●No.19 国会議員の選挙について    2013年7月8日

    ~アプリ政治家ではなくOS政治家に投票する

日本国憲法は、自らの憲法を「人類普遍の原理である」という。そうなのだろうか。

「人類普遍の原理」というよりも、西洋思想のおしつけではないのか。

古代ギリシャの都市国家論からはじまって、ホッブス、ロック、ルソーなどを引用しながら西洋の名誉革命、清教徒革命、フランス革命、アメリカの独立宣言まで、自由・平等・民主主義・国家統治に関して、あまたの大学の「職業としての政治」学者たちが、万巻の書を積み上げている。

戦後の日本国憲法は、それらの言説の延長にある。だが、政治学を勉強したこともない普通の老人であるわたしは、日本国憲法が大前提とする思想性を、「西洋かぶれ」だと思うようになった。「和魂」の土壌にしっくりとこないからである。

 

西郷隆盛の教えを書き残した「南洲遺訓」の第一章

「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、ちっとも私をさしはさみては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、よくその職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。」

 ここには、権力者が修業すべき「修己治人」の「去私、無私」への強い要求がある。中国の易姓革命の思想の「和魂」化である、とわたしは思う。中国では「国家の長」たる天子は、天命によって決まり、天子にその徳がなくなれば天命は他の人に代わり下ると信じられていた。「徳」とは、南洲遺訓の無私、公平、正道、賢人の人格性である。

 現行憲法には、国民の代表である権力者に求める倫理性を、わたしは見いだすことができない。

 

2013年7月21日、参議院選挙の投開日である。これに先立ち、日本記者クラブが主要9党の自民党/公明党/民主党/日本維新の会/みんなの党/共産党/生活の党/社民党/みどりの風/による党首討論会を開催した。

主義主張を叫ぶ「我利・私欲」のオンパレードに見える。多様な差異の「私欲」を尊重しながらも、「去私・無私」の立場からコミュニケーションを成立させようとする思想性というか倫理性を見いだせない。「たおやかで、おおらかな」人徳を感じさせないのである。ギスギスし過ぎ。複雑極まりない国家を経営する政権担当能力は、単におのれの主義主張を声高に叫ぶだけですむのだろうか。

新聞には、新党大地もいれて10党の公約の要旨が掲載されている。立候補者は、これらの政党にかぎらない。主要とみなされない政党や無所属もおおい。各政党の公約は、つぎのような分野に関する政策表明である。

①災害復興 ②経済・財政 ③社会保障・雇用 ④農林水産業 ⑤外交・防衛・安全保障 ⑥安心・安全 ⑦女子・子育て・教育 ⑧政治・行政・制度改革 ⑨憲法 ⑩地域 ⑪エネルギー・原発 ⑫その他

 

日本国憲法は、「主権が国民に存することを宣言」し、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」し、「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」であつて、「その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とする。

では、わたしは、権力者に何を、厳粛に信託するのか。わたしは、どのような福利を享受したいのか。だれが、わたしの代表者になるのか。だれに投票しようか、どの政党に投票しようか。

 

わたしは、いわゆる無党派層である。老後をすごす今の「生活自己」と今の政治が直結しているという強い意識はない。しかし、政治に無関心というわけではない。わたしは政治に関心はある。政治というよりも、「政治システム」に関心があるといったほうが正確だろう。壮年期のわたしの職業は、顧客企業から発注された経営情報システムの構築であった。そのために零細なソフトウエア企業を経営した。だから、国家や社会や人生を「システム」として考える習性が身についているのである。

その思考でわたしが「享受したい福利」をつきつめれば、国家を経営する政治システムの倫理性と合理性に収束する。わたしは、「まともな政治システム」のあり方を主張する候補者や政党に投票したいと思う。

「まともな政治システム」とは、国民を「代表」する「去私・無私」の権力者たちが、倫理的かつ合理的に「権力を行使」して、多様な国民が多様な「福利」を享受することができる国家経営システムである。

 

