5.8 老人思想の実践 ~老人世代の撹乱力 2015年4月14日
1)老人力 ~日本の状況を変える力・突破力
2)高度経済成長の果実を享受してきた老人世代の宴のあと
3)老人世代こそが未来の社会像をかかげて現実社会を撹乱できる
4)老人世代は「カネをかせぐ」仕事中心の価値観から脱却できる
5)老人世代の攪乱力には常識をこえた根源的な思想変革が必要である
6)老人思想は個人主義的な合理性ではなく共生主義的な人情性である
7)近代思想の個人主義的「強い人間像」の歴史的な根拠
8)共生思想にもとづくソフト社会システムの人間像
1)老人力 ~日本の状況を変える力・突破力
「3.6 現代社会の閉塞感を突破する老人世代の新たな価値観」において、老人世代が、その希望を実現する「新たな社会参加」の具体的なイメージをえがいた。それは、概略つぎの二つの交流が協調する仕組みである。
①人間関係の直接性・・・・世代間交流
老/終業期の老人世代が、少/学業期の子ども世代と交流する。
②自然環境の直接性・・・・農山村と都市との交流
地方や郊外の農山村集落と都市団地の住民が交流する。
ここでは「老人力」を今の日本の状況を変える力・突破力とみなす。なぜそう考えるのか。その可能性の根拠を確認する。
悠々自適・無為徒食・365日連休・毎日が日曜日、働かなくても老後をくらせる老人もおおい。老人世代は、子育ても終わり、社会的な責任から解放されている。社会の生産活動から距離をおいて生きられる。そのことは、何を意味するか。
それは、今の社会の主流=壮年期思想に抵抗して社会を変えるパワーになりうる、ということである。これからの元気老人の多くが、世の中を撹乱するアナーキスト的資格をもちうるのではないか。
老人力つまり撹乱力は、「死」をみすえながら「「生きる」ことを考える人生観から出てくるはずだ。悩みや心配ごとや世間体を突き抜けることによって、死を受け入れる「開き直り」の境地になりうる。聖人はこれを「悟り・諦観」という。凡人であるわたしは、あきらめ・腹をくくる・まな板の鯉などと称する。
天命を知り、己の欲するところ則を越えず。則天去私・敬天愛人の心境になりえる可能性は、老/終業期世代にこそある。
世俗のあちこちに気をくばる自己規制から自らを解放する脱俗の境地。内面からの欲求にしたがう生活をよしとする了解自己。70年以上も生きてきたのだから、もう十分じゃないか。不慮の死も事故に逢っても癌がやどっても、自然なこととして受けいれる。他人の毀誉褒貶も自らの業である故に、へらへら淡々として引きうける。何がおころうと怖いものなしの境地をめざす希望的諦観。
福沢諭吉は「一身にして二生を経る」という。往還思想は、①子ども学習時代、②就職仕事中心時代、③退職後の老成時代の三世代論である。少/学業期、壮/職業期、老/終業期の人生三毛作。
老/終業期は、下り坂を降りる人生第三幕の最終章。その下り坂をたのしむ。老後は、何でもやりたいことをやる。こわいもの知らず。その老後の桃源郷で撹乱力をふりまわす。身の丈に合わせてほどほどに、がむしゃらにはやらず、淡々と生きて逝く。老成・完熟・枯淡の熟老人をめざしながら天命をまつ。長寿ではなく天寿である。がんばらない老人力。
個人的な生活は、世俗から隠居して則天去私、敬天愛人への妄想三昧の往還思想。
社会的な生活は、共=地域コミュニティへのささやかなる応援参加の共生思想。
2)高度経済成長の果実を享受してきた老人世代の宴のあと
戦前までの老人は、平均寿命が60歳よりも若かった。生き残った少数のむかしの長寿者は、年寄りの長老として枯淡に老成し、町内のもめごとなどを長年の知恵で調整してその役をになえた。苦労を重ねてきた人生経験と知恵は、若者衆も耳を傾けるに値した。
ところが、いまや寿命は70から80歳に延びている。100歳以上の老人が、5万人をこえた。すさまじいほどの高齢化社会である。老人の生き方と死に方が大いにかつ急激に変化している。今の老人は、昔の長老然とした老後とはちがう。戦前までの地域共同体においては、「ゆい・こう・ざ;結・講・座」という近隣関係=「隣組」が、生きるための必須の社会的仕組みだった。そこで人生経験や人間付き合いの知恵が鍛錬された。
結とは、共同作業、労力の提供、入会地の共働作業
講とは、短期の必要資金の貸し借り、頼母子講、寄り合い
座とは、ご近所おすそ分け、物々交換
これらの地域における生活共同体の実質が、戦後の日本社会から消えた。職住が分離した都市型生活スタイルになったからである。
