2013年5月25日 No.2 姥捨山伝説について

No.2 ●姥捨山伝説について

高齢の親を山に捨てる物語がある。「楢山節考」:深沢七郎の短編小説。1956年(昭和31)。

 

食糧事情の貧しかったその昔、日本のどこかの集落では、60歳に達した老人は、口減らしのために山に捨てられるという風習があった。主人公はおりんという老婆。彼女は、その風習を老後の自然な結末としてうけとめている。じょうぶな前歯を長生きへの執着だとして自ら恥じ、石臼に打ちすえて折ってしまう。死に向かうすさまじい迫力である。息子の辰平は、風習とはいえ、親子の自然な情になやむ。村の掟にはさからえず、いやいやながら老母を背負って楢山へ向かう。

姥捨山伝説である。姥捨ての実際については、はっきりとした公的記録はないそうだ。

 

わたしは、この短編をときどき読み返し、そこに日本人の心の底に沈んでいる「倫理性」を感じる。西欧から輸入された個人の自由を基礎におく「倫理」とは異質な感情なのだ。

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つぎは、物質的な貧しさを克服した飽食の時代の今の日本社会の実話。

 

周りの人からも社会的に尊敬されて生きてきた女性が、95歳で脳梗塞を起こし入院した。点滴の管につながれ手足をベッドに縛られた。それを嫌がり、不眠とうわごとが続いた。鼻に入っていた栄養チューブを自分で抜いた。尿を出す管も引き抜き治療を拒否する。71歳の娘が、おかゆやヨーグルトなどをスプーンで少しずつたべさせようとしても母は口をあけない。水も飲まない。

 

みなさん、私はお先に行きます。あとはよろしく。幸せな人生でした>と言い始めた。

知人が呼びかけても口を一文字に結び、眉間にしわを寄せたまま、一言も発さない。

医師は、おなかに穴を開けて栄養チューブを入れる「胃ろう」を勧めた。

娘は断った。そして、病院を出てケア付きホームホスピスのNPO法人の施設に移る。

病院とは違う環境で介護される。そこで以下の会話。

ケアマネージャ: 「お迎えがくるまで待って下さい。自分から死ぬと、残されたほうがつらいです」

老女: 「待っていないといけないのですね」

ケアマネージャ: 「そう。もうしばらくかかりますよ」

老女; 「わははっ」と笑った。

以上の記述には、老人がその生命を閉じる場所と死への意志の差異がふくまれている。

死に場所は、①貧しい集落共同体、②終末医療病院、③ケア付きホームホスピス。

死への意志は、A.集落の掟への順応、B.治療と食事を拒否する強い意志、C.お迎えを待つ

 

①-A.共同体の掟
現代の日本社会には存在しない。過去のはなしである。個人の自由を至上価値とする近代思想は、共同体の規範を文化的な後進性として否定した。個人情報保護が過度に強化され、独居老人の孤独死がニュースになる。

 

②-B.病院の医療技術

分子生物学と電子情報技術の驚異的な進歩は、人間の物質性の秘密を解明しつづけている。人間の肉体的な延命措置と人間の精神的な生活価値とのギャップがひろがる。尊厳死や安楽死や生殖医療や臓器移植や人造人間などが、ポストモダンの生命倫理や職業倫理や技術倫理としてテーマ化される。

ここでは、生と死という根源的なテーマを基礎として、人間の尊厳性、自由意志、主体性、個人の社会性など古くからの哲学的概念を、根本的に問い直すことが要請されている。
自らの死を早めるために、「治療と食事を拒否する強い意志」は、個人の自由なのか。
自分の命を、自分の意志で制御できると考えるか、制御できないと考えるか。

生命の自律性を意識的に制御しようとする理性的な自我と技術は、倫理的なのか。

 

③-C.ケアとお迎え

共同体的集落と合理的な病院との中間に位置する家族的な終末環境における土着的な死生観である。人間を物質性として処置する病院医療ではなく、人間的関係を維持する介護のテーマである。

「八十はサワラビ(童)、九十になって迎えがきたら、百まで待てと追い返せ」という格言が刻まれた石碑が、沖縄の浜辺にあるそうだ。

 「迎えが来る」、「追い返せ」、「待て」という日本語の擬人的表現には、「死神」を連想させる。死神とは、自分の命を止めることに関わる何者かである。

その何者はどこにいるのか。つぎの三つが考えられる。

①    自分の体内のどこかに潜んでおり、あるときに現れる。アポトーシス・癌。

②    「この世」のどこかに潜んでおり、あるときに現れて外から自分に入り込む。祟り。

③    「あの世」からの使者として来て、自分を「この世」から「あの世」に連れて行く。彼岸。

 

①は、科学的な考えに近い。

②は、土着的な民間信仰やオカルト的な考え・迷信であろう。

③は、宗教的な観念に近い。肉体と理性をこえた魂の超越性を信仰する。

 

「お迎え」とは、百歳に近い高齢の老人の「死」に関係する言葉である。子供や働き盛りの成人たちの門前には、「追い返す」までもなく、まだ「お迎え」は来ない。

「お迎え」思想は、「自分の命」を「自分の意志で殺す」行為に対する否定である。「自分の命」は、自分の意志で始末できるのではなく、「お迎えに来る」何者かに委ねるべきだという主張である。

 

では、自分の命は、「自分の所有物」ではないということなのか。自分のものでなければ一体、誰のものなのか。わたしの命を死に導くために「迎えに来る」のは誰なのか。

 

わたしは、それを「天」とよぶ。

天から授かった寿命である。わたしの命は、天命、天寿、天然の無為自然にしたがう。則天去私、敬天愛人のいう「天道」である。

「我が身は天物なり。死生の権は天に在り。」(佐藤一斎)

 以上

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