1.4 趣味・ボランティア・仕事について

老後を悠々自適の個人的な趣味だけでなく、生活の場である地域において、「自分;個人」だけでなく、「自分たち;共人」として生きるためには、これまでの老人観の脱構築が必要である。

 

1)これまでの老人観の脱構築

「まだまだ若い。まだまだやれることがある。やり残したことがある。隠居、隠遁にはまだ早い。仕事をしなければ暮していけない。何か社会に貢献したいことをやりたい。同じ趣味どうしの人間関係を築きたい。」・・・などなど。

これらの気持ちが、「仕事やボランティアや趣味」を通した「社会とのつながり」を求め、定年後の時間の過ごし方の理想とするのであろう。

しかしこれまでの老人像のままでは、それはむずかしい。老後の期間が長くなった超高齢化社会の実情とギャップがあるからである。

 

これまでの「大家族・多子短命」社会では、古老は「古稀」として大事にされた。老人は悠々自適できた。職住近接の共同体的な地域において、人生経験が豊富な「長老」として敬老された。

ところが現実は、少子高齢化社会。死ぬまでに20年間以上、30年間近くもある。

ピンピンして元気で「まだ若い」と自己認識する老人がふえた。にもかかわらず老人像の社会常識は、「あなたは自分では若いと認知しているでしょうが、もう年相応に老けていますよ。その自覚がなく、まだ自分は若いと思っている老人とは付き合いにくいのですよ。」ということで、老人の居場所や受け入れ場所がない。何歳までも現役が続けられる自営業やオーナー企業の社長などは例外である。

職場中心の人間関係だけの仕事ひとすじの人生の末路は、地域の隣人関係に溶け込めにくい。地域で生きる習慣がない。仕事をやめたらどこに社会的な人間関係を求めるか?

 

これまでの長い歴史のなかで、人は、だいたい20年前後の少青年期と40年前後の成人期と10年未満の老人期をすごして一生を終えた。「四十不惑、五十知天命、六十耳従、七十従心」を目標とすればよかった。そして老人の人口構成比率は小さかった。

老後は、のんびり過ごせばよい人生のおまけ。少青年期と成人期のふたつだけの人生二毛作でよかった。そこでは、仕事中心の成人期の思考と生活スタイルが、社会の価値観や社会制度や常識を支配した。

だがいまや老人期が、20年以上30年近くにもなる超高齢化社会。

さて、これからの老人像をどう描くか。「仕事やボランティアや趣味」を通した「社会とのつながり」をどう実践するか。地縁共生社会コミュニティにおける「共人」の実践は可能か?

 

2)趣味と老後の金の使い方を問い直す

現在のわたしは恵まれた境遇にいる。妻と共に身体は老化の過程ではあるが、お互いに心身に大きな不調はない。金持ちではないが経済的な不安や家族の心配ごともない。平均的なハッピーな老後である。

そういう境遇の前期高齢者はわたしの周りにはおおい。高度経済成長時代を享受した団塊の世代がうしろに続く。これらの老人世代が、将来に夢や希望をもてずに不安をいだく若者世代の怨嗟の標的であることも自覚している。その自覚が、老人の社会的責任として、「老学援交」による地域コミュニティビジネス構想につながる。それは、老人の「仕事やボランティアや趣味」を一体化するひとつの取り組みである。以下にその構想にいたる背景として老後の「仕事やボランティアや趣味」について考察する。

 

3)お金の使い道を問い直す

老後の「お金の使い道」についての調査をうえに引用した。対象は、病院や施設に入っていない元気に生活できている人、家計費とは別にあるていどの余裕資金がある人である。

その結果は、趣味、旅行が最上位の約4割を占めた。「子供に残すより、自分の人生を楽しむために使おうという人が多い」。この結果をどう考えるか。

「老人の社会的責任」意識からみて、老後のお金の使い道が、「趣味、旅行などの自分の人生を楽しむため」だけでよろしいか、と問う。

そのために、個人のお金の使途を、①私的、②公的、③共的に分類する。

 

①私的なお金の使途は、自分や家族の衣食住、健康維持、通信・交通、冠婚葬祭などの基礎的に必要な家計に向けられる。余裕があれば時々の飲食遊興、趣味、娯楽、旅行などになる。

②公的な支出は、市民・国民の義務に基づく社会制度としての税金や保険料である。わたしも介護保険料と健康保険料と所得税と市県民税を払っている。

③「共」的支出は、地域の自治会、町内会から同好会、仲間、隣人付き合い、同窓会活動、地域活性化・福祉・宗教・環境・教育など各種の任意団体やNPO法人などの会費や寄付である。

