5.3 老人福祉の根拠=社会思想を問いなおす  2015年1月20日 

 

「社会保障費が毎年1兆円増加」している。その直接的な原因の8割は、団塊世代が65歳をこえる高齢化である。この高齢化社会の問題を、国民と国家の関係=「私」と「公」の関係の「社会思想」の視点から考える。ここでいう社会思想とは、「公」が「私」を支える、「私」が「公」に支えられる、という社会福祉制度の根拠である。

社会思想は、社会制度=国家システムの土台である。社会制度は、社会思想により創造され、運用され、そして変革される。思想と制度は、相互に作用しあう。制度の根本的な見直しには、思想の見直しが、先行しなければならない。

前節では、「公」である国家政策関係者たちが、「私」である国民に関与する高齢化社会対策の考え方をみた。「公」から「私」への視点であった。ここでは、逆に「私」国民の視点から「公」国家にむかって「老人福祉」を要求する根拠=社会思想について確認する。そして老人福祉の根拠=社会思想を問いなおす序説とする。

 

1)「老人福祉」社会思想のキーワード

前節で引用した老人福祉法と内閣府の報告()の根底にある社会思想のキーワードをつぎのように要約する。

○敬老思想

 老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障される。

○社会参加思想

老人は、その希望と能力とに応じ、適当な仕事に従事する機会その他社会的活動に参加する機会を与えられる。 高齢者パワーへの期待 ~社会を支える頼もしい現役シニア~

○健康思想

老人は、老齢に伴つて生ずる心身の変化を自覚して、常に心身の健康を保持し、又は、その知識と経験を活用して、社会的活動に参加するように努める。

○尊厳思想

いざ支えられる立場になった時にも、住み慣れた地域において尊厳を持って生活できる生き方の実現。

 

2)「私」の視点から「公」に「老人福祉」を要求する根拠を確認する

戦後70年、いまの時代はアンチエイジングが流行である。年齢を気にしないで、いつまでも若く,美しく,健康でいたいという風潮である。エイジレスという言葉も使われだした。年をとっても元気に暮らして,その年齢を感じさせない「まだまだ活躍するぞ」という「新老人」たちも登場してきている。

では、(ⅰ)老いを受け入れない「老人思想」と(ⅱ)うえの「老人福祉」社会思想と(ⅲ)「団塊世代の高齢化」にともなう社会保障費が毎年1兆円増加との三つの関係を、どのように考えるか。

この問題を、国民と国家の関係=「私」と「公」の関係という「社会思想」の視点から検討する。検討する方法として、「公」に要求する「私」の考え方を、戦後70年をすごしてきた国民の年代別の意見に分ける。その意見として、ホームページと新聞投稿欄から以下の記事を以引用した。

・人権思想 ・・・・・・・・戦前時代を経験した戦後世代、80歳以上

・敬老思想 ・・・・・・・・戦前時代を両親にもつ戦後世代、70歳以上 

・老人世代不信・・・・・高度経済成長時代を経験していない50歳代

・国家不信 ・・・・・・・・老後に不安をもつ40歳代

 

3)人権思想 高齢者教育論者の主張 (ホームページから引用編集)

 小林文成(19001995)という高齢者教育論者がいた。「高齢者の意識にある戦前からの敬老思想観」を払拭して、「現代人となる学習」を説いた。その学習実践を、長野県の楽生学園でおこなった。次のように主張する。

敬老思想とは「封建社会体制のもとで、君に忠、親に考、長幼の序、男女差別を織りこんだ儒教道徳を上からたたき込まれたもの」である。

老人といえども戦争、戦争で苦しめられた時代を脱出して、楽しい生活を送りたい。老いの心理構造のひずみを是正し、いつまでも若い心をささえるための生活教養をはげまなければならぬ。高齢者が充実した生活を送るためには2 つの方法がある。

暦のうえの年齢にこだわらない人間になろうということ

人間死ぬその日まで、学習するという気持ちをもとうということ

この根底にあるのは、いかに「生きがい」を得るかである。生きがいを感じて、楽しく生活できるためには、貢献欲求がみたされなくてはならない。

まず現在の老人が、その生活を保障するよう「年金制度を変えろ」と、それぞれの市町村に、または都道府県に陳情請願運動を、勇気をもって行動することが、老人問題を前進させるために必要である。自分たちの生きる道を自分たちの力で、切りひらいて行く。若い世代にのみ頼ることをやめて、正々堂々、老人の人権を守る運動を展開する。

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この立場は、アンチ敬老思想である。「年齢にこだわらない」人生観である。戦後復興と同調しながら進歩と成長を信じる確たるつよい個人像である。過去を否定し、未来に希望がもてる時代精神の反映である。戦前の天皇制国家がもとめた「滅私奉公」を否定する。個人の人権意識が強くなった戦後民主主義思想である。

