No.45 今日は敬老の日;2014915

今日は敬老の日。70歳をすぎた老後の過ごし方をあらためて考える。

今朝の新聞に、5080歳男女への生活意識調査アンケート結果の記事があった。そのなかで下の質問は、自分の回答と根本的に異なる。(20145月調査実施、首都圏・近畿圏在住の回答者、約1600人)。

1)  若いときより今のほうが楽しいか?
 はい: 34% ??: 45%  いいえ: 21%

2)自分の年齢にとらわれず意欲的に暮らしたいか?
 はい: 77% ??: 20%  いいえ: 3%

3)老後は自分のためにお金を使いたいか?

はい: 81% ??:     いいえ: 19%

わたしの回答:

1)  老後の今が楽しい
隠逸―退職して無為にすごす隠居老人には、自由な妄想にふける楽しみがある。

2)年齢にとらわれて人生の後始末を気にしながら暮らしたい
人生三毛作―少/学業期、壮/職業期をすぎて老/終業期を意識して暮らす 

3)老後の資金をすこしでも若者の応援に向けたい
往還思想―月に数千円でも少/学業期に奨学金を提供したい

老境: 「のび盛り生意気盛り花盛り 老い盛りとぞ言わせたきもの」(築地正子)

●少壮老/人生三毛作の老い盛り

少/学業期は、のび盛り生意気盛り 

壮/職業期は、生意気盛り花盛り

老/終業期は?  

A:まだまだピンピン花盛り?

B:もう花枯れて老い盛り?

C:まだ、もう、どうしようかな迷い盛り?

 

●「A:まだまだ壮年党」ではなく「B:もう老人でよか派」にくみしたい

わたしの死生観、人生論は、「往還思想」である。

「老い盛り」のイメージは、青春・朱夏・白秋・玄冬という日本風土の自然の季節でいえば、黄金の銀杏葉が夕日に輝く晩秋の風情になろうか。朝昼夜の1日でいえば、陽もかげりはじめた夕暮れ時、たそがれ時か。

壮年期の仕事を後輩にゆずり、外洋を航海した帆をたたみ、波静かな港にもやい、世俗の付き合いを減らし、若者に希望を託し、自らは諦観し、無為に過ごす安らぎを憩う、そういう隠逸にあこがれるイメージである。陶淵明が詠う山水の桃源郷の心象風景。

終業期をすごす「人生あと始末」のひとつとして、ガラクタ蔵書の古本をひきとってくれるブックオフにせっせと出しはじめた。「書を捨てて街にでよう」ではなく、「書を捨てて身軽になろう」の楽しみである。

「立つ鳥あとを濁さず」。世間から断捨離―避けて、逃げて、隠れる。隠遁、隠居、隠棲。隠逸。

老人は、認知症一歩前の「弁ぜんと欲すれどすでに言を忘る」の隠棲の境遇をありがたく楽しめばよい。70年も生きてきたのだから、何も考えず、何もしないことを楽しめばよいはずである。

 

●されど、わたしはまだまだ未熟な未老人

 自分は、悟りの境地にたっしてなどいない。うえの「B:もう老人でよか派」に完全にそまっているわけではない。それほどの修行はしていないのだから。

A:まだまだ壮年党」には、ちっとも未練はない。しかし、「C:どうしようかな迷い組」への仲間意識はある。「弁ぜんと欲すれどすでに言を忘る」の境地ではなく、「弁ぜんと欲して言をさがす」状態である。「妄言にしがみつく」のだから、まだまだ未熟老人、われはいまだ老成せず。

この未老人の意識とは、自己流のことばでいえば、「了解自己」の未完、迷いである。迷いをぬけて「了解自己」の完成が、悟りである。悟りには、言は不要。不立文字。それは、わが身心頭の完璧な痴呆状態=植物人間状態かもしれない。

 

