No.23 遺訓第25条 少年よ大志をいだけ、老年よ大我にいたれ  20201010

■南洲翁遺訓第25条 

人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。  

 

□遺訓第25条の解釈    

明治6年の征韓論争で明治新政府内の権力闘争にやぶれた西郷は、陸軍大将の辞職届は受理されず、参議職は辞して鹿児島にひきあげた。600名をこえる政府役人・文武官もあとにつづずいた。

鹿児島県知事にも協力させて『私学校』を県下に展開、漢学古典だけでなく西洋事情教育として外人教師を雇用、優秀な学生は国内および海外に留学させた。

同時に『吉野開墾社・教導団』を設立し、帰郷した軍人士族に遺訓第3条の「文武農:文を興し、武を振い、農を励ます」を実践修練する場を提供した。

そこに「推倒一世之知勇 開拓萬古之心胸」(陳龍川)の額をかかげた。

現世のしがらみにこだわる人間のせまい料簡の知恵と武勇は、押し倒し捨て去れ。悠久たる万古・未来永劫の道理、天地自然の道をあゆむ心境を開拓せよ。

「人を相手にせず、天を相手」にして、「天地自然の道をあゆむ心境」が、遺訓第25条の「己れを尽す我が誠」である。孟子の「至誠」である。

至誠とは、誠実に天を感じる心、天の道理に従う意志、私利私欲をはさまず謙虚な信念と情熱によって「人を動かす」源泉である。人は、至誠を感じさせる人物を信用し、敬服し、尊敬する。

自分の意思が相手に通じないのは、自分の「至誠」が足らないからだ。社会や他人の責任にせず、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し

人智をこえた天意を忖度して、有限な一過性の命を生きる生身の人間を理解せよ。

 

◆論点25.1 「天」とは

大多数の日本人にとって「天」とは、つぎのような言葉を見たり聞いたりしたときに畏敬・畏怖・恐懼・戒心の感情をひきおこす想念である。

・お天道様に恥じる お天道様はなんでもお見通し

・人事を尽くして天命をまつ 残念無念至極―天を仰ぐ

・天道照覧 天道恐ろしきこと 天地神明に誓う 

・高天原 天照大神 天神地祇 天神様に合格祈願

・天網恢恢疎にして漏らさず 天恵 天罰 天誅 天災

・則天去私 敬天愛人

・天賦人権説 不倶戴天の敵 などなど

「天」とは、人智をこえて、言葉で説明できない仮想の無限空間である。自分が生きる世界全体を超越的に見下ろす、神々が住む神話世界である。見えず、語らず、聞こえず、されども感じる何者かの存在。倫理道徳、良心、正義、掟、規範など自我を自制する価値判断の最終審級者である。

東洋思想の「天」は、一神教の「神」を意味せず、多神教であり、無神教ともいえる。神仏需を混交習合した『日本教』は、自分の「安心立命」と世間の「天下泰平」を、八百万の神々の「お天道さま」に祈願する。

「天」を哲学用語で定義すれば、自分自身の『即自』存在―社会的関係性の『対他』存在―超越的意識の『対自』存在の認識構造における『対自』存在を「天」とする。

端的にいえば、「天」とは意識主体に潜在する究極の「第三者」目線にほかならない。

 

※参照 『諸子百家』 角川文庫 渡辺精一   2020329

 (1)天とは空(そら)のことである。

 (2)天とは神である。

 (3)天は万物の生み主である。

 (4)天とは運命である。

 (5)天とは徳のある者に味方し、悪をいましめる人格神である。

 (6)天は、みずからの力で行うのではなく、自分が命令を与えた人間の手を借りて、物事を行わせる。

 (7)天帝の子が天子である。天子は民衆の父母として、天下の王者たれ。

 

◆論点25.2 「士農工商」身分制時代の英才教育

推倒一世之知勇 開拓萬古之心胸」のスローガンをかかげた西郷の『私学校』と『吉野開墾社・教導団』の目標は、いまでいえば英才教育である。そこで鍛えられた人物が、選良たるエリートとして国家の権力者となる。

