●No.16 「もっと、のんびり」できないか?  2013年6月30日

~「憲法改正」の議論に参加する仮説

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が、西洋流の近代文明社会の進歩と幸福をもたらすと信じられる啓蒙の時代があった。共産主義や社会主義の歴史的な実験は、中国の国家資本主義や北朝鮮の全体主義でしかない現実に転化した。明治維新により日本は、西欧列強をお手本にひたすら近代国家の統治形態を強化してきた。その果てに今の日本がある。

株価の乱高下に一喜一憂するアベノミクスとやらに、うんざりした気分になる。国家経営の1000兆円にせまる赤字を補填する借金返済は、インフレと経済成長しかない、という経済学者たちの知性に悲哀を感じる。さまざまな根本的な問題を積み残したまま、ひたすら目の前のことにしか対処しない政治家と政治学者たちの知性に希望を失う。学問や学者は、信頼に値するのか?

 

2013年現在の日本の状況は、グローバルの大海を何だか漂流しているように思える。その島国の都会の片隅で、わたしは身の回りの狭い日常を生きている。壮年期の仕事世代の生活は大変だなあ、と同情しながら隠居老人のわたしは世の中をながめている。

グローバル資本主義の競争社会を認めながらも、ローカルな地域のあちこちに「もっと、のんびり」くらせる共生社会/地域コミュニティが実現できないものかなあ、と願う。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を乗り越える「共生倫理と資本主義の精神」の思想性を希求する。わたしは、そういう願望を背景にもって、「憲法改正」の議論に参加したい。

 

わたしの仮説は、現行憲法は「倫理的な理念、理想を高くかかげることによって、逆に現実の倫理性の劣化に対応できない」という主張である。

・倫理的な理念、理想 ;

 個人の自由、人権尊重、主権在民。国際協調、武装軍隊放棄。

・現実の倫理性の劣化 ;

 中央集権、官僚制、お任せ民主主義。沖縄の米軍基地。核兵器。

 

○国民と国家の関係の再確認  

「老後をいかにすごすことが倫理的なのか」というテーマをかかえながら、私/「人権尊重」と公/「国家依存」という西欧近代思想に依拠する日本国憲法の根本を問い直したい。

個人/国民/国家の関係において、1945年の敗戦を契機として、戦前と戦後の日本社会には大きな断絶がある。この事実をまず再確認する。

 

戦前の大日本帝国憲法は、国家が国民を統制する体制であった。国民は、国家に忠誠を誓い国家に奉仕することが教育された。「いかに生きるか」という道徳規範が明確であった。結果として、国民の自由は、おおきく制限された。特に社会思想、政治思想、労働運動などに関する発言と結社については、治安維持法などで容赦なく摘発され、検挙され、投獄され、処刑された。

 

戦後の日本国憲法は、アメリカ民主主義思想を基本とする。独立した単独者である裸の個人という理念的な人間像が即自的に尊重される。国民と国家の権利・義務の関係が逆転したのである。国家は、国民の自由と権利を保障する義務を負うことになった。天皇が玉座からおりて人間になり、国民が国家の主権者になった。

国民は、「他人に迷惑をかけない、公共の秩序を害しない」かぎり、政治思想、権力批判、信条、宗教、著述、評言、通信、結社、集会などの禁止・制約から解放されて自由になった。「人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ」ことが、天賦の人権とみなされる。 

 

○個人の自由を至上とする戦後社会は共同責任を行政責任に転嫁する  

戦前においては、国家つまり「公」が国民つまり「私」に忠誠と奉仕を求めた。だが、公が直接的に私を管理する仕組みではなかった。公と私の間を、村落・職場・町内会・隣組などの共同体つまり「共」が仲介したのである。

公は、共を通して私を統制する国家制度を運用した。国民は、共同体の掟に従うことを通して、国家の秩序に服したのであった。システム論でいえば、サブシステム設計である。

 

国家から見れば、国民の自己責任よりも共同体の管理責任を問うた。家や集落共同体の一族郎党の共同責任を重視した。

そこでの個人の自由行動と他人の自由尊重は、共同体における生活と仕事範囲に限定された。普通の人間は、狭い共同体空間を自分の身の丈の世界と受けとめた。そこで自分の器量で生き、喧嘩したり、相互に扶助したり、煩わしい人間関係を自然なこととして了解した。

そこでは、伝統的な倫理観や道徳や慣習が、社会秩序の安定を下支えしたのである。もとよりそれに我慢できない人間もいた。より大きな自由を求める少数の人間は、村を飛び出して都会をめざすのであった。田舎から都市へ。西欧の清教徒たちがアメリカ大陸をめざしたように。

 

