2.4 往還思想の人間論  

1)人間の性質 =植物性*動物性*人間性  

2)人間の構造 =身*心*頭         

3)人間の尊厳 =正心*誠意*修身 

4)人間の自己 =身体自己*生活自己*了解自己

 

1)人間の性質 =植物性*動物性*人間性

人間は、人類という生物の一種である。植物や動物も生物である。人間と動物と植物を区別するげんみつな定義をわたしは知らない。ここでは、つぎの問いを考える。

A1: 絶対的人間観 

人間は、植物や動物とはまったくちがう生き物である。

B1: 相対的人間観

人間は、植物および動物の性質の一部を共有する生き物である。

キリスト教は、神―人間―生物という序列を明確にする。だから西欧人の人間観は、人間と霊魂をもたぬ動物と絶対的に区別する。物質的な自然と生物界に君臨する「人間中心」のA:絶対的人間観である。

往還思想は、動物性と人間性が連続して重なり合うB:相対的人間観である。おおくの日本人の考えも、B:ではないかとおもう。

この対比は、現代社会の「過剰なる人間中心主義」への批判的な問題意識でもある。

往還思想は、自分という生き物を、植物性*動物性*人間性が重層した混沌たるカオスを基本としたソフト*ハードな存在だと理解する。その人間理解は、人間の生死を自然の生態系システムの一部に位置づけるカオソフード・システム(カオス*ソフト*ハード)である。

だから、人間中心主義および「いつまでも若さを保って生き続けたい」という欲望を、不自然で自然の摂理に反する思想とみなす。

 

2)人間の構造 =身*心*頭       

 ここでは、人間の理解についてつぎの選択を考える。

A2: 身心二元論
人間は、身=肉体と心=精神によって存在する。

B2: 身心頭三元論 

  人間は、身=肉体と心=感情と頭=理性によって存在する。

 これまでの西欧哲学は、A:身心二元論である。心=精神=意識=思考=頭として、心と頭を区別しない。そして「われ思うゆえにわれ在り」、「人間は考える葦である」、「はじめに言葉ありき」などという。形而上学、観念論的な西欧哲学は、もっぱら理性を尊重してきた。

それにたいして、往還思想は、B:身心頭三元論によって人間を理解する。

人間の義理人情、言葉にならない直感、感情、喜怒哀楽も重視する。「りくつは分かる、だけど肚の虫がおさまねえー」などという「こころ」は、「あたま」とはちがう人間の存在様式だと考える。

西欧思想の理性中心主義は、「人間は動物とはちがう」という「過剰なる人間尊重」に同調する。また理性中心主義は、合理的な思考=合理性という価値信仰と一体である。

理性中心の現代社会思想は、合理性、分析と統合、目的と手段、効率性という厳密できっちりすっきり、ぶれないハードシステム思考である。ぐずぐず愚鈍、あいまい朦朧、ほどほど加減、ころころ変わるなどのカオスやソフトな思考をきらう。

それにたいして、往還思想の身心頭三元論は、現代社会の「過剰なる頭でっかち」を批判する。

身=肉体=物質 解剖学的医療技術と製薬技術などのハード思考
体質、体力、運動神経、健康/病弱、・・・・・

心=喜怒哀楽=感性 非分析的な直感、非線形アナログ、カオス思考
気質、性質、性格、趣味、好悪、繊細/粗雑、協調/競争、人情/薄情、・・・・・

頭=理性=論理 言葉、記号、言語、概念、図形、情報などソフ思考

  理解、記憶、知識、体系、表現、原因/結果、肯定/否定、分析/統合、・・・・・

 

○問題意識

ここでA:身心二元論とB:身心頭三元論と対比する意義は、具体的にわたしが、医療と介護をうける事態を想定したばあいの対応である。病気と認知症のわたしを支援してくれる他者は、(1)家族、(2)お医者さん、(3)介護ヘルパーさんとなろう。

身=(2)専門家、身体診断と治療の医学者 

心=(1)家族、(2)心理学者、精神医学者、(3)介護ヘルパー、福祉専門家

頭=(1)家族、(2)医者、専門家、(3)介護ヘルパー、福祉専門家

「身」については、(2)身体治療を専門とするお医者さんに任せるしかない。

問題は、「心」と「頭」への対応である。その問題とは、人命尊重、人間の尊厳、「いつまでも若さを保って生き続けたい」欲望について、わたしと(1)家族、(2)お医者さん、(3)介護ヘルパーさんとの了解である。死生観や人生論の共有である。

心と頭を区別しないA:身心二元論では、この「心頭」問題にアプローチできない。現実の問題解決には、「きもち」と「りくつ」の違いに目をむけざるをえない。

問題は、往還思想の「心頭」の「自己了解」を、支援してくれる関係他者が、どのように理解してくれるかである。この問題は、医療と介護の老人福祉制度の設計思想=人間論、老人思想にもかかわる。