「公共料金」という言葉がある。医療や介護や社会福祉などは、社会保険制度というシステムにより公務員の職業として運営される。保険料を払うというわたしの意識は、「共」つまり共鳴、共感、共助などの倫理観ではなく義務感である。

 

老後のすごし方を考えるわたしの根本的な意識は、この「倫理観」と「義務感」のギャップである。その問題意識から「個人」をつつむ「共人」という概念がでてくる。「人は、個人だけでなく共人でもある」ということである。

人の本性は、個体としての自己防衛の自由を有すると同時に、「一人では生きていけない、他者と共に生きて、共感、共鳴する共性」をそなえている。自立・独立を要求する近代思想の「個人尊重」と同列に「共人尊重」をおく。どうじに「個人の人権」と「共人の人務」を対置する。この考え方を、「共性原理」とよぶ。では、「共性原理」のお金の使い方とはどういうことか。

 

「共性原理」のお金の使い方とは、「自分の人生を楽しむ」趣味的行為が、同時に他者にとっても「人生の楽しみ」をもたらすということだと考える。 

これまでの仕事中心の上り坂人生においてわたしは、このことを意識的に考えたことはなかった。還暦過ぎてはじめてこのようなことに目が向くようになった。

自分にとって「共的なお金の使い方」でとりあえず思いつくことは、団地住民としての町内会の活動参加費用、同窓会等の年会費や総会の参加費、定期的な奨学資金の寄付、たまには友人が国政選挙に立候補したときの政治寄付などがある。

しかし私的な楽しみの旅行費用などに比べればたいした額ではない。わたしは特定のボランティア活動をしているわけではないが、趣味の延長として「青い海を残す自然環境浄化」にかかわるNPO活動支援のための寄付や交通費、会合費などの支出もある。これもたいした額ではない。

では、どうするか。

 

4)経済行為の公・共・私

「お金」、「貨幣」は、もともと社会的な約束事である。だからお金の収支に係わる経済行為は必ず社会的な行為になる。

そして経済行為といえば、①義務的な税金保険、②自由な交換取引、③配慮的な寄付贈与という異なるお金の収支形態が思い浮かぶ。それぞれうえの①公、②私、③共に対応する。これらを、①公務員ビジネス、②資本主義ビジネス、③地域コミュニティビジネスとよぶ。

戦後の日本社会の構造は、「公共」領域を役所が独占している、とみなす。江戸時代から受け継がれてきた「共」が衰退している。いまや、市場における自由競争を謳歌する資本主義市場の「私」領域と自由競争の弱者・敗者を救済する「公」領域が肥大化した「公私」二階建国家である。ている。

地域コミュニティビジネスは、超高齢化社会を持続可能な福祉社会にするひとつの社会保障機能を果たす。①公、②私だけに依存しない③共地域の参助:近助・互助・共助への参加である。これが、「共性原理」にもとづくお金の使い方である。

 

5)ボランティアの意味を問い直す

わたしは、団地の自治会のサークル活動に一時参加した。マンション管理組合にも一時関与した。いくつかのNPO法人の活動に少し参加している。横浜市神奈川区の「区民協議会」の「つながろう部会」にも二年間だけ参加した。しかしボランティア活動という意識は強くはない。

「ボランティア」という言葉には、積極的に世のため・人のために奉仕する慈善事業という語感がともなう。積極的に何かを他者に「与える」行動だと理解している。

そうだとすれば、わたしはボランティア活動をしていない。ボランティア活動に積極的ではない。そうではなくて、老後を地域で過ごすわたしの気分には、少しばかりの社会的な義務感がある。「与える」余裕はないけれど、「お返ししなければならない」という義務があるという気持ちである。

それは、どこからでてくるか?

わたしは死生観として、往還思想をテーマにしている。自分にとっては、それは宗教的な問題ではない。宗教的というよりも、自分が社会で生きる考え方=社会思想につなげる。往還思想をベースに共生社会を考え、そこに少・壮・老という人生三毛作の老後を生きる希望的諦観を重ねる。

往還思想の根本は、往と還、生と死、あの世とこの世、若さと老い、上りと下り、禍と福、善と悪、昼と夜、得と損、長所と欠点、陽と陰、強者と弱者、親と子、上司と部下、自由と抑制、権利と義務、借りたら返す、もらったら与える、・・・・などの循環思考、双方向の交代、プラマイゼロ思考である。人をふくむ宇宙自然を、大いなる生命の正・反・合のおりなす運動とみなす。時間で積分すればプロマイゼロの無為自然そのまんま、無窮の永続。「自分」意識は、そこに溶け込む。

そこから出てくる「他者と共に生きる」共生原理が、自由で独立した個人どうしが、社会的役割を循環させ、双方向に交互に交代するバランス思考である。人の立場や役割を固定した分業とはみなさない。だから身分制や世襲制や分業組織は不自然なのだ。

