戦争の真実(第二次世界大戦)

第二次世界大戦後の日本は新聞やニュースで体感しているので、全て知っている様な錯覚に陥るが、振り返って考えると政府は国民に真実を伝えず、多くの事実を隠蔽し、真実からはかけ離れた歴史認識を喧伝していた様に思われる。第二次世界大戦時の欧米列強国は、アジア諸国、人民を差別し自国の国益のためには何をしても良いと思っていた。今や、その国が人権、人権と声高に中国や北朝鮮等を批判している。私は大東亜戦争開戦の伏線は第一次世界大戦にあったと思っている。明治期の近代化のエネルギーは驚嘆すべきで、日露戦争は、わが父7歳の頃の戦争で、無敵のバルチック艦 隊をわずか2日間で殲滅してしまった。その結果、日本は樺太以南を領有し、朝鮮も領有し、満州への足掛かりを得た。その後もロシアの満州、朝鮮半島への進出が懸念され、関東軍は満州、東モンゴルを支配下(日本本土を守る橋頭保)に置いて、日本本土を守り、アジアを欧米の植民地から解放しようと大東亜共栄圏構想を実現すべく走り出した。その為に柳条湖事件、中国軍が満州において列車を爆破したとする関東軍の陰謀が第一次世界大戦を引き起こす引き金となってしまった。中国は日本軍によって戦争に引きずり込まれたと言っても過言ではない。第二次世界大戦は日本にとっては白人からアジアを守る為の大東亜戦争と位置付けて始まった世界大戦であった。米、英、仏等の連合国と日、独、伊等の枢軸国との争いであった。連合国側にもかかわらずタイは日本の味方をし、支援し同盟を結んでいた。占領下にあった中国南京政府(日本の傀儡政権)も日本側で参戦、チャンドラボース率いる自由インドもインド独立の為日本側で参戦していた。トルコは大戦勃発から終戦まで一貫して枢軸国側よりの姿勢を取り続けた。しかし枢軸国が不利になるとタイは連合国に寝返った。イギリス等の植民地では独立の為日本に協力する組織や市民がいた。アイルランドは英語圏の国で唯一日本に宣戦布告しなかった。それはイギリスへのあてつけの為だけであった。マレー海戦で日本がイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈した時、アイルランドはお祭り騒ぎになり、今でもその日を勝手に祝日にしている人も多く、親日家も多いと言う。第二次世界大戦前にはドイツは中華民国に軍事援助したり、ソ連が援助したりした。19201930年代にドイツ軍顧問団が国府軍を指導していた。ナチスドイツは、1937年の中国ソ連不可侵条約締結がなされた事で中国を敵性国家と見なした。ソ連も1941年の日ソ不可侵条約締結にて中華民国への援助を取りやめた。この時点で中国の支援はアメリカとイギリスだけになった。その時々の背景が分からないと真実を導き出す事がいかに面倒な作業であるか理解出来ると思う。歴史は作られると言われるが、最近のエジプト・イラクの様に一寸した事で歴史が大きく変わる事実を見せられた。信長・秀吉然り、又、島津軍が動かなかった関ヶ原等、日本の歴史もそれらの繰り返しであったと思う。又、為政者の思惑で事実が変色されたり、又、国民の当時の感情から善悪が決められ、後から見直されたとか、又、ある歴史的人物が(実際に存在していたとしても)小説家により、一躍有名になったとか、あり得る話である。典型的な例は(あくまでも私の考えであるが)坂本龍馬や多くの人物が司馬遼太郎等により表舞台に登場させられたと考えている。

歴史の事実と、小説を同じ観点で捕らえると歪んだ判断になってしまうが、小説の面白さは歴史書からは出て来ない。一方、時間(時空)であるが、幕末・明治維新は私に取って、一時期は大昔の話しという感じであったが、良く考えるとアメリカではカーボーイ・西部開拓史の時代であり、同様に日露開戦も明治37年と言うと昔話しと思いがちだが、1904年と考えると私の生まれた1944年と一緒の20世紀と言う事になる。東郷平八郎元帥逝去が1934年で、私の生まれる僅か10年前、昭和40年頃多くの国民が中流意識を持ち生活が豊かになった頃、明治は遠くになりにけりというフレーズをよく聞いたが、私の今の心境は、明治は決して大昔の事とは思えない。

