Ⅲ.再発

目次

1.      再発進行胃癌

2.      癌サバイバーとしての日常生活

3.      癌からの生還~見舞客の来訪~

4.      癌から生還後の日常について

5.      胃癌再発、長期入院

6.      KKR札幌医療センターについて

7.      KKR札幌医療センターでのSP療法の開始

 

1.再発進行性胃癌

前報のIBRはミスプリでした。IRBが正しくInstitutional Review boardの事で治験審査委員会の事です。ついでながら、IRBとはどんなことをするのか簡単に説明します。

製薬会社が治験を実施する際に厚生労働省に届け出た治験デザインを審査する社内の中立的な組織で、治験の倫理性、安全性、科学的妥当性を審査する委員会です。私が委員長の任に在った時のメンバーは、臨床医、臨床統計学に精通した医師、薬剤師(主婦)、弁護士、社内研究者でした。内容は、治験の実施の基準に沿って、治験実施の可否を検討し、治験開始後は定期的に治験実施段階のカルテ、資料に沿って審査を行い、また被験者(患者)から文書によるインフォームドコンセントを得るための方法や資料も審査し承認していました。これだけの事をIRB、アルファベット3文字で表す便利な用語です。

昨日(平成251130日)、2クール目のSP療法を終えて北大病院から帰宅しました。

パソコンの私の日記(忘備録)に入院期間の10日分を記録し、何気なく、日記のトップに戻ってみると、以下の様に私は記していました。いわゆる癌の予感を既に3年前に私自身が感じ取っていたという事で、原文通り紹介したいと思います。

・健(私の息子4男)、婚約者○○さんを連れて来る。彼女の都合で当夜帰る。事情は聞いたものの???。この所食後に胃痛、治るまで2030分、胃炎か胃潰瘍、最悪胃癌か?もう少し様子を見る!(平成2349日)。

・どうして素直な会話が出来ないんだろう。体調に異変が起きつつあるのだろうか?(平成23521日)。

と記録し、胃癌?ではないかと感じていたようです。

1)~再発までの経過~

胃癌からの生還、癌サバイバーの私は胃全摘後、外科的には完全治癒切除が出来て、言い換えると全ての癌を取り切り、抗癌剤TS-1での再発予防の為の服薬期間1年も終え、平穏な日常生活を取り戻した。その裏付けとなるのがCT画像であり、組織診断である。

平成23年7月5日にKKR札幌医療センターにて、胃癌に対して胃全摘R-Y再建、胆嚢摘出手術を受け、その時採取した組織を診断すると、胃壁には肥厚して、凹凸の大きな襞が多数認められた。組織学的には核小体が明瞭で、核型不整な異型上皮細胞が、線維化を伴って、弧細胞性~小胞巣状に増殖している。非充実性低分化腺癌の成分が主体で一部に印環細胞を認められる。腫瘍は一部で漿膜面に露出している。間質量は硬性型で、浸潤様式はINFcである。明らかなリンパ管侵襲は認めず、中等度の静脈侵襲を認める。提出されたリンパ節に転移病変を認めず、口側断端、肛門側断端、術中腹腔細胞診陰性であり、腫瘍の遺残は無いと考える。遠隔転移の無い場合、StageBである。提出された胆嚢に悪性を示唆する所見は認められない。HER2IHC結果は、HER2スコア判定0である。