高度経済成長をめざした戦後社会では、生活共同体が地域から会社・職場に変わった。自給自足度の高い田舎くらしから都市でのサラリーマン生活になった。川で洗濯をしていた戦後の田舎にも、水道がひかれた。手洗いから洗濯機に代わり、テレビ、冷暖房機器、自家用車・・・欲しいモノは何でも月賦で買えた。快適なウォシュレット!!。電気がなければ排泄の始末までままならぬ。
そしてローンを払うために稼ぎにでる。貧しかった自分よりも、子どもらはもっとよりよい暮らしができるように上の学校に行かせた。子どもの塾や学校の学費をはらうために、親たちはさらに働いた。ほとんどの大人たちにとって、カネを稼ぐためのサラリーマン職場が生活の中心をしめた。
カネがなければ生きていけない。カネをかせぐ手段としての会社で、自分にアサインされた役割を果たすために努力した。限定された責任範囲。人間に潜在する豊穣な多面的な能力のごく一部だけを換金のために差し出す。スピード(トキ)とカネと競争にせきたてられる。
生活全体の多面的な人間関係ではなく、組織目的を達成するための役割分担と分業化による効率的で一面的な人間関係。
牧歌的な共生関係、譲り合い、もたれあいの人間関係はなくなった。個人の主体性尊重は、もたれあう個人関係を分断化、孤立化、差別化した。自由な競争社会である。そういう戦後を生き抜き、高度経済成長の果実を享受してきたのが今の老人・高齢者たち。(そのあげくに次世代へのツケ・借金が1千兆円!!)
戦後の老人が蓄積してきた豊富な経験や知恵や人脈などは、むかしの村落共同体や庶民の長屋暮らしで鍛えられた長老たちとはちがう。苦労と悩みの範囲と思考の深さが違う。
会社という職場においてこそ適用され、現役で権限をもつ限りにおいて使用期限・賞味期限が認められるに過ぎないからである。
管理し管理される思考方式=縦社会思想が、体内に深く沈殿している。個人は、規約づくめのハードな社会システムを介在して他者と共存せざるをえない。人間関係の介在メディアは、法律と貨幣である。社会的な分業役割という仮面をかぶったものどうしの断片的かつ機能的な人間関係でしかない。
自由で清潔で便利で豊かな社会になった。だがそこに「心からの満足」を感じられない閉塞感がかもし出される。
3)老人世代こそが未来の社会像をかかげて現実社会を撹乱できる
人間は誰しも考える。いかに幸せに生きるか。
しかし現在のスピードと競争重視の社会は、そんな原理的な悩みを深く考える時間を許してくれない。目の前の仕事やあれこれの家庭のイザコザに付き合うだけでも忙しなく時間が流れる。スローライフなどを唱える者は負け組み。すぐ検索できて答えが見つかった気になり、深く悩む時間がますます削られるネット社会。
基本的な考え方・思想性よりもすぐ現実的なノウハウと解決策を求める功利主義が蔓延する社会。限定した責任しか負わない有限責任体制。社会的リスクの責任は、役所=ハードな規約の社会システムに全面依存。ルールにもとづく時間・トキの管理、つまりジャストインタイム管理こそがマネージメントの要諦。
法律・規則・規約・ルールに縛られ、えたいのしれない閉塞感。ハードなシステム管理社会。世の中心の壮/職業期世代は、率先して自己規制につとめる。家畜ならぬ社畜然のブロイラー化症候群。
これらは、自由・民主主義を普遍的価値とする高度文明社会=資本主義社会のありさまである。
では「どうしようもない」桎梏感から脱出できる可能性をどこに求めるか。それを壮/職業期の現役世代に期待するのは酷な要求であろう。仕事中心価値に縛られているからである。
その可能性を「高齢化社会」というあたらしい社会勢力の老人世代に求めよう。
死という最終ゴールが目に入る老人は、こわいものしらず、失うものはない。無規定責任を引受ける覚悟をもてる。死ぬまで無期限のトキ・時間をもつ。
この老/終業期世代こそが、未来の社会像をかかげて現実社会を撹乱できる潜在勢力になりうるだろう。世間からはみだせる老人たちが、これから世にでてくる少/学業期の学生・若者たちを、鼓舞し激励し、未来に希望をもてる日本社会建設を懇願する。その取り組みに老人世代の社会的責任とどうじに生きがいを求められないか。
4)老人世代は「カネをかせぐ」仕事中心の価値観から脱却できる
人類の歴史は、狩猟採集、牧畜農耕、工業、商業、金融などと経済活動を変化させてきた。いまや、農地を基礎におく米高ではなく、貨幣・ぜにかね・マネーが万能価値になった。社会の基本的な仕組みが、家族との生活というよりも職場の「カネを稼ぐ」構造になった。
