No31.マンション暮らしで思うこと ~4.コミュニティ形成の壁

(1)大きな三つの壁

「相互扶助の精神で話し合い、また協力しあって、地域社会の発展を目指す」という自治会がかかげる理念は、日本国憲法の前文とおなじく崇高である。

しかし、この取り組みは簡単でも単純でもない。ここには人権尊重の自由主義社会、高度文明の合理主義社会、グローバル競争の資本主義社会を席巻している思想的な大きな壁がある。

1)「個人の自由、個人の権利尊重」至上の壁

・共同体の束縛を拒否してプライバシーを尊重する個人情報保護法の存在

・冠婚葬祭の社会性の縮小または家族関係だけへの限定化、共同体的人間関係を拒絶

  ・他者と共感、共鳴しあう体験の喪失、多様な人間関係の機会と訓練不在

2)「制度、規則、管理」至上の壁
「効率化、標準化、非属人化、規則化、組織化、管理化、合理化、技術化」の尊重思想

 ・分業、役割分担による効率化人間の能力の一面化、全体性の喪失、生産(仕事)と消費(生活)の分離

自由主義の到達点が管理社会の閉塞状況をもたらす、籠の鳥・動物園化

便利さの極限状態が不便利さをもたらす(電気が止まればトイレもできない

・規則、制度、組織による形式的判断に委ねる効率化

問題発生ごとの都度の状況に個別的に対応して調整する手間をおしむ

属人性を排除して組織や規則や公的機関や機械に依存する「お任せ主義」

 3)「金銭万能」資本主義の壁

・全身を動かして衣食住の必要を獲得する能力が劣化した、「不耕貪食」

金がなければ生きていけない、何でも金で始末できる

金で買えない豊かさを体験できる人間関係と自然環境が少なくなった、

 

(2) 隣人関係を分断するマンション構造の壁

上述した現代社会の壁は、都市型生活スタイルのマンション団地に典型的である。玄関の鍵ひとつで、私的な占有・専有空間と外部の共用社会空間を遮断できる。ホテルライクなマンションが高級とされる。多様な人間関係と雑多な聖俗が混交した共同生活の楽しみと、それらを豊かに支える施設や空間は、貧弱である。

効率的な高密度の集合住宅ではあっても、共同生活の「共生原理」を育み、伸ばす思想性は、西洋長屋のマンション設計には見られない。

むしろ個人どうしの個を分断するプライバシー尊重が優先される。そこでは隣人といえども冠婚葬祭の近所付き合いすら遠慮される。「隣の人はなにする人ぞ」の関心は、個人情報保護をたてに拒否される。

 

「心の通い合うコミュニティ」などといっても自らの自由意思により「煩わしい人間関係」として拒絶できる。「それを望むひとだけがどうぞお好きに、わたしはイヤ」ということも個人の自由である。

その個人主義、自由主義のもとで共同生活環境の秩序(安心・安全・静寂・清潔)を維持するためには、共同生活環境の管理規則が必須となる。共用施設や空間は、自由に使用できない。管理組合の使用規則にしたがわねばならない。

 

そしてその規則を運営し秩序を維持する日常業務は、民間企業の管理会社に委託される。住民らは、その費用として管理費を払うだけ。自分たちの生活環境の秩序を金で買う。

金をはらい、規約にしたがう個人の自由行動は、専有空間内の家族関係に閉じられる。平常時の生活を営む上で、隣人関係の必要性や大事さの比重はきわめて小さい。日常生活上の「相互扶助、協力しあう」必要性は見あたらない。

 

その日常生活の場に姿がみえる住民とは、専業主婦、子育てのママと幼児、ペットと散歩する高齢者たち、老人夫婦などが主である。小中高大の生徒・学生たちは学校で、仕事中心世代は職場で、それぞれの生活時間のほとんどを過ごす。住民の人間関係の大半は、家族関係にプラスした学校関係もしくは仕事関係である。近代社会生活に特有の職住分離である。

 

管理された安心・安全・静寂・清潔などの生活環境ではあっても、それ以上の人間関係の豊かさを実感できる雰囲気はない。静かなる閉塞感。生き生きワクワクする自由で創造的活動を抑制する自己規制社会。日本社会の縮図と符号する。

千人近い住民が住む高層マンション団地の設計思想は、集合住宅における共同性・共感性・共鳴性・相互扶助・協力関係を醸成する哲学が、貧困すぎると思う。このような「人間性不在」の高級ホテルライクマンションは、いずれ評判が悪くなるだろう。将来においては資産価値がおおいに下落するかもしれない。

 

今後の資産価値は、管理された安心・安全・静寂・清潔な物的な環境だけでなく、「ほどよい人間関係・絆・自由に生き生きワクワクする環境」を重視する時代に向かうと思う。

都市型生活環境の特徴は、個人の自由尊重、個人主義の近代文明社会のひとつの現象である。この生活スタイルは、農業を中心とした村社会の村落共同体における江戸時代の人間関係とは、決定的に異なる。

だからといって、昔はよかった/今はわるい、田舎はよい/都会はだめ、などと嘆いているわけではない。個人を束縛する村落共同体からの「人間開放」・「個人の主体性」が、近代化のスローガンであった。日本も明治維新以降、ひたすら脱亜入欧をめざし欧米の生活スタイルを追って近代化路線を突き進んだ。その仕上げが、世界にも冠たる自由あふれる個人尊重の現代日本社会である。人間社会の不可逆的なひとつの歴史的な自己運動として認めざるをえない。

それを乗りこえるノスタルジーでもなく、ユートピアでもなく、バーチャルでもない実現可能な未来に向かう地域コミュニティの形成。

どうするか?

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