では、ざっくりと国家経営システムを考えてみよう。

各政党が公約でかかげるそれぞれの分野を、複雑に機能分化した社会システムとみなす。それらは、国家経営システムの機能的なサブシステム群を構成する。

「国政」とは、「複雑に機能分化した社会システム」を調整する国家経営システムの設計/構築/運用である。国家と社会の関係をコンピュータに比定すれば、一つの国政・基本ソフト(OS;Operating System)に制御されて動く複数の社会システム・アプリ群のイメージとなる。

 

個々の社会システムは、基本方針・戦略/設計/構築/運用/評価のライフサイクルを動く。

基本方針と戦略は、各政党の価値観と思想性に相関する。

設計は、国会の「立法」に集約される。法律、制度という構造の立案と決定である。

構築は、国会の「予算編成」に集約される。予算は、構造を運用するための条件である。

運用は、法律の執行である。内閣・「行政」権力の官僚機構と天下り法人とその先の企業や団体がになう。その結果として、国民に「福利の享受」が分配される。

評価は、「享受する福利」への判断である。国民のひとり一人、マスコミやソーシャルネット、法規に照らして裁判する「司法」権力がになう。

 

その評価が、運用;公平と公正の改良/構築;予算配分の改善/設計;構造の改革/戦略;革命、憲法改廃という国家経営システムのライフサイクル/時代性をもたらす。

縄文・弥生/古墳/飛鳥・奈良・平安/鎌倉・室町・戦国・江戸/明治・大正・戦前昭和/戦後昭和・平成という時代区分が、日本という国家の「改革と革命」の歴史である。

国家というシステムも、誕生・成長・維持・退化・消滅・再生という万物流転、盛者必衰、終わりなく循環する自然のリズムから抜け出ることはできない。憲法改正の議論も自然な成り行きだと思う。

 

「憲法改正」の議論に参加するわたしの姿勢は、人生三毛作の価値観、敬天愛人、則天去私、地域コミュニティの形成、自治会の制度的復権、地産地消ビジネス、少と老の地域スクール、擬制的三世代家族制度、「鎮守の森」などの再興をねがう「私共公三階建社会」の国家像である。

この視点から、選挙で選ぶ国会議員の役割を考える。国会議員に何を期待するか?

 

国民を代表する国会議員のもっとも重要な役割は、国家経営システムの設計と構築のハズである。しかし、国会議員の現実の役割の優先順位とその能力は、①「運用;行政とのつなぎ」、②「構築;予算の獲得」、③「設計;立法」という順番であることは、明白である。

この順番にこそ、わたしは、現行憲法にもとづく戦後日本社会の運用;行政権力の肥大化と裏表をなす立法;政治権力の劣化・脆弱さをみる。「三権分立」のまやかしである。明治憲法から温存されている行政権力の突出である。

 

選挙で選らばれていない「官僚・役人」の行政権力が、「公共」機能を独占して、「国民の福利」という名の個別の「私」欲を、天下り法人/業界団体/労働組合/圧力団体/中間組織を通して采配している。ほとんどの政治家は、「公」である「中央官庁に直結」することにより、特定の支援者たちに「私欲という福利」をもたらす「つなぎ屋」でしかない、とわたしは思う。

「私」と「公」をつなぐ、天下り法人/業界団体/労働組合/圧力団体/中間組織などの位置づけが統治機構に組み込まれていないのである。現行憲法の間接民主主義思想は、「共」不在の「私公二階建」という国家構造を必然としている。そこに、わたしは現行の政治システムに異議を申したてる。

 

最初の問題にもどる。

わたしは、権力者に何を、厳粛に信託するのか。だれに投票しようか、どの政党に投票しようか。

権力者に信託すること: 公約に掲げる①個々の政策の実現能力と②全体の調整能力

  個々の政策領域は、アプリ・社会システムに対応する。主義主張を叫ぶアプリ政治家がになう。

  全体の調整は、OS(基本ソフト)・国家経営システムに対応する。多様な主義主張を調整できる「識見」と「人徳」をもつOS政治家がになう。

 

 わたしは、「OS政治家になり得るかもしれい」と期待できそうな、「去私・無私」の雰囲気をもった候補者に投票したい。そういう候補者を探せるだろうか。

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