10.遺訓第8条 我が国の本体を据え風教を張る   2018105

 

■遺訓第8

広く各国の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我が国の本体を据ゑ風教を張り、然して後しずかに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。

 

□第8条の解釈  

歴史が教える「国体」とは、昭和10年代に定義された「天皇大権」を意味する。わたしは、それをつぎのように理解する。

●「天皇教」という新興宗教

・古事記の国造り神話、神武創業、肇国の精神を「国体」の根拠とする

・皇室は、天照大神の子孫である。

・天皇は、天の子の「天子様」であり、天皇家は万世系である。

・天皇は、神勅により永遠に日本国の統治権と統帥権を付与される。

・日本は、異国とちがって易姓革命・共和革命などの権力交代は存在しない。

・日本は、神州・神国であり、現人神である天皇が統治する皇国である。

・天皇は、日本民族の最高の良心・仁義・国民精神・意思を体現する人格神である。

・天皇は、玉座にすわり君臨すれども統治せず、政治的責任は政府に委任する。

 

西郷の遺訓には、「天皇」とか「皇国」という言葉は出てこない。第1条に「廟堂」という言葉があるだけである。

遺訓第8条の「我が国の本体」とは、第1条の論点1.1「大政と国政の分離」、論点1.2「廟堂と政府の分離」を実現する政治システムを意味する。

 

「風教」とは、一般的には「徳によって人々をよい善い方向に教え導くこと」であるが、西郷遺訓は、人民、下々への風教ではなく、「万民の上に位する者」である公務員(政治家・官僚・軍人・裁判官・役人などに対する風教と解釈すべきである。

「風教を張る」とは、論点1.3「天道と公道の区別」、論点1.4権威と権力~破邪顕正」、論点1.5「徳ある者に官職、功労ある者に褒賞~人材登用」の思想教育である。

この風教は、皇国史観・皇室崇拝の「天皇教」道徳、教育勅語につながるものではない。まったく別物である。

ここが西郷遺訓を解釈するうえで、きわめて重要なポイントである。

 

西郷の政治思想は、大政・廟堂・権威・道義・徳治を最高価値とみなす「道義国家」を「我が国の本体」=『国体』とする。

その精神は、徳治・仁愛・顕正の慈母精神と法治・武力・破邪の厳父精神との表裏一体である。その実践が、「敬天愛人」である。

敬天愛人」は、人類社会生活における普遍的なグローバル道義心である。

その普遍性は、ナショナル道義心=人類社会の一部の領域内国家の「敬天愛民」―「国民を愛すること」とローカル道義心=自治的な各種集団社会の「敬天愛隣」―「隣人を愛すること」の個別性において具体化される。

●道義心の実現 :大政―敬天愛人{ 国政―敬天愛民( 自治―敬天愛隣)}

 

 この西郷精神の政治思想をふまえて、第8条をつぎのように解釈する。

1)「広く各国の制度を採り開明に進まん」とは、開国にむかう『文明開化』のこと。

2)「先づ我が国の本体を据ゑ」とは、『道義国家』の政治システムを確立すること。

3)「風教を張り」とは、公務員に私心をはさまぬ『道義心』を教導すること。

4)「然して後しずかに」とは、あわてず騒がずじっくり『会議』すること。

5)「彼の長所を斟酌する」とは、西洋文物のよい所を取捨選択すること。

6)「否らずして猥りに彼れに倣ひ」とは、『国体』を忘れて『西洋かぶれ』になること。

7)「国体は衰頽し」とは、『道義国家』の理念が衰えさびれてボロボロになること。

8)「風教は萎靡して」とは、公務員の『道義心』が地に落ちて萎えてしまうこと。

9)「匡救す可からず」とは、どうしようもなく救いようのない『下劣な状態』になること。

10)「終に彼の制を受くるに至らんとす」とは、欧米の支配を受けるようになること。

 

◆論点8.1 西郷の予言 ~1945年、大日本帝国の崩壊と戦後のアメリカ支配

西郷は、我が国の本体を据える『道義国家』の政治システムを確立することなく、明治10年の西南戦争で消えた。遺訓第8条は、現代人の思考からみれば西郷の予言であると理解できる。