明治維新に始まる昭和20年までの約80年の歴史は、戦争の記憶に満ちている。それは戊申、西南戦争という二つの内戦、日清、日露、第一次世界大戦、15年戦争と伝えられている満州事変、日中戦争、第二次世界大戦であった。15年戦争の間には台湾出兵、江華島事件に始まり、壬午、甲申の二事変、シベリア出兵、三次にわたる山東出兵、再度に渡る上海事変と軍事的な衝突がひっきりなしに続いた。思うに、三国同盟(独,伊、墺)と三国協商(英,仏,露)との対立で引き起こされた第一次世界大戦までの日本国(人)は、日露戦争勝利、韓国併合にて先進国の仲間入りをし、国際連盟の常任理事国(日、仏、英、伊)として新渡戸稲造氏を事務局次長として、世界平和の確保及び国際協力の促進に貢献していた。特に新渡戸氏の英文での著書「武士道」は欧米各国の首脳陣にも評価・尊敬されていた。ちなみにこの大戦では三国協商側に三国同盟を脱退した伊、日、米、中、ベルギーが参加していた。日本にとって明治維新時は欧米の帝国主義・植民地政策に国の存亡を感じ、近代化を急いだ事は間違いなく、近代化が遅れれば間違いなく他のアジア同様に植民地になっていたと思われる。その事は幕末の薩英戦争、長州が引き起こした馬関海峡での英、仏、米、蘭との戦争で欧米の力を思いしった薩長が討幕を急いだ事は理解しやすいと思う。1895年日清講和条約締結後遼東半島を三国干渉(露、仏、独)により、還付した時点で、たら、れば、ではなく韓国併合した事で日本本土の防衛は大丈夫という判断をし、戦争は単に殺戮である事を認識して、平和国家として国際社会にアピールして、外交で戦争を避ける方向を見出すべきであったと思う。関東軍の陰謀から始まった15年戦争はどう贔屓目に見ても日本の中国に対する侵略戦争であった事は間違いない。米の広島、長崎への原爆投下、独のホロコーストに匹敵する現地での残虐行為は隠せるものではない。満州では五族協和を唱えたが、現実の政治は不正を極め、反道徳的で、中国、韓国人への差別・虐待は日常的で、日本人という権力者の一方的な施策だけであった。兵士は大東亜圏の平和をモチベーションに戦い続けたが、実際は白人からアジア人を解放する崇高な考えが、いつの間にか多くの中国人を殺戮してしまった。日露戦争で勝利を収め、樺太や千島を露より領有し、韓国を併合した事で陸軍の軍官僚達は錯覚し大国意識が芽生えていたのかもしれない。多くの昭和史を読んだが、第二次世界大戦の歴史は陸・海軍の不協和音、組織を無視した陸軍の暴走、軍人の思考法の劣化、文化の質の低下に外ならず、どうしても日本の作家達は、この戦争の真実に迫ろうとすると自虐の歴史観になってしまう様である。今も各著者の昭和史を読み漁っているが、もう限界。精神衛生上良くないので私の先輩(一中・鶴丸)、東京裁判で死刑になった野田毅大尉のビルマ陣中日記「秘録・ビルマ独立と日本人参謀」を最後にしたいと思う。15年戦争を顧みると、日本人全体の経験への集約とするならば沖縄、広島、長崎は誰の目にも鮮明に非業の死の場としての位置を占めている。その事で戦後の日本人は死から命への独自の思索を拓けた事は大きな進歩といえる。

