25.遺訓第27条 米中対立の間にたつ日本の覚悟➡道義国家像の必要性 202145日 

  

■遺訓第27条

過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し。過を悔しく思ひ、取り繕はんとて心配するは、譬へば茶碗を割り、其の欠けを集め合せ見るも同にて、詮もなきこと也。

                                  

□第27条の解釈   

1)仕方ない

世間では、「覆水盆に返らず」「起きたことは仕方ない、いつまでもくよくよするな、後ろではなく前を向け」などと言う。しかしそれだけだったら「自分が過った」という自覚がない。それでは反省する気持ちがおこらない。また過ちをくりかえすだろう。歴史はくりかえす。

 

2)取りつくろう

論語に「小人の過ちや、必ずかざる」「過ちを改むるに憚ることなかれ」「過ったことをしたのに改めざる、是を過ちという」がある。世間の普通の人は、自分が間違いを犯したと思ったとき、他人にどう思われるだろうかと気にして、何とか取り繕ってあれこれと言い逃れをしたがるものだ。「山中の賊を破るは易く 心中の賊を破るは難し」(王陽明)。

 

3)自覚せよ

為政者(政治家・公務員)の「過ち」は、おおくの国民の生活社会に災禍をもたらす。南洲翁遺訓は、普通の人向けに通俗的な道徳心を説くものではなく、国家権力を行使する者への訓戒である。上に立てば立つほど、人間は「過ち」をみとめないものだから。

西郷のいう「過ち」とは、万民の上に位する権力者=為政者の価値観・思想・政策・人事・所作・生活状態などが【正道】にはずれる生き様である。(遺訓第1

西郷は、「自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善しという。なぜならば自分の「過ち」を自覚しなければ、そもそも「過ちを改める」意識がうまれないのだから。

 

※権力者が【正道】をはずれた、「しまった!」と自らの過ちを思ひ付くには、どうすればよいか。その判断基準をどこに求めるか。

■南洲翁遺訓第25条 

人を相手にせず、を相手にせよ。

天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。  

 

※そもそも【道】をはずれる過ちを犯す根本原因は何か。

■遺訓第26

 己れを愛するは善からぬことの第一也。修業の出来ぬも、事の成らぬも、過を改むることの出来ぬも、功に伐り驕慢の生ずるも、皆自ら愛するが為なれば、決して己れを愛せぬもの也。 

 

◆論点27.1 役人が過ちを犯さないための心構え 

西郷は、奄美大島で3年を過ごしたあと、さらに流罪人として徳之島をへて沖永良部島で2年間をすごした。島代官の下ではたらく役人と警察の心構えを求められ、『与人役大体』、『間切横目役大体』を書いて渡した。台風が多い南東では凶作になることへの備えとして、米や麦を蓄えておき、飢饉の時に人々に配る「相互扶助」政策の『社倉趣意書』をあたえた。

その精神・心髄は、遺訓第1条の<大政を為す天道である。

 

※役人においては万民の疾苦は自分の疾苦にいたし、万民の歓楽は自分の歓楽といたし、天意を欺かず、其の本に報い奉る処のあるをば良役人と申すことに候。 若し此の天意に背き候ては、即ち天の明罰のがる処なく候えば深く心を用ゆべきことなり。万民の心が即ち天の心なれば民心を一ようにそろえ立つれば天意に随うと申すものにござ候。『与人役大体』

 

※役人が百姓を取り扱う善悪が、百姓に疾苦・安心をもたらす。もし役人の取り扱い宜しからずしては、万人を苦しめる罪であり、君を欺く罪となり、重罪にあたるのみならず、一人の盗人よりは格別おもき事に御座候。(『間切り横目役大体』)

 

※「天網恢恢疎にして漏らさず」 天の網はひろく、その目はあらいようだが、悪人を漏らすことなく捕える。天道は厳正で、悪事をなしたものは早晩必ず天罰を受ける。(『老子』)

 

◆論点27.2 『天罰』を無知蒙昧迷信とみなす自由民主―法治国家の限界症状

20213月の国会審議の状況、自由民主党政権における政治家と官僚の【道義心】の劣化は目にあまる。西郷が強調する【正道】をあきらかに踏みはずしている。

安倍政権が確立した官邸主導の官僚人事体制は、「政治に私心をはさむ」(遺訓第1)公私混同である。その政治家・公務員たちの職業倫理には、<天罰>などという観念はない。

『天地神明に誓う』という言葉は死語になった。現代の知識人たちは、天道・天意・天罰・神明など、それらを非科学的な時代錯誤の無知蒙昧迷信とみなす。

 

政教分離を原理原則とする現代の政治思想は、西郷の『天道』(遺訓第1)の概念・理念・精神性などを無視。<観ず聞かざる所に戒慎する遺訓第21条)精神性の欠如そして人生論の<死生観>の不在。コロナ禍に対処する政治家・官僚・専門家の精神性をみよ。

日本国憲法は、アメリカ流の「自由・人権の尊重―民主主義・法の支配」を人類社会の普遍的価値=政治的権威とみなす。そこには『天道』思想の道義心が介在する余地はない。

 

国民の代表者たる国会議員と東京大学法学部出身のエリート官僚たちの振る舞いは、西郷がいう<己れを愛するは善からぬことの第一也>自己保身そのものではないか。

そこには日本文化の深層にやどる『八百万の神々』を畏敬する精神性など微塵もない。

人に内在する良心を糊塗し、言葉を形式的にあやつり、記憶喪失をよそおい、国権の最高機関である国会でウソの答弁を積み重ねる。

わたしは、その卑しさ根性に怒りや腹立ちというよりも、もの悲しさ、哀れさ、悲哀を感じる。

国家権力を行使する者が、<自ら過つたと思ひ付く>根拠と根性・気概を失っているのだ。

※【節義廉恥】なき【自由・民主】法治国家の限界症状だと思う。

 

◆論点27.3 原爆投下~安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから

広島平和都市記念碑は、1949年(昭和24年)のGHQ占領下に成立した「広島平和記念都市建設法」の精神に則り計画され、1952年に建立された。

石碑の碑文は、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」である。

※『過ち』は誰が犯したのか?!