以上が胃全摘、胆嚢切除した後の細胞診・組織診の診断結果である。

簡単にいうと、手術前の進行性スキルス胃癌は、リンパ節および周辺組織への増殖、遠隔転移は認められなかったということである。取り敢えず社会復帰出来た事になる。主治医に今後の治療として、胃癌治療の一環である経口抗癌剤TS-1投与について説明があった。服用した時の2年後の再発率は28%であると伝えられたが、術後の細胞診では転移も見られなかった事から、服用しないでも大丈夫かなと自己判断したが、医師の友人が切除後の細胞診の結果は外科領域によるマクロな判断であり、ミクロで考えると転移と言う形で何処かに癌が潜んでいる可能性もあるという意見に従い、TS-1の服用を受け入れる事にした。何とか8クール1年の服用を終え、休薬終了の平成24629日に外来受診し、内科にてCT検査し、74日に断端部の転移・狭窄を確認するために内視鏡検査を行った。713日に外科外来にて総合診断し、転移等の異常は認められなかったので、以後は3か月おきに外来で血液検査し、6か月後にCT検査し、異常がなければ6カ月毎の外来での経過観察となり、3年間外来に通う事になった。この段階ではTS-1を服用したことで1年間再発を抑え込んだという事になる。

 

2.癌サバイバーとしての日常

平成24年622日は、TS-1服用最後の日、即ち8クールを無事終え、転移も見られず、取り敢えず私にとっては癌から解放された記念すべき日となった。これからは3カ月毎に外来受診するものの、多くの自由な時間を手に入れた喜びで一杯であった。

1)      旅行

1)名古屋地方へ~高校の中部地区同窓会参加、他~

  未だ服薬中であったが家内同伴で中部地区の高校時代の同窓会に参加した。前日、中部空港に降りて、大学時代(同学舎)の後輩と名古屋駅近くで昼食をとり、その後は小・中学時代の友人宅にお世話になり、市内観光後、彼の家で宴会をし、翌日は、ご夫婦自作のスイスで見られるホルンを長良川の河川敷で聞かせてもらった。岐阜国体のセレモニーで演奏すると言う事で日々練習に励んでいた。関ヶ原駅まで送ってもらって同窓会メンバーと合流した。

 古戦場を見て回り、木曽三川に行き、とにかくよく歩く会であるが、私が療養中であることを配慮してくれ、私だけ車で案内してくれた。岐阜の人々は薩摩義士に尊敬の念を持っており、今でも工事奉行であった平田靭負を偲んだ行事が行われていると聞き、何故か胸が熱くなった。1年数カ月かけて木曽三川分流工事を完成させたにもかかわらず、藩の公金を使い過ぎたと詫びて自害したのである。昨今の役人にこの気持ちのかけらでもあれば救われるのだが・・・。宿は、三重の湯の川温泉にあるトヨタの保養所であった。同室の友人は私が風呂やトイレに行くと、心配して常に待機していてくれた。帰りは幹事が中部空港まで送ってくれ、新千歳空港に向かった。本当に友人とは良いものである(平成2462日‐4日)。  

2)故郷鹿児島へ、~友人のお見舞い、他~

前述した脳神経外科医の友人が私の発癌後の数か月後に膀胱癌を患い、見舞いのため羽田乗継で鹿児島に行った(平成24922日‐3日)。彼は想像以上に元気で、ゴルフに出かけており鹿児島空港には奥さんが迎えに来てくれた。奥さんと言っても私の高校時代のクラスメートであり、昼食を二人で済ませ、夕食の買い物をして戻ると彼も直に帰宅し、ビールで乾杯した。久し振りのミニクラス会(旦那の友人も高校3年時のクラスメート)である。やはり健康は何物にも代えがたい有難いものである。翌日は彼とと串木野まで釣りに行ったが、朝食後すぐ車に乗ったせいか、眩暈がして車窓から見える家や木々が全て真っ白になり、車を泊めてもらいコンビニの前で落ち着くまで座り込んだ。彼は、貧血と診断した。魚釣り中も気分がすぐれず置き竿にして横になって青空を眺めていた。釣果も無く早めに切り上げて、奥さんのツリーハウスを見に行った。地域の子供達のリクレーション用に作らせたものであった。友人夫婦が今年11月に見舞いに来てくれ、「この辺にもツリーハウスが出来たようだよ」と話すと奥さんが製作者の小林さんに電話して確かめたところ、全く偶然であるが、我が家の近く北広島のクラッセホテルに現在制作中(平成251110日)という事で見に行った。

