あとがき ~課題; 老人思想の行動目標にむけて

 

「老人思想」をいっしょに考える隠居老人を募る

鳥は、空をとぶ。魚は、水の中をおよぐ。人は、世の中を生きる。

この世でつかぬ間の時をすごす自分は、「天=自然」の中で生かされるごくごくちっぽけな生物でしない。悠久無辺の自然の一瞬を生きる有限微細な存在にすぎない。こういう観想が、古希をすぎてますますリアルになってきた。日本人の血にひそむ無常観かもしれない。

この世で芥子粒ほどでしかない「私」。私の知識や考えや主張などは、大洋の一滴にもならず屁にもならない。幼児;無我→成人;自我→老人;大我への想念。

 

少/学業期、壮/職業期においては、自分と外界を分け、合理的な因果関係をもとめ、自我を主張し、勝ち負けをあらそい、煩雑でやっかいな「世の中」を生きるしかなかった。その人生街道には順流、逆流あり、それぞれの喜怒哀楽があった。

そして今や、自分の潜在性→可能性→実現性の限界も知った。{在る→為す→成る}の繰り返し人生を経て、たいした「人物に成る」こともなく、すでに古希もすぎた。

老/終業期となって、煩雑でやっかいな「世の中」から逃げよう、隠れよう、距離をおこう、この世の人生の「後始末」をしよう、という気分がつよくなった。

 

老妻とすごす以外の他人と話す機会も減り、メールも毎日はよまず、携帯電話機はガラケーのまま、ホームページの閲覧もほとんどせず、新聞とテレビにほどほど付き合い、食材は週にいちど生協などの宅配に注文し、電子レンジでチン、老後の生活に支障はない。

山水画をながめて隠遁の桃源郷にあこがれ、図書館でななめ読み、散歩がえりに銭湯にひたり、ちょっと居酒屋により、現実ばなれした妄想のなかにあそぶ、そういう楽しみ、そういう無為怠けこそが、老人の特権であろう。

「金持ち」じゃなくとも、時間たっぷりの「時持ち長者」である。喜怒哀楽の起伏を枯らしながら、無為にぼんやりとすごし、夕方も5時過ぎたら盃をかたむけることが至福ともなりえる。

明日の約束も仕事もないのだから、キョウイク(今日行く)教育なし、キョウヨウ(今日の用事)教養なし。

 

仕事を卒業した老/終業期は、あくせくと生きることはない。

壮/職業期に未練があり、まだやり残したことがあるといって、壮年期の価値観のままで現役をがんばる老人をほめそやす風潮には背をむけたい。

「この世の後始末、あの世への旅支度」、「発つ鳥跡を濁さず」の老後のすごし方にこそ、積極的で前向きな楽しみを求めればよい。NPOなどが主催する「次世代を応援する世代間交流」に、自分ができる範囲で「奨学資金を提供」する社会参加だけでよい。

ただし、「奨学資金の提供」は、単なる寄付ではなく、「共生思想」の実践=世代間交流=地域コミュニティの新たな「共同体」社会システムの創造活動としてこだわりたい。

グローバル時代のナショナルなできごとには一定の距離感をもち、ローカルな狭い範囲の世代間交流活動において、べったりでなく、無愛想でなく、ほどほどの人間関係のあり方、「カオソフード」な共生原理→則天去私、敬天愛人をめざす。

 

家に閉じこもって世間に出なければ、ボケがはじまるという。

だが老後はボケながら天命を全うするのも上等じゃないか、天の配剤じゃないか、とわたしは思う。「人は皆、程度の異なる痴呆である」のだから。

ボケを無理におさえこもうとするから、ボケがいやがり、徘徊やら暴言などの周辺症状がおきるのだ、と自分勝手に考える。

いつまでも「この世」にどうしてもかかわりたい元気老人は、社会のあらそいごとの調停役をかってでればよい。国境をこえて、異国の老人どうしがはなしあって、競争原理の仕事中心の壮年世代にむかって、「戦争などみっともないからやめなさい」といってほしい。

往還思想を人生論とする老人世代の一定勢力が、無意味な延命治療をこばみ、無理やり介護されることを断り、老化と痴呆の自然現象を従容としてうけとめることはできないか。

そういう老人思想が普及すれば、消費税を10%に増税することもなかろう。国家財政1千兆円の借金もすこしは減っていくだろう。社会保障制度設計のありかたもおおきく変わるであろう。

これが、未来社会を次世代に託す隠居老人の「希望的諦観」にほかならない。

以上 2015320日       トップへ