2.6 往還思想の死生観

1)往還とは

2)なぜ死生観なのか?

3)自分の生は地球上に生命が誕生した時期を起点にする

4)往生して還る先は生命の始原

5)自然と自律と自滅

6)自分の死とは

7)自然への諦観

8)共同体における死生観

9)福祉国家における「公」的な死生観

10)お迎えをまつ死生観

11)死への意志と死に場所

 

1)往還とは

わたしにとって、死とは、自然への溶け込み、自然との一体化である。自我を放棄し、「個人」の自立・独立に固執しない大我=虚人=去私の意識。「修己去私」の修養として安心立命、則天去私、敬天愛人の境地にいたる。それが老後の努力目標である。

このような自分の死生観は、どこからでてきたのか。

◆還暦と往生

還暦とはよくもいったものである。往ったら還る。往還してこそ人生の勘定があう。往きっ放しだったら一方的すぎる。

還暦というこの言葉の語源はよく知らぬが、60は干支のひとめぐり、12年掛ける5周期で60年ということか。5周ほど往ったら、そこでユーターンして逆周して還ろう、ということだろう。

我が人生いつまでも往き続けることはないのだ。そろそろ引き返そうという気分が、退職して自宅で時間をすごす年代になって強くなった。

ここで「往生する」という言葉が頭にうかぶ。同時に「往生際がわるい」、「往生できない」、「立ち往生」などという言葉もある。「往生」には、「往きつづけてきた生き方が終る」という語感がある。

その終わりについて、少なくともつぎの3つが考えられる。
  消滅 ・・・・科学的
 「往き止まり」を消滅=死とみなす、往生は終わりの究極の不動点、その先には何もない、自分の心身の完全な消滅。往生した先は、思考の対象外の領域だと考える物理学的な立場

  転生 ・・・・宗教的

「往き止まり」を死とみなすが、それは自分の肉体の死であって魂までも消滅するわけではない。復活、再生、輪廻転生など来世を思考対象にする宗教的な立場

  往還 ・・・・思想的

「往き止まり」は単に「往き」の終わりであって、「往き」があれば「還る」がある、「往く」のが終われば「還る」しかない。往生とは往き止って戻る、引き返す、帰還に向かう感じ。

わたしは、①科学的な消滅感も②宗教的な転生感も全面的に拒否するとか、無条件に加担するとかは考えない。どちらも思考のテーマになりえる。

人間は動物の仲間ではあるが、脳=身と心・頭の関係性が極端に発達したホモサピエンスである。その思考能力の射程は、物理学的対象をはるかに超越する。心と頭が意識する想念は、どこまでも飛翔して広がる。想念と心象は、妄想、夢想、構想、理想など、どこまでも考えぬきながら深まる。

今わたしは、還暦という社会的な事象に遭遇した自分の想念をテーマにしている。ここでの考察の立場は、うえの③思想的な往還である。

「還る」ことを嫌がるありさまを「往生際がわるい」と理解する。「立ち往生」することなく「還る生き方を始めよう」と考える。

この立場は、老化を自然に受け入れる諦観・あきらめをよしとする。還暦を往生につなげたい。

 

2)なぜ死生観なのか? 

生まれて、そして死ぬのだから、「生死観」といいそうなものなのに、なぜ順序を逆にして「死生観」というのだろう。

そう思っていたら、「朝に死に 夕べに生きるならい ただ水の泡にこそ似たり」(方丈記)という言葉に出会った。ここから来ているのだろうか。古事記の神話では、死体のあちこちから米や栗や芋などの食物の種が生まれる。

死ねば、あの世。生れたら、この世。

生命の根があの世。その根が生かす幹や枝の葉がこの世。わたしはその枝の一葉。春に芽がでて新緑になり、夏の陽をあび成長し、秋に枯葉になり、冬に落葉して、土に還る。

わたしの体内の無数の細胞は、それぞれの寿命で生きて死ぬ。細胞たちの生死のおかげで、わたしの肉体は生きる。わたしが死ぬことによって、あらたな人が生きて、社会は存続する。

