2.2 往還思想とは

1)年相応のじじい、ばばあ

2)往還思想を考える枠組 ~システム論哲学

3)往還思想のテーマ

 

1)年相応のじじい、ばばあ

 201224日の朝日新聞のインタビュー記事を引用する。インタビューの相手は、演出家の蜷川幸雄(1935年生)である。

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「記者:

  国内外で相変わらず精力的に活動していますね。

蜷川: 

休むと途端に年相応のじじいになる、と分かった。マグロのように回遊魚になって仕事をし続けた方がいいみたいです。」

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インタビューのテーマは、本章とは関係ないのだが、「年相応のじじいになる」という文言だけをみれば、「年相応のじじい」を否定的にとらえていると思える。

往還思想は逆に「年相応のじじい」の生き方を積極的に評価する。「年相応のじじい」でいいじゃないか。

大多数の老人は、「年相応のじじい・ばばあ」として生きて逝くのが自然だと思うからである。80歳を超えても、まだかくしゃくとして元気に仕事ができる老人は、少数の者に限られる。それは、寿命をもって生まれた生き物として例外的で不自然だと考える。

わたしの関心は、退職した普通の人間が、年金と蓄えでくらせる「年相応のじじい・ばばあ」として老後を生きる人生観、死生観である。

その個人的な思想を「往還思想」とよぶ。「往還」とは、生命が循環するイメージである。

 

2)往還思想を考える枠組 ~システム論哲学 

往還思想の問題意識は、「自分とは何者か?、人間とは何者か?、人間社会とは?、国家とは?」の問題をどのように考え、どのように「自己了解」するかである。

「xxとは何か?」を考える関心xxを、対象という。xxは、なんでもよい。xxという対象について「xxは、何である」と理解する方法論を認識哲学という。

わたしの壮年/職業期の仕事は、コンピュータの情報処理システムの分野であった。その仕事では、xx対象を「情報システム」として理解した。

だから、わたしがXXという物事を理解するために身についた思考法は、情報システム論である。そこで我が認識の方法論をおおげさにもシステム論哲学という。

システム論で森羅万象のxxを何でも解釈できるわけではない。システム論で理解できないxxは、たんに眺めてだまって直感するだけである。そのようなxxは、カオスである。

人間も社会も、一定の秩序を保持しながらゆれ動く。カオスではないが、予定調和のハードな決定論でもない。カオスとハードを両極とする中間は、曖昧模糊とした中庸である。それをソフトとよぶ。

これから述べる往還思想は、人間と社会を、カオス*ソフト*ハードが重層するシステム、つまり「カオソフード・システム」として理解する。

 

◆XXシステムは、世界全体の一部である。世界は、関心の志向性において無数のXXシステムとして認識できる。

◆世界全体=XXシステム + xx境界 + 環境 ; XXは特定の対象領域である。

◆往還思想は、XX=私=自分=人間とする。
往還思想を基盤として、XX=社会、国家を考えるのが「共生思想」である。

往還思想と共生思想は、人間関係に着目するので、システムと環境との境界を「縁」とよぶ。「縁」とは、システムと外部との境界における相互作用領域である。

この思考法は、対象を「内・縁・外」の三次元で理解する。

(1)自分=人間=「私」*縁*環境

(2)   「私」; 自然==>命*{内縁*(身体)*外縁}*環境==>自然

(3)身体=生命力(構造*作動) 

A.構造 ;関係性{(身)*(心)*(頭)} ・・・・身心頭の内部状態
身=物質、肉体
心=感情、直感、非言語

頭=記憶、判断、理性、言語

B.作動 ;生命の自律性(オートポイエーシス + アポトーシス)

ⅰ:状態遷移={(潜在性→可能性→実現性)}の内的循環運動。

○混沌→曖昧→厳密 

ⅱ:生成消滅={(在る→為す→成る)}の外的循環運動
○構造*相互作用(=刺激+反応)*外部条件

ⅲ:人生 =誕生→少年期→壮年期→老年期→消滅 
○学業期→職業期→終業期 ◆人生三毛作

   C.状態 ;構造、作動、縁の関係性の程度(強弱、粗密、硬軟など)
ⅰ:カオス ・・・・混沌、ばらばら、むちゃくちゃ、自由勝手、恣意性

    ⅱ:ソフト ・・・・・曖昧、ほどほど、まあまあ、共働、配慮、寛容

    ⅲ:ハード ・・・・厳密、きっちり、がっちり、統制、強制、罰則 

(3)縁=人間関係、制度関係、物質関係、自然関係

人間関係=血縁+地縁+隨縁(会員、社員、隊員、国民、外人など)

