2.7 往還思想の自然観

 1)自然とは

2)「この世」と「あの世」

3)「あの世」を考える意義

4)安心立命と魂の救済

5)もっともっとじゃなくホドホドがよい

 

1)自然とは

自然とは、人間をつつみこむ外側の世界である。人間がその中で生きざるをえない環境である。どうじに自然とは、人の命を含むその世界や環境のはたらき・作動である。

自然とは、森羅万象の宇宙の動きのリズムである。「天網恢恢疎にして漏らさず」の自律運動である。自然の作動が、すべての命の原型である。

往還思想の自然観は、その世界や環境のはたらき・作動を、人間社会の人為的、人工的な作為を超えた無為とみなす。為すがままの自律的なはたらき。人智をこえた無為自然。

その自然の中では、人の一生も、人の世も、人間の想定どおりには進まない。「天網」が織り成す因果の説明をほどこす人間の作為的な合理性などは、きわめて限定的な知識にすぎないからである。

人間の「自由意志」なるものが働く領域は、きわめて小さい部分である。人生のほとんどは、意のままにはならぬ。

己の力などは、自然の命にくらべれば太平洋の海の一滴よりも小さい。 「人の命は地球よりも重い」などの政治家の発言は、ゴーマンな人間中心思想の仮面であり、国家の統治権力を自然視する欺瞞にすぎない。

  江戸の儒学者の佐藤一斎は言う。

「物、その好む所に集まるは人なり。事、期せざる所に赴くは天なり」。

「物」は、物理学的な因果関係にもとづく人為的な所作、「事」は人知を超えた天意。

往還思想の自然観は、自然と共生して生きざるをえない縄文人・アイヌ族の自然観と老子の「道:タオ」思想が、まざった想念である。

語りえぬものの前では沈黙せざるをえない無限なる存在への観想である。自然を、大いなる生命のはたらきとみなす畏怖である。

  この自然観は、個人の身・心・頭は、天命にしたがうべきだと考える死生観の前提となる。この自然観から、怠惰を叱責し努力一辺倒をよしとする常識論=成長主義、進歩論をこえて、じたばたしない諦観・あきらめ・自然の受容をよしとする人命論が帰結される。

この自然の受容は、西郷隆盛の「敬天愛人」に通じる。いわく、「人を相手にするなかれ、天を敬え、しこうして天の下の人とつきあえ」という意味。天と一体となった融通無碍さ。漱石の則天去私、孔子の「己の欲するところ則を越えず」にも符合する。

往還思想の自然観は、人の「個人」としての独立性よりも、「共人」として多様な他者と共生して生きざるをえないことを強調する。

往還思想の自然観の意義は、ちっぽけな人間の私利私欲につながる賢しらな個人尊重への反省である。人間関係と自然環境の破壊に無頓着で傲慢な人間中心主義への違和感である。

 

2)「この世」と「あの世」  

 「往還思想」の「あの世」とは、「この世」のできごと全てを発現させる根源である。過去にあらわれ、今現在あらわれており、未来にあらわれるであろう、そのすべての森羅万象を生み出す源である。

「あの世」とは、有限な実現性と可能性を胚胎する無限の潜在性である。観察可能で有限な「この世」の奥底に内在する無限世界が、「あの世」である。

 「この世」とは、無限の「あの世」が必然的条件および偶然的条件によって取捨選択されて現象する、観察可能な現実世界の意味である。

往還思想の「あの世」は、特定の宗教宗派とは関係ない。この考え方は、つぎのシステム論哲学の応用である。

●潜在性(+外部条件)→可能性(+外部条件)→実現性→(可能性と潜在性へ)

●生成→{(在る→為す→成る)→(在る・・・・・)}→消滅

(1)システムは、内部に一定の潜在性を保有して「在る」。

(2)潜在性は、外部条件に対応して、内部において可能性を蓄積する。内面活動。

(3)可能性は、外部条件に対応して、外部に何らかの反応を「為す」。外部活動。

(4)システムは、外部との関係を「為す」ことによって、観察可能な実現状態に「成る」。

(5)システムは、{在る→為す→成る}という循環運動によって潜在性と可能性の内部状態を変える。

  今の「この世」は、ほかでもあり得る世界である。「この世」で我が身がピンピンしている状態は、無数のそうでない状態から選択されたひとつの状態にすぎない。

わたしが「いま、ここ」で生きている状態は、永遠ではない。かならず変化する。いまピンピンしていても、明日は事故や病気で「この世」から消えるかもしれない。病気が癒えて「この世」でまたピンピンになるかもしれない。あるいは意識不明のままベッドで寝たきりのままかもしれない。

