2.5 往還思想の人生論、人生設計 

1)往還思想の人生設計 =少→壮→老

2)往還思想の人間修業 =正心・誠意・修身

3)往還思想の老人意識 =未老人→老人→熟老人   

4)老人思想の安心立命 =無我→自我→大我    

 

1)往還思想の人生設計 ~人間の一生=少→壮→老  

人の一生は、だれであっても、「生/誕生→{成長→安定→老化}→消滅/死」という時間をすごす。その時間のすごし方を意識することが、人生観であり、人生設計である。

人は、みずからの生/誕生は、設計できない。わたしの誕生は、両親もふくむ天与の仕業=天命である。だが人は、みずからの消滅/死を必然性として意識できる。意識できるけれども、意識するか/しないか、いつ意識するかは、人それぞれである。

そこで{成長→安定→老化}の人生設計において、みずからの消滅/死を意識するかどうかで、つぎの選択がある。

A:人生二毛作 ・・・ピンピンころり
人生を少年/成長期と壮年/安定期の二つにわける。
いつまでも若さを保ちたい。還暦すぎても自分の退化、老化を意識から遠ざける。

「ころり」をめざすが、「ころり」と逝かずに要支援状態になる事態にはそなえない。

B:人生三毛作 ・・・ジョジョにスーッと

人生を少年/成長期、壮年/安定期、老年/退化期の三つにわける。
還暦すぎたら自分の退化、老化を自覚する。老人生活の楽しみを、この世の後始末とあの世への旅支度とする。

ジョジョに消滅/死にいたる終業にとりくむ老人思想をきたえる。

◆往還思想は、B:人生三毛作である。

人生をⅠ期:少年期、Ⅱ期:壮年期、Ⅲ期;老年期の三世代にわける。

Ⅰ期:少年期 ・・・学業期

・年齢 成人式までの20

・生活の中心は、学業―学校である。

・たくさん学び、「将来」の可能性の夢をえがく。

・目標は、成人=大人に成ることである。

Ⅱ期:壮年期 ・・・職業期

・年齢 20歳から60歳の還暦までの40

・生活の中心は、職業―職場である。

・たくさんの体験をかさね、「現実」の自分をしる。

・目標は、大人の社会的責任をはたすことである。

Ⅲ期:老年期 ・・・終業期

・年齢 還暦から逝去まで約30年前後

・生活の中心は、終業―地域である。

・人生の航跡をふりかえながら「過去」を瞑想し、己の人生を納得する。

・目標は、悠々自適をすごす自然な平穏死である。

 

◆人生街道=上り坂→頂上→下り坂

人間の生命力は、我が身心頭を動かす。生命力の程度は、横軸に年齢をきざみ、縦軸に活動能力を表示する座標に放物曲線をえがく。

生命の活動能力とは、「身心頭」の欲望を統合する調整能力=主体性、自我、個性、人格=了解自己である。了解自己は、本能レベルの潜在性を、実現性への可能性をたかめる自己訓練である。{潜在性→可能性→実現性}という生活システム。

○少年/学業期は人生の上り坂。
未来志向で潜在性を可能性へ蓄える、夢と希望。

○壮年/職業期は、人生の頂上広場。
現実重視で可能性を実現性へ、自由競争と社会規範。

○老年/終業期は、人生の下り坂。
過去の総括、実現性の諦観へ、次世代支援と人生の後始末。

人生三毛作は、「少に学べば壮にして為すことあり/壮に学べば老にして衰えず/老に学べば死して朽ちず」という江戸時代の儒学者のことばに対応する。

「学ぶ」とは、生命活動能力=身心頭の修練である。「修身」=身体欲望の修練、「正心」=気持ち欲望の修練、「誠意」=理性欲望の修練。

○少年/学業期は、「自立できる」希望への学業訓練である。

○壮年/職業期は、「自立」および「被支援」の社会的責任遂行である。

○老年/終業期」は、「自立できなくなる」諦観への終業訓練である。

「老に学べば死して朽ちず」とは、「老人が少年たちの世話をする。その少年が壮年期に何かを為す。こうして老人世代が次世代にバトンタッチする。だから死して朽ちず」という循環思想である。

 

