No29.マンション暮らしで思うこと ~2.奇妙な落ち着かなさ

(1)共有の共同利用は何かと厄介だ

仲間内で資金を出し合って共有名義でクルーザーや別荘などを購入するケースがある。最初は何事もなく楽しくても、次第に厄介なことが出てくるのだそうだ。共同で運用管理する人間関係の成熟度の度合いが、トラブルの対処と結末に影響するとのこと。そして、やはり無理してでも自分だけの自己所有のほうがいいな、ということで共同所有をやめるという結末になるケースも多いらしい。ここに<私>と<共>の違いが見える。<共>のむずかしさを物語る。

このはなしは、マンションと一戸建にも通じる。

わたしは、A棟の共有施設を各戸の区分所有者たちと持分に応じて共有している。団地共有施設を各棟各戸所有者たちと共有する。

<共有する>といっても、他の所有者とは仲間内でもなく、氏素性も顔も知らないひとがほとんどだ。生活の場であるマンションの共有施設を、素性の分からない思想信条さまざま人たちと「共用」しなければならない、ということはあらためて考えれば、何だか奇妙に穏やかなならざることだなあと気づく。

団地周辺の市道は、横浜市が管理する<公>施設である。その維持管理は、役所の仕事。そのために市民は、法律を守り、税金を払う。役所が、道路事業者に維持修繕を発注する。

マンションの共有施設を維持管理するために、各棟各戸所有者は、管理費を払う。管理組合の理事会が、マンション管理会社に業務を委託する。<公>と<共>の対比をつぎの組み合わせで示すことができる。その抽象的な社会構造は、まったく相似形である。

・<公>施設の管理   <===> <共>施設の管理

・役所 /施設管理部署 <===> 管理組合/理事会

・法律            <===> 団地管理規約

・公務員ビジネス     <===> 無償のボランティア活動

・市民            <===> 区分所有者

・税金            <===> 管理費

・道路管理事業者    <===> マンション管理専門会社

・行政裁量の公共事業 <===> 資本主義市場経済取引

 

(2)マンションの区分所有者と住民との関係

一般的にマンションにはつぎの三つの人種がいる。

A: 区分所有者であり、住民でない

B: 区分所有者でない、住民である

C: 区分所有者であり、かつ住民である

A: 区分所有者であり、住民でない

投資用マンションの新聞広告をよく目にする。自分はそこで住まないで、賃貸にだして家賃収入を得ようとする投資目的の人が購入する。その人は、自分がそこに住まないけれども、マンション関連の法律が規定する区分所有者である。区分所有者どうしは、会ったこともない、まったく無関係の他人どうし。

しかし、玄関ホールやエレベータなどの共有施設は、見知らぬ他人との共同所有になる。共有施設の資産価値を共同して維持管理する責任を果たすために、団地管理組合の自然設立が法律で強制される。法律の定める区分所有者が、管理組合の組合員。

ところが自分がそこに住まない投資者たる区分所有者の関心事は、安定した家賃収入だけである。だから、共有資産の管理業務は、管理会社に全面的に委託する。総会などの運営もほとんど書面でなされる。それらの管理業務の委託費用を管理経費として払う。

所有者としての「管理責任」は、ビジネスの商品となる。責任の証券化とでもいえる。<私的>資本主義市場原理において、「管理責任」をカネで決済する。つまり、<共同責任>を<私的取引>に移管、委譲することを意味する。管理会社との契約履行に齟齬があった場合は、最終的には<公>の審級機関に処置判断を委ねることになる。そこでも訴訟費用や損害賠償請求金額などのカネが重要事項となる。要は、カネ、金銭、貨幣だけが通用する世界である。

 

B: 区分所有者でない、住民である

いっぽうそのマンションに住む賃貸住民は、エレベータなどの共有施設の管理責任はない。自分の私有物の管理だけの自己責任となる。風呂やトイレなどの施設が故障したときは、貸主である区分所有者に修理等を要求する。

しかし、一戸建てとはちがってマンションという集合住宅に住む住民ではある。役所の回覧板の配布や住民どうしの連絡等が必要になる。そこで何らかの近隣周辺の自治会とか・町内会に加入する。もちろん、加入しないひともいる。強制力はない。それは本人の自由である。自治会活動への参加も自由である。やりたい人がやればいい。

 

C: 区分所有者であり、かつ住民である

Bのケースは、区分所有者と住民が別人の場合だが、マンションを購入してそこに住むわたしは、区分所有者であり、かつまた住民でもある。そして住民組織である自治会の会員であると同時に区分所有者として管理組合の組合員でもある。CHマンションの場合、圧倒的にこのケースに該当する。

 

(3)マンション共有施設管理の「持分責任」を自分はどのように果たせばよいのか?

投資用マンションの所有者は、「賃貸収入だけ」に関心があるので持分管理責任の執行は、必然的に管理会社に委託する。だから団地管理組合と管理会社がほとんど一体化しているのが世間の実情である。

ところが実は、投資用マンションだけではなく住居目的のマンションでも同じようなことになっている。マンション購入のほとんどの区分所有者が、自らの義務・責任は、管理費や積立金を払うだけでおしまい。「自分がそこで住むことだけ」に関心がある人にとっては、持分所有者の管理責任などについては煩わしい。管理組合に丸投げ。その管理組合の理事の仕事は無償、忙しい。管理会社に管理業務を丸投げ。管理会社は、マンション建築販売会社の子会社の場合が多い。積立金などの管理費の横領事件が新聞にでたりする。

大多数は、御身大切、もし何か自分に不都合なことがあったら、そのときに管理組合の役員や管理会社に文句をいえばよい。それで埒があかなければお役所=お上=<公>に訴える。

今あらためて「重要事項説明書」などを読み直してみれば、あれこれの思いが募ってくる。アカの他人といやおうも無く「共有」せざるをえないということ、その共有施設の「持分管理責任」をどう果たすのかということ、などが気になりはじめた。

 

(4)マンションに住む奇妙な気分

マンションの共有施設を管理する責任は、「団地管理組合」である。その法的な人格表現が、「管理者」である。通常は、管理組合の理事長が管理者になり、対外的に「区分所有者の総意」の代表者となる。この「総意」なる言葉がくせものだ。

生活のために必須である共有施設の管理責任、管理組合という組織、管理者に体現される「総意」、これらのことが意味することを、いまさらながら考えれば、とても奇妙に落ち着かない気分になる。マンションに住むということは、本当はやっかいで大変なことだなあ、という気分。

それは、自由な<私>的個人主義社会という現実と集合住宅における共同生活つまり<共>的コミュニティ暮らしの間のギャップというか裂け目を感じる気分である。

端的にいえば、<私>的な自由主義の偏重が<共>の不在を越えていきなり<公>組織である管理組合へのお任せ主義になり、そして金銭決済で片付けてしまう<コミュニティのあり方>に関する問題意識である。

これから何度も記すように①個人主義、②規約主義、③金銭主義の現代日本社会で、いかなるコミュニティ形成が可能なのか?

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