1. 西郷の政治思想 

西郷の政治思想は、国家権力者(為政者、政治家、公務員)に対して、天道=道義心=仁徳=無私=「私をはさまぬこと」=滅私奉公を求める。その国家像は、天道を最高権威とする徳治国家である。

現代の立憲主義の政治思想は、国家権力者に対して、「憲法を尊重し擁護する義務」(憲法第99条)を求める。その国家像は、憲法を最高法規とする法治国家である。

西郷の政治思想を再検討する現代的意義は、資本主義と民主主義と国家主義の矛盾を解決しえない「国政・憲法」の上位に、「大政・天道」を据えることである。

 

1)西郷の明治維新運動 ~破壊と建設 

西郷の明治維新運動の前半は、薩長同盟に始まり戊辰戦争で終わる倒幕破壊期である。後半は、薩長土肥の版籍奉還に始まり西南戦争で終わる国家建設途上期である。

国家建設途上期の維新運動の中枢は、王政復古をかかげる明治新政府である。

そこに関与する西郷の活動は、さらに前半の革命期と後半の反抗期に分かれる。

 

前半の革命期は、明治6年の征韓論争による明治新政府の分裂と下野まで、約5年間。後半の反抗期は、鹿児島へ帰郷・隠棲と明治10年の西南戦争の敗北まで、約5年間。

新政府首脳であった西郷は、幕藩封建体制の支配者である士族階層の権益を解体する革命家である。版籍奉還、廃藩置県、徴兵軍制などを断行した開明的な大政治家である。

下野した後半の西郷は、明治新政府の改革を批判し、官職をなげすて、西郷に同調して帰郷した旧薩摩藩士族の頭領である。天皇を戴く政府からみれば、反革命の逆臣、賊軍の大将、反動的な巨魁政治家である。

 

明治維新前半の西郷像は、戊辰戦争に勝利した英雄豪傑である。後半は、西南戦争に敗れた反逆児である。いずれも軍人としての西郷像である。

その西郷が、明治22年の大日本帝国憲法発布の大赦により、明治維新の功臣として名誉回復した。それを祝賀して上野公園に西郷銅像が建った。

その像は、軍服姿ではない。野良着をきて犬を連れて山野で猟をする田舎のおっさん姿である。

天下の大鐘、叩く者の大小に従い、その声も亦大小あり」と評価される大人物たる所以である。

 

2)西郷がめざした近代国家建設の政治思想

明治維新に命をかけた西郷の最大目標は、軍事力を背景にして不平等条約を押しつける「野蛮な西欧列強の帝国主義」に対抗しうる天皇制中央集権国家の建設である。

その建設行動の期間は、征韓論争による権力闘争にやぶれて下野するまでのわずか5年でしかない。

征韓論争について西郷を評価する世人の毀誉褒貶の落差は、おおきい。

西郷は、武力討伐の征韓論・軍国主義者なのか。親善外交の遣韓論・道義主義者なのか。はたまた死処を求める献身・玉砕主義者にすぎないのか。

西郷の人物評価と明治6年の政変については、あまたの研究と真相説明がある。

西郷の評価は、西郷を評価する者それ自身の人物たる自己評価の反映だろう。それぞれの見識による叩き方によって、その評価も分かれる。

 

問題とすべきは、南洲翁遺訓に通底する西郷の国家像であり政治思想である。

西郷がめざした近代国家建設の政治思想は、翁遺訓第1条に凝縮されている。

それは、「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、ちっとも私をはさみては済まぬもの也」に始まり徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対する」で終わる。

西郷の国家像は、中央集権の天皇制による徳治国家である。端的にいえば、「天皇を頂点とする道義国家」である。

ところが、その国家像は早くも明治7年の台湾出兵から江華島事件を起点とする明治政府の対外膨張政策によって挫折した。

 

その後の大日本帝国は、日清戦争、日露戦争を経て、ひたすら富国強兵をめざして、武装する天皇制の皇国史観を国体とした。

西郷なきあとの明治維新運動の結末は、「野蛮な西欧列強の帝国主義」に対抗するために、自らを「大東亜を侵略する野蛮な帝国主義国家」とする大日本帝国の建設であった。

ここで問題とすべきは、大日本帝国の道義性である。

昭和45年の敗戦にいたる歴史の現実は、偏狭な国粋皇国史観に基づく大日本帝国の「道義心の欠如」を証明する。

 

大日本帝国の皇国史観は、西郷がめざす道義国家の「大政」を捨てたのである。

万世一系などという神話に基づく天皇家を国家の主権者とする皇国史観は、我執偏狭なる「国政」に閉じた国家主義に堕落した。

滅私奉公」の倫理道徳を国民に強制する教育勅語の政治思想は、南洲翁遺訓の徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対する道義国家とは真逆である。

 西郷がめざした近代国家建設の「天皇を頂点とする道義国家」政治思想は、挫折したといわざるを得ない。

 

では南洲翁遺訓の道義心は、時代遅れで単なる封建時代の儒教道徳にすぎないのか。

わたしは、そうは思わない。

西郷の政治思想は、個人の自由―基本的人権―主権在民―平和主義―象徴天皇を基軸とする戦後日本国憲法の道義性を補強するものとして、あらためて再検討すべきだと考える。

 