○少年期

誕生から少年期は、両親の社会性、地位、経済力、場所などに全面的に規定される。親には、子どもを育てる扶養義務がある。幼児をふくむ少年期の生活は、家庭と保育園、幼稚園、小中高大という学校での社会関係・家族関係・師弟関係・友人関係が主である。

その社会関係の主目的は、成人にむかう訓練である。その訓練とは、社会に出て大人として、自立して生きていける能力を獲得する義務教育である。そこで倫理道徳も学ぶ。

 

○壮年期

壮年期は、両親の保護から脱して自らの社会性を確立する生活である。学業期を卒業したら、自らの衣食住を自ら調達する勤労、仕事、就職の義務がある。家事労働も勤労である。勤労の義務だけでなく、国民として納税する義務もある。結婚して親になれば、子どもを学校で教育を受けさせる義務もある。

身心頭が健常な壮年期における社会関係の軸は、仕事つまり職業である。その仕事場は、私的な企業組織である資本主義ビジネスと公的な役所機関である公共税金ビジネスおよび脱俗的な芸術もしくはお布施的な周辺ビジネスに大別できる。その裏側にブラックビジネスがある。現代社会は、タテマエとホンネ、清濁あわせ飲む「カオソフード」なビジネス構造で成り立つ。

その職業、生産、経済関係を通して、万能メディアの法貨=ゼニカネ=マネーを得る。そのマネーを消費して生活する。その経済関係を通して自らの社会性、政治・文化・地域を生きる。

壮年期世代が、こういう社会と国家の主役である。壮年期における「了解自己」の形成にむかう修練は、少年期とちがって、自由な競争ルールにおける自らの選択による価値観の形成である。

身心頭に障害をもつ壮年期は、自立への支援をうける。支援をうける権利意識とどうじに支援者への感謝意識の修練をおこなう。五体不満足であっても身心頭の協調訓練に、社会的責任遂行と人間の尊厳がある。

 

○老年期

老年期は、壮/職業期を卒業=退職してから臨終までの期間である。臨終にたち合う医者は、「人は生きてきたように死ぬ」という。人の死にぎわに、その人が生きてきた人間関係、社会性があらわれるそうだ。

老年期は、我が人生のこの世の後始末。立つ鳥跡を濁さず。あの世への旅支度。

 

少→壮→老の対比を以下にまとめる。

生>>・・・ 少 ・・・・>>・・・・ 壮 ・・・・>>・・・・ 老 ・・・・・>>死

          学業期    職業期     終業期

生命力/身心頭   誕生・成長   安定     老化・消滅

死命力/老人意識   凍結     萌芽      旺盛

我/主体意識     無我     自我      大我

人生街道       上り坂    頂上      下り坂

家族         子ども    父母      祖父母

努力目標      自立への訓練   自立、責任   後始末、旅支度

心構え       未来への希望   現在の重視   過去の総括

私・自由、欲望     本能      社会規範    自制、則天去私

共・人間関係の場所   学校      職場      地域・自治会

公・権利と義務     保育・教育    勤労・納税   次世代支援

競争と共生      仲良く訓練    競争      共生

医療の目的      健康増進     健康回復   鎮痛・鎮静・平穏

介護の目的      リハビリ     リハビリ    不安と羞恥の除去

 

◆老後を生きる目標

仕事を離れたわたしは、「努力して自分の目標を実現する」という意味を問いなおしはじめた。そもそも「自分の目標」とは?

「努力と怠惰」、「頑張ると怠ける」、「希望と諦観」、「鍛錬と休息」、「作為と無為」などの意義は、少年/壮年/老年それぞれの時期で、同じでない、ちがうだろうと考える。

人命尊重の意味も世代によってちがうべきだろう。これから成長する幼児の生命とこれから逝くしかない老人の生命の価値が、平等とは思わない。年齢に関係なく人命の価値に差異はないという考えは、不自然だと思う。

仕事中心の時期をおえた老後にとって、いつまでもがんばる、あきらめない、一所懸命などの語感は、不自然さにつながる。

  老子は「無為」をいう。その「無為」とは、余計なことはしなくてもよろしい、自然に任せばよろしい、無理するな、ということだと理解する。「無為を為す」ではない。「無為を為す」だったら、「ガンバラナイようにガンバレ」という叱咤激励と同類のパラドックスな不自然さが残る。無為徒食でEjan.

