No.21 身近な地域の「条例制定」運動を憲法改正プロジェクトに組み込む  2013年7月14日

1853年、ペリーの黒舟が浦賀に来航。日本の近代国家の建設がはじまる。

1945年、アメリカが原爆投下。日本の民主主義国家の建設がはじまる。

20xx年、富士山大爆発、南海トラフ大地震/首都直下型地震発生、原発事故発生/大量放射能汚染、領海軍事衝突などなど。日本の????国家の建設がはじまる。

このように荒唐無稽と思われる大袈裟な想定ではなく、もっと目先の変動も予想できる。アベノミクス効果で、自民党が参議院選挙で圧勝するだろうが、二の矢の「財政出動」が公共事業のバラマキに終わり、三の矢の「構造改革」が、既得権益者の「福利」だけに貢献し、そこから排除された国民には「不利」しかもたらさない事態も予想できる。

今の自民党政権が、何十年も続くとは思えない。野党共闘とか野党再編とかのレベルではなく、「国家のあり方」つまり「国家経営システム」の再構築の準備を、だれが、どのように担うのか。野党は、どのような訓練をして、つぎの政権交代に備えるのか。

 

7月21日の参議院選挙に向けたNHKテレビの政見放送をながめる。「わたしは、○○します。わが党は、△△します。」という。この人たちが、国民を代表して、国家権力を行使できるのだろうか、と疑問に思う。この政見放送は、政治コマーシャルである。民放テレビがながす企業の宣伝広告は、現実に販売商品があり、販売契約の約款があり、取扱い説明書や保守サービスなどがある。しかし、政治コマーシャルは、政党カタログの絶叫でしかない。実現性が希薄である。

 

政党や政治家たちの仕事は、①支援者たちの要求を聞く、②役所につなぐ、③予算を獲得することで手一杯。立派な見識をもった国会議員もたしかにいるが、④実現可能な政策をつくれるほどの専門家は少数派である。せいぜい三割ぐらいだろうか。

「わたしは、○○します。民主党は、△△します。」といって政権交代を果たした民主党政権は、「国家権力を行使する」能力をまったく訓練していなかったことを露呈した。市民運動の野党経験だけでは、多様な差異を調整しなければならない国家権力を担えないことが、明確になった。

なにごとであっても、練習、訓練、リハーサル、シミュレーション、テストなどの入念な準備がないまま、いきなり本番でうまくいくはずがない。

では、「権力を行使する」という国家経営システムの「入念な準備」とは、具体的に何をすればいいのか。

 

国家経営システムを「運用」する行政は、一時の停滞もゆるされない。常に本番運用である。国家経営の継続性を維持しなければならないからである。選挙で落ちるかもしれない政治家に、継続性を期待することはできない。だから、官僚の行政権力の責任と執行能力は、政治家の責任と立法権力の執行能力を、はるかに凌駕することは必然となる。

だが、行政権力を執行する国家公務員も地方自治体の公務員も、国民に選ばれた代表ではない。憲法違反とはいわないが、憲法運用の大きな現実的な問題だとわたしは思う。

この問題を元システム屋からみれば、国家経営システムには、そもそも「システム開発プロジェクト」という概念がない、という解釈になる。

 

官僚が、制度設計と法案と予算案を準備する。国民を代表する国会議員の先生たちが採決する。そして、役所が施行する。テスト、シミュレーション、実験、実証確認などの工程がないのである。試行や運用研修もほとんどない。いきなり本番である。

一部の国民にとっては、「著しい福利の侵害」をもたらすシステムであっても、公共事業として強制執行される。無駄な公共事業は、山ほどある。

だから、「制度設計と法案と予算案を準備する」官僚行政の仕組みを、「主権在民」を代表する政治家がとりもどすこと、これが憲法改正をともなう「国家の革命」であると、わたしは思う。自民党の「日本をとりもどす」というスローガンではなく、行政官僚から「立法権をとりもどす」べきである。主権者と代表者が、「制度設計と法案と予算案を準備」できるためには、そのための訓練をしなければならない。

 