当時の広島市長は、「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と市議会で答弁した。

 

11人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」と述べた。

それに対する異見投書が地元紙の中国新聞に掲載された。

碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」「あくまで原爆を投下したのは米国であるから、『過ちは繰返させませんから』とすべきだ」。

 

※問題は、碑文の主語である。「誰」が過ちを繰り返さないといっているのか。「誰」「誰」に過ちを繰り返させないというのか。

原爆死没者か、広島市民か、日本人全体か、日本帝国軍人か、昭和天皇か、トルーマン大統領か、B29 爆撃機の機長か、アメリカ人全体か、すべての人々か、世界人類か。

 

◆論点27.4 原爆投下を「過ち」と認ないアメリカ流民主主義

原爆を落とした張本人のアメリカのおおくの国民は、戦争終結をはやめたという理由で原爆投下を正当化する。

自由・人権の尊重―民主主義・法の支配」を人類社会の普遍的価値=政治的権威とみなす政治思想には、原爆投下を「過ち」と認める原理がないのだ。

だから冷戦後のいまでも核兵器保有を戦争の抑止力として正当化し続ける。

日本の安全は、アメリカ軍の「核の傘」に依存することによって保障される国防体制である。沖縄に「中国の領土拡張野心の海洋進出を抑止するため」という理由で、米軍基地を集中させている。

 

自民党政権を支持する大多数の日本人は、その状態を是とする。国家として原爆投下の「過ち」を認めないアメリカ流民主主義と文化に憧れをいだきヘラヘラと追従してきた。

わたしは、原爆投下という「過ち」を犯した主体者は、アメリカ流【自由・民主】法治国家そのものであり、トルーマン大統領を頂点とする<国家権力者たち>だと主張すべきと考える。

 

そもそも「自由・人権の尊重―民主主義・法の支配」は、<国家>という領土に閉じた集団社会に限定される。国家を防衛する自衛権保持を当然とみなす政治思想には、国家間の戦争を抑止する原理がない。軍事力を基盤として保有できない国際法は無力である。

軍事力を強化するかどうかは、主権国家の<自由意志>にもとづく判断である。西洋流自由主義は、他人と他国の自由を「承認しない」自由を抑制する原理をもたないのだ。

「自由・人権」の人間論と「民主主義・法の支配」の国家論を普遍的価値=政治的権威とみなす西洋流自由主義は、西郷が「善からぬことの第一」とする「己を愛する」自分ファースト・国益第一に直結せざるをえない。

自由・人権尊重・民主主義は、国家権力の過剰なる肥大化を必然とする国家全体主義(ファシズム)に帰結するほかない。ワイマール憲法下のナチス政権をみよ。トランプ大統領とその熱狂的な支持者たちをみよ。現代の政治思想は、国家権力を行使する者が<自ら過つたと思ひ付く>根拠と根性・気概・道義心の基盤を失っているのだ。

※西郷精神の【節義廉恥】なき【自由・民主】法治国家の限界症状だと思う。

 

◆論点27.5 日米軍事同盟を問いなおす 

2021325日、バイデン米大統領がホワイトハウスで記者会見を開いた。米中対立について「21世紀における民主主義国家と専制主義国家の有用性をめぐる闘いだ」と語った。

米中対立の間に立つ日本にとっての現実の喫緊の諸問題は、尖閣諸島の地政学にかかわる沖縄に集約されている。

2021331日、沖縄県知事の諮問機関である「米軍基地問題に関する万国津梁会議」が、『新たな安全保障環境下における沖縄の基地負担軽減に向けて』を知事に提出した。

国民のひとりの老人にすぎないわたしには、提言書の全体を咀嚼・理解する知見・能力などもとよりないけれど、次の表現・主張には賛同したい。

 

<日本の安全保障政策は、対中国脅威論をベースとして日米同盟への依存を強めており、沖縄の基地負担に関する思考停止と言うべき状況を生んでいる。>

<アジア太平洋地域の安全保障にとって、軍事的抑止とともに緊張緩和と信頼醸成が不可欠。沖縄を、その地理的・歴史的特性を生かし、地域協力ネットワークのハブとすべき。>

 

※日本政府はいまや米中対立の間にたつ【国家】としての覚悟が問われざるをえない。

日米軍事同盟は、独立国家たる日本の国益・アジアの秩序・人類社会の天下泰平にとって、そもそも必要不可欠で必須なものなのか。

日本は、【節義廉恥】の国家像をもって、米国と中国に正面から対峙すべきではないか。

 

■南洲翁遺訓第16条 

節義廉恥を失ひて、国を維持するの道決して有らず、西洋各国同然なり。

※『自由・民主・法の支配』から『強きを戒め・弱きを励ます侠気・人情』へ政治思想の転回

※「自治共政―法治国政―徳治大政」に就く政治家は「敬天愛人」「修己治人」を修練すべし。 

参照☞ No.11 遺訓第9条 天地自然をベースとする「道義国家」の未来像 

No.16 遺訓第15条 戦後レジームからの脱却 ~節義廉恥の道義国家へ 

No.18 遺訓第20条 「自治共政―法治国政―徳治大政」民主政治システム構想  

 

以上  NO.24へ      NO.26