端的にいえば、医療と製薬など物質的ハード思考人間である医者および官僚や役人などの法律的ハード思考人間が、人命尊重、人間の尊厳、「いつまでも若さを保って生き続けたい」欲望のテーマについて、どのような思想性、哲学をもっているかを往還思想は問うのである。

 

3)人間の尊厳 ~カオソフード=カオス*ソフト*ハード

ここでは、「人間の尊厳」の根拠について考える。まず、つぎの選択である。

A3: 人間の尊厳は、生命の尊厳と同じ意味である。

B3: 人間の尊厳は、生命の尊厳と同じではない。

往還思想は、生命に尊厳をみとめる。しかし、生命の尊厳が、そのままそっくり人間の尊厳と同じ意味になるとは考えない。人間が生きている存在自体には「尊厳」を感じない。

生命の尊厳は、時代をこえ人智をこえた天命である。

だが人間の尊厳は、西欧近代思想の歴史的な人智である。
 そこで人間の尊厳の根拠をもとめてつぎの選択にすすむ。
この選択は、人間と社会を理解する基本哲学である。

A4: 統一性、秩序、予定調和・・・合理的存在、独立性、ハードおよびソフト

身心頭の欲望衝動は、潜在的には整合的に統一しているが、現実の条件に対応して分裂状態になる。本来の統合性を基本として分裂状態を例外とみなす。

B4: 分裂性、混沌、生々流転・・・不条理な出来事、関係性、カオスおよびソフト

身心頭の欲望衝動は、潜在的には分裂状態に在るが、現実の条件に対応するよう努力しながら身心頭を協調させている。分裂性を基本として統合性を一時的状態とみなす。人間は協調にむけてたえず意識的に努力する。

この選択は、人間および社会の秩序の在り方、完結性、確実性、独立性、合理性に関係する。自分とか自己という存在が、確乎たるハードな統一性なのか、曖昧模糊としたカオスとソフトな分裂性なのかを問う自己意識のテーマである。

一神教をベースとする西欧近代思想は、A4である。

八百万の神々のお天道様を畏敬する往還思想は、B4を選択する。

たとえば近代経済学は、ひとりの人間を独立した判断主体とみなす。つまり、「人はみずからの欲望を実現する手段を合理的に選択する、合理的に判断できる」ことを前提とする。

人間は、一般意思という良識をもって社会契約をおこない、国民国家の安定秩序を維持できると考える。また、民主主義は、選挙権をもった国民が責任をもって判断でき、行動できるとみなす。まことに「立派な」人間像、「強い人間観」である。

西欧近代思想を継承する現代の人間観は、自由で独立した主体的な人間像である。その人間像は、独立した自己、確実な自我、主体性、独自性、個性、自己責任、自己意識を重視する。

日本国憲法は、国民を「個人」として尊重し、基本的人権と生存権を保障する。この現代思想にもとづく「人間の尊厳」の根拠は、個人の尊重と同義とすることにある。

しかし、未成年の子供たちや精神分裂病の患者は、自己責任を免除される。なぜだろうか。

あるいは、20歳の成人式をおえた人間は、だれでも確立した自己意識をもてるのだろうか。

人間は、年をかさねればだれでも自己責任を果たせる主体的個人に成るのだろうか。

難病をもって生まれた幼児の緩和ケアにおける幼児の自己意識の尊重など考えられるだろうか。

認知症患者を手術するときの自己意識の尊重をどうあつかえるのか。

すべての人間に「確固たる主体性」をもとめる現代思想は、「人間を理念的に美化」しすぎる錯覚ではないか。

錯覚でないとすれば、自由な「強者」が世界を支配する手の込んだ策略なのではないか。

 

○人間は皆、程度の異なる分裂症である

往還思想は、本来的に分裂した身心頭の潜在的な欲望衝動を、なんとかなだめすかしながら協調状態にむけて、その人なりに、けなげに努力すること、その生き方にこそ人間尊厳の根拠をもとめる。

未成年の子供たちや精神分裂病者でも難病者でも犯罪者でも、それぞれの生命力がうごかす身心頭の欲望衝動をなんとか協調させようとして生きる。その生き方に人間の崇高性=尊厳の根拠をもとめる。

往還思想は、自分勝手で貪欲な欲望発散だけの生き方に「人間の尊厳」を感じないからである。

終末期医療専門医大井玄先生は、「われわれは皆、程度の異なる「痴呆」である。」という。それに賛同する往還思想は、「人間は皆、程度の異なる分裂症である」とする。

「痴呆」とは、身心頭の分裂状態の程度だと考える。自分とは、確たる「同一の主体」などではない。

だから、あまり「個人の主体性の確立」などと声高に叫びたくない。「自由」と「主体性」を尊重しすぎることは、利己的で我執ならぬ我醜なのではないか、と思うからである。

自分とは、身心頭の分裂と協調のせめぎあい状態である。せめぎあう生命力が失われた状態が、自分と他者との関係の統合失調である。その状態が、自分の痴呆状態なのではないかと思う。