老人福祉の考え方は、「公」にむかって積極的に陳情請願する「私」の権利思想である。「公」は、「私」の基本的人権を保障する義務があるという国民国家の近代思想である。

 

4)敬老思想 70歳の老人の意見と要望 (ホームページから引用編集)

いつの頃からか定年退職者が安穏と暮らせなくなってきた。唐突に65歳定年延長を企業に義務付けようとしているが、55歳でラインアウトするのが最初の定年、5年後が正式な定年というのが実情で有り、5年間は企業の特段の計らいで仕事を与えられ、無為に過ごしているのが現実である。とても曖昧な企業任せの定年延長と言える。

当然の事ながら、ラインアウトした当事者にとっては、役員、年下の上司には無視され、若者(元、部下)には疎まれ、精神的に耐えがたい日々になっている。

また60歳過ぎまで居残るケースでも給与は三分の一から4分の一くらいになり、労働環境は最悪で、精神的抑圧は更に増幅され、その結果、退職後に地域に溶け込むには難しい無気力な老人になってしまうのである。

後輩の話しでは、年金支給が始まるまでのつなぎの雇用という形も取られ、62歳、63歳で雇用契約を打ち切られ、65歳までの定年延長は絵に描いた餅であるという。

国は、安直に税金をあげるのではなく、60歳あるいは65歳までラインアウトにならず組織の一員として社会に貢献しているという思いを持てるような仕組みを早急に構築すべきである。

今日の定年退職者は国に、会社に忠実に尽し、戦後の日本の繁栄に幾ばくかは貢献した人達であり、少なくとも彼等の老後は最低限、可もなく不可もない生活を保障してあげるべきではないだろうか。

それで地域に貢献する余裕も生き甲斐も出来て、逝くまでに決して地獄を見せるのではなく、自分の人生は良き人生であったと思わせる温かい思いやりのある政策を国も企業も行って欲しいものである。

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この立場は、戦後民主主義と高度経済成長の時代を過ごした世代の意見である。老人福祉の考え方は、権利主張というよりも伝統的な「共同体」意識にもとづく相互扶助である。「私」と「公」の関係性に「共」を差し込む社会思想に近い。

 

5)老人世代不信 58歳の男性会社員の意見 (読者投稿欄の新聞記事から引用編集)

1千兆円の借金をどう返すのか?

 赤字国債の発行が常態化したのは、第一次オイルショックによる不況対策の1975年から。それから借金は膨らみ続けてきた。その恩恵の多くを享受してきたのは60歳をこえた団塊世代。けれど、その世代は借金を返し終えることなく、この世からいなくなってしまう。その後は、「おじいちゃんたちが作った借金で、どうしておれたちが苦しまなくてはならないのか」という孫たちの非難の声が渦巻くことになる。

 借金を背負うのは、これから生まれてくる子供たちだ。でも、彼らは声をあげることができない。選挙で反映されるのは、今を生きる人々の声や利害だけだ。衆議院選挙の候補者が、借金のことにあまり触れず「今の生活を良くしましょう」という訴えることに、どうしてもうなずけないでいる。

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50歳代は、高度経済成長の恩恵をうけた世代ではない。バブル崩壊後の不景気な世の中を過ごしてきた。敗戦直後のだれもが日本の復興をめざして、進歩と成長の希望を無条件に信じるわけにはいかない世代である。

そして、年々ふくれあがる老人医療と介護の社会保障費。選挙で投票できない次世代に巨額の借金、ツケを押しつける老人世代の心底に利己心をみる。社会保障の「負担と受益」の世代間格差を感じる世代である。

世代間格差は、祖父母世代による孫世代の「財政的幼児虐待」だと指摘する人もいる。「老人が若者のクレジットカードを使いほうだい」という若手評論家もいる。「格差」などといわずに、「不平等」というべきだ、という人もいる。

 50歳代の現役世代には、「敬老思想」など論外であろう。老人福祉への関心どころではなかろう。

 

6)国家不信 45歳の男性会社員の意見 (読者投稿欄の新聞記事から引用) 

本当に「長生きはよい」のか?