戦後においても社会秩序を管理する最終責任が国家にあることは、戦前と変わらない。だが大きな違いがある。

それは、共同体の崩壊である。共同責任、相互扶助という概念の制度的不在である。終身雇用制の会社共同体も崩壊した。代わりに国民の私的自由の領域がかぎりなく拡大した。共同体の掟・道徳・相互監視・相互依存から解放された。そして、個人は、分断された弧人になった。 

それゆえに、自由な国民(私)は、直接的に国家(公)である行政・役所と向きあうことになった。共の共同体を生きる共同責任に代わって、公の行政責任が肥大化した。

同時に、良くも悪くも古き伝統を継承してきた倫理観や道徳や慣習を基礎におく相互扶助の機能も劣化させた。地域における人間関係のもめごとを「自分たち」で調整する機能と知恵を失った。だから、「自分たち」で解決しようとせずに、なんでもかんでも役所に責任を向けるようになったのである。そして、公;役所は肥大化する。

 

戦前の共同責任体制が、戦後の行政責任拡大に転嫁することになった。国家からの拘束を脱して自由を獲得したことによって、逆に国家に対して自らの権利保障を要求するという国家依存の意識を厚くしたのである。逆理である。

そして、個人の「正心/誠意/修身」という人格形成の道徳規範も封建的・前近代的な遺物として廃棄された。精神性が、知性だけに過度に偏重した。心性を修練する思想軸をいちじるしく失った。共同体の経営をになった町内会は、敗戦後のGHQマッカサーによって制度的に解体されたのであった。

 

○私と公の肥大、共の不在

個人の自由は、「公共の福祉秩序」に反しない限り、あくなき欲望充足の自由競争、資本主義体制を是認する。欲望充足の万能メディアが、貨幣マネー・カネ・ゼニである。

公共の福祉秩序は、民主主義の手続きによって制度化される。明文化された法律により正当化される。国家が、公共の福祉秩序を管理する権力の正統性を独占する。

現代社会の根本価値は、自由・制度・貨幣つまりフリー・ルール・マネーである。自由な精神性に「歯止め」をかける国民的な「倫理観」は、不在である。

 

1960年の安保闘争を契機にして、高度経済成長を支えた自民党の資本主義と社会党の社会主義との相互依存の両輪体制が確立した。その体制で維持される資本主義市場において、私企業はマネー獲得の自由競争にはげみ、そして必然的に敗者と弱者をうみだした。

強者・勝ち組は、マネー獲得をめざして欲望充足のあくなき自由と権利と人権を主張する。

弱者・負け組は、救済のあくなきマネー給付と平等と社会権を要求する。

マネーの獲得と給付という両端をになう自由な企業活動/生産関係と平等な社会保障/消費行動は、表裏一体として、現代社会の根幹をなす。

強者と弱者、勝者と敗者、支配者と順応者ともども個人中心主義のあくなき利己的権利主張が、世の中に渦巻いている。労働組合などが、利害関係を軸として集団を組織するが、自らの利害獲得の闘争でしかない。

かくして、社会党は社民党になり消滅寸前で歴史的な役割を終えようとしている。共産党や公明党の支持者たちは、一定のコミュニティを形成しているように見える。そこにはその党派に固有の倫理性を認めることはできる。しかし、国家を統治する権力機構を現実的に経営できる思想性をわたしは感じない。権力の補完機能か野党の抵抗、ブレーキ機能のどちらかでしかないだろう。民主党政権の哀れな崩壊は、国家権力をになえるしたたかな思想性の欠如にほかならない。

 

憲法の下の「公助」という弱者救済の倫理性は、西欧に発した人権尊重を基本理念とする。その個人尊重主義は、「共助」する共生思想の倫理性をうまく説明しえていない、と思う。わたしは、日本人的な感性や和魂洋才に着目することを躊躇しない。縄文人の血を受け継いできた日本人が生きるための共生、共同、共働、相互扶助、社会的責任感、「ご先祖やお天道様」から見られているという心性に、倫理性の土壌を求める。「共生倫理と資本主義の精神」である。

 今や「公助」に偏重した社会保障システムが破綻する瀬戸際にあることは明白である。私/「人権尊重」と公/「国家依存」の二階建国家構造が、社会システムの複雑性に対応できなくなったのだ、とわたしは思う。

時代錯誤でもなく、ノスタルジーでもないあらたな「共」を実装する社会システムを日本社会の未来像としたい。私共公の三階建社会である。わたしは、現行憲法に「もっと、のんびり」くらせる共生社会/地域コミュニティの原理と思想性を見いだすことができない。

こういう意識でわたしは「憲法改正」の議論に参加したい。                  以上   No.17へ