4.2 小中学校における道徳教育 2014年1月24日 改
道徳教育とは、道徳的な心情を育て、判断力・実践意欲を持たせるという道徳性を養う教育のことである。文部省が定めた「道徳教育」に盛り込まれた徳目は、小学校から中学校を通じて、つぎの4つの柱に分けられ。
A:自分に関すること、 B:他人との関係、 C:集団、社会関係、 D:自然や崇高なものとの関係。この枠組みは、私・共・公・天に対応する。その内容を以下に示す。
(1)何を道徳として教育するか
A 私 自分に関すること
小学1~2年
健康・安全。規則正しい生活。物や金銭を大切にする。整理整頓。
任務遂行。善悪判断。
小学3~4年
自律。節度ある生活。深謀。謝罪と改心。不撓不屈。勇気。正直。明朗。快活
小学5~6年
節制。目標設定。自由。誠実。真理追求。創意工夫。自己評価。
中学生
責任。自主性、調和の生活。希望と勇気。理想実現。自己の向上。個性の伸長。
B 共 他人との関係
小学1~2年
あいさつ。言葉遣い。動作。幼児・高齢者への親切心。友情。感謝。
小学3~4年
礼儀。思いやり。理解・信頼・助け合い。尊敬と感謝。
小学5~6年
時と場所のわきまえ。男女協力。謙虚な心。感謝と報恩。
中学生
人間愛。友情の尊重。異性の理解。人格尊重。他人に学ぶ。
C 公 集団、社会関係、国家、国際関係
小学1~2年
集団、社会関係遵法。公共物の保全。父母への尊敬・家族愛。愛校心。郷土愛。
小学3~4年
公徳心。勤労。愛国心。国際理解。
小学5~6年
集団活動。義務の遂行。公正・公平。社会奉仕。国際親善。
中学生
集団生活の向上。法の遵守。社会連帯。差別偏見の撤廃。公共の福祉と社会の発展。
国際貢献。
D 天 自然や崇高なものとの関係
小学1~2年
動植物愛護。生命尊重。敬虔な心。
小学3~4年
自然への感動。崇高なものへの感動。
小学5~6年、中学生
自然環境保全。自他の生命の尊重。感動する心。畏敬の念。
(2)道徳教育の取り組み方
第二次世界大戦前には、「修身」が筆頭教科に位置付けられていた。戦後、アメリカ占領軍GHQは国史・地理と並んで、修身を軍国主義教育とみなし、授業を停止する覚書を出した。
現在では、理性ある社会人を育てる「道徳」として復活した。学習指導要領は、学校でおこなわれる道徳教育に、「学校の教育活動全体を通じて行うこと、全ての活動は一つの例外もなく須らく道徳的であること」を求める。
学級園で種まきをしている子供が「大きくなれ」「きれいに咲いてね」「おいしい野菜になれ」など言葉かけをする。運動場で転んだ児童に優しく声をかけ、応急処置をする。来客者を職員室まで案内する。これらの好ましい言動を、朝礼や学級会で紹介し、賞讃する。
逆に、ごみ処理場の見学中に「臭い」を連呼するとか、集会行事の列に割り込むとか、清掃活動中にふざけるとか、これらの好ましくない言動を諭すといった行動を通じて、道徳心を身につけさせる。
また、生活や総合的な学習の時間、社会見学、屋外特別活動における平和教育、人権教育、環境教育、歯の衛生週間や給食週間、交通安全週間等の取り組みの中でも、道徳心の成長を促すこととしている。
しかし、2013年1月の新聞には、「いじめによる自殺」、「部活での顧問教師による体罰」の記事が連日のっている。いったい、どういうことなのか。また、2013年2月8日、読者からつぎの投書が載っている。
「児童生徒の暴言、耐えるべきか 無職、65歳、元小学校教師
私は2年前、小学校の臨時教員として務めました。私の記録ノートには、「ばばあ来るな」「帰れ」「ばか」「死ね」など児童から浴びせられた暴言が赤字で記してあります。授業中にあやとりをしていたので取り上げたら「返さないとカネを要求する」とまで言われました。それ以前、正規教員として37年間勤務していた時代は耳にしたことはなかった暴言の数々。
今の児童や生徒は、教師に何をいっても許されると高をくくっているところがあります。教師が手をあげれば体罰として訴えられ、結局、負けることを知っているためで、教師は何を言われてもじっと我慢しています。今の教育現場では、心を育てることが失われているのではと感じました。」