「この世」から「消える」ということは、潜在性へ遷移したことに過ぎない。コロリと逝くのも、無数の逝き方から選択されたひとつの逝き方である。コロリを願っても、その願いはかなわないかもしれない。かなう人もおれば、かなわない人もいる。

その潜在性と可能性のすべてを包摂する世界が、往還思想の「あの世」である。

  だから「あの世」は、今わたしが住む「この世」を超えたどこかにあるのではない。「この世」と「あの世」は、可能性と潜在性の作動をくりかえす二面性である。現実は、可能性の一部でしかない。

実現性、可能性、潜在性の遷移と循環の作動を、宇宙プログラムの働きとみなす。これを、「天道」という。老子のタオ(道)のイメージである。縄文人をひきつぐ日本人の精神基底に住まう「お天道様」である。

DNAは、人体のたんぱく質を生成する遺伝子プログラムである。コンピュータのプログラムは、天文学的な数字に近い処理ステップ数の組合せである。

そのプログラムに外部から入力される具体的なデータを取捨選択することによって、特定のプログラムが反応を開始する。そしてプログラムの各ステップを選択しながら動的な経路(パス)を実行し、特定の結果をうみだす。

選択されたデータが、天文学的数字の組合せをもつプログラムの動きを選択する。

プログラムそのものは抽象的な機能しかもたないが、無数の可能性を潜在化させている。現実の外部条件との相関において、可能性が実現性に転換する。

不具合という予期せざる事故がおきる場合もある。

「プログラムが絶対に正しい」と保証できないことは、1960年代にすでに数学的に証明されている。

人工物や人為的なプログラムには、想定した前提を逸脱する想定外の出来事が、かならず出現する。それは地震や津波や原子力発電でもおなじである。

ここでいうあらゆる可能性を生み出す「宇宙プログラム」/潜在性に対して、これまでの人間の叡智は、無、無限、虚空、宇宙、自然、天、道、神、彼岸、浄土などの名前を与えてきた。

「来世」や「天国」などの死後の想念は、具体的に観察できる形而上的な出来事を超越した思考である。宗教的、哲学的、思弁的・形而上学的な思考領域になる。

  「往還思想」の「あの世」も、それらの超越的な思考と無縁ではなく、「あの世」=天=お天道様とする。「あの世」の存在を、「信じる、信じない」の宗教的テーマにする必要はない。「信じる、信じない」ではない。

「この世」は、「他でもありえる」という事実の解釈の問題である。だから「あの世」は、「この世」の「他でもありえる」可能性の潜在性である、と定義しても許されるだろう。

 

3)「あの世」を考える意義 

「あの世」を考える意義は、「自分の人生を満足してまっとうする安心立命」への心境である。

アンチエイジングは、人生の下り坂や老人や死の現象に目を向けない。

ピンピンころり願望は、人生の下り坂ではなく垂直な壁を落下するイメージになる。

往還思想は、人生の「下り坂をジョジョに降りてスーット消えていく」イメージである。

アンチエイジングの人は、元気なうちはいいけど、要介護支援や病気になる不安はないのだろうか。ピンピンころり願望の人は、寝たきりになって老後を過ごすことになるかもしれない不安はないのだろうか。その不安にどう備えるのだろうか。

  死んだ後には何もない、「あの世」などないと思う人はおおい。しかし、ほとんどの人が、自分が生まれた前に「この世」はあった。自分が死んだ後も「この世」はあり続けるだろうことを信じている。

これは、人間がもつ一種の超越的思考能力である。経験したことのない生前と死後を想像する思考能力を人間はもっている。

これは、よくよく考えてみれば不思議な能力である。なぜなら、「この世」といっても、あくまでも自分の意識にあらわれた現象でしかない。

自分は、「この世」のすべてを知っているわけではない。きわめて限られたごくごく一部だけを「この世」として、自分が意識するにすぎない。「この世」そのものの全体は、わたしにとっては「目に見えない」仮想空間である。リアルとバーチャル、ネット社会と現実社会の区別は定かでない。

おなじく「あの世」といえども、自分の意識にあらわれた現象である。想像世界である。追悼の辞で、「安らかに眠ってください」という言葉をよく聞く。それが不自然な表現だと思う人は少ない。