70年もそれぞれにガンバッテ生きてきたのだから。還暦と古希すぎたら、もういいじゃないか、ほどほどで。

向こう三軒両隣、さまざまな人と共存・共生するお互い様。知にはたらけば角がたつ。情に竿させば流される。意地をはればきゅうくつだ。それは、それでいいじゃないか。つかの間のこの世に生をあずかり、「あの世」と「この世」を往還する世代間の命のリレー駅伝バトンタッチ。

年を取ったら年寄りらしく時間を過ごせばよい。子どもが背伸びして、大人の常識で早々と身構えることは不自然だろう。

還暦すぎて、いつまでも青春の精神でがんばる姿は自然じゃなかろう。

早熟も未熟も不自然だ。自分の老後の生活を、個人の自欲だけでがんばる我が姿は、「しんどいなあ」といよりも、何となく気恥ずかしい。

では、老後を生きる目標は?

それは、未老人を脱し、成老し、長老として「熟老人」の境地にいたることである。

 

2)往還思想の人間修業 ~正心・誠意・修身

人間修業とは、もって生まれた身心頭の潜在的な欲望能力を協調させながら、潜在性を可能性に転化させ、社会的関係の偶然性などに影響されながら、達成感、満足感、幸福感を実現させる努力である。

○身体自己は、身心頭の生理的な本能という欲望衝動を潜在的にもつ。

○生活自己は、身体自己の分裂を協調させながら社会的に生きる。

○生き方の選択は、無意識の習慣性、自由意志の自発性、社会契約の強制性などによる。

了解自己は、生活自己の動機と行動と結果にかんする意識的な反省である。了解自己は、身体自己と生活自己を反省する能力である。その能力は、身体自己と生活自己の成長・安定・退化と連動して涵養し修練される精神性である。

幼児、精神障害者、重病患者、痴呆老人などと健常者の「了解自己」の在り方は、なにが同じであるか、どこがちがうか。

その問題は、わたしの判断をこえている。それぞれの人間は、差異の多様性であるというしかない。

それぞれに差異の多様な「天命」という生命力をもって、人はこの世に生まれる。成長しながら潜在的な身心頭の欲望衝動能力を、意識的に発達させる。身心頭の「より良き協調」修練が、人間の一生に安心、幸福、満足をもたらす。

その安心、幸福、満足は、人それぞれに個人差、個性がある。それは、①個体性と②社会性と③偶然性の組合せである。

  個体性 
個体のDNA遺伝情報、身体自己の生得的な気質、性質、体質、知能などの潜在性

  社会性 
外部環境と生活自己との社会的諸関係性、生活状態、制度、可能性

  偶然性

人は、両親を選択できない。環境変化を予測できない。制約条件、実現性

「身心頭のより良き協調」修練がもたらす人生の安心、幸福、満足は、①自己努力*社会制度*偶然性によって左右される。

江戸時代までの日本人は、「身心頭のより良き協調」修練として朱子学の「正心・誠意・修身」の徳目を教育された。それによって士農工商それぞれの身分にあわせた了解自己が形成された。

武士は、人民を統治する権力者=支配者の地位をまもるべく「修己治人」を「正心・誠意・修身」の徳目とした。

農工商の庶民は、被支配者として生きる「共同体の掟」を「正心・誠意・修身」徳目とした。

ところが現代社会は、「正心・誠意・修身」の徳目を封建思想であると排除する。道徳教育に反対する学者や知識人がおおい。彼らは、「正心・誠意・修身」の徳目を相対化する自由・平等・基本的人権を普遍的な価値とする。

では、自由な現代社会において、人間の「身心頭のより良き協調」修練をどのように考えるか。

健常者だけでなく、胎児や幼児や精神障害者や痴呆老人などの「身心頭のより良き協調」修練をどのように考えるか。

・・・・わたしは、まだよくわからない。いまだ了解できる考えはない。愚考をつづけるしかない。 

◆人生=誕生→{在る→為す→成る}→消滅

   少(為す・成る)→壮(為す・成る)→老(為す・成る)→熟老人 

◆為す=人間修業=自己努力*血縁情愛*社会制度*人間関係==>幸せ

 自己努力=少年→壮年→老人   

血縁情愛=子*兄弟姉妹―父母―祖父母―親戚

社会制度=法律(権利、義務、罰則、規範)*貨幣

人間関係=集団*規約*人情

◆人間関係=上下関係・水平関係・無縁関係、友好関係・敵対関係・制度関係など

 