不健康、だらしない、浪費、乱雑、なまける、浅薄、強情、卑怯、くらい、軟弱、のろい、不潔、無愛想、乱暴、いじわる、いじめ、卑怯、薄情、いばる、おしつけがましい、他人を無視、無頓着、ゴーマン、自己保身、わがまま、自分かって、違法、不法、犯罪、憎悪、破壊、暴力、騒擾、
鈍感、粗野、野卑、朴念仁、現世利益、人間中心主義、物神崇拝拝金主義、。。。。
(3)「修心」不在の戦後教育の問題 自由な個人のアトム化、「みんな」の理念化
昭和18年生まれのわたしは、まさに戦後教育を受けた者である。小中学校の時に「道徳」の科目があった記憶はない。昭和48年(1973年)生まれの息子は、公立の小中学校で学んだ。その息子に「学校で道徳をどのように習ったか」と聞いてみた。「道徳の時間は、自由学習時間で遊んでいたよ」という返事が返ってきた。
戦後教育は、個人の生命・自由・人権を絶対的価値とする新憲法にもとづく。戦前との決定的な違いは、「個人と国家」の関係の逆転である。
戦前の道徳教育の基盤は、国家を前提にした日本人を、天皇の赤子、臣民として育成する「修身」であった。それに対して、新憲法にもとづく義務教育の徳目一覧は、普遍的人間像、理念的な個人像、人類の一員としての「個人」の善き振舞いの羅列に過ぎない、とおもえる。児童・生徒に我慢を強制できず、教師が我慢している状況である。
戦後社会では、日本人、日本国の国民としての道徳規範などを主張すれば、右翼の反動的な時代錯誤、民族主義、ナショナリズムとして、はげしく排撃されてきた。集団主義を批判し、個人主義を強調するインテリ知識人たちによって。
それゆえに、普遍的人間性の自由を謳歌する現代日本人は、道徳ではなく法律、規則、行政に人間関係の社会秩序を委ねてしまったのである。
フリー/自由とルール/制度の両輪が、私公二階建社会構造を支える。「個人の自由を社会的に抑制すべき」倫理道徳=「共」を教える社会的常識、社会で生きる根幹の軸がなくなったのだ。
ところが、2011年3月11日の東日本大災害において、行政機能以前に人間関係の「絆」の価値が再発見された。非常時においては、縦割り行政の制度運用は、弊害となることが分かった。非属人的な公平・平等の形式的な制度運用は、災害時の混乱に拍車をかけた。災害復興は、中央集権制の縦割り行政機構のゆえに、なかなか進まない現実がある。
「絆」、「情」つまり「心;こころ」を通じ合わせる人間関係こそが、緊急非常時に対応できることが証明された。「災害ユートピア」という冷笑的な表現もある。
そのような「こころ」・心情は、どのようにして涵養されるものなのだろうか。平常時においては、なぜ、そのような「こころ」・心情が、潜在化するのであろうか。
人間は、社会的諸関係における立場や役割をもち、他者との人間関係―外部環境を生き、喜怒哀楽、快楽悲哀、美醜、善悪などを表情させる。それは、その人の人格が決定する。
貴族、武士、支配者、権力者、指導者、強者、管理者、庶民、平民、弱者、障害者、賢人、愚人など人間社会には、さまざまな人種が生息してきた。そこには、前後・左右・上下の人間関係が不可避である。その人間関係の経験を通じて人格が形成されていく。
その人格形成は、どのようにして為されるか。単に自由な個人を標榜するだけでは不十分である、とわたしはおもう。
人格形成には、「身・心・頭」の学習、教育、訓練、修練、鍛錬などの「修行・修業」が必須である。戦後教育は、「修頭」=学業・受験勉強、「修身」=運動、スポーツ活動に過剰に偏重している。「修心」=人格形成・陶冶・心情の訓練の不在である。
学校現場における「いじめ」問題の根源には、「修心」の不在とおおいに関連がある、とわたしはおもう。
・自然への畏怖、生き物の生命への畏敬という自然環境における直接的体験の喪失。
・他の動植物の生命を食して自らの命を生き延びるという自覚への鈍感。
・自分の身心頭の欲望追求をどこまでも是認する自由。
・誕生、子ども、大人、老人、死という自然な変化を受容する忍耐力の欠如。
・自分と異なる多様な他者たちとの「もたれあい相互依存」意識の欠如。
「個人の自由」、「人間の尊厳」、「人類の平等」に関する戦後思想の理念過剰。
では、小中学校で道徳教育を受けた生徒たちは、高校に進学したら、どのような倫理教育が待っているのだろうか。