 翌日、彼が出勤した後、霧島から鹿児島市内まで奥さんに送ってもらい、山形屋の近くの明石家菓子店から我が家に軽羹を送った。昼間は小学時代の友人や大学時代の同学舎の後輩と会い、夜は高校のクラスメートと一杯飲んだ。癌サバイバーとして久し振りに開放された、とても晴れやかで幸せな3日間であった。

 翌日、九州新幹線で熊本の姉夫婦に会いに行った。鰻重をご馳走になったが、喉が詰まり心配させてしまった。出先では癌サバイバーと言っても胃が無い事によるダンピング症候群は健在であり、これからも自分なりに慣れていくしかないようである。

 翌日、大宰府の近くに住む兄宅を訪問したが、体調が悪く出直すという事で辞した(926日)。

 (3)快気祝いで上京~鵜木会~

 再発予防の為のTS-1服薬終了後、6回程外来にて血液検査、CT検査を行ったが、特に異常は認められず、体調も順調であったので上京して息子達と快気祝いの食事をする事にした。三男龍(りょう)を幹事にして立川のグランドホテルで11人の鵜木さん(息子、嫁、孫)と宴会である。全員集まっての食事会は初めての経験で忘れられない良い時間を過ごす事が出来た。私が支払う事にして龍に預けていたが、息子達が精算してくれた。いつの間にか大人になったと感心すると共に、とても幸せな気持ちにさせられた(平成241117日‐21日)。この時、愛犬ロン(ウェルシュ・コーギー)も北海道から連れて来ており、朝・夕立川の根川や多摩川を散歩させていた。食事会の翌日の昼時、今でも信じられない出来事である。家の前でロンが交通事故に遭い死んだのである。

ロンは平成24年625日、三男、龍の舅より譲り受けたコーギー犬で、千葉から家内に連れられて新千歳空港に降り立った。私とはこの時が初顔合わせであったが、「ロン!」と声を掛けると、速歩で私の方に駆け寄ってきた。私との相性はとても良かった。

生後1年と45日で我が家の一員となったロン。ロンを引き取るにあたって、ウェルシュ・コーギーは胴長、短足を特徴とした犬種であることから、フローリングの廊下、居間は滑って腰に悪いとの事で、ホームセンターで絨毯を買い求め家中のフローリングに敷き詰めた。私は、胃全摘手術で体重も20kg減少しており、体力もかなり落ちていたので、朝夕のロンとの散歩は、体調を整えるという点で大いに貢献してくれた。孫以上に面倒を見、可愛がっていた。生後僅か16カ月の命であった。涙が止まらなかった。翌日、葬儀社で火葬し、今も骨壺は私の書斎の机上に遺影と共に安置してある。

4)兄より電話があり・・・~福岡へ~

  兄の要請で福岡へ行った。義姉がパーキンソン病に加え、転んで骨折し入院したので相談に乗ってくれと言う事の様であった。私は11月に愛犬ロンを失い、気持ちの整理をつけるために再度犬を飼うことにした。インターネットでロンに似たコーギーを探し、奈良のブリーダーから生後4か月のコーギーを購入した。11月の末に石狩のペットショップに空輸されたロン(同じ名前で呼ぶ事にした)を引き取りに行った。その1週間後に兄からの電話であった。

 義姉は福岡県四日市市の済生会病院に入院中であり、見舞いに行くと骨折以外に下腹部に皮膚癌も見つかり、義姉の妹弟より、福岡での生活はこれ以上は困難なので、二人を京都に引き取りたいと言う申し出があった。兄の賛同が得られなければ姉だけでも連れて行きたいということであった。兄は決めかねて、私を呼び寄せ、相談したかったのであろう。兄夫婦は高齢で子供もなく、確かに今後二人で暮らしていくことは難しい気もするが、選択肢としては自宅でデイサービス、ショートステイ等、第三者の助けをかりてこれまで通り住む、老人ホームに入る、義姉の弟夫婦と京都で住む、を検討して決めればいいのではないかと提案したら、結論として現状維持で行く事になった。早速、ヘルパーさんに相談してケアマネージャーを含め、義姉が退院するまで、兄を自宅近くのショートステイ施設に入所させる手続きを取った。重要なものは銀行の貸金庫に納めて1210日より入所した(平成24127日‐11日)。翌年2月、4月にも福岡に行き、義姉の退院後、生活し易いように家の主要な所に手すりを付けたり、家具を移動したりした。兄も4か月に渡るショートステイ暮らしから424日に自宅に戻った。

