●No.20 法案と予算案    2013年7月13日

    ~国家権力を「行使できる」能力

民主党が政権交代で権力を行使できる座に着いた。しかし、野党体質のまま与党になって内閣を組閣したものだから、あっけなく自滅した。統治能力のなさを暴露した。与党になって権力を行使するための能力訓練と事前の準備が足りなかったのである。政権交代には、事前の備えが必要であることを教えてくれた。これが、民主党政権が残してくれた教訓である。

では、国家権力を「行使できる」能力とは、いかなる能力なのか。それはどのような訓練をすれば獲得できるのだろうか。

 

民主主義国家の統治能力とは、全体主義的な支配権能ではない。反対勢力である野党各派の調整能力である。権力行使とは、権力者の主義主張に賛成しない国民でも生活ができる秩序を維持することである。権力をもたない野党は、自らの主義主張を叫び、与党と政府の決定に何らかの影響をもたらす機能しかもてない。

政治の決定能力とは、端的にいえば「法案」と「予算案」を決定事項に進級させることである。法律は、国家経営システムの構造設計書である。予算は、その構造を運用する政策の優先順位化である。法律も予算も、さまざまな制約条件とおおおくの主義主張を考慮しなければならない複雑で合理的なシステムである。

「法案」と「予算案」を作ることは、単に主義主張を叫べばよいというものではない。たいへんな実務能力が必要である。政治家には、国家経営システムのシステム構築能力が求められるのである。

 

国家経営のさまざまな基本方針や思想性は、「法案」と「予算案」に具体的に反映されなければならない。それをめぐって政治的な権力闘争がくりひろげられる。マスコミは、その政治家たちのゲームを劇場の芝居よろしく、面白おかしく報道する。政治能力とスキャンダルをごじゃまぜにして。

参議院選挙の広報や政見放送で、各政党の候補者たちは、「国民が享受する福利」をそれぞれに主張する。ありがたいことに新聞は、政党やの候補者の主義主張の異同を一覧表やグラフで比較してくれる。しかし、その記事は、「法案」と「予算案」の精度レベルからはほど遠い。詳細に書いてある公約や政策冊子などもあるが、わたしはほとんど読まない。たんなる美辞麗句の作文集でしかないと思うからである。国家経営システムの仕様書ではなく、たんなる希望や願望の「要求の羅列」でしかないからである。

しかし、わたしは投票所に足を運ばなければならない。選挙で代表者をえらばなければならない有権者としては、難儀なことである。

 

わたしは、国民の代表である政治家につぎの能力を要求する。

  主義主張を合理的に説明できる表現力 ・・・並みの人間よりもすぐれた政治家

  主義主張を実現できる実行力 ・・・・・・・個別のアプリ政治家

  他の異なる主義主張と折衝できる調整力 ・・・・・全体的なOS政治家

その現実の政治能力は、「法案」と「予算案」に集約される。では、「法案」と「予算案」は、どのようにして決まるのか。

「決まらない政治、決められない政治」、だから「決める政治だ」と野田ドジョウ内閣はかっこよく見得を切って、公約でもない消費税の増税を決めた。そして頓挫した。「権力を行使」して「調整する」という統治能力が訓練されていなかったのだ。結局は、霞ヶ関官僚にうまく操られただけである。「法案」と「予算案」は、行政権力をになう官僚が準備するのである。

この事態は、「主権在民」の民主主義といえるのだろうか。

 

政治家に課せられる国家統治の調整能力は、つぎの三つの関係性の場で発揮されなければならない。

 ①議会と行政の関係  内閣民主主義  政治家と官僚の調整力

 ②与党と野党の関係  国会民主主義  異なる主義主張の調整力

 ③党内の各派の関係  党内民主主義  党首、幹部、党員の調整力

民主党政権は、この三つとも未熟であった。調整能力に経験豊富な自民党が、政権にもどった。では、自民党の候補者に投票すればいいのか。

 

わたしは、無党派である。自民党の調整能力を評価する。しかし、つぎの点で支持しない。

  首領に「去私・無私」の大人風格を感じない・・・偏狭な主義主張を感じる。

  成長戦略一点張りに賛成できない・・・成熟社会、定常社会への構想力がない。

  「ねじれ解消」を叫ぶ ・・・・調整能力を必須とする民主主義の思想に反する

 