4)戦後の国際社会における日本

最近 東京大空襲という本を読んだが、改めて戦争の怖さを再認識した。具体的には、1937年(昭和12年)、日本軍は中国の首都南京を占領して市民虐殺の後、蒋介石政府を追いかけて、重慶に無差別爆撃を行った。その数、46回、延べ、4,500機が爆撃に参加し、落下した爆弾は3,000トンであった。この事で米国のルーズベルト大統領は「東京市民に重慶の女、子供たちの苦しさを思い知らせてやる」と言い、東京を中心に日本の諸都市に無差別爆撃を行った。約150都市が空襲を受け、一般民衆の死者60万人(うち、広島、長崎30万人)が死亡した。第一次世界大戦時のウィルソン大統領は爆撃機の使用を認めるにあたって「戦争とは関係のない産業、商業、市民への爆撃は厳禁する」と言っていた。同じ米国の大統領でこんなにも考え方が違うものかと思った。更にトルーマンは、既に敗戦は明らかであった日本に対して開発したての原爆の威力を試す為、ソ連にその威力を誇示したいが為に、米国兵が日本上陸する前に日本各地を焦土化して米兵の被害を極力少なし、戦争を早期終結する為という言い訳で、広島、長崎に原爆を投下させた。そんなアメリカを日本国民は明るく救世主の如き扱いで迎え入れたのである。原爆の被害者たちは「核の怖さを後世の人々に伝えたい」、「核無き世界平和の運動を広げていきたい」と言い続けている。核の怖さではなく、原爆を落としたアメリカ人が怖いと言う発想にならない日本人、無差別に一般市民を殺傷したアメリカに対して何の請求もしない日本人、何とおおらかな民族であろう。昨今、強制労働、従軍慰安婦問題を半世紀以上過ぎた今も問題視し、責任追及し、補償を求める国と目糞、鼻糞の議論が続いている様であるが、もっと高い次元で、国際社会に日本人の本質を知ってもらえるようなアピールを心がけるべきではないかと感じる。一例として、親日国に日本人論を大々的に論評してもらう事で、諸々の日本人に対する誤解も日本人独特の常識も心情も察してもらえるのではないかと思っている。

苦しい戦後の生活の中、戦後5年後に勃発した朝鮮戦争を経済発展のきっかけとし、1956年には国連への加盟が認められ、発展途上国への援助において先進国6か国(G6)中で最大の援助国となった。この時代は日本の高度経済成長期(1955年~1973年)であり、1960年には池田内閣による所得倍増計画が発表され、1960年代を通じて実質経済成長率が年平均約10%という驚異的な成長を達成した。特に中国への円借款、無償資金協力、技術協力等、今日の中国経済発展の基礎を作ったと言える。今日まで日本は、国連への分担金(拠出金)という形で多大なる貢献をしてきた。そこで国連憲章を読んで私が感じた事を述べてみる。 日本は戦後68年を経た現在も憲章53条,107条の敵国条例に翻弄され続けている。しかし、現在にあっては、果たしてこのまま日本が国連加盟国である事の意義は一体どこにあるのだろうと思わざるを得ない状況になってきた。

次いで1964年にはアジア初のオリンピックも開催した。更に同時期にOECD21番目の正式加盟国になり、日本はOECDの一般活動経費に対し、加盟国の中でアメリカに次ぐ第2位の拠出をし、本年2014年が50周年となり、今年5月の閣僚理事会(201456日及び7日、於:パリ)の議長国を務める。OECD(経済協力開発機構、1961年発足)とは、市場経済と民主主義を基調とする加盟国の経済成長や雇用、生活水準の向上、自由貿易の拡大、そして発展途上にある国の経済開発をサポートする国際組織である。今回の提言は、詳細は割愛するが、一、レジリエントな経済社会、二、OECDとアジア、特に東南アジアとの関係強化、三、OECDの活用、四、グローバルガバナンスにおけるOECDの役割及びOECDの将来と日本について、である。

日本は戦後30年後(1975年)には目覚ましい経済発展を遂げており、日、米、英、仏、独、伊の6か国で第1回首脳会議G6がパリで開催された。その後、カナダ(1976年)、欧州共同体(1977年;EC,現在のEU)が加盟し、1991年にロシアがロンドン会議より枠外での参加が認められ、1998年バーミンガム会議より正式メンバーになり、現在のG8サミットとなった。

 