3)王政復古の五カ条のご誓文と西郷の政治思想との関係 

1867(慶応3)年10月、将軍・武家から天皇・公家へ大政奉還。12月、王政復古の大号令。翌年3月、明治天皇の五カ条のご誓文。

  一 広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ

一 官武一途庶民ニ至ル迄 各其志ヲ遂ゲ 人心ヲシテウマサラシメンコトヲ要ス

一 旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ

一 智識ヲ世界ニ求メ 大ニ皇貴ヲ振起スベシ

「五カ条のご誓文」は、元福井藩士の由利公正が素案をつくり、それに元土佐藩士の福岡孝悌が手を入れ、そして元長州藩士の木戸孝允が最終版に修正してできた。

西郷が、そこに参画した形跡はない。その頃の西郷は、朝廷の役人ではない。鹿児島に帰郷して、犬をつれて山野を駈けながら猟をし、温泉にひたっていたのである。

 では南洲翁遺訓の真髄である「敬天愛人」の政治思想は、「五カ条のご誓文」とどのような関係にあるか。

 

遺訓の「天道を行ふ」と誓文の「天地ノ公道ニ基ク」は、同じ意味である。「廟堂に立ちて大政を為す」と皇貴ヲ振起スベシ」も、天皇制という意味で同じだろう。

この限りでは、西郷の政治思想と五カ条の王政復古の思想と矛盾しない。

 

問題とすべきは、西郷が批判する明治新政府の現実である。

新政府の高位高官たちは、誓文の旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基ク」大政を行っているのではなく、旧来ノ陋習」のままではないのか。

新政府の高位高官たちは、遺訓のちっともをはさみては済まぬもの」を実行しているのではなく、私利私欲をほしいままにしているのではないか。

新政府の高位高官の処遇は、遺訓の徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対する」のではなく、徳」をいっさい無視して官位と報奨を奪い合っているのではないか。

 

4)西郷が批判する明治新政府の高位高官の私心

西郷は、明治新政府に地位をしめる公家や薩長土肥の旧藩士たちの人格の品性=仁徳=道義心=滅私奉公の欠如、すなわち高位高官の私欲=道義なき功利心を問題とする。

明治6年の征韓論争に敗れて下野した西郷は、有司専制の明治新政府の現実と維新のご誓文との間によこたわるおおいなるギャップを憤る。

現実の政道は、「天地ノ公道ニ基クベシ」の有言不実行、羊頭狗肉、竜頭蛇尾である。旧来ノ陋習」をひきずり、恥知らずで無節操な道義心の欠如は、ご誓文への背反である。 

遺訓は、高位高官たちの「天地ノ公道」とはほど遠い私を営みたる姿」をつぎのように述べる。

 

~己を慎まず、品行を正しからず、驕奢を戒めず、節倹を勉めず、家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀り(4条)、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華に気をくばり(11条)、節義廉恥を失ひて、利を争ひ義を忘れ、財利に走り、卑吝の情、父子兄弟の間の銭財を争ひ、相ひ讐視する(16条)、自分を足れりとし、下下の言を聴き入らず(19条)、私欲を貪り、我を張って、自分に固執し、独りよがり、自分を愛し、自分に甘く、恐れ慎みの心が緩み、驕り高ぶり、自惚れて、戒めず自分に負け(21条)、己れを尽さず人を咎め(25条)、己れを愛し、過去の功労を自慢し、傲慢になり(26条)、失敗したら取り繕はんとて心配し(27条)、事の成否と身の死生だけを考え、艱難に逢ふては動揺を致し(29条)、自分の命と名誉と官位と財産にこだわり(30条)、世間の毀誉褒貶を気にして、自分の信念をもたず(31条)、人から褒められたくて偉業を為そうとし、独を慎まず、人の意表に出て一時の快適を好み(32条)、平日の備えをおろそかにして、事に臨みて狼狽し(33条)、いつもいつも善からざる作略を謀り(34条)、人と公平至誠に接せず、人を籠絡して陰に事を謀る醜状著るしく、(35条)、聖賢に成らんと欲する志無く、古人の事跡を見、とても企て及ばぬとしり込みし、修業致さず、唯口舌だけで傍観する(36条)~

西郷は、「戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催す」4条)

 

明治新政府は、日本人の道義心を脱ぎ捨て、脱亜入欧の精神でもって欧米追従政策をすすめている。明治維新がめざした大義とはちがうじゃないか。

大義とは、私心なき高官による道義国家の建設である。政府は、道義の旗をかかげて、西欧列強の帝国主義・植民地化に対抗しなければならないはずだ。

西郷が理想とする道義国家の徳治思想は、儒教(朱子学、陽明学)をベースにしながら、プラトンの哲人政治、古代中国の無為自然の道(タオ)の老荘思想、仏教に帰依した聖徳太子の17条憲法の理想と通底する。

 

だが西郷の政治思想は、大久保と岩倉たちの現実的な官僚政治思想にやぶれた。

政府に対して私心なき仁徳=道義=大政を求める理想家であるゆえに西郷は、征韓論争にやぶれ、士族反乱とみなされる明治10年の西南戦争にやぶれたのであった。

 

以上  .   2.へ