2013年5月25日 No.4 肉眼、心眼、三つの自分
No.4 ●肉眼、心眼、三つの自分
わたしの肉眼は、自分の外をみる身体の一部である。わたしは、自分の眼で、自分の眼をみることはできない。自分の外側にある光のおかげで、外の物事をみることができる。わたしは、若いときからの近眼と年をとってからの老眼のため、眼鏡を使っている。眼鏡をかけたときと、はずしたときとでは、外の世界はちがってみえる。
外の世界には家族がいる。隣人、知人、友人、仲間たちがいる。会社も経営した。同僚、上司、部下がいた。顧客の会社の社長や社員たちともつき合った。役所がある。国家がある。世界がひろがる。自然がある。朝日が昇り夕日が沈む。夜と昼がある。
肉眼は、そういう外の世界をみる。
「みる」という単語には、見る、観る、視る、診る、看る、などがある。人がことばを使うコミュニケーション状況と文脈のちがいによって、異なる文字言葉漢字記号があてられる。
外をみる肉眼に対比させて、心眼という文字が比喩的につかわれる。物質的な身体器官である肉眼とちがって心眼は、自分の外側環境ではなく、自分の中側または内側をみる心や頭のはたらきを意味する。「自分の中側または内側」といっても、それも自分の心や頭のはたらき心象意識現象である。
ここで、やっかいなことになる。
「自分の心や頭のはたらき」を「自分の心や頭のはたらき」でみるという自己言及の事態である。自分と自分が、入れ子になって錯綜する。心眼とは、その錯綜関係を「みる」機能作動である、と考えることができる。
自分の「日々の日常生活」を、「落ち着かない気分」として自省することは、自分が自分を観察することであるので、心眼のはたらきのひとつだといってよい。
ところで、外側をみる肉眼・客観と内側をみる心眼・主観という二つの想定は、すぐ主客二元論だ、素朴実在論だ、幼稚な唯物論だ、などの哲学っぽい反論がきこえそうである。
だが、それにはおよばない。外側を「みる」といっても、その外側世界は網膜をとおした心象としての意識の現象である。自分の意識現象を「みている」のだから、ほんとうに外側の物事をみているわけではない。自分の意識の場である心身頭に現れた象を心眼でみているのだ。
肉眼は、たんなる身体的な器官にすぎない。心眼こそが、動物とちがう人間の理性や知性や自己意識なのだ。その理性や知性が、意識現象を言語として解釈学的に変換する。
このような思弁と日常の実践との関係性については、あとでまたふれることにして、ここではいきなり「三つの自分」を定義することにする。
自分 = 身体自己+ 生活自己 + 了解自己
身体自己: 生物学的なひとつの個体、生命の自律性で生死する。心身頭を構成する。
生活自己: 衣食住のための社会的な関係性、子供―成人―老人として生きる人間。
了解自己: 身体自己と生活自己を観察する超越者、無限を見渡す心眼機能をもつ人間。
この定義をつかえば、「落ち着かなさ」の気分は、「こんな時間のすごし方」をする「生活自己」を観察して「落ち着かない気分」になる「了解自己」の自己記述となる。
この記述は、自己了解したいという納得、自得欲望の裏返しでもある。そして、自分の自己了解への欲望が、倫理的な欲求につながると観想する。
「身体自己」の欲望は心身頭の自律的な本能であるが、「生活自己」の欲望は、社会的諸関係性における状況選択的なWill欲望である。
自己了解への欲望は、超越者として無限を見渡せる視座から、自分がそこに内在して活きる生活世界という全体、宇宙、自然を、了解・自得・悟りたい欲望である。
この欲望が、自然科学的な合理性を超えて倫理的な感じをともなう則天去私・敬天愛人の理性につながるのである。
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●2013年6月2日 追加
「われわれは皆、程度の異なる「痴呆」である。(大井玄 終末期医療専門医者)
わたしは、この言葉が好きです。
「痴呆」とは、「身体自己」、「生活自己」、「了解自己」の分裂状態の程度だと考えます。
自分とは、確たる「同一の主体」などではない。だから、あまり「個人の主体性の確立」などと声高に叫びたくない。「主体性」を尊重しすぎることは、我執ならぬ我醜なのではないか。
自分とは、三つの自己の「分裂と統合」のせめぎあい状態である。
自己を「統合」する生命力が失われた状態は、「自分」であることの破裂である。
その「破裂」状態が、完璧な「痴呆」なのではないかと思う。
その状態で「生き続ける」ことは、自然なことなのか?、倫理的なのか?
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