No.28 遺訓第30条 個人尊重・自由主義は、己を愛する善からぬことの第一也 2021年9月20日
■遺訓第30条
命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
去れども、かような人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付き、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之れに由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。
■遺訓第30条の解釈
明治2年、明治新政府は維新の功績者たちに章典禄をあたえた。西郷は、藩士としては最高の栄位である永世賞大典禄の2千石、翌年には正三位に叙せられた。
しかし西郷はこのような待遇について、自分は<名誉や地位や金銭などいらぬ>と再三辞退を申し出た。その理由は、<これまで戦死した数多くの志士にたいして申し訳ない><個人的な栄誉を望むのは天意に反する>というもの。
(西郷の章典禄は、明治7年に設立された私学校の経営維持費にあてられた。陸軍大将の肩書は、明治10年までつづき、西南戦争のさなかで<逆賊>となって剥奪されたのだ。)
高位高官の身分の者にふさわしくない、世間の常識にさからう西郷のその清貧・質素・高潔な生活のエピソードにはことかかない。
明治新政府の高位高官たちが、<家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀る><私を営みたる姿>をみる西郷は、<天下に対し、戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙をもよおす>のである。(遺訓第4条)
西郷は、自分を<命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ、仕抹に困る>人だという。そういう人物は、この世にしがみついて生きる凡人にとっては理解できない「超人」である。
孟子は、西郷的人物像を<富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず>の人、<天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ>(仁・礼・義)を体得した人、<志を得れば民と之れに由り>国家の大業を成す人、<志を得ざれば独り其の道を行ふ人>、<道に立ちたる人>という。
<道に立ちたる人>とは<人を相手にせず、天を相手にする>人物である。(遺訓第25条)
◆論点30.1 西郷と大久保
西郷は、明治6年の政変で下野した。近代国家建設をかかげる<国家の大業>から身をひいて鹿児島に<遁走>した。田野の生活において<独り其の道を行ふ人>となった。
おなじく下野して事をおこした江藤新平や板垣退助の誘いや懇願を相手にしなかった。
なぜなのか。
西郷と大久保が、顔をあわせて話をした最後は、明治6年の10月とされる。西郷が<征韓論>政争にやぶれて、鹿児島にひきあげる直前である。
西郷はいう、「何でも嫌じゃ」。大久保はいう、「然らば勝手にせよ」。
有志専制の明治政府の高官たちは「人」を相手にするが、西郷は「天」を相手にする。
陸軍大将の西郷は、<道心を忘れて>私利私欲がうずまく権力闘争の宮仕えが嫌になった。高位高官たちの「己を愛するは善からぬことの第一也」(遺訓第26条)の振る舞いに我慢できなくなったのだ。
そして世俗の塵世に交わることに嫌気がさした。戊辰戦争の始末をつけたので妻子がいる大島で生活したかった。自分は、西洋流の文明開化、殖産興業にはついていけない。斉彬から受けた恩義への責任は果たした。
自分は百姓と猟師の真似ごとをしながら自然の中で暮らすことを<桃源郷>とする。竹林の七賢人ではなく、陶淵明もどきの高踏派<高士>の気分で生きることを望む。
その心境は、遺訓第40条ほかおおくの漢詩と書にくりかえし表現されている。
◆論点30.2 トップダウンとボトムアップの革命思想
西郷が自分と大久保とを比較した言葉が残る。彼我の<人物>の違いを家屋にたとえてつぎのように説明する。
「自分は、家屋を築造する骨格作りの仕事においては大久保よりも優れている。
大久保は、骨格に造作をほどこし、室内を装飾し、一家の観をそなえるまで整備する仕事において天性の才能がある。
自分など厠(トイレ)の修理すらもできない。しかし自分は、家屋を破壊することはできる。そこに至ることは、大久保にはできない。」
西郷は、自分自身を<いくさ好き>の丈夫・胆力をきたえる武力革命家であることをみとめる。
<国家の大業>の極は、国家権力の転覆・政権交代という意味での【革命】である。
【革命】は、❶既存権力破壊➡❷新権力構築➡❸権力維持の三相プロセスをたどる。
軍人政治家の西郷は、❶倒幕と❷近代国家の基礎を築造したが、❸権力維持を自分の職分・使命感としなかったのだ。
文官実務家の大久保は、❷官僚機構をととのえて❸有志専制の渦中でテロに倒された。
西郷と大久保の対比は、革命における❶権力破壊者と❸権力維持者の役割分担を鮮明にする。
西郷暗殺を画する大久保たちの明治政府にむかって、「尋問の筋これあり」と兵をおこした西南戦争は、❶を使命感とする西郷の象徴的行動である。
蘭学と洋学を学んだ幕末の知識人が、Revolution(回転・変革)を【革命】と翻訳した意味は、古代中国の<易姓革命>、<天命の革新>に由来する。
西郷の革命思想は、<天道>にそむく邪悪政治家を<放伐>する上からのトップダウン。
