2013年6月1日 No.8 人生二毛作の価値観 

●人生の二毛作の価値観

人生二毛作は、個人の人生を子ども時代と大人時代の二つに区切る。世の中は、子ども世代と大人世代の二階建社会となる。子どもにとって生まれてきたこの社会には、すでに大人が住んでいる。子どもは大人に従うことから人生をスタートする。大人は、子どもを養育する。そして子どもは20歳になって成人となる。人生二毛作と二階建社会とは、表裏一体である。

子ども世代と大人世代の二階建社会を仕切るのは、大人である。大人の本業は仕事である。仕事は、衣食住をえるための労働手段である。仕事は、労働手段であると同時に自らの潜在性と可能性を実現する生活そのものとなる。人生の満足の中心に仕事がある。

人生二毛作にもとづく子どもと大人で構成する二階建の現代文明社会は、大人の仕事中心価値でまわる。

 

仕事中心価値の社会は、厳しい生存競争社会である。競争に勝つという上昇志向を人々に追いたてる。

幼稚園から「上に向かう」競争がはじまる。少中高の学生時代は、偏差値競争である。受験競争をのりこえた大学生は、三年生の後半から就職競争に入る。会社に入れば、社内の出世競争だけでなく、他社との受注競争である。

世の中には、ゲーム、スポーツ、証券や株売買のギャンブル、宣伝広告から選挙運動まで、各種の競争があふれている。人は、その競争を好み、勝敗に一喜一憂する。勝つことによってえられる価値を追求する。地位、富、名声、権力、名誉などが至上価値である。それらは、仕事中心価値の具体的な果実である。

 

競争ルールに従うかぎり、敗者は勝者にしたがう。勝者/強者の価値観が、世の中を仕切ることは必然となる。仕事中心価値の社会は、勝ち負けの競争原理を前提にしなければ成立しえないのだ。

私的な競争社会では、勝者は敗者を産出する。敗者がいなければ勝者は存在しえない。強者が弱者を生み出す。弱者がいるからこそ強者たりえるからである。

勝者や強者たちの価値観が、世の中の主流になるのは必然。自由競争にもとづく資本主義社会は、必然的に勝者/敗者、強者/弱者の格差を生み出す。そして、勝者の数は、敗者よりもはるかに少ない。

 

資本主義の近代文明社会は、マネー至上社会である。各種のルールに基づく多様なゲームの競争は、マネーという富に収斂する。資本主義社会は、必然的に貧富の格差社会でもある。

そこで生まれる敗者や弱者や貧者などと称される階層者は、「未来に希望をもてない、自分に自信がない、何をしてもダメ、だれにも受け入れてもらえない、世の中がわるい」などと、自分と社会に不平不満をつのらせる。これは、不幸である。幸せな人生ではない。

不幸な人がふえる社会秩序は、不安定になる。少数の勝者の地位は、多数をしめる敗者階層から転覆されるかもしれない。下克上、反乱、革命、世直しである。

 

そこで、世の中を仕切る勝者たちは、統治者としておおくの国民の支持をえるために知恵をしぼる。学者や評論家たちも秩序維持の論理と学説と思想を、為政者に提供する。

古代では、哲人政治や徳治や聖人支配の人道が論じられた。近代では、貧民救済策としての富の再配分が当然視される。国家秩序の安全網として、弱者を底支えする社会保障制度の重要性が増す。政府に要求する人権尊重と生存権などの社会的権利が主張される。福祉国家思想である。

この主義主張は、資本主義思想の裏側にはりつく社会主義的な補完思想として登場した。

 

社会の上層と表側を構成する勝者・強者たちは、資本主義的な自由競争の価値観を信奉する。この価値観は、利己的個人主義と親和性がたかい。その活動は、私的企業のマネービジネスである。活動領域は、国境を越えてグローバルに展開する。

社会の下層と裏側を構成する敗者・弱者たちは、社会主義的な平等救済の価値観を信奉する。この価値観は、管理的全体主義と親和性がたかい。その活動は、公的役所ナショナルな税金ビジネスである。

私的企業・グローバル/公的役所・ナショナルという両輪が、現代世界の近代文明国家の構図である。国家の構造は、「私と公」の二階建国家である。この国家構造は、人生二毛作・子ども世代と大人世代の二階建社会とクロスする。

 

この現代社会の思想性を「私共公天」の構図に重ねれば、つぎの事態があきらかになる。

「私と公」の突出、「共と天」の喪失である。

 

「共」に関しては、私と公をつなぐ中間に位置するNPO等のローカルなコミュニティが台頭しつつある。「ソーシャルビジネス」である。しかし、その役割や思想性は、まだまだ弱体だと思う。個人主義の原理にたつ近代思想においては、「共」に価値をもとめる共同体を否定する。「共」は、役所に回収されて「公共」事業という名の税金ビジネスの一部となる。

 

「天」に関しては、「身心頭」の枠組みでいえば「」の思想性である。;物質の法則性と;理性的な合理主義の原理にたつ近代思想においては、「心」の領域は、「非科学」的で恣意的な地位に貶められる。倫理道徳は、かぎりなく主観的とされて相対化される。

 

人生二毛作、子ども世代と大人世代の二階建社会、大人世代の仕事中心価値、競争社会、私と公の二階建国家などの考察は、「身と頭」の二元的な人間像に至る。 異常ともいえる健康志向とどうじに頭でっかちの人間像である。

わたしは、人生二毛作が主流である現代社会を、「合理性の過剰、倫理性の劣化」とみなす。その対案として人生三毛作を考える。 そして、身心頭のバランスの取れた老後の生き方と逝き方をめざす。

人生の二毛作/三毛作の対比をさらに考察しなければならない。

以上