そこに人間の尊厳を感じられるか。・・・・・まだ結論はでない。

「人間は皆、程度の異なる分裂症である」とは、「人間は皆、程度の異なる統合性である」という言明と表裏一体である。だから「自分は、一定の分裂症でありかつ統合性である」といえる。そして「この人もあの人も、一定の分裂症でありかつ統合性である」となる。この状態は、カオス*ソフト*ハード=カオソフード・システムとみなせる。

 

○分裂と統合とは、つぎの意味である。

ⅰ)人間は、身心頭で構成される「生体」である。

身心頭は、解剖学的に複雑多様な要素に分裂しながら統合している。

ⅱ)人間は、自己意識をもつ「主体」である。

自己意識は、複雑多様な要素に分裂しながら統合している。

 ⅲ)人間は、社会を構成する「客体」である。

人間どうしはお互いに複雑多様な役割と関係に分裂しながら統合している。

 社会常識では、分裂症といえば精神病などをイメージして信用できない否定的な意味となる。統合性といえば予測可能で信用できる健全な意味となる。

だが、往還思想は分裂症に否定的なイメージをもたない。逆に分裂性こそ人間と社会の潜在性だと考える。

往還思想は、生命の自律性への畏怖をもつが、たんに「生きているだけの状態」に人間の尊厳性をもとめない。

往還思想がめざす幸せな人生は、分裂した身心頭のバランス調整である。人間は、身心頭のバラバラなカオス欲望をなんとか調整しようとする「けなげな」生命力をもつ。わが身心頭の欲望は、本来それぞれバラバラな衝動として発情し、自分内部は不統一な分裂状態に在る。

この認識を前提において、わたしは、「生きる」、「生活する」、「生きがいをみつける」、「幸せを感じる」、「こんな生き方でいいのか」などと「自分」を意識する。そして、「頼む/頼まれる」、「愛し/愛される」、「助ける/助けられる」、「感謝する/感謝される」そういう自他関係において、人間の身心頭の協調と安心つまり幸福感が醸成される。

そういう人間関係の在り方に人間の尊厳を感じる。そして、現実のわたしは、そういう在り方から遠い。往還思想は、そういう在り方への希望にほかならない。

 

4)人間の自己 =身体自己*生活自己*了解自己

他者は、わたしという生体、主体を、ひとつの対象物=客体としてみる。他者は、わたしの内部構造である身心頭の分裂状況を直接的には観察できない。

おなじようにわたしは、他者を、ひとつの対象物=客体としてみる。わたしの肉眼は、他者の心と頭のうごきを直接的には観察できない。心眼が類推するだけである。

わたしと他者との人間関係は、肉眼でみえる身体表現を媒介にして、間接的な心頭のコミュニケーションとして成立する。そのコミュニケーションは、わたしと他者との社会的な人間関係と状況に依存して、カオス*ソフト*ハードの複合システムとなる。

このイメージは、自分の内面の身心頭のコミュニケーションにも適用できる。分裂した身心頭が協調をめざすコミュニケーションの現象学である。

自分という一個の「生体」は、解剖学的に複雑多様な要素間のコミュニケーション・システムとして「主体」と成る。その「主体」が、自己意識である。自己意識は、自分を自分で観察する意識である。

では、自分とは何者なのか。

往還思想は、自分は三つの自己に分裂していると考える。自己意識とは、三つの自己の調整役である。

 自分 = 自己意識(身体自己*生活自己*了解自己)

○身体自己 ・・・生体

生物学的なひとつの個体、生命の自律性で生死する。

身体自己は、固体としての生理的衝動を生きる。

○生活自己 ・・・客体

 衣食住のための社会的な関係性、子供→成人→老人として生きる。

生活自己は、社会の人間関係を生きる。

○了解自己 ・・・主体

 身体自己と生活自己を観察する超越者、無限を見渡す心眼機能をもつ人間。

 

了解自己が自分を観察する

わたしは、老後の日常で目的もなく惰性的に、新聞をよみ、テレビをみる。これは「生活自己」の習慣である。「生活自己」は、肉眼で「みる」、「よむ」という「身体自己」の機能に支えられている。

文字をよめば、意識に何らかの心象が映像化される。現象である。肉眼がもたらす直接体験または間接知識の心象意識は、瞬間的につぎつぎに現象して変化する。それらのほとんどは、読み流すだけである。朝刊に目を通すのに、30分もあればじゅうぶんである。