西郷亡き後に明治・大正・昭和とつづく日本の歴史は、つぎのように進展したからである。

1)たしかに「文明開化」、「殖産興業」、「富国強兵」の近代国家建設をめざした。

2)政治システムは、「大政」と「国政」の分離ではなく、天皇を神格化して権威(廟堂)と権力(政府)を一体化する大日本帝国憲法の「立憲君主制」とした。

3)風教は、「国家神道」を絶対的な天皇信仰として、「天皇崇拝」、「挙国一致」、「天下一家」、「一君万民」、「君民共治」、「忠君愛国」、「滅私奉公」、「チョーセンジン・チャンコロ蔑視」、「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」、「アジア解放」、「聖戦」などを標榜する『国民精神総動員』運動を張るまでにいたる。

4)明治4年には早々と拙速にも、不平等条約の解消を目的とするが、慎重な準備もなく、大所帯の岩倉使節団が欧米視察に向かった。

 西郷を筆頭参謀とする留守政府と幕臣・藩士の官僚たちは、封建制度を打破して数々の「文明開化」制度を導入した。

明治6年の「征韓論」政変で西郷らが下野したあとの明治新政府は、万機公論の『会議』を軽視し、薩長藩閥の有司専制の抑圧的な国権を肥大化させた。

5)西欧の長所を斟酌というよりも、なんでもかんでも西欧文明の制度や技術を積極的に取り入れた。

鹿鳴館時代に象徴される「西洋かぶれ」、福沢諭吉らの啓蒙思想、あらゆる分野での外国人教師の採用など、みだりに西欧文物を崇拝した。

6)アジア諸国を未開で野蛮とみなし、天皇を「神の子」とみなす「皇国史観」、「脱亜入欧」、「和魂洋才」、「殖産興業」の功利主義、資本主義、帝国主義、排外主義、国粋主義、国威膨張による大陸侵攻の結果、アジアではじめての独立国家・近代国家を樹立することに成功した。

その奇跡的な成功は、世界に衝撃と瞠目をあたえた。アジア諸国は、大日本帝国にたいして憧憬と恐怖をいだいた。

7)文明開化の「西洋かぶれ」思想は、民権運動、憲法発布、政党政治、護憲運動、大正デモクラシー、労働運動、社会主義運動を高揚させたが、薩長藩閥を中心とする専制政府の国家権力によって抑圧されつづけ、大政翼賛会、ファシズムにいたる。

8)明治、大正をへて昭和初期になり、天皇を神とする皇国史観の「国民精神総動員」を推進した天皇―皇族―陸海軍人―官僚―政治家―財閥―教育者・知識人―地方名望家―退役在郷軍人―村役人・学校の先生・寺の坊主・駐在所の巡査まで、日本人「指導層」の「神がかり精神」は、その品性と道義心を後世の歴史の審判に耐えられぬ、顔向けできぬほどまでの地に落ちて萎えさせてしまった。

9)満州事変を契機にした国際連盟脱退により、大日本帝国は国際的に孤立し、四面楚歌の情勢になった。

それに対抗するために、外地の既得権益を保持し、国家の生命線の確保を大義名分として、日中戦争から太平洋戦争にいたる国家存亡の総力戦は、国民生活を破綻させた。

天皇は、その道を「已むをえない聖断」と釈明した。

10)天皇の権威と軍隊の権力が支配する大日本帝国は、国家としてどうしようもなく救いようのない状態、風船爆弾、竹やり戦法、特攻隊戦術などの『下劣な状態』になった。

「天皇制国体」と「西洋かぶれ」の両輪は、第二次世界大戦における「日独伊ファシズム三国同盟」で絶頂にのぼりつめ、そしてアメリカによる原爆投下の惨禍をうけ、ポツダム宣言を受諾、米英仏露中の連合軍に降伏、大日本帝国の「天皇制国体」は空虚な残骸となったのである。

 

そして、戦後の日本は、新憲法のもとで武装解除され、天皇は「国民統合の象徴」の地位におりて、その代わりにアメリカ軍が、日本国民の上に<巧妙に>君臨することになった。

 まさに西郷が予言した「国体は衰頽し」「風教は萎靡して」「匡救す可からず」「終に彼の制を受くるに至らんとす」ではないか。

 このような歴史認識を、非国民・反日の「自虐史観」だと批判する勢力もあるだろうが。

 

◆論点8.2 神格化された天皇 ~『国体の本義』

明治元年(1868314日、明治天皇は「五カ条のご誓文」を維新政府の基本方針として交付した。

●五カ条のご誓文

 1)広く会議を興し万機公論に決すべし

 2)上下心を一にして盛んに経綸を行ふべし

 3)官武一途庶民に至る迄各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す

 4)旧来の因習を破り天地の公道に基づくべし    

5)智機を世界に求め大いに皇基を振起すべし

 

