2.明治維新における西郷の功績と挫折 2018年1月8日
四面楚歌という言葉がある。1800年中期以降の幕末時代、鎖国日本にとっての四面楚歌は、軍事力をもって開国通商をせまるロシア(プチャーチン)、アメリカ(ぺりー、ハリス)、イギリス(パークス)、フランス(ロッシェ)など帝国主義列強である。
明治維新は、西欧列強の植民地になる危険を排除し、日本国の独立を維持するために、この四面楚歌の国際情勢に対応する国家存亡の政権転覆運動である。
その運動は、徳川幕府が専断した米英露仏蘭との和親条約、修好通商条約に反発する尊皇攘夷運動としてはじまる。
そして「因循姑息」、「王政復古」、「文明開化」の音が入り乱れながら、立憲君主制・中央主権国家の建設につながる。
1)明治維新の政治年表概略
明治維新における西郷の功績と挫折をかんがえる視点から、明治維新を①倒幕期→ ②制度改革期→ ➂内乱外征期→ ④国家体制強化期にわけて、歴史年表からキーワードを抜粋する。
(1)倒幕期 1867(慶応3)年~1869(明治2)年
キーワード:大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争、版籍奉還
1867(慶応3)年
薩長両藩に倒幕の密勅策謀、徳川将軍の大政奉還、小御所会議(西郷の小刀)、
公議政体論の敗北、徳川慶喜の辞官納地、王政復古の大号令
1868(慶応4)年・明治元年
鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争開始、江戸城無血開城会談(西郷と海舟)、
五カ条の御誓文、政体書公布、神祇官と太政官の制度化→朝令暮改
上野彰義隊の戦い、奥羽越列藩同盟の敗退 →西郷の指示;庄内藩の寛大な処分
1869(明治2)年
明治天皇が京都から東京へ、箱館五稜郭の戦い→戊辰戦争終結、版籍奉還
(2)制度改革期 1870(明治3)年~1873(明治6)年
キーワード:廃藩置県、徴兵令
1870(明治3)年
公議所→集議院、樺太開拓使の設置 (西郷は鹿児島に帰郷、藩政改革)
1871(明治4)年
西郷上京→御親兵(近衛兵)の創設、廃藩置県 →西郷;不平反乱の鎮圧に責任をもつ
岩倉使節団、欧米へ(1年10ケ月) →留守政府; 三条、西郷、板垣、大隈、
1872(明治5)年~1873(明治6)年
西郷首班留守政府による大改革:
宮廷改革、旧幕臣登用、徴兵制、士族特権剥奪、警察制度、学校制度、地租改正、国立銀行の設立、
太陽暦の採用、人身売買禁止、平民の職業選択の自由化など
→西郷がめざす中央集権国家体制の基盤構築
岩倉使節団帰国→征韓論、明治6年の政変、明治政府瓦解、参議・軍人など多数下野 →西郷は鹿児島に帰郷、私学校創設、吉野開墾社
(3)内乱外征期 1874(明治7)年~1878(明治10)年
キーワード:士族反乱、台湾出兵、江華島事件、西南戦争
1874(明治7)年
土佐藩士族の刺客→岩倉右大臣を襲撃、負傷
新政府批判派の板垣退助と後藤象二郎、江藤新平、副島種臣など民選議院建白書を提出
→西郷は連署せず
肥前藩士族→佐賀の乱(江藤新平さらし首)、大久保の強権政治→西郷動かず
征韓論の自重派→台湾出兵、大久保による清国との交渉、琉球の帰属決着、賠償金条約調印
1875(明治8)年
大阪会議(新政府改造の木戸孝允の構想m三権分立、元老院と地方官会議など) →大久保独裁へ
樺太・千島交換条約 →在野の知識人が政府攻撃
新聞紙条例、讒謗律 →新聞と出版による政府批判言論の取り締まり
江華島事件(砲艦射撃、陸戦隊上陸、砲台破壊、集落焼尽破壊)
→新政府による征韓論の実行、西郷激怒!!
1876(明治9)年
黒田清隆全権大使(江華島事件の談判、大日本国大朝鮮国修好条規の締結)
→朝鮮の植民地化、日本外交の対外膨張主義 →日清戦争、日露戦争、日中戦争の軍事大国へ
帯刀禁止令(廃刀令)、秩禄処分→満天下に不平不満士族の充満、激情慷慨
熊本・神風連の乱、福岡・秋月の乱、山口・萩の乱 →西郷の決起待望、西郷動かず。
1878(明治10)年
薩摩士族の私学校生決起、西南戦争→西郷は篠原国幹、桐野利秋らに献体、城山で自刃
明治新政府の徴兵制・軍事機構・兵力の勝利。
(政府軍戦死者6278人、負傷者9523人、西郷軍死傷者は約15000人、斬首刑者22人)
(4)国家体制強化期 1878(明治11)年~1889(明治22)年
キーワード:参謀本郡設置、自由民権運動、保安条例、鹿鳴館、憲法発布
木戸孝允死去(前年)、大久保利通暗殺 →幕末動乱の指導者の死、そして誰もいなくなった!
