6. 熟老人の目標~則天去私→敬天愛人→老人世代の希望

~「発つ鳥跡を濁さず」人生の後始末をすごす生き方と逝き方とは?

6.1 尊厳死や安楽死をかたる人間中心主義の権利思想と倫理性   201551

6.2 動物に学ぶ倫理道徳

6.3 「天」を媒介にする人間関係~則天去私、敬天愛人

6.4 元気老人と要支援老人の社会参加~世代間交流の意義

6.5 熟老人の修練目標を要約する

 

「人は、命あるかぎり生きること自体に尊厳をもつ」という現代思想を根本的に問い直す。人権尊重という人命思想の根底までもどって老人思想を考える。

老人思想は、元気であっても、病気であっても、天命にまかせて逝くことを寿とする。「長寿」に代わる「天寿」をめざす。天寿とは自然死である。

具体的な自然死の姿は、植物や動物の世界ではありふれた現象である。人間が、かぎりある生命力を使い尽くしたあと死にいたることは、植物や動物と変わらない。人間は、動植物の生き方から、自然な倫理性を学べるものがあるのではないか。

老人思想は、古希すぎた老人世代が、自然な死にいたるまでの年月を「希望」をもって過ごす幸福を考える。少壮老の人生三毛作の最終章である老/終業期において、「この世の後始末、あの世」への旅支度」を修練する。

その修練を、老/終業期の老人世代と少/学業期の子ども世代との世代間交流においておこなう。

元気なうちに「延命措置を拒否する」思想を明確にしたい。その思想を、介護と延命医療に関与する人たちと共有したい。それが「敬老思想」にほかならない。

 

6.1 尊厳死や安楽死をかたる人間中心主義の権利思想と倫理性

 1)日本尊厳死協会の「尊厳死」の思想性について

2)「安楽死・尊厳死の法制化に反対する会」が主張する「生存権」について

 

1)日本尊厳死協会の「尊厳死」の思想性について                

日本尊厳死協会は、尊厳死をつぎのように定義する。

「自らの傷病が不治かつ末期に至った時、健全な判断の下での自己決定により、いたずらに死期を引き延ばす延命措置を断り、自然死を受け入れる死に方」。

日本尊厳死協会は、安らかな、人間らしい最後を迎える権利を求め、終末期医療での「自己決定権の確立」をめざし、「安楽死の法制化」を活動の目的とする。

自分の病気が今の医学では治る見込みがなく、死が迫ってきたとき(不治かつ末期)には、自から「死のあり方を選ぶ権利を持とう」、そしてその権利を社会に認めてもらおう、というのである。尊厳死運動は、人権確立の運動であると主張する。

私は、「尊厳死」の「権利」という語感になじめない、違和感があり、気分的にしっくりしない。

自分の死にたいして、尊厳=「尊くて厳か」、などという言葉をあてるのは、とてもおこがましいというかゴーマンな感じがする。

近代文明人が身につけた自意識の過剰ではないか、人間として尊大ではないのかと思う。自分の死が、そんなに「尊くて厳か」なのか。

私は、そうは思わない。限りある命を生きる人間として、「尊厳死」などとは不自然な自己主張のような気がする。人は、自分の「死」の瞬間を自覚的に経験できない。自分の死など観察できない。自分の生の瞬間を、自分で自覚できなかったのと同じである。

生も死も自分の意志をこえた自律性である。心臓の鼓動による血流や呼吸や消化などは、自分が制御できない生命の自律的なはたらきである。植物、動物、人間の生命の動きは、天道であり天命でもあると思う。自然である。

私の生命とは、私というひとつの個体を構成する細胞、組織、器官などそれぞれのレベルの生命たちの総体である。細菌もふくめて私の体内には、無数の「生き物たち」がうごめいている。そして、「私が生きる」ということは、他の多くの植物や動物の命をいただき体内で消化することである。