近代の革命思想は、<人道>を個人の<自由>実現とみなす下からのボトムアップ。
◆論点30.3 近代革命と人民革命 ~権力は腐る
<上から>革命思想と<下から>革命思想の違いは、『南洲翁遺訓』と『日本国憲法』に象徴される。両者はつぎのように対比できる。
*『南洲翁遺訓』 トップダウン 【易姓革命】
<天を相手にする> 天道 価値(天地自然)
<八百万の神々>→ 天下泰平 → 徳治国家 → 相互扶助 →知足安分 → 安心立命
*【日本国憲法】 ボトムアップ 【近代革命】
<人を相手にする> 人道 価値(人間個人)
<個人尊重>→ 自由・人権 → 民主主義 → 法治国家 →世界人権宣言 → 世界平和
幕末・明治維新より約100年まえのフランス革命が、王様と貴族と聖職者が支配する国家体制を転覆したボトムアップの【近代革命】の源流とされる。
日本国憲法も西洋流の近代思想を継承。個人と国家の関係はつぎのように図式化できる。
※個人☞<生活・自由主義→経済・資本主義→政治・民主主義>☞国家
近代思想の価値観の根幹・是非の判断証拠・正邪の基準は、個人尊重<人命―自由―人権>である。個人を超える<権威>をみとめない。<自立した個人>に絶対的な価値をみとめる人間中心主義である。
自由主義を基盤とする国民国家の存続にとって、自分と他者との<自由の相互承認>という<間主観性>の実現が絶対条件となる。<自由の相互承認>という<社会契約>が、法治国家体制を正統化する政治哲学となるのだ。
では<自由の相互承認><自由主義>を哲学とする【近代革命】は、現実の人類史の生活社会になにをもたらしたか。
科学技術の革新☞道具・装置の発達☞資本主義経済の隆盛による【産業革命】である。
その【産業革命】がもたらした生産力・市場・資源・労働力・植民地の略奪競争は、<資本家>と<労働者>の階級対立を国家矛盾とみなす【人民革命】思想を生みだす。
<空想から科学>をとなえた史的唯物論のマルクス史観である。
【人民革命】思想は、【近代革命】をブルジョア階級による<不潔>革命とみなす。労働者階級による【人民革命】こそを<下から>の真正なる<純潔>革命であると宣言する。
その革命思想をうけついだレーニンは、「国家と革命」を著述した。彼につづくスターリン・毛沢東・カストロなどにかぎらず、古今東西ほとんどの革命家は、国家体制の❶破壊―❷組織化―❸維持に執着し支配者となる。
<人民解放>をかかげる下からの破壊者が、上からの統治者に転じるのだ。権力者は、被治者の反抗を弾圧し、権力内部の抗争と粛清をはじめる。
そして権力は腐る、かならず腐る。なぜなのか。
政権転覆を目標とする革命家は、権力志向者であり、支配欲が並はずれた強い人物たちだから。国家権力者は、<命ちがほしい、名もほしい、官位も金もほしい>、<己を愛する>ことがとびぬけて第一級の人物なのだ。
【人民革命】思想をひきつぐロシア、中国、北朝鮮の国家指導者にかぎらない。【近代革命】思想をひきつぐアメリカ合衆国のトランプ大統領をみよ。そのアメリカを尊崇する日本国の安倍首相をみよ。
◆論点30.4 個人尊重・自由主義は、己を愛する善からぬことの第一也
【近代革命】の延長に位置する現代の政治思想は、アメリカを頂点とする<個人尊重―自由・人権―民主主義・法の支配>を人類の普遍的価値と宣言する。
【人民革命】をとなえるマルクス主義にもとづくソ連は、近代思想にもとづく<ブルジョア革命>を批判し、<人民解放―社会主義―共産主義―国家廃絶>を人類史がめざすべき進歩的かつ必然的な価値と宣言した。
第二次世界大戦後の国際政治は、資本主義と共産主義の対立・米ソ冷戦を基軸とした。その冷戦は、ソビエト連邦の崩壊―アメリカの勝利におわった。<世界の警察官>たる米国の星条旗が<権威>の象徴とされた。
2021年9月、そのアメリカ軍がアフガニスタンから撤退した。<世界の警察官>たる役割を担えなくなったからである。そして中国の台頭である。
(参照☞遺訓第27条 米中対立の間にたつ日本の覚悟➡道義国家宣言 2021年4月1日)
<自由の相互承認>を大前提とする<自由主義>哲学に擁護された【近代革命】のユートピアは、破綻したといわざるをえない。理性過剰の<砂上の楼閣>、壮大なる観念論。
個人尊重・自由主義は、<他人の自由を無視する><他人の人格をふみにじる><他人を根拠なく罵詈雑言・憎悪する><他国を侵略・蹂躙・支配する>などなどの自由を抑制できない。<自制><克己><修業><修己治人>の原理をもちえないから。
「己を愛する」ことを第一として、節義廉恥なく合法的に自分ファースト・国益ファーストをかかげる、領土社会に閉じた主権国家の<法治>思想の限界はあきらかだ。
<自立・個人>を仮定する国家論は破綻している。相互扶助で生きる<依存・共人>の人間像への転回が必要ではないか。国家権力から距離をおく下々のしたたかなる<自治>精神と国家権力の道義性を監視する<徳治>機構の国家論が必要ではないか。
自民党総裁選挙ニュースをながめながら<命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ>西郷的人物像を育てる<政治家教育システム>が必要ではないか、とわたしは思う。
「何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば行われ難し。人ありて後ち方法の行わるるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其の人に成るの心がけ肝要なり。」(遺訓第20条)