そして「直耕」から疎遠な「不耕貪食の輩」(安藤昌益)といえる都市住民の大衆が、社会の主要な勢力になった。わたしもその一員である。
都市生活者たちには、市場で評価される「カネをかせぐ」能力がかならず必要となる。人間としておおくの多彩な能力のなかから、ひとつの能力に限って仕事に向けなければならない。そうして、かせいだカネを生活のための必要品に換えて消費する。
消費生活は、ひとそれぞれの全人格的欲求の発露である。都市生活においては、「カネをかせぐ」仕事能力と「カネをつかう」生活能力が分離し、断絶し、いちじるしく非対称となり、ここに深刻な人間疎外が発生する。トータルな人間性の統合失調である。
生産労働と消費生活の分断、そこに身心頭で構成される人間としての全人格性の統合が失調する。共同体における「共働」が、カネのための「労働」になったのが、近代文明社会である。このような近代文明社会の「健康で文化的な生活」の精神性への陳腐な問題意識は、すでに数限りなくおおくの学者、評論家、一般人が指摘しつづけてきた。
仕事と生活の分離ゆえに、現代社会では、富裕層ならざるほとんどの人が、「人間いかに生きるべきか」、「何のために生きるのか」という問いをいだく。近代病人の多産社会ゆえの「不安症候群」である。このことは、あまたの文芸作品や映画やドラマの存在が証明している。この世の不満と不安を物語世界の楽しみで回収するのである。バーチャルな癒しである。
高層マンションに典型的な都市生活者たちは、人工物環境に囲まれ、自然環境から遮断され、顔のみえる直接的な人間関係からも疎外されている。「カネがなければ生きていけない」、「カネさえあれば生きていける。
都会生活者は、自然関係の喪失、人間関係の疎外において、人間としてのバランス感覚に不安をおぼえる。何となく満たされぬ気持である。
現代社会は、「個人の自由」をたしかに尊重する。衣食住や移動と通信の物質的な豊かさを享受している。それでも、「真に心から、芯から幸福であるか」と自分に問う。
そこで「カネをかせぐ」労働から解放された老/終業期世代に着目する。「カネをかせぐ」ことが中心でない「カネをつかう」生活者が老人である。その老人世代こそが、「カネをかせぐ」仕事中心思想にたいして、老人思想をもって異議申したてをすることができるのではないか。
5)老人世代の攪乱力には常識をこえた根源的な思想変革が必要である
老人の異議申し立ての実践をどこでおこなうか。老人の攪乱力をどのようにふるうか。個人的生活を了解する往還思想と社会的生活を了解する共生思想の実践をどのようにおこなうか。
100歳近くになっても使命感をもち、それに命をささげ、身心ともに輝いて仕事を続けている元気老人もいる。そういう超めぐまれた人は、ひとにぎりである。自由競争社会が大いに賞賛する勝者=超老である。
その対極に公的な生活保護費で簡易宿泊所に一人で住まう弧老もいる。
おおくの老人は、その超老と弧老の中間に分布する。老後を生きる希望のあり方は、人それぞれの境遇による。未老人―老人―熟老人の意識レベルも人それぞれである。一律ではない。同じような境遇にあっても人は、それぞれに絶望―失望―諦観ー希望に分布する。
老後の生き方は、人それぞれである。それは、具体的な身心状態や経験を蓄積してきた意識に依存する。社会的な地位や役割、生活環境、経済的基盤などなどに相関する。「人は生きてきたように死ぬ」という。人の生き方と死に方は、性格や性分だけでなく、気力のもとになる知力=頭=思想性にこそ大きく依存する。気持ちの持ち方、考え方次第である。
だから老人世代の攪乱力などいうものは、常識的な社会思想をはるかにこえた根源的な思想変革なしには発揮できない。目的―手段、効率性、損得、功利的、合理的で常識的な社会思想によって手軽に実践できるわけがない。
現代社会の負の裏面=不安=人間疎外=不自然さは、光かがやく「自由、平等、人権」という近代思想の影であり闇である。日本社会は、憲法の「自由、平等、人権」思想を包摂しながら、それをこえる普遍的な価値を探求すべき戦後70年の歴史的な時にあるのではないか。
その探究のひとつが老人思想である。それは、さまざまな視点と射程において壮年思想とつぎのように対比できる。
◆壮年思想 ・・・・ハード社会システム 限定合理性、無情倫理