「我食う、ゆえに我あり」。食うのを止めれば死ねる。

では、「私が死ぬ」とは、どういうことか。

脳死でも心臓は動いている。心臓が止まっても、死体内で生きている細胞はいくらでもある。爪や髪の毛は、棺桶のなかでも伸び続けるそうだ。個体死の判定は、医者任せ、他人任せである。

人は、自分の「生き方」を自覚的に反省はできる。生き方からみれば、死は生の終わりでしかない。生き方の結末が死である。死に方とは、生き方の最期のありさまである。死に方とは、つまり最期の生き方,逝き方のスタイルにほかならない。

だから私は、「尊厳死」ではなく、「尊厳ある生」を考える。自分の死は、確実に来る。だから、自分の死の時に向かって、私はもっと自然に生きて、そして逝きたい。

私にとって、「尊厳ある生」とは、「生命の自律性が、自然に枯れて、衰えて、停止する」ことに素直に従う生き方である。身心頭が、それぞれバランスよく老衰していく終末である

アンチエイジングやピンピンころり願望ではない。70歳を過ぎて私が癌になるのも難病になるのも天命として受けとめる。秋になれば落葉樹の葉は、枯れて落ちる。その自然と同じである。

「生命維持のためだけの不自然な延命措置を拒否する」宣言は、天命を諦観する老修つまり「終業期の老人が自然な生き方と逝き方を修練すること」への自らの覚悟宣言である。

だから、私は日本尊厳死協会のいうところの「尊厳死の宣言」をしない。

 

◆「自らの傷病が不治かつ末期に至った時」の判断を医者だけに委ねていいのか?

この判断には、医療技術の医学水準、診療報酬の金額と支払い能力、保険制度、刑法(自殺幇助罪)および生命倫理などが関係する。多様な視点が関与する。

この判断は、医療行為をなしえる資格をもった医者の特権事項である。医者は、疾病をもった身体機能だけ、つまり生体の物質性だけから「人の生死」を判断する。

この判断には、患者および家族の気持ちや信条などにもとづいて、「身心頭を生きる」ことの「不治かつ末期」の判断は、考慮されない。人が、人間として「尊厳ある生き方」を為すことは、身体機能だけでなく精神性にも依存するのにもかかわらず。

終業期を生きる老人の立場からすれば、自然な老化にともなう「不治かつ末期」は、病気ではない。老化現象は、医者の診療報酬の治療理由にはならない。しかし、病院で死ねば、かならず病名がつけられる。

無償の慈善事業ではなく医療報酬を対価とする医療行為において、病院経営の利益と医者の収入をふやすために、過剰医療や延命治療を招いている面も否定できないと思う。

このように、日本尊厳死協会が、特権的な医者の立場だけから「尊厳死」を定義していることに違和感がある。

 

◆「自らの傷病が不治かつ末期」において「健全な判断の下での自己決定」は可能か?

「自らの傷病が不治かつ末期」であるかどうか、自分は「健全な判断の下で自己決定」できるだろうか。

人間は、「不治かつ末期」の「身心頭」の状況において、自分の死について「健全な判断で自己決定」ができる能力をもてるのだろうか。

できないことを想定するからこそ、あらかじめ「尊厳死宣言」の登録をするわけであろう。

ここでいう「自己決定」とは、医者の「不治かつ末期」の判断を追認することでしかない。医師が行う医療行為には、「患者本人の承諾」を必要とするが、この例外として、緊急時の医療のほかに、「幼児、精神障害者、意識不明者など患者本人の承諾がとれないとき」がある。

「尊厳死の定義」に含まれる「自らの傷病が不治かつ末期に至った時、健全な判断の下での自己決定」という文言は、奇妙な文章である。
 その主語が「患者」のように思わせながら、実は、「不治かつ末期」の判断も「医療中止」の判断も、特権的な医者の「自己決定」であることを隠蔽しているのである。

「自己決定」に関する人間の能力とその機微について、日本尊厳死協会の解釈に根本的な違和感を私はもつ。その思想の論理性は、あまりに粗雑ではないだろうか。

 

◆「安らかな、人間らしい最後を迎える終末期医療での自己決定権の確立、人権確立」とは?