  ところで、なぜ「朝に死に 夕べに生きる」なのだろうか。

ここで「ミネルバの梟は黄昏に飛び立つ」という言葉を思いだす。その意味をインターネットで調べた。何人かがつぎのようなことを説明してくれている。

「ミネルバの梟」は、哲学・学問をさす。哲学・学問とは、万物の正しい認識の方法である。黄昏とは、1日が終わった夕暮れである。飛び立つとは、動き出す、始まるということ。

つまりドイツの哲学者が、「ミネルバの梟は黄昏に飛び立つ」と比喩的に表現した意味は、朝から夕まで万物が動く現実が先にあり、哲学・学問という認識は、その現実の成熟のあとに遅れてやってくる。「現実が完成されてのちに、はじめて観念の王国、知の王国、哲学の王国が建設されるということ」を意味するそうなのだ。
 また、1日を歴史に引き伸ばせば、「ギリシャ哲学の絶頂が、ギリシャ文明の終わりに花開いた歴史」を意味する比喩にもなる。

また、「夕方になると人は様々な失敗を重ねることで、少し賢くなっている。」という解釈学的な飛躍もでてくる。

そこで「朝に死に/夕べに生きる」とは、1日の終わりになってはじめて「生きる」意味が納得できる、だから「ゆっくりと夜を過ごす」ことこそが「生きる」ということなのだ、と鴨長明はいいたいのだろう。

70年も生きてきて、仕事もいっぱいやってきて、航海をおえて港にかえって帆をおろし、あちこちガタがきているが、のんびりゆっくりと骨休みの境遇を楽しむ、そこに安心立命があるのだろう。

 

3)自分の生は地球上に生命が誕生した時期を起点にする

さて、自分は今ここにいる。ここから昔に向かってその道程を逆にたどってみる。

壮年期は仕事中心時代。少年期は学生、子ども時代。そこまでの記憶はある。しかしその先は曖昧模糊亡羊としている。記憶にない。

さらにこの世に誕生する前に遡るとすれば、「個体発生は系統発生をたどる」という語句が浮かぶ。母親の胎内の羊水の海で、ひとつの生命体が1010日の時間をすごす。そこで原始生命の誕生から哺乳類、人類への進化系統をくりかえす。自分の生の道のりは、地球上に生命が誕生したその時期を起点にするのか!

この進化論もどきの学説は、すでにすたれた遺物らしい。しかし、わたしの妄想としては楽しい。

 

4)往生して還る先は生命の始原

この想念ゆえに往還思想は、死を帰還とみなす。ではどこに向かって還るのか。

その答えは、生命誕生の始原である。わずか60年の還暦をいきなり宇宙の生命にまでひろげる。往生して還る先は、生命の始原じゃないかと思うのである。

この想念には死のイメージがでてこない。還暦で折り返し、その先に誕生と対になる消滅の通過点があるだけである。

消滅=全体的な死ではない。「わたしが死ぬ」という出来事も、たんに通過点にすぎない。還るところのさらに先がある。その先が生命の始原。そんなイメージが浮かぶのだ。

赤ん坊のときは、自分の名前も自我の意識も誕生の事実も自分は知らず、個体としての自分は無我であり、自分以前のナニモノかなのだ。

それと対になって、死を超えた先でも、自分の名前も自我の意識も死の事実も自分は知らず、個体としての自分は自分以後のナニモノかになってしまうのだと思う。

  この思いは、永遠の命とか霊魂の不滅といわれるような意味や語感ではない。輪廻転生からの解脱とか永劫回帰とかの思弁的な硬い言葉の語感ともちがう。

日本語の還暦という語感から導かれる往還イメージつまり、「往って還る」という感じに徒然なるままに付き合ってきたら、「どこに向かって還るか」という自問に対して、死を越えたその先のイメージが浮かんだのである。

それが、往還思想のいう「あの世」にほかならない。

 

5)自然と自律と自滅

 自然とは、自ずから然り、そのまんま。自律とは、自己組織化、自己生成、自己制作、オートポイエーシスなどの「自ずから生きる作動」のこと。

自滅とは、その作動を止める「自ずから死ぬ作動」である。死に向かう体内プログラムである。それは、アポトーシスと呼ばれる。 「生きる力」と「枯れる」力の対称性。

具体的にいえば、心情的には嫌世観もしくは満腹感であり、思想的には「楢山節考」であり、身体的には癌である。癌とは、自己ならざる非自己である。非自己である癌が増殖することによって、オートポイエーシスの自己は死ぬ。