 死んだ人が、「あの世」で眠っているという観想を自分の中で意識する。

だから「この世」は確かに存在する、「あの世」は宗教的な信仰であるといっても、その存在確認の明証性は、どっちもどっち五十歩百歩といえないか。

これからの社会は、生身の人間とアンドロイド・ロボット・人造人間が「共生」する「仮想現実」バーチャルリアリティとなる。「この世」と「あの世」は、近未来の人間の意識においてますます混淆するであろう。

 

4)安心立命と魂の救済

往還思想における「あの世」は、「下り坂をジョジョに降りてスーット消えて逝く」先の世界である。そこは、我が身の卑小さも我執も善悪もすべてを受け入れてくれる安息の世界である。先に還った両親や兄弟やご先祖に再会できるかもしれない世界である。

そしてそこは、新たな生命を生み出す世界でもある。わたしは姿を変えて、またこの世に生まれるかもしれない。

この世のみんなが、いつまでも生き続けたら、これから生まれてくる人には窮屈だろう。この世のみんなが、いつまでも生き続けたら、この世は続かない。個体の有限性こそが、系統の継続性にとって必然的な条件であるのだ。

だから子孫・次世代が生き延びるためには、私は死ななければならない。このように考える思想性が、人生を満足してまっとうする安心立命、魂の救済になるとわたしは思うのである。

このことが「あの世」を想念する意義である。「あの世」に還ると思えば死を恐れる気持ちはうすれる。この世にいつまでもしがみつく気にはならない。

病気にならずに健康でありたいという願いは、人の自然な心情である。同時に還暦がすぎたのだから、体や記憶にあちこちガタがくるのも仕方がないなあ、と思うのも自然な心情である。

仕方がないけど、できるだけ節制して自然な生活のなかで身心頭を鍛えよう、と自らを鼓舞する意思も人に備わっている。

高度な医療技術と医薬により人工的に身体を制御してまでも、若さを保ち、いつまでもピンピンしていたいと願うことが、社会の多数派かもしれない。

しかし、そのように願わない人もふえている。

自分の死についての覚悟は、これでよいとしても問題はのこる。家族や身辺者との情愛、人情である。

 

5)もっともっとじゃなくホドホドがよい

わたしは、不自然な延命・長命に不快さ=非倫理性を感じる。貪欲を感じる。怠惰も努力も好奇心も過ぎたるは及ばざるがごとし。極端はよくない。ものには限度というものがある。人生すべからく中庸なり。

善なる価値追求にもホドホドの抑制が必要だと思う。過去の多くの戦争が、正義の旗のもとで行われた。「地獄への道は、善意の石で敷かれている」という言葉もある。戦争は、自分が生きるという私利私欲の下劣な極致である。

もっともっとの私利私欲の幸せを求める貪欲さは、はしたない、みっともない。往還思想は、「年相応のじじい・ばばあ」が、地域コミュニティにおいて、少年/学業期の若者を応援する。それなりの役割を発揮する。聖人君主には遠慮してもらってもよい。反面教師こそ歓迎される。それで地域と他者に受け入れられる。「敬老」されるかもしれない。

そして、下り坂をジョジョに降りてスーット消えて、「あの世」に還る。このような老後の生き方・逝き方を、わたしは理想とする。

  この往還思想は、安心立命、則天去私、敬天愛人、自然への帰還である。諦観・あきらめの美学でもある。この理想は、アンチエイジングやピンピンころり願望にプラスして老後を過ごすウイズエイジング思想である。

この思想は、つぎのような願望や不安や希望への救済である。

(1)死に向かって、老人であることを自覚しながら実年齢に相応した老後を過ごす。

(2)心も身体も美しく輝いてボケながら下り坂を生きる。

(3)能力の減衰が確実である老後の自然な姿を、少/学業期世代にさらす。

(4)活用すべき自分の能力など、もうとっくに賞味期限が切れていると自覚する。

(5)「おれも年とったなあ」と思いながら、自分の老け具合に楽しく付き合う。

(6)介護を受ける身になっても美しく受けたい、病床にあっても美しく輝いていたい。

(7)体はボロボロでも気はシャッキとして生きて逝きたい。

そのために「身・心」だけに偏るのではなく、「頭」=精神年齢=思想年齢=往還思想を鍛え、「身・心・頭」の老化のバランス(統合・平衡)をめざそうと考える。

 

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