誓文とは、天皇が日本国を統治するにあたって、国民ではなくて天神地祇にたいする宣誓である。

この時の天皇は、15歳でいまの高校生の年ごろ。この5カ条は、明治新政府に出仕した越前藩・土佐藩・長州藩などの藩士を中心にして作文されたものである。

この宣誓の精神は、1945年の敗戦にいたる明治天皇、大正天皇、昭和天皇の治世において、なにが実現し何が歪曲されたか。

 

その治世の外国交際は、「あきれるばかりにふんだんな戦争!」(五味川純平)であった。日本史年表には、つぎのキーワードがならぶ。

国軍の創設、台湾出兵、江華島事件、大陸政策進展、日清戦争、露独仏三国干渉、北清事変、日英同盟、日露戦争(日本の国際的地位向上)、韓国併合、関税自主権確立、軍備充実、第一次世界大戦参加、対支21カ条要求、シベリア出兵、朝鮮万歳事件(三一反日運動)、中国五四反日運動、アメリカ排日問題、国連常任理事国、軍備縮少・ワシントン会議、山東出兵、満州某重大事件、満州国建国宣言、国際連盟脱退、日本の国際的孤立化、日中戦争、三国同盟、太平洋戦争、総力戦体制、ポツダム宣言受諾。

 

この日本近代史において、昭和6年の満州事変を、近代国家日本のおおきな曲がり角とする学説にわたしは賛成する。

そこには、軍部独裁を企図する月事件・十月事件、日本ファシズム連盟結成、血盟団事件、5.15事件、神兵隊事件、陸軍青年将校の11月事件、そして2.26事件につづく流血事件が記録されている。

昭和10年(1935年)、政府は憲法学者・美濃部達吉の天皇機関説を排撃するために、つぎの趣旨の「国体明徴声明」を発した。

 

「憲法学者たちが、『天皇は統治機構のひとつの機関である』とする学説は誤りである。天皇と日本は一体であり、天皇が統治する国家が、日本なのだ。天皇は、統治権そのものである。」

これをうけて、政党・軍部・右翼団体は、国体明徴運動をおしすすめる。

文部省は、その運動の理論強化のために、体制派御用学者を動員して昭和12年(1937年)、「日本とはどのような国か」を明らかにする『国体の本義』編纂した。

そこで「国体」をつぎのように定義した.

 

「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。

これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。

而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く(かたく)、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いているかを知らねばならぬ。」

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たる所以は、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ、遂に八紘一宇を完(まっと)うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

 

昭和の初期、本居宣長らの国学思想の中核をなす天皇観を受けついで、帝国陸軍内に昭和維新をとなえる皇道派がうまれた。

 「天皇が天下を治める道は皇道である。皇道はまことの道、正大公共の道である。その道は万国共通の真理の道である。天皇が統治する日本こそが、万邦無比の道義国家である」という天皇教信仰までに舞い上がった。

1940年、昭和158月、第二次近衛内閣が「基本国策要綱」を公表した。

1)皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国の大精神に基づく。

2)その根本は、世界平和の確立を招来することである。

3)その根幹は、先ず皇国を核心とし日満支の強固なる結合とする。

4)その結合によって、大東亜の新秩序を建設する。

 

この天皇教は、つぎの時局糾弾と興亜教育の推進(「大日本言論報国会」ほか)につながった。

~欧米流の物質主義、個人主義、自由主義、利己主義、営利主義がはびこり、資本家は打算と功利、政治家は党利党略の利権汚職の競争、軍人幕僚は立身出世の堕落競争、おおくの国民は安逸と享楽にあけくれ、国家の大局を忘れるという軽薄な風潮を現出している。

 

~世界をあたかも一家の如くに相親しむ八紘一宇を理想とし、大東亜戦争はアジア10億の民族を白人の奴隷状態から解放し、兆民安堵の生活を実現する聖戦である。

 

~体格においても、風格においても、また識見においても、一段と優秀で、日本人こそ永遠に兄事すべき民族なりと、深き信頼を寄せられるようにすることが肝要である。

 

~神州日本の大使命は、➀挙国局一致して国難に対処し、②政治・経済・教育・言論も渾然たる皇道精神に帰一し、③東洋の平和を確立することである。

 

西郷をはじめとする明治維新の先覚者たちは、「昭和維新」の時代のありさまをあの世から眺めて、どのような感慨をもつであろうか。

 