島津家の薩摩藩の下級藩士として育った西郷の政治思想の根幹は、「君・藩主➡臣・武士➡民・農工商」の身分制度である。

江戸時代の幕藩体制では、士農工商の身分に応じた教育制度があった。武士にとっては幕府の昌平黌を最高学府とし、諸藩それぞれの藩校が教場であった。薩摩藩では造士館という。まさに「武士を造る」学校である。いまでいう中学生から高校生の年齢の士族の子弟は、薩摩藩独特の「郷中教育」で身心がきたえられた。

薩摩藩にかぎらず諸藩の藩校は、「武士道」にもとづく文武両道の身心頭をきたえる修練場であった。平民には、お寺の坊さんや地域の長老が「庶民道徳と読み書きそろばん」を教える寺子屋があった。年長の者には「人間いかに生きるか」の思想教育として、それぞれの流派で見識をもって尊敬された人格者・道者・思想家による私塾があり、草莽の志士が育った。

江戸時代の教育は、日本の風土に移植された朱子学の政治思想をベースにして、「君は君たり、臣は臣たり、民は民たり」の身分にふさわしい道義・作法・掟を身につける克己修練を重視したのである。

そして2020年2月のいま、西郷が生きた明治維新から150年がすぎた。世の中は激変の渦中にある。

 

◆論点25.3 民主主義は英才教育を否定するけれども「政治教育」が必要ではないか

現代の「個人尊重―自由―平等」を原理とする民主主義は、江戸時代の身分制封建主義を否定する。英才教育は、民主主義の平等思想と相いれないので否定される。

日本国憲法のもとでは、「天を相手にする」、「萬古之心胸を開拓する」などという発想は、一顧だにされない。歯牙にもかけられない。理性による文字と数字と図形を操作して経済合理性を追求する唯物論的了解が、近代人の思考回路であるからだ。

憲法の政治思想は、絶対的個人尊重―神なき時代の政教分離―金銭通貨を崇める政経合体―代表制民主主義―「公共」を独占する国家権力を特徴とするとわたしは了解する。

封建制を否定する民主主義は、国民が選挙した政治家と資格試験に合格した公務員という二つの職業の特権的な国民を、国家権力者とする。

その政治思想は、国民➡【憲法➡国家権力者➡政治】➡国民という自己言及的・循環的かつ国境の内側の領土内に閉じた統治機構を必然とする。

日本国憲法は、つぎのように規定する。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動する。国政は国民の厳粛な信託による。権力は国民の代表者が行使する。その福利は国民が享受する。(憲法前文)

この「主権在民」の憲法思想の下で、2020年現在の民主主義は、いかなる様相を呈しているか。

①国会審議への不満

野党―政府―官僚―与党による国会審議の報道をながめて、「どうもおかしいなあ」と感じている人たちは、おおいだろう。

②政治家の資質

政治家に必要な見識と品性に欠けた国会議員が、おおすぎる。国民を代表する為政者にふさわしい「人間教育が必要だ」と考える人も少なくないだろう。

③選挙制度の欠陥

見識と品性に欠けた人物でも国会議員になれる小選挙区比例代表制という選挙制度が、そもそもおかしい。まず「公職選挙法を抜本的に改正すべきだ」と考える人も少なくないだろう。

④政治システムの時代遅れ

国民の要求をうけて、政策立案➡制度設計➡法整備➡予算配分➡事業執行➡評価という一連の政治システムの現状は、まことに旧態依然たるありさま、コスパが悪すぎる。もっと「SNSとAIなどの技術を活用すべきだ」と考える若者もいるだろう。

⑤民主主義の形骸化

SNSで発信される国民の政治的発信が、爆発的に増える時代になった。そもそも「二大政党制による政権交代をめざす」という政党政治を是とする因循姑息な政治思想が「民主主義を形骸化させている根本原因ではないか」と考える人たちも政治学者や評論家や議員のなかにはいるだろう。

⑥政治へのあきらめ

世界の大金持ち上位26人の資産は下位38億人の合計と同じ。米国の上位1%の家計資産は全体の32%。日本でも非正規社員が増加、貧富の格差は拡大中。ギリギリの生活者たちには、「資本主義と結託した民主主義の政治には希望などもてない、あきらめるしかない」と嘆くばかりの人もおおいだろう。

⑦その他

 「高齢者の介護よりも子育て・教育に税金を使え!」という声もおおい。政治に関心のある若者は、シルバー民主主義を批判して「若者にも立候補させろ!」と叫ぶ。政治倫理の退廃を怒り、節義廉恥をそなえた「美しい日本人」を政治家にしよう!」と嘆く老人も少なくない。 

