No.43 地域コミュニティ「社会システム」に向かう方法の問題 2014年2月13日
「マンション団地のコミュニティ形成」のキーワードは、住民同士のコミュニケーションの活性化である。問題は、「住民同志のコミュニケーションの活性化は、いかにすれば可能か?」、「仕組み、道具、制度、組織をどうするか?」、その「知と方法は?」である。
この問題へのわたしの回答は、「共生思想の実践」である。共生思想の核心は、「私」個人主義と「公」国家主義を仲介する「共」地域コミュニティ形成である。
その「実践」として、地域の遊休資源を活用して①海洋教室、②学び場塾、③気軽に立ち寄る縁台カフェなどを運営するプロジェクトを立ち上げる。そのための「知と方法」として、社会学の一派である「社会システム理論」の応用を試みる。
問題は、A:実践プロジェクトーB:仕組み、制度、組織―C:住民同志のコミュニケーションの活性化の関係を、「社会システム理論」の視点からどのように考えるか、である。
●プロジェクトの基本思想である「共生思想」のキーワード
○共生思想の「主題」は、70億人の人間が生きる地球世界の「個人と社会」である。
○共生思想の「批判」対象は、西欧に発した近代思想である。
1)国家主義 公、統制と福祉
2)個人主義 私、自由と人権 *独立した個人=社会の元素
3)功利主義 科学技術的合理性、ルールとマネー(法律と法貨)
*効率性、時間の短縮、時間当たりの空間移動量、記号情報被曝量、決定量
*身体の道具代替、頭脳のコンピュータ代替、感性の不安定化、統合失調
○共生思想の「対案」は、日本人が縄文人から受け継いできた共生思想である。
1)国家主義への対案 ;国家論
「私公」二層の統治機構を、「私共公」三層構造とする。
2)個人主義への対案 ;人生論
往還思想/脱人間中心、敬天愛人 *死を宿す個人=社会に寄生
3)功利主義への対案 ;「アナーキー社会システム論」
*少壮老の世代ごとの人間像、少年期と老年期のアンチ効率性
*身体の自然体験、ルールを介在しない直接的な人間関係性
*「潜在性―可能性―実現性」、「曖昧な境界・要素・関係性」、コミュニュケーション
*「確たる要素」を前提とするシステム思想をこえるヒューリスティックな知性
●目標と課題
近代思想をこえる知性の目標は、「もっと人間らしい世の中を!」である。「もっともっと豊かな社会」ではなく、「自然な人間性を生きる社会」である。時間と空間と情報の身の丈レベルの社会である。
その具体的な目標設定は、自然な人間性の①社会的関係と②自然環境関係の再生である。
その主役は、少壮老の人生三毛作、少/学業期と老/終業期の世代である。
その実践場所は、私共公の三層レベルの「共」コミュニティである。
その生活スタイルは、身心頭の自然な成長と老化のバランスである。
そのための課題は、近代思想の合理性がもたらした「自由・フリー、規則・ルール、貨幣・マネー」という「人間関係コミュニケーションの障壁」三点セットへの対案である。
・自由 :人権と個人情報保護法に対案を出さなければならい。
・規則 :「公・国家」の統制に「共・自分たち」の対案を出さなければならい。
・貨幣 :国家の法貨流通の信用システムに対案を出さなければならい。
(参照:2.4 近代思想の科学技術的知性への偏向が現代社会の病理の根本原因である)
●「自由、規則、貨幣」という「コミュニケーション障壁」三点セットの本質
この三つに共通する本質は、「基本的単位」、「独立した要素」、「確実な要素」の存在を仮定する「元素思想」、「要素還元思考」である。
自由は、「個人」を独立、自立、自律、孤立、無制約な主体、個体などとして、「確たるひとつの存在態」を前提とする。自由な個人が、「基本的単位」、「元素」として社会を構成するという社会思想となる。経済学や政治学は、「独立した自由な個人」の存在を前提にする。
規則は、言語、文章、命題を「基本的単位」とする。法則、法律、契約書、判決等は、「明確に定義された言葉」、「概念」を「基本的単位」として前提する。
貨幣は、交換価値の基本的単位として、「通貨単位」を前提とし、交換物を「明確に数量化された価格」の存在態に代替して流通させる。
自由な個人の日常生活は、お互いに「規則」と「貨幣」を媒介することによって、直接的な人間関係が切断され、コミュニケーションが途切れて、個人は孤独な個人となる。
●「元素思想」を超える知性の探究にむけて
「個」に分断された現代社会の閉塞状況を突破するための、直接的な人間関係、直接的な自然体験への「却来」。「身・心・頭」の自然なバランス統合。「少壮老」の人生行路をおだやかに過ごす安心立命。「多様な差異の共生を自制する規範」、「自分たちを信用し、信頼し、お互いを必要とする関係性」、「ほどよい人間関係・絆・生き生きワクワクする環境」、「身の丈で共に生きる知性と知恵」、「共に生きる相互依存・協力関係の知性と知力」。
これらの未来社会のイメージをどのようにすれば実現できるか。その鍵は、「元素思想」を超える知性の探究である。