◆論点8.3 明治維新は「王政復古」にあらず、武装する天皇制への序曲である

 マキアベッリの『君主論』は、「君主にとって必要な良き土台は、良き法律と良き軍備である」という。西郷の遺訓第3条は、「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り」とする。

『君主論』と西郷思想の関係は、「文―法律」、「武―軍備」であることは明らかだろう。

ところが、日本列島の古代社会に登場した『天皇』は「良き軍備」をもつ最高権力者の「君主」ではなかったのだ。

 

縄文から弥生をへて、倭国大乱の古墳時代に割拠した諸豪族を制圧した大王は、6世紀末の聖徳太子の神仏儒混交の智慧により、『天皇』の地位に昇華した。

その地位は、武装をぬぎすてて、呪術・仏法をもって天神へ天恵を祈り、五穀豊作を祈り、民の安寧を祭り、「三種の神器」の司祭者、鎮護国家の霊的な権威者である。

世俗の政治権力を執行する者は、文人の貴族官僚とそれに仕える氏族武人であった。天皇家は、武装する軍備をもたなかったのだ。

古代天皇制の天皇は、武装解除されて天の子の象徴としての「天子様」であって、国政を支配する「君主」ではなかった。世俗を超越して生きる先祖信仰の頂点に位置した。

「大政」は、武人の征夷大将軍に「委任」されていたのである。

 

1846年(弘化3年)、幕府は孝明天皇に外船来航(米使ビッドルの通商要求)を奏上した。

ここから孝明天皇が、「攘夷」を鮮明にして積極的に政治に参画することになる。御簾の奥におわした天皇は、地上におりて世俗の政治に関与する。

その後の勅諭や密勅の乱発を見よ。堂上の公家たちが、勤王と佐幕のあいだを右往左往、てんやわんやする歴史をみよ。

歴史年表には、尊皇攘夷をめぐって「安政の大獄」、「桜田門外の変」、「8.18の政変」、「禁門の変」、「長州征討」、「小御所会議12.9クーデター」などの事件がならぶ。

朝廷と幕府、天皇と将軍(というよりも一橋慶喜)を両軸とするすさまじい暗闘、幕末動乱の大スペクタクルである。

 

明治維新の倒幕・討幕・戊申戦争では、王政復古の錦の旗の下、鳥羽伏見の戦いでは仁和寺宮を総督に任じ、江戸城への進軍では有栖川熾仁親王を東征大総督に、九条通孝を奥羽鎮撫総督に、西園寺公望を山陰鎮撫総督に派遣した。

その兵士は、西郷を筆頭とする薩長土藩を中心とする藩兵たちの寄せ集めにすぎない。

政治的にも軍事的にも能力などほとんど皆無な親王や公卿たちを、「権力」の上に位置する「権威」に飾り、「玉」として奉戴したのだ。天皇の世俗化である。

明治維新の「王政復古」の大号令は、古代天皇制への復古にあらず、武装する近代天皇制への前奏曲であり、かつ万機公論への葬送曲であった。

軍服をまとう天皇は、明治15年に発布された軍人勅諭で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と宣言する。天皇は、まぎれもなくマキアベッリの『君主論』のいう「君主」になったのだ。

 

◆論点8.4 敬天愛人・道義国家にとって「天皇」とは ~西郷と天皇の関係

 「王政復古」をかかげた明治政府は、皇居の宮廷改革をすすめた。

大奥の女官に囲まれた天皇の生活環境をこわすために、侍従に村田新八などの士族を採用した。武人の騎士をしたがえる西洋風の宮廷環境にかえた。天皇もよろこんでそれを受け入れた。その時の天皇は、すでに数え年で20歳に成長している。

 

明治4年から5年にかけて、留守政府をあずかる西郷は、太政官・筆頭参議であるとどうじに天皇に直隷する近衛兵の長官、近衛都督でもあった。「政府」を代表する西郷は、「廟堂」の天皇と面とむかって接した。西国巡行や軍の演習にも随行して時間をともにした。

青年天皇が、西郷を信頼し、親しんだことの逸話はたくさんある。

西郷は、成長する天皇の姿をよろこび、「変革中の一大好事の御身辺」、「まったく尊大の風習がなくなって、君心水魚の交わりに立ち至る」と手紙に残している。

 