 義姉の癌は有棘細胞癌(扁平上皮癌)でステージⅢであった。主治医によると、下腹部両側鼠蹊部リンパ節に転移が認められたが、全部取りきり、肺、肝への転移は認められないという事であった。只、心臓に既往歴があり、再発した場合、癌化学療法の適応は難しいという判断であった。兄も過去に胃癌切除しており、高齢を考えると相当覚悟してもらわないと、私も明日の事は分からない状況なので頑張ってもらうしかないと思っている。82歳の兄が日々の買い物を自分で運転して、炊事場に立ち、老老介護の典型的な毎日を送っている。

 

3.      癌からの生還~見舞客の来訪~

①新入社員の頃、国立駅南口の下宿屋で一緒だった一橋大学生(同学舎時代の後輩の弟)が心配してチェンマイよりギターを携えて、コーヒーとマンゴーを土産に見舞いに来てくれた(平成24年6月1日)。

②会社の後輩が夫婦で見舞いに来てくれ、久し振りに痛飲し、楽しい食事になった(7.22日)。

③会社の釣り仲間が夫婦で見舞いに来てくれた。彼も悪性リンパ腫を抱えて外来治療を続けている。住まいは横浜の金沢区で、八丈島に一軒家を借りて定期的に釣りに出かけている。帰京後、沢山の魚を食べ易いようにさばいて送ってくれた。2か月間魚は買わないで済むくらいの量であった(9.5日)。

④三男、龍がラグビーのクラブチーム、バーバーリアンとの試合で来札。観戦のため定山渓まで行った(98日‐10日)。

⑤義母、義妹、姪が見舞いに来る。私は食欲が無く家内が近くの農村レストランに連れて行った。私は姪と義妹が富良野に行きたいと言うので付き合ったが、大雪山旭岳にも行きたいと言う事になり、ケーブルカーで中腹の旭岳の登り口まで行き、お花畑を周遊して、姪の念願であった蝦夷リスにも出会い、十勝岳の麓の白金温泉にも入って満足して帰宅した。ヘトヘトである(911日‐14日)。姪は12月にも見舞いに来てくれ、二人で近くの竹山温泉に行った(123日‐5日)。

⑥名古屋在住の同学舎の後輩で、寮時代は同室でよく一緒に出掛けたり、飲みに行ったり、アルバイトを一緒にする仲であった。久し振りに一緒に飲み、昔話に花を咲かせた。13日は小樽に寿司を食べに行き、札幌駅で別れた。(1011日‐13日)。

他にも多くの見舞客が来てくれ、癌サバイバーとしては退屈しない平穏な日が続いた。

 

4.癌から生還後の日常について

 ①芝刈りで左手人差し指を切る。切断寸前であり、今も感覚は無い。大曲ファミリークリニックで治療し無事つながった(平成24年7月16日)。

②陶芸室兼倉庫として使っている丸太小屋が雪で傷むため、3年に1回はペンキを塗装している(518日)。

③家内、膝半月板損傷の修復手術し、毎日、下着や庭の花を届けた。病院の食事は不味いらしく、近くの店で菓子やジュースを買い求めた。病室は4人部屋であったが、整形外科のせいか、患者は元気で毎日が井戸端会議のようであった。家内は聞き手専門だったようで病院の配慮か一人部屋に移っていた。膝はリハビリを残すだけで19日に退院した(611日―9日)。 

