●No.17 憲法改正を考える「私共公天」の視点   2013年6月30日

 憲法改正に関するわたしの意識は、・個人/・国民/・国家の関係を明確に納得する「国家論」に向かう。下に「日本国憲法」と自民党の「日本国憲法改正草案」の前文を引用する。そこに国家観、国家の定義の違いが明確に表われていると思うからである。(太字下線は引用者)

 

日本国憲法(昭和二十一年十一月三日)
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

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自民党の「日本国憲法改正草案」 平成24年4月27日決定

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

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 あらためて前文を読めば、現行憲法の真髄が、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないようにする決意」と「崇高な理想と目的」の表明であることが、よく分かる。そして、憲法に国家の定義がなく、「主権者である国民の信託による国政」が行使する権力の統治機構の記述がないことに、わたしは注目する。

 

 以下に、私共公天の視点から、現行憲法と自民党の改正草案を対照する。

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          現行憲法       自民党の改正草案

私:個人      主権者、自由     主権者、自由、規律

共:人間関係      ?          家族、郷土、互いに助け合う

公:国家、国政  国民の厳粛な信託   天皇を載く国家、三権分立の統治

天:価値の源泉  人類普遍の原理    長い歴史と固有の文化、良き伝統

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多くの憲法学者は、国家を前面に押しだす自民党憲法改正案を、「正統な立憲主義の系譜」からの逸脱であり、これまでの「憲法解釈や学説」を軽視したものだ、と批判する。

わたしは、学者ではない。自分の浅薄な知識で日本史を①非立憲主義の江戸時代まで、②立憲君主制の戦前時代、③立憲民主制の戦後時代の現在に区切る。明治維新から敗戦までは、天皇という君主と国会が共存した。戦後の天皇は象徴であり、権力はもっぱら立法議会と行政と司法に信託される。

 

主権在民とはいっても、すべての国民に選挙権と被選挙権があるわけではない。年齢その他の制約条件がある。逆に寝たきり老人も主権者である。その国民は議会の議員を選挙で選ぶ。議員が国民の代表者である。国民は、司法権力の裁判官や行政権力の官僚や役人を選挙で選ぶわけではない。よっぽどの不祥事の場合の罷免権だけである。

「権力は国民の代表者がこれを行使する」という憲法の規定は、現実に合致しているだろうか。現実は、官僚や役人が「権力」を行使している。ここに「お任せ民主主義」の実態がある。官僚や役人たちは、「国民の代表者」なのか。

 

 さまざまな学説があるだろうと思う。しかし、わたしは常識的な知識レベルで生きるしかない。わたしは、憲法学者たちが擁護する「立憲民主制」に常識的な疑念をもつのである。

国政という権力の行使は、理念やタテマエやきれいごとで済むわけがない。したたかな統治能力を必要とする。民主党政権には、国民が厳粛に信託した権力の行使能力が欠如していた。それは、憲法に「国家」の定義がないこと、権力を行使する統治機構の記述がないことと無関係ではないと思う。

だから、統治機構をテーマとする憲法改正の議論を歓迎する。その議論にわたしは、「私共公三階建国家像」をもって参加したい。

 

また、憲法がいう「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」ことを全面的に受け入れることにも疑問がある。人間相互の関係性は、清濁/善悪/美醜が混在した自然の摂理にもとづく潜在性の発露だと思うからである。タテマエ、きれいごとだけで、人間相互の関係が営まれるわけではない。少壮老の人生それぞれの時期における正心/誠意/修身という倫理道徳の修練をともなうと自覚するからである。

人間相互の関係性は、まず家族を基礎におき、地域の隣人たちとお付合いをしながら育つ。世間の義理と人情を大事にし、共同、共働、相互扶助の体験をかさねる。そこに共生する人間相互の関係性は、先祖からの知恵や善悪や伝統を学び伝え合うことを通じて訓練される。それを見守るのが「お天道様」である。

これが、「私共公三階建国家像」の倫理性の根拠を「共」と「天」に求める理由である。町内会・自治会という地域コミュニティの制度的な復権である。

 

 憲法改正の議論では、国家論の根幹をなす国防軍や集団的自衛権のテーマが焦点になる。ここでは、戦争の回避・平和の持続のために、どういう日々の実践が必要なのか、と問う。

その自問を「私共公」の枠組みで考えれば、わたしの回答はつぎのようになる。

私:

戦争反対の署名活動やデモ行進などに参加する。

私企業は、国境をこえたグローバルなビジネスを展開する。ナショナリズムを高揚しない自由市場を解放する。諸国間の経済活動の相互依存関係が、政治の延長にある戦争を回避する非軍事的な武器となると思う。国内産業の保護政策は、平和維持があってこその地平である。

共:

ローカルな「共」コミュニティどうしの国境をこえたグローバルな親睦交流をめざす。ナショナルな国家どうしの戦争を勃発させないためには、ローカルな連帯が大きな「非戦力」と思う。

公:

外交力と侵略に対する防衛力である。諸国との国際関係は、かならずしも「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼できるわけではない。日本国家の非隷属性/主体性を主張するかぎり、専守防衛の国防軍は必須だと思う。

だから、軍人に国家権力を掌握させない仕組みこそが、現実的な課題である。「戦争絶対反対」を叫ぶだけで、平和を維持できるとは思えない。個人/国民/国家の関係性という意味での国家論とその実践論が、権力を信託する主権者たる国民の根本的な責務だと思う。

 

わたしに可能な平和主義の実践は、国内的には文人統治、国際的には草の根交流である。

「戦争反対」のデモ行進は、内なる政府・国家権力と外の仮想敵国の両方向に向かうべきである。戦争になるかもしれない現実的な紛争相手国は、まず領海を接するロシア、北朝鮮、韓国、中国であろう。現実の国際的な権力構造は、「核の抑止力」という無間地獄への信奉でバランスをとっている。「平和を愛する諸国民の公正と信義」への信頼と真逆である。

心情的に「戦争絶対反対」を唱えるだけでは、現実の権力構造の中では無力であり、無責任であり、正義をふりかざす没倫理性だと思う。

無茶苦茶な暴論だろうか。さまざまな議論を歓迎したい。            以上   No.18へ