    ⅰ:「私」*血縁*「私」親族 ・・・・親子、兄弟姉妹、祖父母および夫婦

   ⅱ:「私」*地縁*「共」住民 ・・・・生活の場所、自治会、隣人サークル

ⅲ:「私」*隨縁*「共」仲間 ・・・・集団への帰属意識、価値観の共有体

   ⅳ:「私」*隨縁*「公」国民 ・・・・日本人意識、ナショナリズム

   ⅴ:「私」*隨縁*「天」他人 ・・・・倫理、人道、ヒューマニズム

(4)縁のメディア = 人間関係が成立する契機および相互作用の媒体
ⅰ:カオス ・・・・自我意識 自由意志 自助・・・欲望、競争

    ⅱ:ソフト ・・・・・倫理道徳 共生配慮 共助・・・気持ち、お互い様

   ⅲ:ハード ・・・・規則罰則 統制秩序 公助・・・契約、法貨、法律、憲法

(5)環境 = 他者と記号情報および人工物と自然

    往還思想と共生思想は、他者と自然に着目する。記号情報と人工物との「縁」については考察の対象としない。

 

3)往還思想のテーマ 

ここで祖述したシステム論的枠組みを背景として、往還思想の各論テーマを考える。

2.3 往還思想の生命論

2.4 往還思想の人間論 

2.5 往還思想の人生論

2.6 往還思想の死生観

2.7 往還思想の自然観   

・・・・・・・・・社会常識・・・・・・・・・・・ ==> ・・・・・・往還思想・・・・・・・・・・・

◆命は自分のものである  ==>命は「天」からのあずかりもの

◆肉体と精神の身心二元論 ==>「身心頭」の三元論

いつまでも若くありたい人生二毛作 ==>「少壮老」人生三毛作

◆統一的自我 ==>三つの自己(身体自己、生活自己、了解自己)の分裂と統合 

老人思想なし ==>敬老思想

この世だけ  ==>この世とあの世

 

人間は、生物の一種である。生物の「命」は、「生きる力」と「枯れる力」をもつ。命は生死の表裏一体である。わたしは、一定の「命」エネルギーの潜在量をもってこの世に誕生した。燃料を満タンにして人生街道を走りだした。事故もおこさず、走り終えて、燃料が切れた時が生命の自然消滅である。

生命力は、燃料への点火欲望(オートポイエーシス)である。枯死力は、生命力を抑制する人体のメカニズム(アポトーシス)である。

わたしは、植物と動物の命と肉を、噛みくだき、飲み込み、消化し、栄養を摂取し、残余を排泄して生きる。生命力は、他種生命の殺傷摂取能力と栄養吸収消化能力と不要物の排泄能力である。その能力は自然に劣化しながら枯死力に転化する。

わたしが長命であることは、他種生命の大量殺傷にほかならない。

 

「私」が生きて向きあう外側の広がりを「共―公―天」とする。

「少壮老」の人生ステージの少年/学業期を「共」空間に対応させる。壮年/職業期を「公」空間に対応させる。老年/終業期」を「共」と「天」空間に対応させる。

「天」は、カオスな「私」をソフトな「共」につなぐ絆の共通地盤であり、かつ天蓋である。

「生/誕生→{成長→安定→老化}→消滅/死」の人生論において、生命は「あの世」からの「往」=>「生/誕生{この世}消滅/死」=>「あの世」への「還」という図式で循環する。

誕生を、「あの世」=>{この世}への「往」として神道の祭りに対応させる。

消滅を、{この世}=>「あの世」への「還」として仏教の祭りに対応させる。

「あの世」を、日本人が縄文人から伝統的にうけついできた「八百万の神々」の「お天道様」が位置する世界とみなす。

この観想は、縄文人からアイヌに引き継ぐおおくの日本人の無意識にひそむ土俗的な宗教観である。

「あの世」と{この世}を一体化して「天」とよぶ。「天」とは、時間と空間が無限にひろがる「天網恢恢疎にして漏らさず」の宇宙観、自然観、観想である。

わたしは、自分に与えられた生命を自分の所有とは考えない。生命は「天」=自然からの「あずかりもの」だと考える。

自分が在って生命が有るのではない。生命が在って自分が有る。この生命観が、「ちっぽけ人間観」、「弱い人間」どうしのお互い様、則天去私、敬天愛人、そして人類平和の希求につながる。

往還思想は、西欧に発した啓蒙思想の「強い人間観」、自由と平等、個人尊重の権利主張に違和感をおぼえる。

 このような感じで、これから「往還思想」の不条理な海を漂流しながら、「自分とは? 人間とは? 社会を生きるとは?」を自分なりに整理しよう。

 

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