「人権」とは、人間であるかぎり平等に認められる生来の権利である。いっぽう、「安らかな、人間らしい最後を迎える」とは、最後まで「安らかな、人間らしい生き方」をすごすことである。それは、自己決定権とか人権などとは関係ない。

「平穏に人間らしく生きる」その生き方は、生来の権利というよりも、人それぞれの人格的能力である。その能力は、「身心頭」の修練をへて獲得されるべき人格形成の結果である。

「尊厳ある生き方」のためには、人生観や死生観、宗教心や倫理観などの思索や修業を必要とする。この視点から、「終末期医療での自己決定権の確立、人権確立」などという主張を私は理解できない。

 

◆「安楽死の法制化」について

私は、つぎの意見に全面的に賛成する。

生と死に対する考え方は、もともと制度や規制になじまないものです。安楽死と言おうが、尊厳死と言おうが、死は一つです。死に対する考えは自由であり、法律で規制することはなじみません。まして法律で死を規制することはできません。死の真の尊厳を守る自由を尊重するためにも、法制化に反対します。 2006年9月18日 原田正純 「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の元代表」)

 

2)「安楽死・尊厳死の法制化に反対する会」が主張する「生存権」について

○「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の声明から抜粋引用

日本尊厳死協会(旧安楽死協会)は、末期患者や遷延性意識障害者を、本人の意思に基づいて、人工呼吸器や栄養、水分など生命維持措置を中止して、死なせることを法制化しようとさかんに国会に働きかけています。ただでさえ弱い立場の人々に「周りに迷惑をかけずに自分で進んで早く死んでいくように」というのです。法によって自分で決める形をとらせて、進んで「死の行進」をさせられることは許せません。
 今日、医療の進歩により、終末期の激痛緩和、除去が進み、また遷延性意識障害者の回復例が何例も報告されています。私たちは命ある限り精一杯生きぬくことが人間の本質であるという立場から安楽死・尊厳死法制化を阻止する会を立ち上げます。

家族の負担を考える必要のない社会、緩和ケアを充実する医療の確立を求めていきましょう。

 リビング・ウィルの署名者を広く募り、尊厳死の法制化をめざすとき、個人の「死ぬ権利」は、「死ぬ義務」となり、弱い立場の者に「死の選択を迫る権利」に置きかわっていかないか。
 「あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要があります。
 尊厳死法制化の動きは、人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給をうけて生活している人々をはじめ、障害者や高齢者に目に見えない恐怖をいだかせるものとなります。
  生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制が不備のまま、「尊厳死」を法制化することは、病に苦しむ人や高齢者に「死の選択を迫る」圧力になりかねません。

・・・・・・・

わたしは、「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の思想性に以下のような違和感をもつ。

◆費用を考慮しないで絶対的に「生命尊重」を国家に求めることは現実的か?

「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」は、「命ある限り精一杯生きぬくことが人間の本質であるという立場」から「家族の負担を考える必要のない社会、緩和ケアを充実する医療の確立、生きようとする人間の意思と願いを、気兼ねなく全うできる医療体制や社会体制を求める。」

介護事業や医療行為は、費用負担をともなう有償行為である。それにもかかわらず、費用にまったく無頓着のまま、生命尊重のための処置を国家に求めていいのか。

「命ある限り精一杯生きぬく」ことを実現する仕組みを、「公的」な医療体制や社会体制だけに求めていいのか。

少壮老/人生三毛作のそれぞれの人生ステージにおいて、「人命尊重」の倫理的差異を認める知性も必要ではないか。

地域における互助や共助などの共同体意識の育成への言及が、もっと必要ではないか。

人生観や死生観、宗教心や倫理観などの思索や修業にかんする精神教育のあり方も重要ではないか。

特に仕事を終えて無為にすごす老人に対して、終末医療にむかう心がまえと思想の訓練を重視すべきではないか。==>老人義務教育

「命ある限り精一杯生きぬく」ことの支援と介護は、身体機能の維持支援だけではない。天命に従う心と頭の訓練への教育支援も必須である。

その視点からみて、「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の思想性は、原理主義的に「人権尊重」をとなえ、理想的な福祉国家を是とする国家社会主義イデオロギー偏重ではないかという違和感を私はおぼえる。

もっと現実的な論理構成・思想性が必要だと思う。

 

◆「優生学思想」の議論はタブーなのか?

