No28.マンション暮らしで思うこと ~1.失われた「共」精神

新築マンション団地にうつり住み、2013年9月で満7年になる。横浜市臨港街区(以下、CH地区)に位置する団地には、21階から33階までの4棟(以下、A棟、B棟、C棟、D棟とよぶ)で2000人近い人が住む。住民の考え方や生活スタイルは人それぞれである。

ともかく「安全、安心、整備、防犯、警備、清潔、美観、静穏などの物的な環境維持だけでよい、人間関係など余計なお世話だ」という考える住民もいる。いや「物的な環境維持だけでなく、もっと豊かな人間関係があったほうが幸せだろう」と考える人もいる。

それぞれの住民の生活状況や思想・価値観や志向性などはさまざま。それぞれの人生体験は、一様ではない。それぞれに考え方と選択肢がある。

以下、マンションで暮らすひとりの住民のきわめて個人的な心境を以下につぶやく。

 

1.1 失われた「共」精神

(1)マンション暮らしは「共有施設」を共用しなければ生活できないという発見

「共有」コモンとは、「私有」プライベートと「公有」パブリックにはさまれた中間領域である。人間関係でいえば、公有が「公助」に、私有が「自助」に、共有が「互助」に対応する。CH地区の財産は、私有財産・共有財産・公有財産(国・県・市)に分かれる。

マンションに住むわたしは、自室の専有部分だけでなく、A棟の共有施設やCH団地全体の共有施設を共同利用して生活せざるをえない。

一戸建の住まいをやめて、はじめてマンション暮らしを経験する自分にとっては、この点が大きな発見だった。「マンションは近所付き合いをしなくても快適に暮らせる」という常識・風説とは、真逆だと気付いた。 「共有」施設等を「共用・共同利用」しなければ生きていけないのだ、という自覚は新鮮なおどろきであった。

 

(2)仕事中心時代は地域には関心が向かなかった

CH地区自治会の理念がかかげる「自治会員一人ひとりが、集合住宅において、共同生活者であることを自覚し、思いやりに基づく相互扶助」という文言にもびっくりした。

自分は、そういう自覚をしているだろうか、思いやりとか相互扶助などできるのだろうか、という新鮮な問題意識に気付いた。

引っ越す前の地域でも町内会はあった。市役所からの広報などを回覧板でまわし、当番制でごみ出し場所を掃除し、盆踊りや老人会などのイベントを開催しているのは知っていた。しかし、それらは家事をまかなう妻の仕事であった。わたしには関係がなかった。なぜなら、わたしの生活は仕事を中心にまわっていたからである。自分が住む家と家族のことは気にしても、地域の隣人関係はほとんどなかった。会って軽く会釈する程度であった。隣人と何かを「共用」しているという意識はなかった。

 

(3)マンション暮らしのキーワード;プライバシー、規約中心、金銭決済

ところが、引っ越した直後から仕事を少しづつ減らす状況になった。そうすれば、自宅で過ごすことがおおくなった。時間に余裕もでてきた。そして、引っ越す前にはほとんど見もしなかった団地管理規約や重要事項説明書をあらためて読んだ。

そうしたらプライベートでもなくパブリックでもないコミュニティとは?、「私」でもない「公」でもない「共」とは?、自治会の理念がいう「あたたかい人間的なコミュニティの形成」などとは、どういうことなのだろうか?、という問題が気になりだした。

結論からいえば、この問題意識は逆につぎのことを明確に再確認する契機にもなった。

①マンション団地の生活環境は、直接的な人間関係を遮断する構造になっている

②住民どうしの相互関係は、団地管理規約をまもることによる間接的で形式的な関係である

③団地管理規約にもとづく生活環境を維持するのに管理費を払って管理会社に委託している

 

 「①プライバシー重視」、「②規約中心」、「③金銭決済」をキーワードするマンション団地において、「相互扶助」とか「協力関係」とか「あたたかい人間関係」など、どうすれば実現できるのだろうか?

そもそも、自治会の理念をどれほどの住民が、「ほんとうにそうだ」と納得しているのだろうか?

 今や家族関係、夫婦関係ですら個人の自由を尊重する時代である。人間関係はまことにむずかしい。ましてやアカの他人との隣人関係においておや。 

 戦後教育において、わたしたちは、「共」精神の教育も訓練も受けてこなかったことをあらためて自覚したのである。

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