2.昭和史番外

1)韓国に考えてもらいたい事実

日本の大陸侵略は、日露戦争開戦前に韓国(当時、大韓帝国)を政治的・経済的・軍事的に支配下に置き、韓国は日露開戦に対しては局外中立を声明したが、日本はこれを無視し日韓議定書(1904223日調印)を強要し、ロシア戦の兵站基地とした事に始まったと思っている。この頃の明治人は西欧化のみが国としての進歩、発展をもたらすと信じ込んでいた様で、これと異なった文明観(福沢諭吉の脱亜論というべきか)にしがみつく韓国の考え方は停滞であり、退歩であると考えていた。韓国を兵站基地にした最大の理由は本土防衛であったが、純粋な明治人にとっては自国の安全の為ばかりではなく韓国の進歩、発展に寄与すると思っていた様で、国家レベルでも個々人においても侵略と言う自覚はこの時点では生れ得なかったと考えられる。1904822日に日韓協約(第1次)を結び、韓国の財政・外交への直接干渉への道を開き、日露講和後の19051117日に第2次日韓協約への署名を取り付け、この協約によって日本は韓国の外交権を完全に掌握し、総督府を置き内政全般に渡り干渉を強めて行った。1909330日に外務大臣小村寿太郎は桂太郎首相に、適当な時期に韓国を併合する方針を提出し、4月に韓国統監伊藤博文の同意も得、7月には天皇の裁可も得た。併合の意味は日韓両国対等と言う事でなく、連合国でもない、日本の領土、韓国の植民地化であった。1910822日「韓国併合に関する条約」が締結され、大韓帝国は消滅し、日本の領土の一部の「朝鮮」とされた。1910年から1944年の35年間、9代に渡り陸海軍大将を総督として、朝鮮半島における司法・行政・立法の権限を持って、統治が行われた。戦後の日本におけるGHQの戦前版の様である。政策的には言論・集会・結社の統制に関しては比較的緩やかで、朝鮮日報や東亜日報等の民族系の新聞の刊行、京城帝国大学の設置等が行われた。しかし朝鮮人社会の置かれた状況は好転した訳ではなく、逆に日本内地の食糧不足を解消する為の産米増殖計画等で、更に多くの朝鮮農民が土地を手放さざるを得なくなった。1930年代になって日本が中国との戦争に足を踏み入れてからは、朝鮮人民の皇民化政策、つまり、朝鮮民族の根幹部分である朝鮮の歴史、言語、文化を否定し、日本人に同化させる政策を推し進めて行った。ここで朝鮮人民の徴用や従軍慰安婦問題が始まるのである。1945年の日本の無条件降伏で植民地支配から解放された朝鮮半島には、1948年に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が建国された。1948年~1950年米ソの対立が顕在化し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争については後述するが、朝鮮戦争休戦後、日本と韓国の国交正常化交渉が1965622日の条約締結に至る13年以上を費やしておこなわれた。第1次会談(1952年)から第7次会談(1964年)において、日韓で「日本側が韓国に対する経済協力として、無償3億ドル、長期低金利借款2億ドル、および、相当多額の民間の信用供与を行う事で、請求権問題を解決する」と言う事で大筋合意が出来た。1965622日に「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」が締結され、同時に「日本国と大韓民国との間の漁業に関する協定」「財産及び請求権問題の解決及び経済協力に関する協定」「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び処遇に関する協定」「文化財及び文化協力に関する協定」等に署名がなされた。日韓条約と戦後処理については両国の立場の相違で、「賠償・補償」か「請求権」という戦後処理の部分に鮮明に表れ、韓国側は、当初から「違法な植民地支配」に対して賠償と補償を求めたが、日本政府は「賠償」は平和条約に基づいて敗戦国が戦勝国に支払うものであり、韓国とは交戦状態になかった以上、在日韓国資産と在韓日本資産それぞれの「請求権」を行使する事で解決する様強く主張した。賠償や補償は日韓併合の非合法性を追認する事になりかねないからである。日本政府は日本側の請求権については放棄するとしたが、日韓の主張の隔たりは容易に縮まらなかった。1961年、朴政権(現韓国大統領の実父)は、韓国内の経済基盤強化を急ぐ為、請求権を日本の侵略と植民地支配に対する補償・賠償と見なす事で妥協に踏み切った。日韓基本条約とともに調印された「財産及び請求権問題の解決及び経済協力に関する協定」で、日本側が政府無償贈与3億ドル、優勝借款2億ドル、民間借款3億ドル以上の早慶8億ドルを供与し、韓国側は、太平洋戦争当時の朝鮮人戦死傷病者及び被徴用労務者に対する諸未払い金及び弔慰金などを含む一切の対日請求権を放棄する事で妥結した。日本政府はこれをもって韓国に対する国家レベルでの戦後処理は法的には終了したと言っているのである。ただ、今日もこの問題が解決に至らないのは日韓の解釈の相違は、単に被害者と加害者という立場の違いのみならず、両社会の歴史認識や法意識の差異とも絡み合っており、そうした観点からも双方のギャップを埋めていく努力が求められ、要するに韓国にとっては日本の戦後補償は未だ終わっていないのである。しかし、韓国の経済成長が、日本にサポートされたものである事を否定する事は出来ない。日韓貿易では、日本の圧倒的な輸出超過、即ち韓国側の貿易赤字が特徴となっている。韓国の対日貿易赤字は、韓国の対日輸出の伸び悩みというよりも、対日輸入をビルトインした経済成長によって増大してきたものである。それは即ち、韓国経済が、製品技術を日本からの導入に依存しているので、その製品を製造する為の設備や素材・部品を、やはり日本から輸入しながら成長してきた為である。韓国が輸出する製品は、その製品技術が日本から輸入されている為に、日本の設備や部品がなければ製造できないからである。