④陶芸サークルの8年目を記念して、クラーク博士の別れの地及び明治天皇が立ち寄って休息をとった駅逓を見学後、近所の釣り堀「10パウンド」にて昼食会を行う(611日)。スパゲティを食べたが、喉に詰まり、苦しくてもどしてしまった。その後は少し食べるとお腹がパンパンになって耐えられない腹痛に見舞われた。排便のためトイレに頻繁に通い、息んで何とか排泄したが、水様便が続き、食べると又、腹痛を繰り返した。我慢出来ず近くの三愛病院に行き、レントゲンや触診してもらったが、特に異常は認められないとの診断で、痛み止めと乳酸菌製剤を処方され、帰宅した(617日)。腹痛と嚥下困難な状態は悪化するばかりで、KKR札幌医療センターの外来に連絡を取り、受診した(619日)が三愛病院と同じ診断であった。腹痛、嚥下・排便困難は治まらず、3日後再度受診し、医者が代わった事が幸いして、レントゲンで腸閉塞が認められ、即日入院となった(622日)。 

 

5.胃癌再発、長期入院

フォローアップCT画像にイレウス所見あり。核は小型で、核クロマチン増量、核小体腫大、核偏在傾向を有する異型細胞が散在して見られる。細胞質はPAS染色陽性を示し、細胞量は少ないが、腺癌を考える細胞像であると推定された(平成25626日)。

1)腸閉塞の食事療法の試み

大腸の横行結腸に狭窄がみられ、狭くてポリファイバーが通過せず、腸管は腹膜に強固に癒着しているという診断で、1か月間輸液、チューブ栄養で腸管を安静に保ち、ある時期に経口的に食事に移行することを2回試みた。しかし改善せず、大腸手術は避けられないことになった(626日‐724日)。

2)         大腸手術

胃癌術後イレウスを開腹癒着剥離手術し、同時に人工肛門造設術横行結腸ストマを右下腹部に造った(725日)。ストマ増設すると身体障害者となり、身体障害者手帳が貰え、数々の恩典がある。私の傷害等級は、第2種で身体障害者等級表による級別4級、北海道 第 189229号(平成25812日交付)である。以下の如き減免が受けられることになっているが現実に使うことはなさそうである。

所得税・住民税の控除、本人に障害があるとき、所得税・住民税において障害者控除が適用される。自動車税・自動車取得税の減免、障害者本人が運転すると認められる自動車税・自動車取得税について課税免除、減免を受けられる場合がある(1人の障害者に対して、自動車税の1台分の申請になる)。携帯電話基本使用料等の割引、身体障害者手帳を交付されている者は携帯電話会社により基本料金等が割引になる。

日常生活用具 ストマ用装具の給付の支給(手続き済み)本人1割負担。JR旅客運賃・バス運賃・航空運賃の割引(第2種)、JR⇒片道101km以上の普通乗車券・・・50%割引、バス⇒単独利用の場合・・・50%割引、航空・地下鉄・フェリーの割引。福祉タクシー割引、1割引き、歩行困難者使用中標章、身体障害者手帳⇒公安委員会から駐車禁止除外指定車標章の交付を受けられる。有料道路割引5割減免(手続き済み)、新千歳空港A B C駐車場利用料の減免、身体障害者手帳⇒利用料半額 等である。

私が障害者であることは否定出来ないものの、人工肛門の装具の購入は使わせてもらうが、それ以外の社会資本(税金)をこれ以上無駄にはしたくないので利用する気はありません。癌治療で高額医療費の援助を受けていることもありこれ以上は不要ということです。

3KKR札幌医療センターでの癌化学療法のスタート

カンファレンスで治療法を検討した結果、私の再発胃癌はSP療法という併用療法を行う事になった。併用療法を始める前に右鎖骨下にIVHポート挿入術が施行(平成25年8月12日)された。出先で何かあった時に困らないように「私は、ハードアクセスシステム社製皮下埋込型ポートを留置しています」と記録された患者記録カードを主治医よりもらった。

翌日、50日間という長い入院生活を終え、長男、振と家内に付き添われて退院した。早速、振と畑に出かけて50mのネットを片付け、畑の整地を行った。来年の事は分からないので、地主に今年で終わることを告げた。