残ったのは、山県有朋(41歳)、伊藤博文(38歳)。
新政府軍参謀長の山県 →陸軍参謀局を参謀本部へ、参謀本部条例の制定、陸軍大臣に優越
天皇の軍隊指揮権=統帥権独立へ →明治22年発布の明治憲法に継承、軍人国家へ
◆問題提起
明治維新のこれらの事績は、西郷のいう「廟堂に立ちて大政を為す天道を行うものであり、正道を踏むもの」(遺訓第1条)であったか。
2)「廟堂に立ちて大政を為す」権力者たち
古今東西、政治運動は権力闘争である。権力闘争は、思想闘争を基礎とする。思想は、人格の表明である。明治維新の指導者たちも例外ではない。
1885(明治18)年の内閣制度実施までの明治政府の権力者は、王政復古の太政官制度にもとづく「廟堂に立ちて大政を為す」つぎの人物たちである。
公家:総裁、宰相・右大臣・左大臣・太政大臣
有栖川熾仁親王、三条実美、岩倉具視 (一時的に島津久光)
藩閥:参議 (在任期間)
薩摩藩―西郷隆盛(‘71.7~’73.10)、大久保利通(‘73.10~’78.5)、寺島宗徳(‘73.10~’85.12)、伊地知正治(‘74.8~’75.6)、黒田清隆(‘74.8~’82.1)、西郷従道(‘78.5~’85.12)、川村純義(‘78.5~’85.12)、松方正義(‘81.10~’85.12)、大山巌(‘81.10~’85.12)、
長州藩―木戸孝允(‘71.7~’74.5、‘75.3~’77.5)、伊藤博文(‘73.10~’85.12)、井上薫(‘78.8~’85.12)、山田顕義(‘79.9~’85.12)、
土佐藩―板垣退助(‘71.7~’73.10)、後藤象二郎(‘73.4~’73.10)、佐々木高行(‘81.10~’85.12)、福岡孝悌(‘81.10~’85.12)、
肥前藩―大隈重信(‘71.7~’81.10)、江藤新平(‘73.4~’73.10)、副島種臣(‘73.10~’73.10)、大木喬任(‘73.4~’85.12)
旧幕臣―勝海舟(‘73.10~’75.5)
これらの参議の辞任と任官の時期は、それぞれ’73年の征韓論争、‘75年の大阪会議、’78年の大久保暗殺、‘81年の政変、そして’85年の内閣制度発足に対応している。
◆問題提起
これらの「廟堂に立ちて大政を為す」権力者たちの面々は、西郷のいう「ちっとも私をはさまぬ賢人」=「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬ」(遺訓第30条)人物たちであったか。
3)明治維新における西郷の功績
明治維新における西郷の功績は、幕藩体制を打倒して中央集権の近代的国家体制への道をきりひらくことに超人的な貢献をしたことである。
その歴史的事業をつぎの三つとする。
①戊辰戦争 徳川幕府の解体 →中央集権の政治体制へ
薩長士族を中心とした武力を背景に江戸城無血開城
②廃藩置県 諸藩の解体、殿様の廃止 →国内統治の都道府県制度へ
政府直属の近衛兵の武力を背景に300諸藩の抵抗・反乱を阻止
③西南戦争 士族階層の解体 →徴兵制、国民皆兵 →四民平等、民権運動へ
政府官軍の武力による薩摩藩の不平士族の鎮圧(負けることによって明治政府に貢献)
西郷の第一の功績は、封建制分権国家の幕藩体制の廃絶である。第二の功績は、自らの死をもって中央集権国家を建設する社会基盤を、大久保政権に残したことである。
4)明治維新における西郷の挫折
明治維新における西郷の挫折は、明治6年の権力闘争の敗北に象徴される。
朝鮮との国交正常化の対応策について、「天道を行い、正道を踏み、大政を為す」道理にもとづいて交渉するために、軍艦をともなわず、全権大使として自らを派遣するという西郷の「遣韓論」は、幕末から醸成されていた武力による朝鮮征伐という「征韓論」を説得することができなかった。
このことが、明治維新において「敬天愛人」政治思想を実践できなかった西郷の挫折である。
征韓論争において西郷が敗北した根本原因を、つぎの三つに集約する。
①米英仏露の帝国主義列強に対峙する経綸を強力に主張しなかった(島津斉彬、橋本佐内、勝海舟などが唱えた日韓清の三国攻守同盟による統一戦線構想→大東亜共栄圏の源流)
②敬天愛人=「忠孝仁愛教化の天地自然の道は政事の体本にして云々(遺訓第9条)」を唱道する思想家を養成しなかった(福沢諭吉、中江兆民、中村正直などの知識人の動員、組織化)
③国家の軍事力は、邪道を蹴散らかして正道を踏む「破邪正顕」の手段であることの道義思想を軍人に徹底的に教育しなかった(黒田清隆、西郷従道、川村純義、大山巌などへの敬天愛人思想の徹底訓導)
5)西郷の遺言 ~未完の明治維新
明治維新は、四面楚歌の国際情勢に対応するための中央集権国家建設事業であるが、明治6年の政変によって、その序幕を終えた。
その後の対外政策は、台湾出兵、樺太・千島交換条約、江華島事件を経て、日清戦争から日露戦争にいたる武装する天皇制国家の道義なきアジア侵略の膨張政策である。
その国家精神は、「天道を行い、正道を踏み、大政を為す」「西洋と雖も決して別無し」の敬天愛人思想に決定的に反する偏狭なナショナリズムの皇国史観である。
西郷が残した南洲翁遺訓は、「革命いまだ成らず、国家権力者に正道を踏む道義心を求める」痛切なる遺言である。