 命には、「自ずから生きる」オートポイエーシスと「自ずから死ぬ」アポトーシスが埋め込まれている。それが、生きて死ぬ天命、天道だと考える。天道=天然=自然=自ずから然り=生と死、自律と自滅のくりかえし。

「我が身は天物なり。死生の権は天に在り。」(佐藤一斎)

 

6)自分の死とは

自分とは、①無意識の「肉体」/身体自己、②社会的一員としての「共人」/生活自己、③意識的自我をもつ「個人」/了解自己の分裂と複合である。

だから、自分の死の順序は、つぎのように細分化できる。

 ②まず・・・・・生活自己が死ぬ 社会的な人間関係の喪失

1.頭の死 言葉能力の喪失、コミュニケーション不能、記憶喪失

2.心の死 他者の拒絶、無表情、無愛想 (内面は豊かに生きているかも?)

3.身の死 (故人、戸籍からの抹消、死亡宣告、死刑<==①生理的死の後) 

 ③つぎに・・・・・了解自己が死ぬ 意識的自我の消滅

1.頭の死 自己意識の否定、則天去私、言語能力の消滅 ==>理想は「大我」

2.心の死 植物状態、感性・感動表現の喪失(内面は生きているかも?)

3.身の死 自殺、生身成仏、ミイラ化、「楢山節考」、延命措置の拒否

①さいごに・・・・・身体自己が死ぬ 命の停止、生物的な死、エントロピーの増大

 1.身の死  医学的判定、脳死と心臓死 消化能力停止、呼吸停止

 2.器官の死 臓器移植が可能な身体の一部の死、腐敗

3.  細胞の死 身体を構成していた生物学的物質の無機質化

 

◆①の死の判定は、自分にはできない。医者の特権領域である。

◆②の死の判定は、自分と家族および周囲との「往還思想」の共有である。

◆③の死の判定は、あの世への旅たちに備える自己努力である。

◆誕生と成長の順序
身/動作が成長-→心/表情が豊か-→頭/言葉の習得

◆衰退と消滅の順序

頭/言葉を忘れる-→心/表情を失う-→身/動作 ができない

 

7)自然への諦観  

「あの世」を想念する往還思想の思想性をひとことでいえば、自然への諦観である。人生に対する素直なあきらめである。天命にしたがう「潔死」への覚悟である。

認知年齢の若さを善とする社会風潮は、不自然な気がする。往生際が悪い、潔くない。「いつまでも若い心を持ち続ける」ことは、人間にとって自然なことと思わない。「もう年とったなあ、老けたなあ」という気持ちを死ぬまで一度ももったことのない人生を、ハッピーとは思わない。

「成熟したくない、老成したくない、いつまでも成長したい、老化をとめたい」という心情は、未熟だと思う。未老人は、誇らしいことなのであろうか。

人生には、峠がある。いつまでも可能性を求め続けることは、可能ではない。自分の身・心・頭のはたらきに、年とったらここまで、という限度を定める。年相応のところで、世のため人のために限界を覚悟する。

私利私欲を是とする「個人」主義だけでない社会で生きる「共人」の自覚と矜持。そういう思想性が、往還思想の自然への諦観である。素直なあきらめである。

 

8)共同体における死生観 ~「楢山節考」:深沢七郎の短編小説。1956年(昭和31)    

 高齢の親を山に捨てる物語がある。

  食糧事情の貧しかったその昔、日本のどこかの集落では、60歳に達した老人は、人減らしのために山に捨てられるという風習があった。主人公はおりんという老婆。

彼女は、その風習を老後の自然な結末としてうけとめている。じょうぶな前歯を長生きへの執着だとして自ら恥じ、石臼に打ちすえて折ってしまう。死に向かうすさまじい迫力である。

息子の辰平は、風習とはいえ、親子の自然な情になやむ。村の掟にはさからえず、いやいやながら老母を背負って楢山へ向かう。

姥捨山伝説である。姥捨ての実際については、はっきりとした公的記録はないそうだ。 わたしは、この短編をときどき読み返し、そこに日本人の心の底に沈んでいる「倫理性」を感じる。西欧から輸入された個人の自由を基礎におく「倫理」とは異質な感情なのだ。

