No.10 なぜ人生三毛作か?

人生三毛作で少子高齢化社会を生きる価値観や思想性を考える。

20歳ごろまで続く学業期と65歳ごろからはじまる終業期は、「仕事をしない」という意味で生活条件を共有する。このこと自体は、むかしから変わらない。変わったのは、両者が社会を構成する比率である。

その比率が、「多子少老」社会から「少子多老」社会へ真逆に転回したのである。

だから、壮年・職業期の生き方を基礎とする仕事中心の価値観が、これまでのように一元的に社会を統制する思想でよろしいのか、とわたしは問う。 

わたしは、壮年期の仕事中心価値で長い老後をすごすことに納得できない。長命老人の生き方を、仕事世代の価値観に回収できない社会条件が増えたからである。

 

少子高齢化がもたらす社会的諸問題に正面から立ち向かうためには、少子高齢化をもたらした歴史性に遡って、その原因を考え、その思想性を問わなければならない。そこにたちもどって、人間の生き方として、少年・学業期と老人・終業期の「新たな」生き方に目を向ける。仕事中心価値とは別の「もうひとつの価値観」にもとづく生き方、ライフスタイルを構想する。

  

では、仕事をしなくなった老人たちは、老後を生きる価値観をどこにおけばいいのか。老人世代は、「少子高齢化」社会の少年期世代と、どのような関係性を生きればよいのか。

その価値観がどのようなものになろうとも、仕事中心の価値観と並存共立しなければならない。なぜなら仕事中心の壮年世代が、「世の中を仕切る」ことを否定することはできないからである。壮年期の仕事中心の価値観が、一元的に社会を統制することに、わたしは異論をとなえるのである。

 

人生三毛作が構想する社会は、壮の「仕事価値」と少・老の「もうひとつの価値」が並存する制度である。一元的な価値観ではなく二元的価値観である。壮と少・老が共存して棲み分ける国家制度、一国二制度の構図である。

 

この構図は、植物世界と動物世界のあり方に重なる。それは、差異の多様性が共存して棲み分ける世界である。生物の多様性世界には、その構成員に君臨して一元的に統制する価値観は存在しないとわたしは思う。

水族館に行けば、多くの種類の魚たちが、ひとつの大きな水槽で、お互いに「我関せず」という風情で悠然と泳ぎ回っている光景を目にすることができる。それをながめながら、のどかな感じになる。

 

アフリカの動物自然公園に行ったことはないので、テレビでみる感想でしかないが、わたしは、動物社会が百獣の王・ライオンを頂点とした勝者/敗者の階層的ピラミッド社会とは思えない。

動物は植物とちがって、動物として生まれたら他者の生命を食って生きるしかない。特定の動物は、手当たり次第になんでも口にするのではなく、自らの生命が必要とする他種の命は限定されている。その自然な営みである食物連鎖の生態系が、動植物世界の秩序を維持する。その生態系の原理が「弱肉強食」とは思えない。

樹齢数百年の大樹をみれば、わたしはその姿に感動する。地下に張りめぐされた見えない根、年老いた幹、その先の枝、太陽に向かって繁る葉々たち、争わず、他者の生命を必要とせず、生まれた場所をうごかず、風になびき、悠然とたちつくして年を重ねている。その生きる姿勢にみとれて、わたしは感動する。「植物人間」などいう言葉は、そのような木々たちに失礼だと思う。

 

動物社会を、「闘争本能にもとづく弱肉強食」とみなす思想性は、王様や貴族の存在を自然視する特定の立場の主張でしかない。それは、貴賎、強弱、勝敗、上下などの階層的序列を自然とみなす価値観・思想性を擁護する賢しらな「学者」の知恵なのだと思う。

近代文明の発達した人類社会は、植物世界と動物世界に見られる差異の多様性を棲み分ける世界とは、いちじるしく異なる。

西洋に発した思考方式は、差異の多様性ではなく、普遍的原理や客観的法則を「真」なるものとする哲学を根とする。究極のひとつの原理を追求する。一神教的な価値観である。

 

「我思うゆえに我あり」の理性中心の西洋思考は、多様な差異の織りなす現実を単なる一過性の現象とみなす。その現象の背後に潜む本質を真なる実体とみなす。現実のもろもろの事象は、本質の仮像とみなされる。

もろもろの事実に共通する属性や時間の前後に継起する事象の因果関係の解明に、人間の理性を集中させる。感性にもとづく直観よりも理性をはたらかせる分析に価値をおく。心よりも頭を重視する。複雑に錯綜した具体的事象群よりも、それらを抽象化して獲得した普遍的な原理や法則性に価値を求める。科学的、合理的な思考である。

 

わたしも理科系の人間である。大学時代に「技術とは、客観的法則の意識的適用である」という「現象―物質―法則」三階層の竹谷理論にであった。その理論に傾倒し、卒業して情報システムエンジニアとして仕事をするとき、ひとつの強力な方法論となった。

その後、システムの巨大化と複雑性の加速化に直面した。集中システム/分散システムというシステム設計論が、おおきな課題になった。

それと密接に関連して、人文科学や社会科学のいう「科学性、客観性」におおきな疑問をもつようになった。人文・社会科学の「学説」は、物質を対象とする自然科学の法則性や工学的技術論とは、根本的にちがう、という感想である。そこで、わたしの思想転換がはじまった。

人生三毛作の思想性は、その延長にある。

 

さて、「ひとつの本質的な原理」でもって一元的に社会を統制することは、爆発的に複雑性が増大する現代社会では、不可能になりつつあるのではないか、とわたしは思う。

壮と少・老が共存して棲み分ける国家制度、一国二制度を構想する理由である。

個々の現象的な差異の多様性にもっと価値を求めようとする「もうひとつの価値観」は、日本人の「八百万の神々」の深層心境につながることは、いうまでもない。

「合理性の抑制、倫理性の復権」、「私と公の縮小、共と天の重視」、「身心頭の三元論的人間像」という「もうひとつの価値観」とは、どのようなものなのか。考察を続けよう。

以上 

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