明治5年の秋、西欧使節団の大久保、木戸、岩倉たちがバラバラに帰朝してきた。公家の岩倉が、天皇とむきあえる政府首脳の元の位置にもどった。

その「政府」と「廟堂」の関係は、その後の歴史において、どのようなものなのか。

それは、論点8.1で書いたように、西郷が予言したとおりの経過である。

では西郷の敬天愛人・道義国家の「国体」思想にとって、「天皇」はどのような位置にあるのか。

西郷は明治6年、「征韓論」政変に敗れて帰郷した。その経緯は、概略つぎの通り。

1)留守政府は、韓国へ西郷を派遣することを閣議決定した。

2)帰朝した西欧視察団の岩倉・大久保一派は、その決定に反対して朝廷を動かした。

3)最終決裁者である天皇は、詔勅により西郷派遣の閣議決定を否認した。

4)天皇の内閣不信任は、閣僚参議の総辞職を意味する。

5)西郷派遣へ賛成する参議の辞職は受理され、西郷一派は排除され野に下った。

6)西郷派遣に反対する参議の辞職は受理されず、大久保派は残った。

 

この政変は、西郷派と大久保派の権力闘争であって「征韓」の是非を論争したものではない。大久保派の本音は、政府内の西郷勢力の排除である。朝鮮外交の政策論争ではなく、政権内部の権力闘争であった。

そのために大久保派は、本音をかくし「外交よりも内治優先」という建前を天皇に奏上して裁可を得た。岩倉と大久保は、「玉座」の天皇を「玉」として利用したのである。

その内治優先をとなえた大久保政府は、明治7年の台湾出兵、翌年の江華島事件を挑発して武力外交の「征韓論」を実行したのだ。言行不一致の御都合主義もはなはだしい。

「征韓論」ではなく、まずは軍隊を同行しない「遣韓論」を主張した西郷は、「長年にわたる朝鮮との信義外交を踏みにじる」ものだと激怒した。

西郷は、「廟堂」を私物化する岩倉・大久保・木戸を中心とする「政府」を批判する。

 

その批判は、明治天皇の「廟堂」にもむかうのか。

遺訓第1条「廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うもの」という西郷にとって、現実の「廟堂」および天皇はどのような存在なのか。

明治政府の現実と「廟堂」の関係は、西郷が理想とする政治システムにおける「大政を為す権威」の位置にふさわしいのか。

西郷は、敬天愛人・道義国家における「天皇」に、どのような役割を期待するのか。

その期待への絶望が、明治10年の西南戦争につながるのではないか。

 

◆論点8.5「国に二君なし」をのりこえる「大政・廟堂―国政・政府」体制

慶応2年、英国公使パークスは鹿児島を訪問し、西郷をつぎのように批判する。

日本には、京都と江戸の両方に「大君」がいるようだが外国では決してありえない。

西郷は、「日本人と外国人に対して面目ない。いずれは国王唯一の体にしなければなりますまい」とこたえる。

慶応3年、西郷は久光に次のような進言をした。

1)天下の政権を天朝に帰し奉ること ~大政奉還

2)将軍職を廃止、徳川家を一大諸侯の列に下すこと ~倒幕

3)雄藩諸侯は、朝廷を輔佐すること ~公武合体 

4)天下の公議をもって処置を立てること ~合議政体

5)外国の定約(条約締結)は、幕府ではなく朝廷の御処置とすること ~慶喜の排除

6)万国普通の定約(万国法)の大道をもって皇国を扱うこと ~近代国家

 

この思想は、薩摩藩と土佐藩で結ばれた「薩土盟約書」でもつぎのように合意されている。

国に二王なし、家に二主なし、政刑一君に帰す、天下の大政を議定する全権は朝廷にあり、我が皇国の制度法則一切の万機、京師の議事堂より出るを要す。将軍職を辞して、諸侯の列に帰順し、政権を朝廷へ帰すべきは勿論なり、その要、王政復古。

 

歴史は、この「薩土盟約書」が実行されなかった経緯を記す

薩摩藩は、徳川家の武力討伐をめざす。土佐藩は、徳川家を温存して公武合体をめざす。ここに違いがあったからである。

この違いを「武力革命」と「平和革命」に対比して、戊申戦争をむりやり引き起こした西郷を非難する人もいる。そういう非難もありうるだろう。

だが、政治思想の問題としては、両者の違いではなく、両者のおなじ思考に注目すべきである、とわたしは思う。

それは、「国に二君なし」と「議事堂・合議」との関係性である。

 