公・仕事・自由・平等・博愛・軽天・競争・成長・会社・無情・自我・強私・所有・血縁家族など
◆老人思想 ・・・・ソフト社会システム 不条理性、人情倫理
共・生活・自制・多様・隣愛・敬天・共生・安定・地域・人情・大我・去私・共有・地縁家族など
6)老人思想は個人主義的な合理性ではなく共生主義的な人情性である
ここで「公」:無情と「共」:人情の対比を考える。
「公」を無情とする理由は、「公」=法律=行政の執行が、公平無私を原則とするからである。公平とは、法律を一定の条件の対象者に適用するとき、役人の恣意的な判断ではなく、平等に適用することである。そして法律は、縦割り行政の根拠である。役所の担当部署は、法律が定める特定の条件の視点から対象者を観察する。法律の適用条件は、トータルな人間の一部の属性でしかない。
「共」を人情とする理由は、顔の見える人間関係は、身心頭によるトータルな人間同士のコミュニケーションにならざるをえないからである。老人思想は、「人情」にもとづく社会システム設計をめざす。そのためには「人情的な理性」を根拠とする社会原理を問いなおす。
老人世代は、壮年世代とは異なる社会原理で生きる可能性をもつあらたな社会勢力である。「公」壮年思想と「共」老人思想を両軸として「私共公」三階建国家システムを展望できる。その実現にむかうためには、あらたな社会学、あらたな社会科学=知性=社会思想=哲学=価値観の構築が求められる。
その「老人思想」のあらたな知性を端的にいえば、個人主義的な合理性ではなく、共生主義的な人情性である。
この意味で「公」国家に対立する「私」個人の自由、権利という主体性だけを主張するサヨク的戦後知識人の歴史的なやくわりは、すでに終わったのではないか。近代思想がもたらす現代社会の矛盾=貧困、不平等、不安、精神障害症候群などは、近代思想では根本的には解決できないからである。「人権」や「護憲」を叫ぶだけでは、社会科学的には思考停止状態に等しい。
世界の近代文明社会の先頭を走る日本社会は、近代思想のさらに先にすすむ思想を必要とする時代を迎えた。社会変革の「維新」を基礎付ける思想が求められている。すでに100年前から唱えられてきた「近代の超克」は、いまだ決着はついていないのだ。
しかし、ようやく「近代の超克」をになう「老人世代」という社会勢力が登場した。
老人思想は、近代国民国家の「人間の尊厳思想、人権思想」を根拠づける「独立した強い人間像」を問いなおす。
7)近代思想の個人主義的「強い人間像」の歴史的な根拠
近代思想は、近代以前の封建的君主制国家の人間像を、欺瞞、虚偽であると異議申立として登場した。日本においては、戦前の天皇制国家体制における「臣民像」への異議申立として、敗戦後の新憲法が発布されたのであった。否定された人間像とは、以下である。
A:人間は、「支配する者」と「支配される者」に生まれながらに分かれる。
B:支配者は、単に支配者であることでは尊敬されない。
支配者は、被支配者から、よく尊敬されるべく人徳を保持しなければならない
C:支配者は、被支配者の幸福を実現することを自分の幸福としなければならない
D:支配される者は、人徳ある支配者の治世に順応して自分の幸福を実現できる。
2千数百年以上前の紀元前、ギリシャであるいは中国でかたられた「人間」思想は、政治も倫理も哲学も含む「支配者として生きる道、道徳、人道」であった。そこに共通する内容は、愛・仁・慈悲・配慮・信頼・正義・道義などである。それらが意味する「徳性」は、支配と順応の人間関係を前提にしてこそ意味をもったのである。
それは、身分制社会制度を前提にした「修己治人」の学問だった。どうじに支配者の徳性に照応して、平民の徳性も説かれた。人民支配が、単なる暴力性だけでは持続し得ないということは、支配者にとって、わかりきっていたからである。
権力者の一族郎党の私利私欲や恣意的な判断や残忍にふるまう独裁者をさとすために、学者が宮廷に招聘された。支配者に自制心をもとめるために、学者、知識人、思想家たちは、人民への公平な仁政を説き教え、仁愛や恩寵や道義の名のもとに、その理屈に知恵をしぼった。そして神や天の超越性をうしろたてにした。
いっぽうでは、士農工商の身分制をみとめた上で、士族の武士道とは別に、二宮尊徳は篤農家の道を説き実践し、石田梅岩は町民の商売道徳を説き実践した。安藤昌益は、そもそも支配と順応の倫理を説くことそれ自体に、「直耕」の旗をたてて根源的な批判をおこなった。