2)朝鮮戦争の実体と戦後日本の経済発展への貢献

朝鮮戦争は第二次世界大戦が終結した5年後(19506月~19537月)に北朝鮮の南侵によって国連軍と北朝鮮・中国・ロシアの戦い、米ロの代理戦争として始まり、イギリス、オーストラリア等18か国が参加した戦争であった。この戦争は、北朝鮮が南北統一する為にロシア、中国のバックアップを取り付けて、始めた戦争であるが、朝鮮半島全土を焦土と化す激戦を繰り返した後、19537月に「統一を望む我が(韓国)政府の休戦反対の熱望を無視して」休戦が成立したと韓国政府は言っている。日本はこの戦乱の3年間、韓国側の補給基地になり、米軍のジープは全て日本で組み立てられ、戦車や軍用機の修理もなされ、国内自動車メーカー(いすず、日産、トヨタ)はトラック製造を一手に引き受け、線維産業界は軍用毛布、兵隊の外套や被服類、東芝等の弱電産業界はラジオ等を供給し、多くの日本国内の産業が活況を呈する事になった。わが国は隣人の苦しみから利益を得たといっても過言でない。この戦争特需が引き金となって日本は戦後の経済苦境から脱する事が出来、その後飛躍的、かつ奇跡的な好景気をもたらした。しかし、日本は、朝鮮の南北分断に対しては、36年間の植民地支配を通じて、重い責任を負っている。にもかかわらず朝鮮戦争の平和的解決について日本はいかなる助力も払った形跡がない。この戦争に対するわが国の見方はイデオロギーに偏するものであった。今日までのところ朝鮮戦争に関する共通の認識が生まれていない。そのことも朝鮮問題に対する我々の対応を不活発にしてきた様に思える。この事も日本政府は我々国民に朝鮮戦争の背景を開示しておらず、日本はどう関与すべきか、両国の間に立てなかったのか、考える義務があった様に思える。拉致問題も現在の日本から見ると許せない行為であるが、北朝鮮から見ると正当な行為であったのかもしれない。

3)竹島(独島)問題

江戸時代初期には、山陰の漁民はこの島を「松島」と呼び隣接する鬱陵島を「竹島」と呼んでいた。1618年に伯耆国の大谷・村川両家が徳川幕府から竹島を拝領し、漁業の拠点や避難地として利用し始めた。同時に朝鮮側の漁民もこの島に出漁し、日本側は鬱陵島まで足をのばし、この頃から双方の摩擦は既に始まっていた。この当時は国際法で言う領有権や領海という概念はなく単に辺境部に位置するに過ぎない島という認識であった。19049月、島根県人中井養三郎は漁業のみならずアザラシの捕獲地や鬱陵島の木材伐採の足掛かりとすべく、1905322日に島根県告示第50号で所有が認められた。この頃の韓国は日本の侵略下に在り、竹島を日本の領土とするという島根県告示に対して韓国は抗議はおろか、何らの措置を取る事も出来なかった。その後、日韓併合によってこの島をめぐる領土問題は自然消滅したかたちになった。しかし、日本の敗戦によって韓国は前近代における領有意識の存在を示して日本の「先占権」主張に反駁し、1905年当時の日本の外交権侵害の時代環境も、日本の領有告示の無効性の根拠とされている。現在韓国は竹島に海洋警察を常駐させ、この島に本籍を置く民間人も住まわせている。日本は1年に1回海上保安庁の巡視艇が韓国の主張する領海内に入り、領有主張を放棄していない意思表示をしている。思うにこの島の領有については、両国が所有を放棄し、立ち入らない事にし、両国の緩衝地帯に位置付けるか、両国で漁業に絞って共同利用していく事にして、いつまでも不毛な戦いを続けないで円満な解決に導けないものかと思っている。北方4島についても同様な解決策が必要と思うが別途述べたいと思う。

以上 2014424日   No.18