 2013年7月21日の参議院選挙で自民党が圧勝して、衆参両院の「ねじれ解消」が実現されるだろう。「決める政治、決められる政治」が、すいすいと実行できるだろう。そして、憲法改正の議論がおおきな話題になるだろう。

 わたしは、それはよいことだと歓迎する。その理由は、戦後60年の民主主義の経験を根本的に点検する機会になるからである。もっといえば、明治維新から約150年間の近代化の歴史を総括する機会になるからである。

 

わたしは、「和魂」の土壌に移植された西洋近代思想の「個人尊重、基本的人権」の日本社会での育ち具合に疑念を感じるようになった。それは、「自我」、「個人」、「主体性」、「自立」、「市民」などの価値概念を普遍とみなす西洋近代思想への違和感である。

憲法改正のおおきな論点のひとつに、「個人と国家」の関係性、「国民の権利と義務」、立憲主義の「意味」、が設定されることを願う。これは、思想・哲学の領域にまで踏み込まなければならないだろう。

わたしの立場は、「主体性の解体」、「国家の溶解」を究明したい倫理的な思想性である。これが、「南洲遺訓」の第一章「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、ちっとも私をさしはさみては済まぬもの也。」の「去私・無私」につながる。

 

もうひとつの大きな論点は、憲法の「絶対平和主義」と国際関係論、理想主義と現実主義の対比である。

戦後の繁栄は、日米関係を機軸とし、「アメリカの傘」の下で経済成長と技術開発に専念することができた。「アメリカさんのお陰」で世界の経済大国になれた。

これからは、中国の大国化に対応しなければならない。1842年、中国はアヘン戦争で負けて、西欧列強の植民地の餌食になった。我が大日本帝国も中国の国土に招かれもしないのに進軍進駐した。中国は、その屈辱の歴史を踏まえて、これからアジアの領海で覇権をとなえ、反転攻勢をねらうと思うほうが常識的だろう。

 

自民党の主義主張の最大の「ねじれ」は、「日本をとりもどす」独立国家志向と「アメリカに依存する」対米軍事従属との現実の関係である。自民党は、「軍隊」にあらざる自衛隊を名実ともに国防軍にしようと画策するだろう。アメリカとの関係もギクシャクとするであろう。

「憲法9条」をめぐる改憲論は、多くの日本人の「戦争は絶対イヤ」の心情を強烈に刺激する。しかし、戦争を知らない世代が有権者の多数になってきた。「戦争は絶対イヤ」の心情よりも、尖閣諸島や竹島の領土問題をうまくしかけて、ナショナリズムの高揚をあおれば、自民党の「なしくずし」手法が成功するかもしれない。

 

わたしは、参議院選挙でどこかの党のだれかに投票するだろう。しかし、むなしい感じをぬぐえない。主権在民である主権者の行動が、「代表を選ぶ」だけ、あとは政治家にお任せ、政治家は官僚にお任せ、国民は行政にお任せで、民主主義といえるのだろうか。

選挙結果よりも、その後の憲法改正の議論に大きな関心がある。だが、議論だけではつまらない。憲法改正は、主権者が主権者たることを実践できる大きなチャンスである。同時に、国民から信託された国家権力を「行使できる」能力を政治家が訓練する機会でもある。

明治維新から約150年間の近代化の歴史と戦後60年の民主主義の経験を踏まえて、「主権者」と「権力者」の思想性と実行能力を根本的に見直す時節到来である。

 

民主主義の実行能力を、「主権者」と「権力者」が「法案」と「予算案」を作成できる能力に、わたしは集約する。わたしは、その訓練のための国家的なプロジェクトを構想する。身近な生活と政治をつなぐ「国家経営システム」のシミュレーションをおこなう「憲法改正プロジェクト」を提案したい。

全国各地で「条例案」と「予算案」をつくる訓練をしながら憲法改正の議論が、全国的に巻き起こる夢をえがく。

その夢想は、次稿の「No.21 身近な地域の条例制定運動を憲法改正プロジェトに組み込む」で。

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