●No9. 人生二毛作で「少子高齢化」社会に対応できるか?

2013年6月11日 

 世界の先進的な文明国家は、例外なく「少子高齢化」社会に向かっている。

人生二毛作は、社会の構成員を子ども世代と大人世代の二つに分けるが、その思想性で「少子高齢化」がもたらす社会的諸問題に正面から対応することができるだろうか?

わたしは、人生二毛作の思想性を、「合理性の過剰、倫理性の劣化」、「私と公の偏重、共と天の軽視」、「身頭の二元論的人間像」として批判的に解釈する。

だから、人生三毛作で人生を全うしたい。その立場から、「少子高齢化」を考える。

 

「少子高齢化」とは、つぎのような社会現象である。

子ども世代:

  人口構成に占める子ども世代の割合が、小さくなる。

  男女が結婚しない/できない/したくない。婚期が遅れる。母親が産む子どもの数は一人かふたり/もっと多くは育てられない。

  大人になって就職するまでの学業期間がながい。家計の教育費の負担が大きい。

大人世代:

   人口構成に占める高齢者の割合が、大きくなる。

   平均寿命が延びる。大人世代の中で、仕事をしない老人の割合が大きくなる。

   要生活保護者、要介護者、要高齢医療患者などの社会保障費が増える。

 

 資本主義社会の基本的な価値観からみれば、「少子高齢化」の社会問題は、つぎのように要約できる。

a.将来の人口が減る。労働力と需要が縮小する。経済成長が困難になる。国が衰退する。

b.学業期間がながくなって子どもの教育費が増える。これは将来の成長への投資である。

c.老人の社会保障費の社会的コストが増える。経済成長を阻害する。

 

人類の歴史は、これまでピラミッド型の「多子少老」社会であった。だから人生二毛作でよかった。戦前までの平均的な家庭では、子どもの数は5,6人であった。そして少年期は10数年で卒業した。退職後の老年期は、せいぜい10年前後であった。壮年期の期間が、その合計よりも長かった。老人は、長男の家で老後を余生としてすごした。三世代家族であった。

仕事をする壮年世代が、仕事をしない「子どもを育て、親のめんどうをみる」という思想でよかった。忙しい両親に代わって、兄が弟を、姉が妹に長幼の序を教え、子どもどうしで人間学を学びあい、鍛えあった。祖父母が孫の世話をしながら「お天道様」の道徳を語り教えた。三世代家族が、地域共同体における社会保障の基本単位であった。

人生二毛作は、これまでの「多子少老」を前提にした人生観と社会思想である。その基本的な価値は、権威や家柄などではなく「仕事・職業」で得た富・マネー・成功・勝利である。だから「仕事をしない」世代の価値観は、主流にはならない。世の中は、「仕事中心価値」でうごく。

 

ところが、近代文明がもたらした都市化、高学歴化、「少子多老」社会は、社会の構造を変えた。三世代家族ではなく、核家族である。兄が弟を、姉が妹を、祖父母が孫を、というように世代間で世話と育成をバットンタッチできる時代ではなくなった。人は地方から都市にうつり、地域共同体の伝統も子どもを地域で育てる知恵の伝承も喪失した。個人情報保護法は、人をアトム化し、孤立させ、人間関係を分断させている。

大人になるまでの長い学業期と死ぬまでの長い終業期をともなう社会になった。仕事をする壮年世代が、仕事をしない「子どもを育て、親のめんどうをみる」ということは、少子高齢化社会では、成り立たない、非現実的である。その社会的慣習や制度は、すでに破綻している。

では、どうするのか?

 

人生二毛作の思想では、容易に「生涯現役」、「いつまでも若さを保とう」などの個人的な覚悟と「定年延長」、「社会保障の充実」などの社会的政策に、すぐ直結する。

わたしは、そのことを「ダメだ、あってはならない」という意味の否定などしない。世の中の多くの人に向かって「そんな考えは、やめなさい」などとは考えない。差異の多様性が共存する社会に生きたいからである。

だから、仕事中心の人生二毛作論者と共存しながら、「別の価値観」で少子高齢化社会を生きたいだけである。そのようなコミュニティの存在が、未来の希望である。そこでは、少年期の第一世代と老人期の第三世代が主役となる。

 

では、「別の価値観」をとなえる人生三毛作コミュニティの思想性は、どのようなものになるのか。

人生二毛作の「合理性の過剰、倫理性の劣化」、「私と公の偏重、共と天の軽視」、「身頭の二元論的人間像」としに対置させれば、「合理性の抑制、倫理性の復権」、「私と公の縮小、共と天の重視」、「身心頭の三元論的人間像」となる。

少子高齢化社会を人生三毛作で生きる「仕事中心でない価値観」とは、どのようなものなのか。考察を続けよう。

以上