だが人類の経済社会活動が、おおきく変化して、身分制をあたりまえとする支配と順応の仕組みをささえる倫理思想が、必然的に時代にそぐわなくなった。それまでの下層被支配者たちがたちあがり、「えらそうにしている上のあんたらとオレたちも同じ人間だあ!!」と声をあげた。
そして文明国家への幕があけた。商人、農民、職人も女も植民地の男たちも、特権階級の支配原理に「すべての人間」の「尊厳」で対抗した。そうして特権支配者がひろめた人間像を根拠とする社会体制を破壊し、立憲民主制の国民国家を建設したのであった。
その人間像は、自らの尊厳と人権を主張し、自由に判断できる能力と責任能力をもつ「独立した強い人間像」にほかならない。
8)共生思想にもとづくソフト社会システムの人間像
戦後の日本社会は、主権在民の民主主義国家としてすばらしい復興と発展をとげた。そして戦後70年、2015年のいま、これからの日本社会をどのように展望するか。
「老人思想」は、これまでの壮年期思想の「個人主義的な合理性」に異議を申し立て、「共生主義的な人情性」を対置する。「公」国家と「私」個人の二階建国家に異議を申立て、地域コミュニティの「共」層を体制化する「私共公」三階建国家を構想する。
「老人思想」の社会的実践は、「共生思想」である。
共生思想の人間像は、「独立した強い人間像」ではなく、「他者ともたれあう弱い人間像」である。人間関係のあり方として、戦後知識人が否定した「集落共同体」の再生である。人類レベルの高邁な「博愛」よりも、まずは「縁側」を介在した「隣組」どうしの身近な「隣愛」という人情社会である。
この「老人思想」は、いまのところ妄想レベルのユートピアまたはノスタルジーであろう。妄想、夢想から構想に向かうには、あらたな社会科学=人間的知性の創造、これまでの社会科学的知性の問いなおし、つまり哲学={潜在性→可能性→実現性}運動への思想転換が必要となる。
自然科学と工学技術の学問領域では、知識の真実性が歴史的に点検されながら淘汰され、実践的に蓄積されていく。それが学問における真理の探究というものである。その真理性・普遍性・法則性は、個物事象の原理的な解析と問題解決に応用できる。
では、現代人文社会科学の知性、学問、学者、思想の「真理探究」の方法に問題はないのか。図書館には、おびただしい書籍が格納されている。そこは、現実社会からは切り離された静寂の文字空間象牙の塔である。現実の諸事象を言語化した言葉・概念・論理の世界である。
だが「老後をいかにすごすことが人間的なのか」という日常者の問いに、それらの学問は、回答してくれそうもない。日常の生活は、論理と合理性だけではなく、人情と不条理性でもあるからである。
日本人にとって「人情的な理性」の根拠は、縄文時代から受け継ぐ自然観であり、神々をやどす生き物への畏敬と畏怖の念である。日本の風土にねざす日本人の感性である。この人間像は、西欧から輸入した「独立した強い人間像」などではなく、「他者ともたれあう弱い人間像」である。
この人間像を、共生思想にもとづく社会システム設計の基礎とする。その実践が、地域コミュニティの「敬老思想」である。
老人世代こそが、地域コミュニティの主役である。老人世代という社会勢力が、「共」層を国家体制に組み入れて「私共公」三階建国家を実現する。
では、「私→共←公」図式の実践とソフトな社会システムの制度化を、どのように展望するか。「公」の統制を受けないで一定の独立性を保って、「仲間力」の自治能力をもつ現代版「隣組」地域コミュニティの再生は、どうすれば可能なのか。
戦前の共同体は、国家総動員という戦時体制強化のための「公→共」という従属体制であった。「共:敬老思想」の実践的なイメージは、「私→共」の自発的かつ自治的な隣組制度の現代版への再生である。その雰囲気を以下に引用する。
「隣組 作詞:岡本一平 作曲:飯田信夫 唄:徳山璉」
(1)とんとんとんからり と 隣組/ 格子 を開けれ 顔なじみ
廻して 頂戴 回覧板/ 知らーせられたり 知らせたり
(2)とんとんとんからり と 隣組/ あれこれ面倒 味噌醤油
ご飯の 炊き方 垣根越し/ 教えーられたり 教えたり
(3)とんとんとんからり と 隣組/地震 や雷 火事どろぼう
互いに 役立つ 用心棒/ 助けーられたり 助けたり
(4)とんとんとんからり と 隣組/ 何軒 あろうと 一所帯(ひとじょたい)
こころ は一つの 屋根の月/ 纏(まと)―められたり 纏めたり