この問題は、その後に土佐藩を中心とする自由民権運動のありかたとも関係する。

さらに「個人―社会―国家―世界―自然」(私共公天)という枠組みにおいて、憲法と民主主義の現状と将来像への問題意識に接続する。

それは、グローバル社会の政治思想が、「社会」と「国家」の意味概念をどのように弁別しているか、ということの原理的な政治思想への問題意識である。

 

慶応2年の時点の西郷は、たしかに「京都と江戸の両方に『大君』がいるのは面目ないこと、国王唯一の体にすべき」と考えていた。

その「国王」が日本では「天皇」に相当することはあきらかだ。

慶応2年から西郷が庄内藩士に遺訓を語るまでの間には、約10年ちかくの歴史がつみかさなる。

その激動の時間を生きた西郷思想に変化があるのは当然だろう。

慶応2年時点から変身した西郷ならば、英国公使パークスの「京都と江戸の両方に「大君」がいるようだが外国では決してありえない」に対して、「日本の国柄は権威と権力を分ける政体であって、廟堂と政府が並立する道義国家でごわす」と回答するだろう。

 

「国に二君なし」とは、集団を代表する者を「長」とよび、それは「ひとりに限る」というきわめて常識的な組織思考である。社長、理事長、委員長、会長、家父長など。

社会には、多種多様で大小さまざまな組織集団が存在する。

個人は、少(学業期)→壮(職業期)→老(終業期)をたどる「人生毛作」の社会生活において、精神的かつ制度的な必要性におうじてそれぞれの集団に帰属する。

国家は、特定の地域の集団社会を統制する「長」の出現によって歴史的に誕生する。

国家は、ひとつの集団社会ではなく、単一の共同体でもなく、多種多様な多数の集団を要素とする「機能システム」である。ここがポイントである。

「国家」とは、一定の領域内の個人と組織集団を要素とする政治システムである。

「政治」とは、一定の領域内のさまざまな集団、つまり「社会」と「国家」の関係性である。

一般的な意味での「国体」は、「社会」と「国家」の関係性(機能と構造)を定義する政治システムによって体現される。

これが、社会と国家を弁別するわたしの原理である。

 

この原理にもとづいて、遺訓第8条が「我が国の本体」とする「大政・廟堂・権威・徳治―国政・政府・権力・法治」の政治システムを「国に二君あり」と解釈する。

自由民権運動は、「国に二君なし」の君主制と「議事堂・合議」の立憲制の矛盾を乗り越えることに失敗し、民権が国権に服したのであった。

権威と権力を分離できない自由民権運動の思想的脆弱さが、昭和維新にいたる「一君万民」の大政翼賛会、「世間知らず」の国粋主義国体に結実したのではないか。

その脆弱さは、「国民の総意」を「権威」とみなす戦後の日本国憲法と民主主義によって克服されているだろうか。

 

文明開化の旗手である福澤諭吉は、その「帝室論」で天皇を政治の領域外に位置する超越的存在とみなす。

天皇は、政党政治が必然的にもたらす利害衝突の混乱を平定する日本国民精神の中心点である。

そして「軍隊を政治領域から切りはなし、天皇に帰属させるべき」だと主張する。

その理由は、兵士が忠誠をつくす対象は、時の「権力」ではなく、悠久たる大義の「権威」でなければならないからである。

この主張は、道義的権威と世俗的権力を分離する日本人の精神文化を基底とする西郷思想の「道義国家」に合致する。

「道義国家」は、大政と国政の分離」、「廟堂と政府の分離」の政治システムによってこそ実現されるのだ。だが南洲翁遺訓には、その政治システムの具体的な構想はない。

 

西郷は、西欧列強の帝国主義を「文明ではなく道義心なき野蛮」と断じる。それをもたらす近代西洋思想のキーワードを並べればつぎのようになる。

a.自由競争 自然状態の弱肉強食、自然淘汰、適者生存 →資本主義 

b.人間中心 食物連鎖の生態系の頂上に君臨、人命尊重 →人道主義

c.理性中心 科学技術の合理性と損得の功利性 →倫理道徳のニヒリズム

 

西郷の「敬天愛人」思想は、西洋近代思想と日本国憲法の限界をのりこえて、21世紀のグローバル社会に「道義国家」を建設する指針だとわたしは思う。

人間と人工知能とロボットが連携するネット社会の時代、「道義国家」政治システムの設計に人類の智慧と汗を結集すべきではなかろうか。

 

 

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