「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」は、つぎのように述べる。

あのようになってまで生きていたくない」と、生きている人の状態を「あのように」と見る、自らの内にひそむ選別の思想こそ振り返る必要があります。

この声明は、あきらかに「優生学思想」(「生産性のある人間のみが生きるに値する」という価値観)への反対意見である。私は、この意見に基本的に同意する。

だからこそ、人ゲノム解読が急激に進んだ遺伝子技術の現状を踏まえて、「優生学思想」の議論を深めるべきであると思う。

「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の思想性は、表層的な情緒に訴える感情論的なレベルを超えていないような気がする。

 

◆「弱い者」の権利と義務をどう考えるか?

「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」は、「人工呼吸器を使って呼吸し、栄養・水分補給をうけて生活している人々をはじめ、病に苦しむ人や障害者や高齢者」などを「弱い立場の者」とよぶ。筋委縮性側索硬化症(ALS)、癌、吸不全、心不全、腎不全、持続的植物状態、脳血管障害、救急医療対象なども含む。そして、つぎのように主張する。

<個人の「死ぬ権利」は、「死ぬ義務」となり、「死の選択を迫る権利」に置きかわる。尊厳死法制化の動きは、弱い立場の人々に「周りに迷惑をかけずに自分で進んで早く死んでいくように」という目に見えない恐怖をいだかせ、「死の選択を迫る」圧力になりかねず、法によって自分で決める形をとらせて、進んで「死の行進」をさせ、尊厳ある生が保障されていない、死ぬときにだけ法によって尊厳ある死をさせようとする。尊厳死の法制化は、生存権を脅かしかねないものとして警戒すべきだ。尊厳死を望む根底は「生産性のある人間のみが生きるに値する」という価値観。尊厳死という名のもとに、殺人幇助が一般化する可能性があります。>

そうなのだろうか。いかにも進歩的左翼知識人や民主的弁護士などが唱える教条的な社会主義思想のように感じる。

それは近代思想にもとづく強すぎる個人主義尊重、過剰に個人主義的な「権利主義」思想であると、私は違和感をもつ。

これは、日本尊厳死協会がいう「人間らしい最後を迎える権利、終末期医療での自己決定権の確立」という「権利主義」への私の違和感と同根である。

老人の立場からいえば、人の寿命の長短は、個人の権利をこえた天命、天の定めであるとわたしは思う。往還思想は、権利主張よりも諦観・老修訓練のほうをえらぶ。

75歳を過ぎたら、「痛み止め」以外の医療を望まない。身心頭がバランスよく老化して衰弱していく老練な修老努力をしたい。

たとえば、「食わない努力」をすればいい。そして家族には、そのわたしの諦観・老修訓練を鼓舞支援してもらいたいと要望する。

この要望は、「死に向かう弱い者」の人間らしい矜持への姿勢であるのだ。

こういう意味で、「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の思想には、「死に向かう弱い者」が「尊厳をもって生きる」ことを鍛える精神性と実践論が欠如しているのではないか、という根本的な違和感をもつ。

こういう往還思想は、「弱い者を差別する」悪しき優生学思想なのだろうか。

過度な精神論なのだろうか。

戦後70年がすぎた。憲法改正に関する論議がもりあがりつつある。

基本的人権、国民の権利と義務、国家と国民の関係など根本的なテーマについて議論が行われ、「権力を担える主権在民」の民主主義が鍛えられることを歓迎する。

以上  5.8へ  6.2へ