No.12 憲法改正は「無魂洋才」から「和魂洋才」への回帰か?

~倫理性と合理性を考える序論その2 ~~  2013年6月22日

 「議論のために」の論考テーマは、「少壮老の人生三毛作の老後をどう生きるか」である。「どう生きるか」という「了解」を、わたしは「私・共・公」の枠組みで考える。「了解自己」からみれば、「私」は自分の「内なる他者」であり、「共」は「顔の見える他者」であり、「公」は「不特定多数の他者」であり、「天」は「先祖、子孫を含む他者」である。

「どう生きるか」ということは、①自分に関すること、②身辺を共有する他人との関係、③匿名者がどうしが参加する社会関係、④自然や崇高な存在との関係のむすび方である。

 

○わたしが考える「倫理性」をとりあえず定義する

  自分のWill欲望とCan能力を「善く生きる」ことに向けるMust規範。了解自己の目標

  他者と共存して生きるお互いの人生を「幸福である」と納得しあえる社会的根拠。共同性。

  他者を、暴力により抹殺、拘束、抑圧、強制しない、他者の自由尊重。人権。人倫。公正。

  わたしの生命を自分のもとは思わない自然信仰、自然への畏敬と畏怖、超越性、天道

 

○世間の状況

この視点から世の中をみれば、わたしにはつぎのような状況がみえる。

. 「善く生きる」ことの規範、道徳を社会的に共有することを放棄、相対主義が主流である。

b. 「幸福である」ことを「生存競争の勝者」に求める人が多い。共同体の崩壊。

c. 他国との紛争の最終的解決を「核兵器」に求める国が多い。日本は米国の核の傘の下。

d. 「自分の命は自分の物」と思う人が多い。自我、主体性、自意識過剰、不敬

 

○現代社会の根本的な矛盾 ―― 最大の反倫理性と最高の合理性

 最大の反倫理性は、自分の利益のために、他の生命を抹殺することである。人間の食物の餌食になる動植物たち、医学研究のためのモルモット、犯罪行為における死亡者、戦場に斃れる兵士、そして原爆等の無差別攻撃にさらされる一般人など。

そして、最高の合理性は、量子論を応用する原子核技術と遺伝子を応用する生命操作技術である。人類の理性は、決定的に進化の段階になったのではないかと思える。「生命」を技術的に制御できる能力を獲得したこと、ここに倫理性と合理性の亀裂をみる。「天」の喪失である。

 

○倫理性を喪失した根本原因 ―― 個人と国家の関係の近代思想 

憲法学者は、「自立した一人一人が契約を結び、国家権力を作る、という思想が、欧米諸国が共有する価値観、社会観である。憲法は、国民が国家権力をしばるもの。法律は、国家が国民に強制するもの。」という。

この国家観では、他者と共存して生きる「絆・連帯・共同性」を根拠づける倫理的な思想性が、前提にされない。まずは個人の自立である。個人が、自由と人権をベースにして、いきなり国家に向かい合う。そして、現代社会の国家は、きわめて複雑に機能分化した法治制度になっている。民主主義国家の法律は、理性的な手続きで制定される。近代思想の倫理性は、法律に吸収される。国家は、巨大な人工物システムとなる。

個人は、国家システムの原子として生きる。「法律を守る限り、何をしてもよい」という個人主義思想が、倫理性を喪失した根本原因であるとわたしは思う。

 

○「自分―みんな」関係の問題点

近代思想は、個人国家に媒介項なしに直接的に関係づける。国家は一人一人の個人と向き合う。この国家像は、個人を「私」に国家を「公」におきかえれば、「私公二階建」である。サブシステムなき巨大システムである。モジュール設計不在のシステム論である。

「一人は皆のために、皆は一人のために」という標語も生まれる。「自分」は「皆」の一員として匿名者になる。家族以外の「自分たち」は、学校や会社などの集団である。その集団は、倫理性というよりも組織が追求する目的合理性で駆動する。国家は、その集団性をうまく利用する。