 

政党政治システムにげんなりしている無党派層は有権者の4割ちかい。立派な政治家への『お任せ民主主義でいいのだ!』という国民は、おおいだろう。

いまや国内政治および国際政治ともども民主主義の危機が指摘されている。

「私心まるだし」の各国指導者が、国益第一をかかげ、「天を畏れず」、己の権力を権威化する権威主義と大衆迎合主義の時代である。

国民および国家権力者の「政治教育」のあり方が問われるべき時代であるとわたしは思う。

 

◆論点25.4 政治教育とは

国政は慈善事業や恩賜事業ではない。国家は国民が納める税金によって維持される。国民と国家の結合は、「納税―徴税」の契約関係に合意することを根本とする。国民は税金を払って国家から福利を買う構造である。これが国政を維持する大前提である。

日本国憲法が定める国民が「厳粛に信託する」国政とは、国民の要求・納税➡【代表選挙】➡信託政治}➡国民の評価、という一連の政治システムの運用である。

憲法は三つの義務を国民に要求する。国民は国家に①納税せよ(憲法第30条)、そのために②勤労せよ(憲法第27条)、働いて税金を納める能力をもてるように③保護する子女に普通教育を受けさせよ(第26条)という三つである。(わたしは「相互扶助」の義務も追加すべきだと思う。

 さらに憲法は、国民を甲:「信託する側の国民」と乙:「信託される側の国民」に大別する。

甲:政治へ要求する。納税する。代表を選挙する。{政治をまかせる}。政治を評価する。

乙:要求を実現する。政治=政策立案➡制度設計➡法整備➡予算配分➡事業執行

乙は、憲法第15条が規定する「全体の奉仕者」というきわめて特異な公職者である。

西郷の政治思想は、乙の「修己治人」だけを強調するが、主権在民と民主主義の政治思想では、甲で生きるか/乙で生きるか、職業選択をふくむ人生設計と能力訓練を国民および国家権力者の「政治教育」としなければならない、とわたしは考える。

 

◆論点25.5 政治教育の現状と問題点

1970年前後、「学問の自由と自治」をかかげて「大学民主化」闘争が過激に起こった。

2015年には、SEALDsという学生団体が国会前で「民主主義ってこれだ!」と叫ぶ賑やかなデモがあった。

このような「政治意識の高い」学生は今や少数派である。日本財団の「第20回 18歳の意識調査」は、日本と外国の若者意識の顕著な差異を示す。

自分を大人だと思うか。自分で国や社会を変えられると思うか。社会問題について周りの人と積極的に議論しているか。

中国では、8割ちかくがYes.である。日本は、なんと2割程度。

 わたしは、1943(昭和18)年に生まれ、戦後教育をうけて大人になった。政治教育を受けた意識はない。両親は、ひたすら「戦争はいやだ」と教えた。

 

戦後教育の柱は、大日本帝国の反「教育勅語」を骨格とする個人尊重と国家否定である。

個人尊重と国家否定を柱とする戦後教育は、「国政は国民の厳粛な信託による」という民主主義の「政治教育」に失敗したのではないかとわたしは思う。

わたしには、「国政を厳粛に信託する」などという感覚はない。国家権力者は「尊敬も信用」もしない。しかたなく選挙の投票所には足をはこぶ。あとは「お任せする」しかない。

戦後の「政治教育」は、戦前の反動として徹底的に「自己中心」を是とする「反政治」政治教育のパラドックスといえる。1960年代までは、米ソ対立を背景にしたマルクス主義運動もあったけれども、経済成長の果実を配分する福祉国家政策によって、社会主義運動の支持基盤は急速に四散霧消してしまった。

同時に個人尊重至上のリベラル・デモクラシーも国家主義者に足元をすくわれようとしている。

 「反政治」教育がいきついた果てが、現代の若者世代の「政治ばなれ」だとわたしは思う。おおくの若者が、なだれをうって社会秩序の安定をもとめて権力尊重にむかう。 

主権者教育といって、投票の仕方を教えて「投票に行きましょう」という運動などは論外としても、「民主主義とは、声をあげて政治に物申すことだけではない。自分の運命は自分で決めるという運動なのです。自分で決められる人を育てることが主権者教育です。国民が国家の主人公なのです。」などと主権者教育に熱心な高校の校長がいうのは、「個人―社会―国家」を枠組みとする政治教育としては、おかしいのではないか。