 

6.KKR札幌医療センターについて

50日間生活した病院なので、私の病院に対する印象を紹介する。KKRとは国家公務員共済組合連合会のK(国家公務員)、K(共済組合)、R(連合会)である。札幌市の豊平区に在り、地下鉄南北線の平岸駅より徒歩3分の地に在る。成り立ちは道内の国家公務員及びその家族のための結核対策病院として発足し、現在450床の地域の基幹病院である。患者数も一日1,000人を超え、690人の職員が対応している。医師・看護師等、とても若く、とても活気のある病院である。私は手のかからない患者だったようで、入院中2名の研修生(大学4年)が何かと面倒見てくれた。

レストランは2F.にあるが、定食屋さんといった風情である。 理容室もあり、1F.には、ローソンが24時間営業しており、私は毎朝5時半に新聞とキャラメルを買いに行った。病室は7F.で窓からは藻岩山が見え、豊平川の花火も良く見えるビューポイントであった。近所には良い雰囲気の喫茶店「札幌珈琲館」があり、来客があると許可を貰って休憩していた。

 

7.KKR札幌医療センターでのSP療法の開始

   私の再発胃癌はステージⅣで、簡単にいうとかなり重症です。既に外科対応出来ず、治療法としては癌化学療法しか残されていないのです。SP療法は、日本人には胃癌が多いと言う事でいち早く標準療法が整ったのだろうと思いますが・・・私の癌化学併用療法の治療開始となります。

  皆様にとってSP療法について少し説明しておきます。

  経口抗癌剤TS-1とシスプラチンの2種類を組み合わせて癌細胞の増殖を抑制する併用療法である。この療法は再発した胃癌に対して日本国内では広く使用されている。

  TS-1とシスプラチンがお互いに効果を高めあって癌細胞の増殖を抑えたり、死滅させたりする。治療スケジュールは通常5週間を一区切り(1コース)として繰り返す。私の場合TS-1を朝・夕各3カプセル60mgを21日間連続服用し、14日休薬する。この治療は抗癌剤の2剤併用なので、TS-1服用8日目にシスプラチンを2時間かけて点滴静注する計画である。分かり易く図で示すと以下のようになる。

SP療法開始。⇒夕食・朝食後 TS-1 3カプセル(20㎎×3カプセル)(平成24830日)

・好中球低下(28.9%、但し8/30の数値は37.9%)を認めTS-1服用中止、シスプラチンは使えないと主治医判断(平成2496日)。TS-1減量及びクレスチンの併用を提案。

KKR札幌医療センター外科

1クール(5wk)H25.8.30.H25.9.6.

㉚㉛①②③④⑤ ⑥⑦○○○○ ×××× ××××× ×××××

‐     ●     ‐    ‐      ‐

H25.830st. 9.7.白血球低値でTS1、シスプラチン共に投与断念

 

○:TS-1朝・夕6カプセル120㎎(1カプセル20mg)経口投与

●:シスプラチン90mg(点滴静注)

×:休薬期間

結局、当病院ではH25.9.7.で白血球低値のため投与断念、したがってTS-1点滴静注中止。以下結果的にやむを得ずH25.10.1.まで休薬期間となった。

主治医の意見:好中球低下(28.9%、但し8/30の数値は37.9%)を認めTS-1服用中止し、シスプラチンは私には使えないと主治医は判断し、新たに次の治療としてTS-1を減量し、シスプラチンを断念してクレスチンの併用の提案があった。主治医はこれ以上私の体を痛めつけるよりも、より緩和な治療にしていきたいという優しさであった。しかし、私にとってクレスチンは効かない代表的な抗癌剤という知識があったことで、私なりに今後の治療に関して考えるきっかけになった。昨今の国内外の治験情報を集め、臨床腫瘍学も進歩しており、治療法も多岐になっていることがわかり、院内のソーシャルワーカーに相談し、セカンドオピニオン制度を活用することにした。

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