「私公二階建」国家では、:「顔が見えて、ほどほどの人間関係」という意味での「自分たち」が不在となる。自治会とか町内会とよばれる地域共同体のコミュニティが衰退している状況である。

いきなり「何をいいたいのか」という結論を述べれば、「最大の反倫理性と最高の合理性」という現代社会の根本矛盾を解消させる思想性を、わたしは「私・自分―共・自分たち―公・みんな」という「私共公三階建」国家像にもとめるのである。

 

○倫理性の根拠を保持する和魂洋才

自民党の憲法改正草案は、「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」という国家論をとなえる。これは、「修身―斉家―治国―平天下」という儒教精神と同質だとわたしは理解する。そして、「私共公三階建」国家像にかさねる。

憲法学者は、これを「欧米諸国が共有する価値観、社会観」に反するといって批判する。

西洋思想は、明治維新において江戸時代までの日本精神と激突した。明治時代の知識人や思想家たちの多くが、「和魂洋才」を標語として、西欧列挙と伍する新時代を切り開いた。

その西洋思想は、豪勢なお城を構える王様・貴族たちと大寺院に住むキリスト教の法王・聖職者たちの支配を脱した「個人の自由と人権宣言」を核心とした。そこでは、「個人と国家」の関係と「個人と神」との関係が両立した。教会を中心とした「地域コミュニティ」が、「個人と国家」を媒介する中間層の機能を果たしているのである。これは「私共公三階建」国家像にかさなる。 

 

○日本人の倫理性の構成 ―― 神道、仏教(13宗・56派)、儒教(朱子学、陽明学)

 「和魂洋才」を了解した明治から戦前までの日本は、天皇制の帝国憲法のもとで、「和魂」がウルトラ民族主義になり、全体主義国家として戦争に邁進して自滅した。そして、1945年、「平和、基本的人権、主権在民」を柱とする日本国憲法を手に入れた。

 いまや2013年、自民党が憲法改正をとなえる時代になった。その底流には、戦後の日本社会を「無魂洋才」とみなす「日本精神」喪失状況への怨嗟があるようにみえる。「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合う」などという「親孝行・忠君愛国」をおもわせる古風調に、「右傾化」というレッテルが貼られる。大日本帝国の戦前思想への回帰だ!というわけである。

 

縄文人から現代にいたるまで、日本人の倫理性は、神道、仏教、儒教の重層構造であるという諸説にわたしは賛成する。万巻の書で語られる「日本的精神」なるものは、多くの日本人の心に伏流しているとわたしは「自分」の類推から判断する。

護憲派や隣国の人たちは、これを「右傾化」として警戒する。「思考停止」を脱して、倫理性と合理性の議論を深めるおきなチャンスだと思う。

 

○倫理性をベースにした合理性の追求 ――防衛/協調/攻撃の組み合せ

個人でも企業でも国家でも、「主体性」を認めるかぎり、そこに「防衛/協調/攻撃」という関係性が生まれる。

理念とか理想とは、「協調」だけの平和な世の中を想定することではない。その想定は、たんなる夢想である。ユートピアである。倫理性を仮装する非現実的な「没倫理性」である。

わたしが定義する理念とか理想とは、自由な主体の差異の多様性が共存する社会において、防衛/協調/攻撃を組み合わせる倫理性と合理性の両立である。

この視点からみれば、高度な文明社会をもたらした近代思想は、過剰な「防衛と攻撃」の合理性のゆえに、「協調」の倫理性が脆弱になっているとわたしは思う。自由競争における勝者の価値観である人生二毛作の思想性と同根である。

それへの対案が、人生三毛作の人生論、私共公三階建国家像、少と老が協調する「共:地域コミュニティ」の形成である。このテーマは、「個人と国家」の関係および「協調・平和主義」思想に関連する憲法改正の重要な議論とかさなる。

倫理性と合理性の議論を深めるおきなチャンスだと思う。

以上