No.22 条例制定を考える事例その1

 ~防波堤での釣りは禁止すべきなのか        2013年7月20日

 年金、医療、介護について、自民党の公約は「社会保障制度改革国民会議の審議の結果等を踏まえて必要な見直しを行う」とある。この手続きをおおまかにつぎのように理解する。

 1.霞ヶ関の各省庁の担当者が、国民会議の事務局を設置する

 2.事務局が、自薦や他薦の専門家、学識経験者などから会議の委員を選ぶ

 3.国民会議は、医療、福祉施設、健保組合など各種関係諸団体の意見を聞く

 4.国民会議は、審議結果を答申書にまとめて各政党/国民に提示する

 5.政権与党の自民党と内閣は、法案と予算案を準備する

 6.国会は、法案と予算案を決議する

 7.政権を担う内閣・行政府・公務員・天下り法人などが、予算を執行する

 8.国民は、年金、医療、介護の「福利を享受」する

 

日本国憲法は、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と定める。

a.国民は、代表者を正当に選挙すること  

b.国民は、国会における代表者を通じて行動すること

c.代表者が、権力を行使すること

d.国民が、福利を享受すること

 

さて、社会保障制度改革国民会議は、「c.代表者が、権力を行使すること」の一部なのであろうか。では、この国民会議は、「d.国民が、福利を享受すること」とどのように関係するのか。

そもそも「国民」といっても千差万別、十人十色である。「国民の福利」を抽象的に定義できたとしても、現実の「福利の享受」の評価は、ひとり一人の判断に依存する。「わたしが享受したい福利」の要求や実現条件などを、個人的に国民会議に伝えるのは不可能である。

だから国民会議は、医療、製薬、福祉施設、健保組合など各種関係諸団体の意見を聞くしかない。これが、「私」と「公」をへだてる代表制間接民主主義という国政の実態である。

国政の権力行使に実質的な影響をおよぼすのは、「私」と「公」をつなぐ天下り法人/業界団体/労働組合/圧力団体などの/権益でまとまる「中間組織」である。これらの中間組織は、税金による富の再配分を要求する利益共同体である。それは、特定「私」欲の集合体である。

 

問題は、これらの中間組織と「a.国民が代表者を正当に選挙すること」との関係および行政制度の統治機構との関係である。

中間組織は、選挙権をもたない。だから代表を選ぶことはできない。

中間組織は、特殊利益集団である。だから行政制度の統治機構に組み込めない。

中間組織を構成する世代は、職場の仕事を中心とする壮/職業期である。少/学業期と老/修業期の「国民」は、地域で生きる。町内会・自治会という地域の「生活共同体」は、行政の統治機構に組み込まれていない。

「生活共同体」を、統治機構に正当に組み込めない現行憲法の間接民主主義は、「共」不在の「私公二階建」という国家体制である。わたしは和魂の基層である「生活共同体・共性」の解体をなげく。憲法を改正して「私共公三階建」の国家体制に変革することを希求する。

 

そこで、年金、医療、介護にかぎらず各領域をテーマとする「制度改革国民会議」を設け、その下部活動として、地域住民が参加できる国家プロジェクトを構想する。自分でできることからはじめるしかない。

そのひとつが、地域住民の身近な問題を「国家」につなげる「地域の条例制定運動」である。利益共同体にあらざる町内会・自治会という地域の「生活共同体」を、行政の統治機構に組み込むための憲法改正プロジェクト運動である。

この運動の真の目的は、主権者と代表者または代表候補者が「民主主義の訓練、リハーサル」を行うことにある。「c.代表者が、権力を行使すること」と「d.国民が、福利を享受すること」との隔たりを限りなく近づけるための試行錯誤と訓練である。

 

ここで、国民のひとりであるわたしが享受する「福利」を考える。その「福利」は、私共公天の枠組みの中の諸関係性として実現する。

私: 身体自己、生活自己、了解自己という三つに分裂した「福利」

共: 家族、地域、友人関係など他者と共生して生きる人間関係における「福利」

公: 国民と国家の「義務と権利」の法的関係における「福利」

天: 自然および先祖、世界の人々、子孫という超越的関係における「福利」

 