それに向けて「一灯照隅」、「蟷螂の鎌」よろしく地域コミュニティ形成プロジェクトの「実践」と並走して、「アナーキー社会システム論」の「知性」を鍛えたいと思う。
●「アナーキー社会システム論」への入り口
アナーキーの一般的な意味は、(1)無秩序、(2)無支配、(3)無政府であろう。「無」とは「有」に対する位置である。地図でいえば、図の「有」に対して地が「無」=空白である。人間でいえば、目に見える「個人」の「有」に対して、「無」は個人相互の「間」の潜在的関係性=社会システムに相当する。「無」、「無限」、「潜在性」に着目する方法が、わたしのアナーキーな視線である。
だから、ここでいうアナーキーは、政府権力に歯向かう抵抗、反対運動、反乱ではない。多数派の権力支持者たちの行動を変えることを目的とする超法規的な反政府運動ではない。「アナーキー社会システム論」の「アナーキー」とは、「元素思想」の世間常識から逸脱、遁走、背反して「別な思想と生き方」の創造を意味する。
なぜなら、自らと異なる相手の行動を「変革」することと、相手に支配されないように自らを「変革」することのどちらが実践的か、を問うからである。
たとえば、「原発即ゼロ、再稼働反対」運動は、政府や電力会社などの他者に対する要求である。それに対して、ローカルな地域での再生可能エネルギー発電にとりくむ活動は、自らの行動選択である。行動の次元が異なる。わたしは、前者も支持するが、後者にこそ加担したい。
わたしが意味するアナーキーとは、自らを変革し、政府権力=世間の主流に統制されない自治的な生き方の創造である。創造とは、「無いもの」世界に「有るもの」を実現する営みである。無限の潜在性から可能性の条件を探し出し、芽をださせ、育てながら実現性を獲得する挑戦である。
世間から離れてくらす終業期を生きる老人世代にとって、アナーキーは身近にトライできるささやかなる実践だと考える。「身捨つるほどの覚悟」などはいらない。あってもよいけれども。
●「アナーキー社会」とは、「自由・フリー、規則・ルール、貨幣・マネー」を基軸とする「元素思想」社会から逸脱して生きる「共生コミュニティ社会」を意味する。ルールとマネーとは別に、人間に潜在する「信頼」つまり「お互いを信じて頼りあう」関係性に価値を求める社会である。支配なき「信頼」の仕組みに「アナーキー」を求める。「個人」から「共人」へ人間像の革命を必要とする社会である。
*自由な個人を「基本的単位」として社会を構成するという社会思想を否定する
*「独立した自由な個人」を前提にするから「国家の権力統制」を必然とするからである
*独立した人権保証を国家に求める民主主義は、国家権力の支配を必然とする
*「独立した個人」像に代わる「生―少壮老―死」を生きる「変化する個人」像を前提にする
*近代的な個人像を超えて、「社会に寄生する」共人像への「人間像」思想革命を探求する
●「アナーキー社会システム論」とは、「元素思想」に基づく「目的―手段/原因―結果」を一体化した合理主義・功利主義を基軸とする通常のシステム論からの逸脱を意味する。
そのキーワードは、「潜在性―可能性―実現性」、「不確定で曖昧な境界・要素・関係性」、「不確定な機能の多重性」、「幻想と誤解をともなうコミュニケーション」などである。
「アナーキー社会システム論」は、現在の社会システムの片隅に、「自分たち」の地域コミュニティという「非常識な社会」を「創り」、「育てる」ための社会システム方法論である。
その実践プロジェクトの場であるわたしのマンション団地には、自治会や管理組合や周辺事業者等との街づくり協議会などの組織体があり、公園や公道や岸壁や海水面を管理する行政機関等の組織がある。ここは、ひとつの社会である。その社会を「システム」として見る方法を三つ考える。
① 社会は、個人を要素とするシステムである。
② 社会は、個人および組織を要素とするシステムである。
③ 社会は、「コミュニケーション」を要素とするシステムである。
上の①と②は、通常の常識的な考え方である。
「アナーキー社会システム論」は、③を採用する。そこでは、個人や組織は、システムを構成する内部の要素ではなく、外部の環境に位置する。目に見える「個人」の意識や行動に着目するのではなく、個人相互の「間」に出現する「コミュニケーションの連鎖」を社会システムとして認識する。
そういう方法の「アナーキー社会システム論」は、A:実践プロジェクトーB:仕組み、制度、組織―C:住民同志のコミュニケーションの活性化の関係を、どのように「解釈」するか?
そして、近代思想の合理性がもたらした「自由、規則、貨幣」という「コミュケーション障壁」三点セットによる閉塞状況を、どのように「変革」できるか?
続きは、ソフトシステム思考へ
●さあ、断って、立って,発とう
「ソフトウエア・グラフィティ」(著:岸田孝一)から引用
「これから先のこと? なるようにしかならないでしょ。でも、今の状態では駄目だと思っている限り、何かが起きる。そういう「芽」が出てきたときに、それを皆で育てていくことが大切だと思う。」
「どこへ行くの?」 「わからない、どこかへ」 「それじゃあ、何をするの?」
「わからない。とにかく発たなきゃいけないんだ」 「行くよ」