2013年6月1日 No.7 進次郎氏、71歳公認に抵抗 

● 「進次郎氏、71歳公認に抵抗」と「認知症高齢者462万人」いう新聞記事について

 「進次郎氏、71歳公認に抵抗」という見出しの小記事を新聞でみた。

自民党は、国家議員の「70歳定年制」を定めている。ところが、2013年7月に予定されている参議院選挙では例外規定として、71歳の現職議員を公認した。その党議に対して小泉進次郎青年局長が、「若い声をより多く国会に届けるべきだ。」といって反対した。

高齢の先輩議員から「君だっていずれ70歳になる」とたしなめられると、進次郎氏は「私はそのときにはいない」と反発したという。自民党には、定年制廃止論があがっている。小泉氏は、その動きにも反論している。

 

この新聞記事は、人生の二毛作/三毛作を考える視点からわたしの興味をひいた。進次郎氏の発言に人生三毛作論者として共感したのである。「私はそのときにはいない」と意味が、「70歳すぎたら隠居して、若者を陰ながら応援したい」ということかどうかは分からないけれども。

 

 同じ日の一面トップ記事は、「認知症高齢者462万人 厚労省研究班推計 予備軍も400万人」という見出しである。

 年齢層別の認知症有病率のグラフを見れば、80から84歳で20%、85から89歳で40%、90から94歳で60%、95歳以上では80%になる。

厚生労働省の認知症対策は、2000年に介護保険制度を導入してから本格化した。当初は、主に介護が必要になった人に重点が置かれていた。最近では、「介護を必要としない」段階からの早期診断やケア対策が重要視されるようになった。

 

では、この推計データをどう解釈するか。自分の老後の過ごし方とどう重ねるか。

80歳でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎氏の快挙を「老人の希望の星」とみる人がいる。そういう人でも「自分は認知症にはならない。死ぬまで若さを保って生きる。」と言い切れる人は少数であろう。うえのデータをみれば「自分も加齢にともなって認知症になるかもしれない」と思う人のほうがおおいだろう。

認知症とは、脳細胞が死んだり、働きが悪くなったりする病気で起きる。

 では、「自分も認知症になるかもしれない」ことに、どう早期対応をするか。

 

わたしの対応は、死生観、人生論、倫理にむかう。80歳すぎたあとの病気治療は、広義の「延命治療」だと 思う。人生三毛作論者として「延命措置を拒否する」思想性を修練したい。その思想性は、「私共公天」の生き方に関する錯綜した思考である。 簡明に人命尊重や人権主張だけでは割り切れない。

①「私的」生き方
生まれも育ちもいろいろ、思想も能力も十人十色、個人の自由、身心頭の欲望を生きる。

②「共的」な生き方
人は、ひとりでは生きられない。他者と共存して生きるしかない社会的動物である。

③「公的」な生き方
多様な他者と共存することには、かならず対立、不和、暴力などが起こりうる。社会の秩序を維持し統制する国家機能が必要である。国民は、国家の定める法律を守る義務がある。

④「天的」な生き方
人は、「天賦の権利」として「人権」が無条件に尊重される。どうじに人は、植物や動物の命を消費して生きる。ここに自然の生態系、摂理、天の道がある。人道は、「お天道様」に包摂される。

 

「私共公天」との関係性は、少年期・壮年期・老年期に応じて変化する。また、少壮老の人生サイクルにおいて、「身・心・頭」の欲望や能力は変化する。その変化は、身体自己、生活自己、了解自己の「三つの自分」という主体性の分裂と統合をよぎなくさせる。これらの変化が「生きること」の内実である。

 

では、どのようなことに「気力」を奮い立たせ、どのように「身、肉体力」と「頭、思考力」を訓練するか。その気力を、どこに向けるか。人生を二毛作とみなすか/三毛作とみなすか。

これが日々の生活実践となる。老後の生き方は、死生観、人生論、倫理観などと一体である。「老人の木登り」を、人生二毛作論者は「快挙だ」と喝采し、人生三毛作論者は「年寄りの冷や水」とみなして「隠居」に向かう。

この両者では、老後を生きる「気力」を奮い立たせる方向がちがう。どのようにちがうだろうか。人生の二毛作/三毛作の考察をつづける。

以上