○身近な地域の条例制定運動を憲法改正プロジェクトに組み込む

そこで、主権在民の国民が国政に参加する教育訓練もかねた国家プロジェクトを構想する。

複雑きわまる国家経営システムの基本方針と本番運用の間に、設計・構築・テスト・研修というシステム再構築プロジェクトを起こせないか。

全国の各地の町内会・自治会に特区を設定して、人生三毛作の少/学業期と老/終業期が連携した地域コミュニティの「学老共働プロジェクト」を、憲法改正プロジェクトに組み込めないか。

 

「システム再構築プロジェクト」の仕事は、つぎのような工程に配置される。

Ⅰ.プロジェクト企画
国民の福利に関する「要求仕様」、「制約条件」、「システム開発プロジェクト計画書」

Ⅱ.システム構築

「設計書」、「単体・部品・モジュール・パッケージの開発」

「結合テスト」、「総合テスト」

Ⅲ.システム導入準備

「運用教育研修」、「旧システムとの連携/停止」、「新システムの導入」

そして、現実の国家経営システムの「本番運用」、システム機能の「享受」、その効果や影響の「評価」、「改修・保守」となる。

 

わたしは、横浜港に隣接したマンション団地に住んでいる。横浜市は、横浜インナーハーバーの活性化に向けた都市整備計画を作成している。さまざまな団体による各種提言もなされている。その計画やビジョンには、つぎのような美しい文言があふれている。

「水際線緑地や市民交流施設など、地域・市民に親しまれる、にぎわいのある港湾空間の創出と自然・環境にやさしい街をつくっていく。就業・居住空間が融和し、運河などの親水空間を含む魅力的な複合都市空間をつくる。海・運河・河川など水際線の市民利用の促進や公園・プロムナードの整備、また、これら水や緑のネットワーク化などの自然環境の活用・回復・創出により、水や緑と親しめ、次世代へ残していける持続可能な街づくりをすすめる。

 

 団地に接するウォータフロントの近辺を十分も歩けば、10個以上の「危険」、「立入禁止」、「釣り禁止」の看板のオンパレードである。水際線の現状は、既得権益の業者または未使用のままの放置状態が続く行政の占用空間となっている。市民が水際線を利用することを、強制的に排除している状態である。現状の施策は、「海・運河・河川など水際線の市民利用の促進」ではなく、真逆の「禁止」だらけである。役所が判断する「きたない」、「きけん」、だから「禁止」という論理である。

 

いっぽうでは、地域共同体を喪失した都市住民たちは、身の回りの困りごとを、自分たちのコミュニティで解決する知恵と思想性を劣化させ、何かがおこれば、解決と責任をかぎりなく行政に求める。

行政にとって、その責任追及に対応する効率的で効果的な方法は、「何もさせない」予防線を張ることになる。このことが、水際線を「立入禁止」にする予防線になる。この事態をつづけるかぎり、計画やビジョンにおどる「にぎわいとうるおいのある空間をつくる」などの文言は、どこまでも空虚な響きしか残さない。では、どうするか。

 

市民が、水際線の利用を促進し、市民に親しまれ、にぎわいのある魅力的な港湾空間を創出できる条例を制定すること。

下の現在の横浜市条例に(4)海洋教室許可を追加すること。

【横浜港の港湾区域内における水域の占用等に関する条例】(平成12年3月27日)は、つぎの各号について、許可申請を市長にしなければならないとされている。

(1)水域占用許可 (2)土砂採取許可  (3)工事許可

 

釣り大会、魚の食育、カヌー教室、海浜清掃、ヨット操船とクルージング体験など、未来をになう子どもと学生たちの活動を、地域の老人と議員たちが応援しながら、条例制定という民主主義の訓練をすること。

そのプロジェクトを通して、町内会・自治会を行政機構に制度的に組み込む憲法改正への勉強会などを開催すること。

その主権在民の活動を通して、自分たちの代表である「議員」を育て、支援すること。

 

「国家経営システム」の再構築の準備を、だれが、どのように担うのか。野党は、どのような訓練をして、つぎの政権交代に備えるのか。国家経営システムの「入念な準備」とは、具体的に何をすればいいのか。主権者と代表者が「制度設計と法案と予算案を準備」できるためには、そのための訓練をしなければならない。行政権力を執行する国家公務員も地方自治体の公務員も、国民に選ばれた代表ではないことは、憲法運用の大きな現実的な問題である。

このような問題提起への自らの回答が、「身近」問題を「国家」につなげる「地域の条例制定運動を憲法改正プロジェクトに組み込む」構想である。

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