 

人が生きるその都度の場面の変化と状況にしたがって、それぞれの人は、立場や役割を入れ替える。往還によって人は、先祖・現世代・子孫の位置を動く。人は、この世で少年期・壮年期・老人期をたどる。

少年期は、親や家族や地域や社会から世話してもらって生きた。もらいっぱなしでは勘定があわない。だから老人期になったら、少年期の世代に「お返し」する。それが自然の摂理だろうと考える。世代間の順送り、これが社会保障制度のひとつの原理でもある。

このような気持ちが、受身的な「社会的な義務感」である。

「与える」のではなく「お返し」である。ボランティア活動には、奉仕する人==>受ける人与える人==>もらう人、という片方向の固定的な立場を感じさせる。立場の固定を不自然に思う。バランスに欠けるからである。

わたしは、「仕事やボランティアや趣味」を一体化する定年後の理想の「ボランティア」精神を、「社会的な義務感」におきかえたい。その実践が、地域コミュニティビジネスである。

ビジネスには、運営管理者、サービスの提供者、サービス需要者(客)の役割がある。公務員ビジネスと資本主義ビジネスでは、その役割は組織的に固定している。ひとりの人は、ひとつの役割りしかしない。地域コミュニティビジネスでは、組織はあってもそのメンバー配置は、場面と状況の必要に応じて流動化させる。ひとりの人が、運営管理者、サービスの提供者、サービス需要者(客)のそれぞれの役割を交代する。

ボランティア活動を地域コミュニティビジネス形態に発展させる実践が、「老学共働隊」構想である。

 

6)仕事の意味を問い直す 

仕事の意味について、つぎのように考えるのが普通である。

  働くことで対価を得なければ暮らしていけない。社会人として生活のために働くことは、憲法が定める勤労義務である。これは、労働と呼ばれる。

  すでに十分な蓄えがあるのに働き続ける人がいる。定年を迎えて仕事を離れた途端に、元気を失くす人がいる。仕事は生きがいである。

  社会に出て働くこと、社会に参加することで自分の存在意義を認識し、喜びを感じる。仕事は、他者に承認・受容される契機である。

次の文章を新聞で読んだ。長いけど引用する。

「働くということを根本から学生たちにわかってほしい。なぜ社会に出るの? 働くの? 社会で働く意味と意義は?

生活をするためには、さまざまなモノやサービスが必要です。朝起きてから、使ったものすべてを思い出してみてください。人間はこれらのすべてを一人では用意できません。そこで社会を作り、それぞれが役割を分担して、モノやサービスを生みだしているのです。これが働くということです。

働くことでモノやサービスを生み出し、対価としてお金を得て、他の人が生み出してくれたモノやサービスを買うことで、必要なものをそろえて暮らしているのです。

つまり、働くことは社会の一員である大人にとって、権利ではなく義務なのだ。生活に困らないだけのお金があるという人も、親と同居していて何とかなるという人も例外ではない。大人は社会人として働く義務がある。義務と生活のために真面目に働いている人は、すでに立派な一人の大人であり社会人であると思う。

しかし、それだけでは人生はもったいない。“義務だから働く、生活のために働く”だけでは、一度きりしかない人生がもったいなさすぎないか。」(引用終わり)

 

だから、仕事を労働時間としてだけ考えるのではなく、社会に参加することで自分の存在意義を認識し、喜びを感じる時間にしよう、という主張である。

この主張のポイントは、個人は大人になって自立して生きる自己責任がある。そのための働きは、社会的義務である。どうじにそれが個人の生きる喜びでもあるべきだ、ということである。これは現代人の典型的な社会思想を表現している。

 

ここには、「共人原理」は不在である。あくまでも自立した個人の責任と喜びだけである。少年期と老人期の「働き」は、射程に入らない。大人の視点だけである。少年や老人の社会的責任や義務や喜びの視点が欠けている。また老後への備えという社会保障の視点もない。

往還思想にもとづく地域コミュニティビジネスは、資本主義市場と企業組織における労働・働きとは、原理の異なる経済活動をめざす。ルールとマネーに替わる「配慮・ケア」による信用媒介の創造をめざす。そこに「仕事・働き」の新たな意義を見いだす。

その意義は、「持続可能な福祉社会」に寄与する地域の社会保障活動である。そこで働く老人期の動機は、少年期への「お返し」であるという思考である。

「公共」を独占する公務員ビジネスの一部を「共」ビジネスに移管すること。その根拠は、「共人」、「共生」、「配慮」、「社会的責任」などである。この根拠を考えることが、3章の「老人倫理」のテーマにつながる。

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