あまりにも個人的主義すぎる、社会的関係性の不在だ、とわたしは思う。

 

◆論点25.6 お任せ民主主義の未来像

われらは、自由と民主主義の政体を理想とする。少数者の独占を排し、多数者の公平を守ることを旨とし、一人一人の市民は、自由人の品位と持って、己の知性の円熟を期す。」と演説したのは、紀元前430年のアテネの政治家である。

2500年後の政治学者たちも、あいかわらず同じように民主主義を説く。

「大道すたれて仁義あり」とおなじく、理想は常に現実を反転させたい欲望を糧にして生き延びる、ということなのだろうか。

主権在民の民主主義は、つぎのように図式化できる。

国民の要求と納税➡【政策立案➡制度設計➡法整備➡予算配分➡事業執行】➡国民の評価

 

「国政は国民の厳粛な信託による」と憲法は宣言するけれども、国民の要求と納税と評価、国民の国政への信託意識、参加意識、参加能力などは、千差万別である。

民意は、まことに多種多様であり、利害関係の集合体である。民意は、時と場合によっておおきく流動する。集団心理は急激に変貌しやすく、狂気化することを歴史はおしえる。

国民は、国政との関係意識によって、庶民と市民と政民に分類できる。

政民は、政治を職業とする身分の憲法第15条と第99条でさだめる公務員である。

市民は、政事全般に積極的に発言し、政治的権利を行使する国民の一部である。

庶民は、自分の都合次第で政治に関心をもつ国民の大多数である。市民意識者よりも庶民意識者のほうが、はるかに多数をしめる。

わたしは、大多数の庶民・有権者による国政の厳粛な信託を「お任せ民主主義」と理解する。

だからこそ「お上と下々」を弁別する西郷の「天道思想」を民主主義の基盤とすべきではないかと愚考をかさねてきた。

 

西郷は、古代中国の「堯舜の世」を理想とする。その世は、下々が「お天道様の下」で自然にわきおこる義理人情の「お互い様」の気持ちで、世間を気にし、「相互扶助」しながら平穏にくらす庶民社会である。

西郷がめざした明治維新の『再革命』の現代的意義を、わたしは「共政―国政―大政」の三次元民主政治システムに翻案する。

その統治構造は、個人―【L:中間集団―N:領土国家―G:人類社会】―天:地球*自然で図式化される。

わたしは、この図式を「お任せ民主主義の未来像」とする。

超越的価値 →【①地上・権威者 →②国家・権力者】 →③社会・生活者

Local】自治共政システム―中間集団(市民社会)  ③社会・生活者 人情

National】法治国政システム―領土国家(国民国家) ②国家・権力者 人権

Global】徳治大政システム―人類社会(国際世界)  ①地上・権威者 人道

 

◆論点25.7 超高齢化社会の政治教育と人生設計 ~若者と老人世代の交流

202010月、わたしはこの世で77年を生きてきた。あと何年生きるかお天道様次第。これからは「個人的諦観・社会的希望」をもって生きて逝きたいと願うだけ。

人はだれでも誕生{少年期→壮年期→老年期}消滅をたどる高々100年前後の人生街道を生きる。

憲法が定める「教育・勤労・納税」という三大義務は、仕事ができる壮年世代の国民だけを対象とする。壮年世代が政治・経済・文化の主役である。

学業期の未成年と退職した隠居老人は、政治の主体者ではなく、国家による措置・救済の対象として客体化される。主権者のイメージからはまことにほど遠い。少年世代と老人世代は、「お任せ民主主義者」になるしかないのだ。

 

いまや日本人の4割が老人世代となる超高齢化社会である。これまでの人類史で経験したことのない事態である。新たな社会勢力である老人世代が登場したわけだ。

壮年世代の仕事中心の価値観にしばられない、もっと自由に解放された老人勢力が登場したといえる。政治改革の潜勢力としての老人世代の可能性は、封建制度を打破した新興商人階層(ブルジュワジー)の勃興期の歴史を想起させる。

