No.14朝に発意、昼に実行、夜に反省 ―-老人倫理を考える  2013年6月22日

高度文明社会を生きる現代人にとって、「人間の尊厳、自由、人権尊重」を疑問視する思想や発言は、タブーである。「人間の尊厳、自由、人権尊重」は、犯すべからざる神聖なる金科玉条である。その常識には、知性の思考停止線がひかれているのではないか、とわたしはおもう。

だから、それに正面から異議申し立てをする言説は、無意味な空論としてまったく相手にされないだろう。非人間的で反倫理的な妄想でしかない、論外だとして無視されるだろう。

 

そこで、その思考停止線の先にすすむために、「人間の尊厳、自由、人権尊重」を政治思想や民主主義制度からはなれて、とりあえず三つの倫理的命題を設定する。

 

命題A: 人は、単に生きることが尊いのではない。よく生きることが尊い。

命題B: 人は、自由であり、人生の最終目的を自分の幸福とする。

命題C: 人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ。 

 

命題Aは、「たんに生きる」身体性と「よく生きる」精神性を対比する。わたしの用語でいえば、「身体自己」と「生活自己」を反省する「了解自己」の区別である。

この命題は、ただちに「よく生きる、善い、良い、好い、尊い」ということは、どういうことなのか、だれがそれを、どうやって決めるのか、という問いをみちびく。善/悪、良/否、好/悪、尊敬/軽蔑などの基準、測定、評価、了解などの問題があとにつづく。古今東西、道徳、倫理、哲学、宗教などをテーマとして、人類の知性は壮大なる伽藍の観念体系を構築している。

 

 命題Bは、近代思想の根幹をなす個人の自由宣言である。個人と社会の関係でいえば、社会や国家は個人の自由を抑圧してはならない。個人は、共同体や国家に奉仕し従属するものではなく、独立した自由な主体であることが強調される。

老若男女のすべての個人は、「公共の福祉に反しないかぎり、何をしてもよろしい」という自由権をもつ。「公共の福祉」の判断基準は、国家が法律をもって定める。法律が、倫理を代用する。倫理は、善悪の判断を法律にゆだねる。良心や良識は、主観的とされる。

では、その幸福とは? 自己満足なのか? 私の幸福と他人の幸福は両立しうるのか?個人の幸福は、「善い生き方」とどのように関係するのか? などの問題があとにつづく。

 

命題Cは、生命そのもの、ひとつの生命態という単独者、つまり個体そのものに尊厳を認める。その尊厳性は、個人と社会の関係性を超越している。この命題は、個人の自由や人権や生存権などの近代思想を根拠づける最終審級、根源的な基盤である。生命の尊重を認めたうえで、幸福を追求する自由や善い生き方がテーマとなるのだ。

この命題の解釈のありようが、安楽死、尊厳死、生命倫理の思想性を問う踏み絵となる。

 

○三つの命題の問答

A:  Cさんへ

わたしは「たんに生きる」ことは、動物や植物のレベルと同じだと思います。人間は、動物や植物とはちがって、真善美/清/敬を尊び、偽悪醜/濁/傲を嫌う「徳性」をもっています。

だから、「人は、単に生きるのではなく、善く生きて、尊い」生き方をすべきだと考えるのです。

C: Aさんへ

おっしゃることは理解しますが、わたしは人類の歴史を少し考えます。「善い」とか「尊い」基準を決めて、人を評価したことによって、人間を差別してきたのではありませんか。そもそもソクラテス/プロトンたちが、倫理やイデアを考えていた時代にも「奴隷」がいたではありませんか。「善い、尊い」生き方の強調は、「権力者」に都合のよい「身分差別」の方便だったと思います。

B: Aさんへ

「たんに生きる」といっても、それは簡単なことなのでしょうか。人は、一人では生きられない社会的動物ですから、世の中を生きていくことは、苦労が多いのが現実です。「善い、尊い」生き方の前に、衣食住を確保することが先決ですね。そして、人は少壮老のそれぞれの時期に課せられる社会的役割を果たしながら生きていきます。そこに、できるだけ幸福を求めたい、生活に満足したいと願って生きるのが人間の暮らしだと思います。

・・・・・この問答は、人間の尊厳、自由、人権、幸福、善尊などをめぐって延々と続きます。

 

○老人倫理と則天去私

バス停留所の後ろにお寺さんの門の掲示板があった。「朝に発意、昼に実行、夜に反省」という標語を書いてある。わたしは、その意味を、少/壮/老の人生三毛作、Will意志/Can能力/Must規範、身体自己/生活自己/了解自己という三つの自分にかさねた。

これから老人世代に固有の生き方として「反省;規範;了解自己」を考えるテーマを「老人倫理」とよぶことにする。老人倫理の問題は、上の三つの命題に照らして述べれば、つぎのような問いになる。

命題a: 老人は、どのように生きるのが尊いのか?

命題b: 老人の幸福とは、どのような生き方なのか?

命題c: 老人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳があるのか?

端的にまとめれば、「善く尊く」かつ「幸福に長生きする」ために、老人は何を為すべきか?

 

わたしは、個人的な趣味を楽しみながら、「単に生きる」ことに幸福を感じ、そこに満足し、脱俗を気どって、悠々自適にすごす隠棲にあこがれる気持ちがある。それが、悪であり不正であると思わないからである。どうじに、「単に生きている」ことが、「善く尊い」とも思わない。

いまの「単に生きる」ことに何かプラスして新たな実践に取組み、それを「善く尊い」つまり「善/義/徳」だと感じられれば、もっと幸福なのではないか、という欲望というか願望もある。それを言葉で表せば、則天去私、敬天愛人、己の欲するところ矩をこえず、の心境にいたることになる。

聖人になりたいと思わないが、達観して穏やかな立ち居振る舞いが自然にできる長老のイメージである。70年を生きてきたわたしは、その境地からは、はるかに隔たっている。いまだ、身/心/頭の統合、身体自己/生活自己/了解自己の自然な統合にいたっていないのである。

では、どうすればよいか。これが、「老人倫理」を考える理由にほかならない。      以上    No.15へ