●少壮老/人生三毛作の老い盛りを過ごす三つの自己

「自分」とは、然の身を意味するから「自分」というのだ、と自分かってに定義する。その自分は、身心頭に分裂しながらも、命ある自分をなんとか一個の主体としてまとめよう注)としながら、つぎの「三つの自己」を生きる。

1)  身体自己 ・・・自己以前の所与の生命の働きに乗っかって身心頭が動く自分

2)生活自己 ・・・世俗生活、人間関係、たまたま団地の役員をやっている自分

3)了解自己 ・・・バラバラなココロ心とアタマ頭の想念を整理し納得する自分

() なんとか一個の主体としてまとめよう」思考は、「アナーキーシステム論」の哲学である。「ものごとの自然体は、潜在的にバラバラな矛盾である」とみなす哲学である。これは、「あいまい・もうろう」哲学である。これまでの思考を呪縛してきた「確立した要素、確立した関係性、確立した主体性、確立した概念」にもとづく思考体系を否定する哲学である。

この哲学をとりあえず「絶対矛盾の相対的自己調整化」とよぶ。この表現は、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」などと称する近代思想・主体性確立論への批判的対置のもじりである。

 

●弁ぜんと欲する主題と動機

 未老人として、何を弁ぜんと欲するか。何を主題とするか。それは、超高齢化社会を生きる「老人思想」、「老人倫理」である。

その動機はなにか。それは、社会保障の「負担と受益」の世代間格差である。

世の中でピンピンころりの「A:まだまだ壮年党」が一部少数ならば問題なかろう。しかし「まだまだ生きたい、生かしたい延命」思想が主流の超高齢化社会は、不自然なのではないか。あまりに多くの問題を引き起こしていると思うからである。

だから「B:もう老人でよか派」の倫理・思想・哲学を弁ぜんと欲す。

社会保障年金の「はらう保険料」と「もらう保険金」の世代間アンバランスは、以下のとうり。(2003年度内閣府調査)。

  60歳以上は、4875万円の黒字

 50歳代は、1598万円の黒字

 40歳代は、28万円の黒字

 30歳代は、1202万円の赤字

20歳代は、1660万円の赤字

10歳代は、4585万円の赤字

*祖父母による孫世代の「財政的幼児虐待」だと指摘されている。

 25歳から34歳の国民年金の未納率は、なんと5割に達する。(厚労省調査)

若者は、「どうせもらえないんだろ?」、「やってられない」という心境。

派遣労働者の56%は、15歳から39歳の働き盛り世代に集中。中高年正社員の雇用を守るための調整弁ともいわれる。

そして、年々ふくれあがる老人医療と介護の社会保障費。そのための国債が、1000兆円。選挙で投票できない次世代に巨額の借金、ツケを押しつける老人世代。

この事態をもたらす「老化現象を病気と診断して治療」する医療ビジネスの繁栄。それを容認する生命論、人生観、人権思想、社会思想は、「あたりまえ」なのだろうか?

超高齢化社会にむかう「老人思想」、「老人倫理」が、問われなければならないと考える。

老人倫理

  ・生命倫理; 延命治療をしてまでも長生きするのは倫理的か?
  ・世代間倫理; 老人の社会保障費負担を過剰に次世代に負わせるのは倫理的か?

  ・つぎの命題をどのように「自己了解」するか?

命題A: 人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ。

命題B: 人は、自由であり、人生の最終目的を自分の幸福とする。

命題C: 人は、単に生きることが尊いのではない。よく生きることが尊い。

参照==>●人生論 往還思想

1.4 趣味・ボランティア・仕事について

2.8 高齢化時代をむかえて老人の生き方の社会的規範が必要だ

3.7 老後の社会保障と世代間倫理

 

●弁ぜんと欲して言をさがす方法 ~妄想と妄言

実践: 地域コミュニティ活動へのささやかな参加、若者の応援のつもり

倫理: お天道様、敬天愛人、非人間中心主義

思想: 老子80章 小国寡民、国境なき国家、

哲学: アナーキシステム論、カオス・ソフト・ハードの多重性、多相性、潜在性

 

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