きわめてエキサイティングな歴史がはじまろうとしている。

「いつまでも仕事をつづけましょう」という壮年期延長の思想だけでいいのか。

老人世代に固有の社会的役割を創造する可能性を探求すべきではないか。

仕事中心価値の社会常識を逸脱できる老人世代から、新たな価値観と新たな人間関係による社会思想が、漏出、発芽、創出してくる希望。老人世代こそが、仕事中心の壮年世代とは別の生活環境を創造するあらたな社会勢力になりうるのではないか。 

老人世代は、壮年期の仕事中心価値に抵抗して社会を変えるパワーをもち、元気老人の多くが、世の中を撹乱するアナーキスト的資格をもちうる。

契約にもとづく「権利―義務」とはちがう「人情―義理」の人間関係を基本とする「もうひとつの価値観」、グローバル市場経済からローカル地場経済へ転回する価値観、自由競争から相互扶助へ転回する価値観。

 

克服すべき現代を席巻する戦後社会の価値観とはいかなるものか。

戦後の日本人は、基本的人権に付随する自由と平等の個人主義思想をかぎりなく謳歌する。自立・独立心のつよい個人こそを「市民」とよぶ戦後知識人やリベラル派たちの思想である。

空気をよみ、群れたがり、控えめの庶民感情を否定する。主体的に自己主張する市民意識を知的で上等の価値とする。

世間を気にする庶民意識は過去の遺物、市民意識こそが進歩的近代人であるというリベラル・エリート思想。社会的動物としての人間の共存・共生よりも、個々の独立と自立を強調する。共感力・共鳴力よりも自己主張の強さを鼓舞する。

戦前まで地域共同体であった町内会・隣組は、解体させられた。今や「自治会」は、自治という名ばかりの自由参加の「権利なき社団」に過ぎない。

戦後の日本社会の構成原理は、家制度を解体し個人を基本単位とした。

社会構成を、個人尊重・基本的人権にもとづき個人という要素に還元した。困ったときは、家や家族や地域ではなく、「私」個人が直接的に「公」国家と向き合うことになった。

だが過ぎたるは及ばざるがごとし。

 

バラバラに分解された個人、子どもの養育、生活保護、各種の社会保障政策、終末医療、介助と介護など、国家の過剰負担が、次世代に1千兆円をこえる借金を残す日本社会。

食糧事情や衛生環境や医学と治療技術の発達および社会福祉制度のおかげで、延命・長命社会。個人尊重と技術革新を両輪として、「死の恐怖」ではなく「不自然に生かされるつづける老後への恐怖」がひろがる。

孤立して社会に投げ出されたアトムな生命の寄る辺なさへの不安、安心して我が死を受け止めてくれる社会的臨終場所の不在への不安と恐怖。

都市生活においては、私と公の中間に位置する地域の共的な隣人関係をうしなった。国家の社会保障制度からこぼれた「国内難民」たちの居場所はない。善意あふれる一部の人やNPOが、支えてくれるだけである。

団塊の世代、彼らは日本を反映させてきましたが、年金や医療費などの社会保障費を膨らませ、繁栄を食いつぶして去っていく」(堺屋太一)

仕事中心の壮年期の価値観の延長で「近代文明の病理症状」は解決できるだろうか。

少年世代・学業期世代は、無責任にピンピンころり願望をもてはやす逃げ切り老人世代に、倫理的な視点から異議申し立てをしてもらいたい。老人世代は、次世代をになう若者たちの異議申し立て受け止める社会的責任があるとわたしはおもう。

 

少年よ大志をいだけ。

世間からはみだせる老人たちが、これから世にでてくる少/学業期の学生・若者たちを鼓舞し激励し支援し、未来に希望をもてる日本社会建設を次世代に懇願する。

老年よ大我にいたれ。

老人は、世俗のあちこちに気をくばる狭い自己規制から自らを解放する脱俗の境地をめざす。己の欲するところ則を越えず。

無我➡自我➡大我にいたる『老年的超越』、則天去私・敬天愛人の心境。「人を相手にせず、天を相手にせよ」、そこから出てくる「安心立命」と「天下泰平」への希望。

歴史的転換期における「政治教育」は、文部省が采配する学校教育では無理であるとわたしは思う。若者と老人世代が交流する「他孫疑似拡大家族」による現代の寺子屋:長老私塾―人生論学習塾を「政治教育」の場にできないか。『南洲翁遺訓』を基本テキストとして。

 

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