ユーラシア地方の遊牧民にも、高齢者と障害者を残して移動していく習俗がある、という雑誌記事を読んだことがある。

この姥捨て伝説は、「人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ」という近代思想とはほど遠い。

それは、貧しい時代の単なる前近代性、個人を圧迫する野蛮な集団主義、啓蒙されない無知もうまいな後進性にすぎないのだろうか。

貧しさゆえの非倫理的な「人権侵害」なのだろうか。

わたしは、そうは思わない。逆に共同体に生きる人間の本然たる倫理性を感じるのである。その感じを、生命倫理と世代間倫理にかさねる。

ここに、生を助ける延命個人倫理ではなく、死を看取る共生倫理をみる。依存しあって生きざるをえない弱い人間たちの精神性の強さをみる。暴論、極論だろうか。

 

9)福祉国家における「公」的な死生観  

 2013122日、朝日新聞の記事: 終末医療 「さっさと死ねるように」

元首相、現副総理・財務大臣が、社会保障国民会議で、終末医療にふれる中で、「さっさと死ねるようにしてもらうとか、いろんなことを考えないといけない」と発言した。

終末期の患者を「チューブ人間」などと表現。さらに「いい加減死にてえなあと思っても、“とにかく生きられますから”なんて生かされたんじゃあ、かなわない。しかも、その金が政府のお金でやってもらっているなんて思うと、ますます寝覚めが悪い」などと述べた。

だが、会議終了後に「個人的なことを申し上げた。終末医療のあるべき姿について意見を申し上げたものではない」と釈明。議事録から発言を削除する意向を示した。

 その数日後、さっそく読者の「声」の欄に、つぎの趣旨の投書があった。64歳、無職の男性。

「終末医療、本音での議論を。

生きていること、生かされていること、それだけが、人間の尊厳を保っていることにはならない。人それぞれ生と死について哲学があり、明確な意思を示せるうちに考えを残しておくことが重要。終末医療では、個人の意思を尊重することが尊厳を保つことになると思う。こんどの発言は、この問題を掘り下げるための契機にすればよい。いつまでも核心の周りをうろうろするような議論はやめるべきだ。」

  これらの発言は、「人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ」という価値観、主義主張を無条件に認める立場ではない。

その数日後には、つぎのように反論する投書が続いた。67歳、アルバイト、男性。

「終末医療めぐる心ない発言。

・・・・略・・・さきの発言は、口が滑った、ではすまされない問題だと思う。国は、生きようと日々精いっぱい頑張っている人の意思を尊重することはもとより、それを支える家族たちの涙ぐましい努力を無にすることのないようにしてほしい。そのためには、医療や介護の面での支援をより強化することこそが期待されていると思う。」

この投書者は、「人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ」の賛成論者だろう。こういう発言は、一部の進歩的な弁護士や学者、人権派や「護憲」だけをさけぶ社民主義者たちにおおいような気がする。現実的な国家論が不在の理念的な正義感の原理主義である。

  

10)お迎えをまつ死生観 

つぎは、物質的な貧しさを克服した飽食の時代の今の日本社会の実話。

 周りの人からも社会的に尊敬されて生きてきた女性が、95歳で脳梗塞を起こし入院した。点滴の管につながれ手足をベッドに縛られた。それを嫌がり、不眠とうわごとが続いた。 鼻に入っていた栄養チューブを自分で抜いた。尿を出す管も引き抜き治療を拒否する。71歳の娘が、おかゆやヨーグルトなどをスプーンで少しずつたべさせようとしても母は口をあけない。水も飲まない。

「みなさん、私はお先に行きます。あとはよろしく。幸せな人生でした>と言い始めた。知人が呼びかけても口を一文字に結び、眉間にしわを寄せたまま、一言も発さない。

医師は、おなかに穴を開けて栄養チューブを入れる「胃ろう」を勧めた。娘は断った。そして、病院を出てケア付きホームホスピスのNPO法人の施設に移る。

病院とは違う環境で介護される。そこで以下の会話。

ケアマネージャ:

 「お迎えがくるまで待って下さい。自分から死ぬと、残されたほうがつらいです」

老女: 

「待っていないといけないのですね」

ケアマネージャ: 