たまには、スポーツや芸術や科学などの記事を読み、人間のとてつもない偉大さを感じ、感動するときがある。身心頭のはたらきでいえば、「心」が感じる動きである。いい気分になる。

いっぽう政治面や社会面には、「何だかおかしな世の中だなあ」、「世の中の価値基準はどこにあるのだろうか」と疑問をもつ記事もおおい。身心頭のはたらきでいえば、「頭」の領分である。ときには、不快になり嫌悪を感じるときもある。これは、頭と心が相互に連携した動きであろう。

この心頭の動きも「生活自己」の一部として、通常は一過性の時間つぶしに過ぎない。「生活自己」は、つぎつぎと関心ごとを変え、時間に流されて、「いま、ここ」を生きる。

ところが、上の疑問や不快な気分が、後になってもくりかえし気になることがある。そこに心象体験が履歴として記憶され、想起という自己対話が生まれる。我が老後の趣味の瞑想、黙想、妄想となる。

ここで、「了解自己」が動きだす。「何だかおかしいなあ」という直観が、反復しながら持続する意識になる。その意識は、「合理的でないなあ」、「倫理的でないなあ」などということに焦点をあわせる思考につながる。

このように内面の身心頭は、縁=環境との相互作用を媒介にして、経験を反省しながら自己意識という主体性を発達させる。

 

○肉眼と心眼 ~自己言及

わたしの肉眼は、自分の外をみる身体の一部である。わたしは、自分の眼で、自分の眼をみることはできない。自分の外側にある光のおかげで、外の物事をみることができる。

わたしは、若いときからの近眼と年をとってからの老眼のため、眼鏡を使っている。眼鏡をかけたときと、はずしたときとでは、外の世界はちがってみえる。

外の世界には家族がいる。隣人、知人、友人、仲間たちがいる。会社も経営した。同僚、上司、部下がいた。顧客の会社の社長や社員たちともつき合った。役所がある。国家がある。世界がひろがる。自然がある。朝日が昇り夕日が沈む。夜と昼がある。

肉眼は、そういう外の世界をみる。

「みる」という単語には、見る、観る、視る、診る、看る、などがある。人がことばを使うコミュニケーション状況と文脈のちがいによって、異なる文字言葉漢字記号があてられる。

 外をみる肉眼に対比させて、心眼という文字が比喩的につかわれる。物質的な身体器官である肉眼とちがって心眼は、自分の外側環境ではなく、自分の中側または内側をみる心や頭のはたらきを意味する。

「自分の中側または内側」といっても、それも自分の心や頭のはたらき心象意識現象である。ここで、やっかいなことになる。

 「自分の心や頭のはたらき」を「自分の心や頭のはたらき」でみるという自己言及の事態である。自分と自分が、入れ子になって錯綜する。心眼とは、その錯綜関係を「みる」機能作動である。

だが、外側を「みる」といっても、その外側世界は網膜をとおした心象としての意識の現象である。自分の意識現象を「みている」のだから、ほんとうに外側の物事をみているわけではない。自分の意識の場である心身頭に「現れた象」を心眼でみているのだ。

これを現象学という。現象学は、肉眼と心眼を同一機能とみなす思考法である。往還思想の哲学も現象学をひとつの素養とする。

 

さて肉眼は、たんなる身体的な器官にすぎない。心眼こそが、動物とちがう人間の理性や知性や意識や自由意志である。その理性や知性が、心眼の意識現象を言語として解釈学的に変換する。そこに環境とのコミュニケーションが発動する。

「身体自己」の欲望は心身頭の自律的な本能であるが、「生活自己」の欲望は、社会的諸関係性における状況選択的な欲望である。「生きがいをみつける」、「幸せを感じる」、「こんな生き方でいいのか」などは、「生活自己」を観察して、「了解自己」が納得するプロセスである。

この納得=了解が、生理的な享楽や利己的な損得だけでなく、人間関係の人情=倫理性や社会的な責任感、義務感などを発達させる。

その発達プロセスが「人道」をつくる。

往還思想の人道は、身心頭の修練=正心*誠意*修身の儒教道徳にかさなる。

自己了解への欲望は、超越者として無限を見渡せる視座から、自分がそこに内在する生活世界という社会、自然を、了解・自得・悟りたい欲望である。

人間は、一定量の生命力と潜在的欲望をもって、この世にうまれる。この世のさまざまな縁=環境条件を媒介にして欲望の潜在性を可能性に転化させ、うまくいけば欲望が実現する。

この潜在性→可能性→実現性のプロセスが、人生街道にほかならない。

往還思想は、この人生街道のゴールとして自然科学的な合理性を超えて倫理的な感じをともなう則天去私・敬天愛人の境地をめざす。

 

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