No.11 株価の乱高下と憲法改正の議論について

~合理性と倫理性を考える序論その1 ~~

 2013年6月14日、今日もニュースで株式市場と為替相場の乱高下をつたえる。世界公認のカジノ・ギャンブルとしかわたしには思えない。マネーをもっとも効率よくかせぐために、「」をつかう合理的思考が、あくなき貪欲で非倫理的な「」を是認している。「頭」の突出、「心」の亡失にみえる。

 

合理的な判断方程式をプログラム化し、超高速性能のコンピュータ群が数ミリ単位で株式や為替の売買を繰り返す。人間の欲望や価値観には関係なく、コンピュータはひたすらプログラムを動かすだけである。そのプログラムもコンピュータも理性的な科学技術の産物である。

難解な近代経済学の数理をあやつる頭脳明晰なはずのノーベル賞級の経済学者たちが、それぞれの見通しを予測する。しかし、その結果と影響に責任を負うようには思えない。

わたしの理解をこえるヘッジファンドとかマーケットとかいわれる「怪物集団」が、グローバルなギャンブル資本主義経済を動かしている。ナショナルな国家政策は、それに振り回される。ローカルを生きるわたしの身辺にもその影響は波及してくるのであろう。

この状況をわたしは、身心頭のバランスを失調した高度な専門的な知性が、「天」をおそれることなく、「私」的欲望を実現するために、「公」的システムを利用しつくす「仕事中心」価値の現象であるとみなす。

 

いやはや、資本主義思想の極端な合理性追求が、没倫理性を生み出していると感じざるをえないのだ。過ぎたるは及ばざるが如し。「ほどほどのところで止めておきなさい」と「企業家」にささやく自然な人間の知恵は、どこへいったのか?。

 

政治の領域では、戦時中の隣国への侵略行為、従軍慰安婦および米軍の沖縄基地、尖閣・竹島・北方四島などについての政治家の発言が、ニュースになる。自民党は、「憲法改正」への国民的関心のたかまりをねらう。それぞれの政党は、時代認識、歴任認識、価値観、思想性、イデオロギーに即して、「憲法改正」のテーマに立ち向かう。

憲法改正をめぐる議論では、いわゆる「右翼」思想といわゆる「左翼」思想の対立が鮮明になる。戦前の「天皇制・国家主義思想」に対抗する「戦後思想」擁護派の発言が顕著となる。その対立を、「自由な個人:国家の秩序」および「平和維持:軍隊」の二項関係でわたしは理解する。

市民:庶民」あるいは「理念:現実」の対立関係でもある。この関係性の設定は、「倫理性:合理性」の問題意識と表裏一体である。

 

○いわゆる「左翼」思想の「倫理性と合理性」について

現実べったりの資本主義思想の「極端な合理性追求がもたらす没倫理性」のいっぽうで、いわゆる「左翼」思想について、「極端な理念至上の価値観がもたらす超合理性と没倫理性」をもわたしは感じる。

人間と社会の現実の諸条件を抽象化して「理念」をふりかざす「左翼」思想も、「過ぎたるは及ばざるが如し」。「ほどほどのところで止めておきなさい」と「学者・文化人」にささやく自然な人間の知恵は、どこへいったのか、と問いたいのである。

 

いわゆる「左翼」思想とは、戦後の野党勢力であった社会党や共産党などの「革新」政党を支持する「市民」と言われる人たちの価値観である。「庶民」や「国民」よりも一段高い「意識」をもったインテリと称される戦後憲法擁護派の「市民」思想である。

「基本的人権の絶対化」、「国家権力への反発」、「絶対平和主義」をとなえる思想である。その発言者たちは、進歩的学者、リベラル知識人、良心的文化人、人権派弁護士、革新系政治家などとレッテルをはられる人種や戦争絶対反対の出兵体験者や遺族たちなどにひろがる。その極端に革命的過激思想の党派も位置する。

 

新聞のコラムに「永久不可侵のはずの基本的人権」という文言を見つけた。わたしは、「永久不可侵か?、そうなのかなあ?、思考停止じゃないの?」と思った。同紙の別の面には憲法「96条の会」の結成を主導した長老憲法学者へのインタービュー記事があった。それを引用する。(強調と下線は、わたしが注目するキーワード)

自民党の憲法改正草案:

 「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」

憲法学者

 「自民草案は、欧米諸国が共有する価値観、社会観とは反対方向に踏み出そうとしています。国家は、これまでの役割から撤退しようとしている。公共の福祉という語が、その草案には一つも出てきません。これからの福祉は国家が税金で担うのではなく、家族や世間が引き受けるべきだというのでしょうか。」

自立した一人一人が契約を結び、国家権力を作る。それが日本国憲法が描く公共社会の像です。その権力が暴走しないよう、憲法で縛る。土台は個人を守ることにあります。」

 「3.11後の混迷の中、人々は連帯した。原発をやめよう、という市民の動きの広がりは、日本社会に新風を吹き込んだ。まさに自立した個人の発見でした。」

 「社会が危険な方向に向かうとき、沈黙してはいけない。専門知を持つ市民としての義務感で、「96条の会」を立ち上げました。」 (引用終わり)

 

 自民党草案は、「:個人」と「:国家」の中間層に「:家族、世間、社会」を差し込む。

憲法学者は、「私」を「自立した個人」、「自立した一人一人の市民」とみなす。「公:国家」権力は、「自立した一人一人が結ぶ契約」によって作られる。これが、欧米諸国が共有する価値観、社会観だという。戦後知識人が信奉する西洋思想、個人主義思想である。共同体の否定につながる。

「原発をやめよう、という市民の動きの広がりは、まさに自立した個人の発見」という発言に、わたしは思わず苦笑いした。

 

憲法学者に以下のことを聞いてみたい。

自由な「個人」が集まって、どうやって「国家」の秩序が維持されるのか。赤ちゃん/寝たきり老人、強者/弱者、善人/悪人、賢人/愚人、勤勉家/怠け者などなど無数に区別できる「個人」の「自立」とは、どういうことなのか。人は、個人として「自立」できるのか。「一人一人が契約を結ぶ」とは、どういうことなのか。

 

図書館にいけば、古代ギリシャの哲人が語った言説を源流として、学者たちのおびただしい書物があふれている。しかし、もはやわたしには、それらを狩猟する気力も能力もない。すべての書物を読みきれるわけではない。たくさんの専門的な知識を仕込んだからといって、わたしの「了解自己」が納得して日常生活をすごせるとは限らない。知識よりも「天」を意識する生き方に価値を認めるようになったからである。

むしろ、学問を職業とする学者たちの抽象的な思考様式、学問の方法、「原理」を求める理性のあり方、個別性よりも普遍性への価値評価、一神教的な真理探究など、に嫌悪感すらいだく。生身の身心頭のバランスが失調した「やせたソクラテス」の理念的人間像に憐れみすら感じるのである。

 

人間の身心頭には、善悪ピンキリの豊穣さが潜在していることを信じるわたしの生命観からみれば、「専門知を持つ市民」を自称する学者・文化人などの「左翼」思想家たちは、人が自然にそなえている「人間性」を軽視しすぎ、理想で現実をかくし、キレイ事すぎ、一面だけを見て、理念に偏重し、個別性に価値を認めず、非現実的すぎるのじゃないか。知行不一致ではないか。

だから結果的に無責任な社会性につながると思うのである。万年野党に安住する体質である。

理想あるいは理念とは、合理性と倫理性の究極の概念である。護憲派たちの思想性は、その究極地に安住しているという意味で、「超合理性と没倫理性」であると考えるのである。端的にいえば、イデオロギー過剰の原理主義が嵩じたタテマエ論だと思うのである。

 

ネーに至上価値をおく合理性は、利益のために過剰な実践にむかい、反倫理的な社会格差を生み出している。

理念に至上価値をおく合理性は、理想のために実践を忘却し、倫理性の社会変革をもたらすことなく、現状維持を補完するだけになっている。

車の運転では、具体的な状況に応じて、アクセルとブレーキをうまく調整する。生身の人間も、身心頭のWill欲望Can能力Must規範をうまく塩梅して生きる。

「太った豚」でもなく「やせたソクラテス」でもない、おおぜいの普通の人つまり「庶民」や「国民」は、その両端のどこかを「ほどほど」に中庸を生きる。わたしは、そこに現実の「合理性」と「倫理性」を求める。身の丈の「ほどほど」を「善し、良し、好し」とする価値観である。

次稿では、わたしが考える「倫理性」をとりあえず定義して、現実社会の倫理状況をさらに考える。

以上            

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