「そう。もうしばらくかかりますよ」

老女; 

「わははっ」と笑った。

 「お迎え」とは、百歳に近い高齢の老人の「死」に関係する言葉である。子供や働き盛りの成人たちの門前には、「追い返す」までもなく、まだ「お迎え」は来ない。

「お迎え」思想は、「自分の命」を「自分の意志で殺す」行為に対する否定である。「自分の命」は、自分の意志で始末できるのではなく、「お迎えに来る」何者かに委ねるべきだという主張である。

 

11)死への意志と死に場所

うえにみた死生観の死への意志は、A.集落の掟への順応、B.治療と食事を拒否する強い意志、C.お迎えを待つ諦観である。それぞれの死に場所は、①貧しい集落共同体、②終末医療病院、③ケア付きホームホスピスである。

  A.共同体の掟

現代の日本社会には存在しない。過去のはなしである。

個人の自由を至上価値とする近代思想は、共同体の規範を文化的な後進性として否定した。個人情報保護が過度に強化され、独居老人の孤独死がニュースになる。

 

  B.病院の医療技術

分子生物学と電子情報技術の驚異的な進歩は、人間の物質性の秘密を解明しつづけている。人間の肉体的な延命措置と人間の精神的な生活価値とのギャップがひろがる。

尊厳死や安楽死や生殖医療や臓器移植や人造人間などが、ポストモダンの生命倫理や職業倫理や技術倫理としてテーマ化される。

ここでは、生と死という根源的なテーマを基礎として、人間の尊厳性、自由意志、主体性、個人の社会性など古くからの哲学的概念を、根本的に問い直すことが要請されている。
 自らの死を早めるために、「治療と食事を拒否する強い意志」は、個人の自由なのか。自分の命を、自分の意志で制御できると考えるか、制御できないと考えるか。

生命の自律性を意識的に制御しようとする理性的な自我と技術は、倫理的なのか。

 

  C.ケアとお迎え

共同体的集落と社会保障制度にもとづく病院や施設との中間に、家族的な終末介護環境がある。「お迎え」とは、土着的な死生観である。人間を物質性として処置する病院医療ではなく、「気持ち」に配慮する介護の思想性である。

「八十はサワラビ(童)、九十になって迎えがきたら、百まで待てと追い返せ」という格言が刻まれた石碑が、沖縄の浜辺にあるそうだ。

 「迎えが来る」、「追い返せ」、「待て」という日本語の擬人的表現には、「死神」を連想させる。死神とは、自分の命を止めることに関わる何者かである。

その何者はどこにいるのか。つぎの三つが考えられる。

    自分の体内のどこかに潜んでおり、あるときに現れる。アポトーシス、癌。

    「この世」のどこかに潜んでおり、あるときに現れて外から自分に入り込む。祟り。

    「あの世」からの使者として来て、自分を「この世」から「あの世」に連れて行く。彼岸。

 

①は、科学的な考えに近い。

②は、土着的な民間信仰やオカルト的な考え・迷信であろう。

③は、宗教的な観念に近い。肉体と理性をこえた魂の超越性を信仰する。

  このエピソードは、「人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ」という理念的な近代思想をはるかに超越した精神性を物語る。

それは、人間をこえる「天」に通じる。

「お迎えを待つ」心構えは、「自分の命は、だれのものか、命の所有者は自分なのか?」という問いへのひとつの根源的な視点である。わたしは、「自分の命は自分の所有物ではない」と考える。

「自己所有」という概念は、西欧近代思想のひとつの核心である。命の「所有」の問いは、近代思想をベースとする福祉国家における社会保障の根源にせまる。この問いは、超高齢化社会を生きる老人倫理を問うべき価値観の根源である。

「命の所有者」の問いは、「人間の尊厳、自由、人権尊重」をとなえるだけで、「核心の周りをうろうろするような議論をやめ」て、国家経営の価値観の根源、国民の福利、生活倫理の核心にせまるテーマである。

わたしにとっての「核心」とは、個人主義的な「私」が、「公」国家に無条件に全面的に頼ることなく、「共」自分たちコミュニティに受け入れられながら、安心立命にむかう倫理性である。

往還思想は、この倫理的な希望を、人道、公道をこえる天道を逝く則天去私、敬天愛人につなげる。

 

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