3)往還思想の老人意識 ~未老人→老人→熟老人  

  還暦という社会的な契機を往還思想から見たとき、「若さ」と「老い」の対比は別様の光景となる。「若さ」と「老い」のプラス/マイナスどちらも受容する気持ちになる。

「老い」は、老成、成熟、大人の風格、人格の完成、泰然自若、悠々自適などのプラスイメージ。それは、人生の幸福にとって善なる価値目標である。往還思想は、還暦過ぎた老化のマイナスイメージを老成へのプラスイメージに転化する。

いっぽうの「若さ」とは、上り坂を上る途中の未熟である。それはマイナスイメージである。しかし「若さ」は、「まだ為すべきことが残っている」可能性でもある。往還思想は、「若さ」の未熟イメージを可能性への期待というプラスイメージに転化する。

往還思想は、「この世」の成長の頂点・峠をめざす「若さの上り坂人生」と老成・成熟・完成をめざして「あの世」に還る「老いの下り坂人生」とを対照化する。

そこに「老人」と「若者」との関係性、老人世代の社会的役割、老人世代が次世代の若者を応援する「世代間格差の倫理」を考える糸口がみえる。壮/仕事中心世代とはちがう老/終業期の生活スタイルと新たな価値観の可能性を見いだす。現代社会の諸矛盾=不自然さに異議を申す老人世代という新たな社会勢力の台頭である。

下り坂を降りながら、それまでに身につけたモロモロを、上り坂をのぼる若者に与えていくイメージ。ゼロから生まれてゼロにもどる、プラスマイナスで貸借ゼロの往還イメージ。

往還思想で老後を過ごす努力目標は、一に諦観・あきらめ=希望的諦観、二に若者の応援=社会参加、そして三に退化する身心頭のバランス=隠居生活である。

◆老人意識

ⅰ)未老人・・・還暦過ぎても老人意識をもたない壮年期の生き方の延長。

ⅱ)老人 ・・・還暦過ぎたら壮年期の価値観と生き方を意識的に変える。

ⅲ)熟老人・・・この世の後始末、あの世への旅支度、立つ鳥跡を濁さず。

◆若者の応援 ・・・少/学業期と老/終業記の世代間交流、奨学金バウチャー制など。

 古希過ぎた老人は、どんな生き方をしてきたとしても、どんな老人の境遇にあるとしても、老人世代のみんなが、若者にとっては生ける教材である。あこがれ、あわれみ、反面教師として。

 

4)往還思想の安心立命 ~無我→自我→大我

これまでの「多子短命」社会では、古老は「古稀」としてチヤホヤされた。その代わり「長老」として、家族や地域のもめごとを調整する知見が敬老された。

いまや時代が決定的に変わった。超高齢化社会にむかう日本では、これまでの老人観を決定的に見直さなければ、国家財政の破綻が危ぶまれる状況になっている。

その見直しの視点が、老年期を壮年期の延長と考えない往還思想である。老年期と壮年期を明確に区切ることによって、壮年期の延長でない老年期に固有の社会的規範と役割を創造できると考える。

老人世代という新たな社会勢力の出現である。

では、老人世代は、超高齢化社会の現実にどのようにむきあうか。人の生き方は、現実の制約をうける。現実のうけとめ方は、少壮老のそれぞれの世代によって異なる。

○少年期は、現実をこえた世界に未知の心象風景を描く。不安、希望、夢、可能性である。

○壮年期は、現実体験そのもの、実現性に拘泥する。思うようにならない葛藤である。

○老年期は、現実体験を反芻しながら瞑想、妄想の仮想現実を心象とする諦観である。

 

2015年現在、わたしは71年と数か月、この世で生きてきた。壮/職業期の仕事中心の生活とはちがう老/終業期の生活スタイルに人生の喜びと満足を感じる。老人タイムは、人生のゴールデンタイムだと思う。

往還思想は、退職した老/終業期こそに、人間のもっとも自由な生き方を感じる。自由な生き方とは、融通無碍な自在、自然に任せる無為、悠々自適な安心立命である。

では、安心立命をめざす老人の了解自己とは、どのような終業=修業であるか。

超高齢化社会をどのように生きるか。

老人として、どのように社会参加するか。

往還思想が理想とする熟老人がめざす目標は、則天去私、敬天愛人である。賢しらな自己主張、自己責任、主体性、個人主義など西欧近代思想が至上価値とする「人間中心」の自我意識の滅却である。