この枠組みで考えると、憲法が求める民主主義は、「私」と「公」の関係性に限定される。わたしは、この点に現行憲法の欠陥を認める。国民の福利は、「公」だけに頼らず「共」における直接的な人間関係おいても享受されるべきだと思うからである。

「国民の福利」は、君主の恩賜ではなく、340万人の国家および地方公務員が1億2千人の国民にほどこす行政サービスでもない。「c.代表者が権力を行使する」ことは、「d.国民が福利を享受する」ことの一部にすぎない。

 

国家の統制から一定の距離をおいて「自分たちのことは自分たちで責任をとる」という共同体の自治精神を訓練できないか。わたしはそのような夢をみる。

その夢が、下の新聞記事をテーマとする地域住民と議員/議員候補による「条例制定運動」を構想させる。その事例のひとつが、以下のテーマである。

 

  防波堤での釣りは禁止すべきなのか ~公共施設の「管理責任」と「自己責任」

港の海面をまもる周辺の防波堤や岸壁は、釣り人にとっては格好の釣りポイントである。だが、その防波堤や岸壁は立ち入り禁止。そこで釣りをした人が書類送検されて取調べを受けた、という新聞記事を読んだ。(「規制強まる“好釣場”」2009年12月13日付け朝日新聞記事より編集)。つぎのように、立場が違えば考え方も違う。

 

①横浜市港湾局の立場

防波堤には浮き輪など釣り人向けの安全対策は取られていない。転落などの危険がある。高波にさらわれるなど防波堤での釣り人の事故は多いので立ち入り禁止にしている。管理者の自治体が管理責任を問われる時代になって、全国的にも管理強化の動きにつながってきている。

 

②水上警察署の立場

事故を防ぐには、積極的な取締りが必要。防波堤など禁止区域に入ったら軽犯罪違反の疑いで書類送検し、悪意があれば検挙する。悪意とは、立ち入り禁止の看板に気付きながら無視して入った場合だ。管理責任を果たしておけば、事故が起きても自治体側が一方的に非難されることにはならない。

 

③釣り人の立場

釣りをしただけで、警察署で2時間半も調べられ、指紋の押印や写真をとられた。ここまでされる必要とはなんなのだ。立ち入り禁止の防波堤などでないと大物は釣れない。事故が起こっても自己責任でいいのではないか。これまで長く黙認されてきたのになぜ今さら規制強化なのか。

 

④防波堤で高波にさらわれて亡くなった釣り人の遺族の立場

港湾を管理するのは自治体の責任だから、市を相手に損害賠償の裁判を訴えます。

 

⑤横浜港で20年以上、渡船業を営む業者の立場

釣りは何十年と続いてきた。これまでは防波堤の釣りは大丈夫だったのに、なぜ今になって批判されるのか。

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横浜市港湾局や水上警察署は、「公」である。釣り人や渡船業者は、「私」である。防波堤は、「公共」施設である。「公共」施設の建設と管理は、税金で運営される行政の独占事業である。その利用は、法律や条例が定める「公共」目的に限定される。「私」的な利用は排除される。その「公共」目的は、縦割の行政組織によって細かに細分化される。

横浜市港湾局や水上警察署が、「公共」施設を「立入禁止」とすることは、その組織の分掌規定にのっとる正統な権力の執行であろう。だが、釣り人や渡船業者など多様な「国民の福利」を排除する権力行使は、正当性/正義/道義をもつであろうか。

 

国家の統制から一定の距離をおいて「自分たちのことは自分たちで責任をとる」という共同体の自治精神を訓練できないか。釣り人や渡船業者や町内会などが責任をもって「公共」施設を利用できる自治コミュニティを形成できないか。

そのために、地域住民と議員/議員候補による「条例制定運動」を興したい。それは、和魂の基層である「共性」を、「共生思想」に言語化する意識革命運動でもある。この運動が、憲法改正に向かう国家プロジェクト構想である。  

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