2013年5月28日 No.6 三浦雄一郎氏(80歳)のエベレスト登頂

  80歳の三浦雄一郎氏がエベレスト登頂に成功したニュースを聞いて・・・年寄りの冷や水?! 

冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんが、2013年5月23日、80歳でエベレスト(8848メートル)の登頂に成功した。世界最高齢者の登頂が新記録だそうだ。

これを報じるマスコミは、「すごい、感動した、快挙だ、深く敬意を表したい」など称賛の声一色を報じる。

「彼は世界中の希望の星だよ。人間の本当の生き様をあの年で明かしてくれた。」

「まさに遺業そのもの。たくさんの人が勇気をもらったはず。挑戦したほうが人生は楽しいからね。」

「人間はいつだって不可能かもしれないことを超えてきた。目標を持って生きれば、わくわくできる。」 

「快挙に励まされて、<まだまだ若い人>が世に増えそうな、明るい予感がする。」

「評価されるべきは、高齢化社会の中で、80歳になっても目標を持って突き進む、その姿だろう。」

80歳の三浦さんが頑張る姿を見ると、自分もまだ何かできると思う同世代は多いだろう。」

80歳が人生のスタートだとすれば楽しくなる。」

「三浦さんに負けてなるものか。心と体を鍛えて現役をめざす。」

「何事も諦めずに挑み続ける気持ちが大切だと学びました。」

「まだまだ若い者には負けられんわい。」

 

   わたしの感想

       三浦さんはすごい人だ。人間の可能性の凄さを証明してくれている。

       とても自分はマネできない。自分にはそんな頑張りはムリだし、したいとも思わない。

       人間は、ほんとうにピンキリだな。勤勉努力家から怠け者まで。自分は並みの凡人。

       世人の根本的な価値観は、並外れた勝者や強者を称賛する競争努力原理なんだね!

       「年甲斐もなく」などといって「年寄りの冷や水」をたしなめる人情はなくなったのだなあ。

       エベレストに登るのは、個人的な趣味道楽だよね。シェルパ代などカネもかかるだろう。

       いや、「チーム三浦30人」のサポート隊という記事もあるから、家族ビジネスなんだろうな。

       まあ、庶民とはかけ離れた別世界の特殊な才能と境遇に住める人種の話題だと思うよ。

       そうはいっても、気力をもって自分の目標に向かう姿は輝いている。やはり美しい。

わたしは、若さの持続を追及するのではなく、「希望をもった諦観」を老後の目標としたい。

 

三浦さんを称賛するマスコミや世間の思想性を考えると、それはつぎのような価値意識じゃないかと思う。

「青春とは年齢ではなく、心のあり方だ」、生涯現役、死ぬまで元気に生きよう、アンチエイジング、ピンピンころりを願う、生きているかぎりもっと成長しよう、もっと発展しよう、どこまでも進歩しよう、前に進もう、もっと豊かに、もっと快適に、もっと便利に、もっと清潔に、もっと美しく、もっと多く、もっと高く、もっともっと、・・・・、ナンバーワンになろう、オンリーワンを目指そう、ひたすら頑張ろう、自然を征服しよう、人間万歳!!。

 

この思想性は、人生の生き方において年齢を特別に意識しない。老いを考えたくない。老年期を、壮年期が持続する延長として位置づける。壮年期の職業生活で了解した価値観のままで、老後を生きたい「人生二毛作」である。節度というか節目がない。まっしぐら、一直線である。

人生行路を上り坂のままであるとみなす。往くだけである。還りがない。人生は片道切符。直線思考である。ひたすらがんばる若さ希求である。死に向かう下り坂の逝き方を人生行路から避けたがる。循環や定常や諦観よりも成長と革新をどこまでも追いかける。ひたすら勝者、強者、盛者、富者、野心家、不老長寿、善なる飽くなき欲望追及を称賛する。

これは、近代文明社会の普遍的な価値観ではないかと思う。

 

「目標に向かって挑戦しよう、気力を充実させて生きよう、自分を向上させよう、自己を訓練しよう」という考えに、わたしもおおいに賛成である。問題は、その目標や自己訓練の内容というか価値観である。

わたしの死生観と人生観では、老年期をことさらに意識する。忙しく動きまわる壮年期を卒業して、静かに平穏にすごす老年期を区別したい。そこに区切り、節度、節目を設けたい。

往きがあれば還りがある。生と死を昼夜のごとく自然の循環とみなす。少壮老の人生三毛作をとなえる。上り下りの人生行路において、Will希望、Can能力、Must規範を、人生の少壮老の時期によって変化させたい。

老いたら壮年期のようには頑張らない。頑張りたくない。壮年期を生きてきた競争社会の価値観から離れたい。価値観のちがう人を非難し排除するのでなく、多様な差異を棲み分けられる社会をのぞむ。

老年期を終業期とするわたしの訓練目標は、無為自然、則天去私、敬天愛人、悠々自適、日々是好日の心境への到達である。がんばらない「了解自己」のさとり。その目標は、樹木や動物たちと同じレベルの自然な老衰死という大往生である。

 

江戸の庶民は、「老いの木登り」を冷かした。年寄りが、強がって冷たい水を浴びたり飲んだりしたら腹を壊すよ。年甲斐もなく年寄りが無分別に若者のマネなどしなさんな。自分の年齢も考えずに無茶をすることはみっともない、はしたない。「老いては子に従え」だよ。

 それは、家制度があった江戸時代のはなしだね。現代の庶民は、核家族で少子かつ高齢化社会を生きるしかない。家督をゆずって隠居暮らしというわけにはいかなくなった。

「年寄りの冷や水」という江戸の故事は、死語となった。「老人」という言葉をきらってシニアーだのシルバーだのという。葬儀場といわずにセレモニーホールという。いやはや・・・・。

「老水庵」の思想性の大前提は、個人の自由をベースとする人生いろいろ、十人十色、差異の多様性の共存社会である。多様性とは、Will希望、Can能力、Mustの価値観の「人それぞれ」である。三浦雄一郎氏の快挙を「老人の希望の星」とみるか、それとは別に「頑張らない老後」に希望的諦観を了解するか、人それぞれである。

老後を人生二毛作で生きるか、人生三毛作で生きるか、その考察を深めたい。

以上