○少年期は、自他を区別しない「無我」から「自我」意識への成長である。

○壮年期は、「自我」を主張する生存競争と協調共生の折り合いである。

○老年期は、「自我」を矮小と恥じて大いなる自然と一体化する「大我」をめざす。

 

◆「生/誕生→{成長→安定→退化}→消滅/死」の人生論

少年期の子どもから、壮年期の大人への往き道が上り坂なら、還暦の峠を越えた老年期の還り道は下り坂である。

身も心も頭も青春・朱夏を過ぎ、白秋・玄冬の季節に沿う。春から夏への春分が、少年から大人への成人式の通過儀礼である。秋から冬への秋分が、大人から老人への還暦の通過儀礼である。

自然の昼夜、春夏秋冬の律動=「天道」にあわせて、人生航路にも上り坂・峠・下り坂がある。直線思考よりも循環思考。そのほうが、不安が少ない。ピンピンころりは、生き物として不自然である。

わたしは、生死一体の大きな自然のリズムを受容することに安心立命を感じる。生命は「あの世」=>「生/誕生{この世}消滅/死」=>「あの世」という図式で循環する。

○誕生を、「あの世」=>{この世}への「往」として神道の祭りに対応させる。

○消滅を、{この世}=>「あの世」への「還」として仏教の祭りに対応させる。

「あの世」を、日本人が縄文人から伝統的にうけついできた「八百万の神々」の「お天道様」が位置する世界とみなす。おおくの日本人の無意識にひそむ宗教観だと思う。

「あの世」と{この世}を一体化して自然=「天」とよぶ。「天」とは、時間と空間が無限にひろがる「天網恢恢疎にして漏らさず」の宇宙観、自然観、観想である。

 

◆我、十有五志学、三十立身、四十不惑、五十知天命、六十耳従、七十従心

 年齢にあわせた人生の区切りで有名な言葉に論語がある。「寿命」、「天命」という言葉が気になってインターネットで検索したら下の記事が見つかった。我が往還思想と波長がぴたりとあってうれしくなった。素敵な文章である。少し長いが引用させてもらって、往還思想の人生論を終わることにしよう。

「知天命」 佐々木康之(長野病院循環器科医師) (上田医師会誌1/10/2002)

己の意志とは無関係にこの世に、生を授けられ、そんなことは、全く考えもせず、親に尻を叩かれ、ただひたすら頑張って生きてきた少年時代、青雲の志を高く掲げ、よく遊びよく学んだ青年時代。黄昏となって来た今日この頃は、少し考える余裕が出来てきたのかもしれない。

  BeatlesJohn Lennon が創った“Let it be” が最近の私の心の中に何の違和感もなく入ってくる。何の飾ることもなく、心のあるがままに、偽りもせず、欲張りもせず、人を蹴落とさず、自分の心に正直に生きて行きたい。(中略) “美空ひばり”が歌った”川の流れのように“生きて行きたい。(中略)

孔子の人生は不遇だったと言う。論語は孔子が弟子に語った彼の哲学を弟子達が纏めたものであり、その為政第二章にかの有名な “我十有五志学、三十立身、四十不惑、五十知天命、六十耳従、七十従心”がある。

これは、人間の発達過程をよく表し、各年齢での人生哲学がよく現れている。これを私に当てはめて解釈してみると、知天命とは、もうこれから先の人生が見えてしまって、自分の人生における最高位が推察できることであり、耳従とは、反論、叱る、喧嘩するのに必要なEnergychargeできず、従ってdischargeできなくなってしまったと解釈する。(中略)

脳細胞は日々死んでおり、肉体的、精神的Energyは衰えつつある。我が恩師“古田精市先生”の退官時の著書に“さりげなくあらまほし”がある。恩師の65才で到達した心境“さりげなく”は、現在考えてみると“Let it be”、”川の流れのように“、“六十耳従”と似ている。

まだまだ、波風はたち、波瀾万丈な今後の私の人生と想像されるが、枯渇してきたEnergychargeし、前向きに、生き生きと毎日を送りたいと思っている。

 

 

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