2013年5月25日 No.3 Must規範の空虚観 老後をすごす何となく感じる落ち着かなさ
No.3 ●老後をすごす何となく感じる落ち着かなさ
わたしは、この世に生まれ出てからずっと止まることなく、ある時間、ある場所で、身体を動かし、心で感じ、頭を使って、生きてきた。ご臨終の時までのその連続が、「生命を生きる」わたしの生活である。
「いま、ここで、生きる」身心頭のはたらきを「実践」とよぼう。日々の日常生活における実践のほとんどは、社会的諸関係で身にしみた損得、好悪、惰性、欲望、強制などによって動かされる。法律、規範、習慣、義務、責任、社会常識、約束ごとなどによって生きる動きは、川が流れるがごとく、順流あり逆流あり、自然かつ偶然に、無意識かつ意識的に、作為かつ不作為に選択される。
生活という社会的な実践は、外部環境との関係性を生きるWill意志とCan能力とMust規範のはたらきの総体である。
人の実践は、「Willしたい、Canできる、Mustねばならぬ」の合成である。
夜ねて朝おきて、そうして1日が始まる。昨日はかくあった。今日もかくある。明日もかくありなん。そうして少年時代の学業期と壮年時代の職業期を経て年をかさねる。少壮老のそれぞれの時期で、社会的諸関係も変化する。
2013年現在、退職した年金くらしのわたしは70歳の老後を日々是好日、無為に過ごしている。老人時代の終業期である。社会的な人間関係もめっきりと減らしつつある。おかげさまで我が身辺は、まことに平穏である。
だが、ときどきふと自覚的に意識を働かせて、「こんな時間のすごし方でいいのか、それで満足なのか」と自問する場面にでくわすときもある。「老後をいかに生きるべきか?」、「人間らしい老後の生き方とは?」という自分への反省自省である。
「こんな生き方で善いのか、良いのか」という自問は、「のうのうと生きながらえる」ことへの「心のどこかに疼きがある」という感じである。
この感じは、「いつまでも生き続ける」という生命の自律的な衝動を否定して「早く死にたい」という思いではさらさらない。生きることに悩みは感じない。不条理な塵芥俗世への嫌悪感は、すこしはあるが、生きることの生命への不安はない。むしろ自然な生命力を賛歌する気持ちがつよい。
老後をすごしながら感じる反省は、今の「不条理に満ちあふれた」日本社会のなかで、心配ごともなく安穏として「生きながらえる」ことに、「なんとなく落ち着かないなあ」という気持ちをいだくことである。
つまり、暇になり、社会的責任束縛もなくなり、ハダカの自由な個人になった感じである。社会的諸関係性から解放された純粋な個人意識、実存意識である。
その意識は、束縛や義務や責任という意味でのMust規範の空虚観にかかわる。則天去私・敬天愛人の境地ならばよい。しかし、そこまでの達観はない。
Must規範なき、気ままなWill自由をすごせるCan能力ゆえの「落ち着かなさ」気分が、倫理的な関心につながるのである。つまり、「老人倫理」への問題意識である。それは、「世代間倫理」と「老人の社会的責任論」につながる。
以上