会社で定年になっても、これからはまともな額の退職金はもらえない。60歳になっても年金は受け取れない。その先も働かないと生きていくためのお金がない。医療が進んでも「老い」は、慢性的に何ならかの病気をかかえる。

その結果、長生きは一種の「ワーキングプア」に突入することになる。60歳以降も働くということは、結果として若い誰かの雇用を奪うことにもなる。そんな生活が定年後、10年か20年か分からないまま続くのである。

「悠々自適」などこれから死後になっていくのではないだろうか。いたずらに寿命を延ばすことがいいのか、考え直す時期が来たのかもしれない。

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40歳代世代のまことに「痛々しい」意見である。「自分の人生は良き人生であった」と思えるような人生設計の希望をもてない。人権思想、敬老思想、老人福祉への根源的な問題意識を感じる。「私」から「公」への不信感というよりも、「公」の存在への空虚感すら感じさせる。

老若の世代間格差、正規社員と非正規社員の格差、世代内格差を現実に体感できる世代である。25歳から34歳の国民年金の未納率は、なんと5割に達する(厚労省調査)。若者は、「どうせもらえないんだろ?」、「やってられない」という心境。

派遣労働者の56%は、15歳から39歳の働き盛り世代に集中。中高年正社員の雇用を守るための調整弁ともいわれる。

そこでアベノミクスへの期待感がたかまる。アベノミクスの「第三の矢」が、どこを標的に放たれるのか。「デフレ脱出、経済成長、地方創生、トリクルダウン」にうまく的中できるのか。

もし「第三の矢」がむなしく落下したらどうなるか。国債が暴落したらどうなるか。ハイパーインフレで1千兆円の借金がホゴにされたらどうなるか。「一定の割合」の国民に不満が鬱積しないか。「公」=国家制度に不信をもち、明日に希望をもてる人生設計に「絶望」する国民がふえたとき何が起きるか。絶望の鬱積が暴発にむかえばどうなるか。

「公」という国家秩序が不安定になる。そうすれば、かならずナショナリズム=国民の一体感の高揚意識がたかまる。「私」の「公」への編入である。うるわしい共同体の「絆」意識は、いとも容易に「日本民族」意識に包み込まれるであろう。その「美しいニッポン」ナショナリズムは、醜悪な排外思想を養分として、憎悪の異臭をはなちながら異形に育つ。

さらに原発事故の再発、マグニチュード8クラスの大震災、巨大津波による都市崩壊の悪夢も潜在する。大混乱におちいるそういう近未来の日本の将来像もありうる。

老人福祉どころのはなしではない。日本人、一蓮托生の悪夢にほかならない。

 

7)老人福祉の根拠=社会思想を問いなおす個人的理由 ~往還思想

以上、「公」国家にむかう「私」国民の視点から、年代ごとの意見をみてきた。40歳代の男性は、「悠々自適」などこれから死後になっていくのではないだろうか、という。

これまでの「悠々自適」は、まじめに働いてきた人が、退職後の余生をすごすひとつの老人思想であった。「自分は老人である」と自覚した人が、老後を「のんびり」くらせる生活意識であった。退職後は、社会的な活動への参加をなるべく控えて、静かに生きようという人生観であった。自分の人生も、まあ、ほどほどの人並であった」などと諦観をまじえて自己了解する達観気分であった。「悠々自適」気分は、日々是好日でくらす身の丈の「隠居生活」を意味した。

だが、いまや「隠居・隠遁・隠逸」などは死語である。「隠居老人」などと口に出せば、「いやいや、まだまだ、これからですよ」と言われる。

しかし、わたしは還暦過ぎて70歳の古希もこえた。これからの人生は「おまけ」の余生だと考える。幸いにも「悠々自適」にすごせる境遇にある。これからの老後を「隠居老人」の気分ですごしたい。「隠居老人」としての「老人思想」をきたえながら、安心立命の平穏死、老衰死、自然死をめざす。その個人的な人生論を「往還思想」と自称する。(2章「往還思想」参照)

個人の生き方への関心とはべつに、いっぽうでは「借金1千兆円、社会保障費が毎年1兆円の増加」という社会現実にも目をむける。自分も当事者であるこの大きな社会問題に、老人として自分はどのよう対応するか。

その対応が、隠居生活しながら、「共生思想」にもとづく少/学業期世代への応援である。

では、我が「往還思想」と「共生思想」は、これまでの「老人福祉」の根拠=社会思想とどこが同じで、どこが違うか。この自問が、老人福祉の根拠=社会思想を問いなおす理由にほかならない。

そこで、つぎに老人福祉法の「基本的理念」に着目しよう。

 

8)老人福祉法の「基本的理念」を問いなおす

「老人福祉」社会思想のキーワードを、すでに敬老思想、社会参加思想、健康思想、尊厳思想に要約した。この思想にたいして、「往還思想」はつぎのような意見をもつ。

○敬老思想への意見

 戦後の日本社会では「敬老思想」はすでに形骸化している。だからあたらしい「老人思想」を提示する。

○社会参加思想への意見

老人の社会参加が壮年期思想の延長のままでは、「老人の冷や水」=老残・老害である。老人世代の社会的責務を、少/学業期世代の応援と地域コミュニティにおける社会教育とする。だから「共生思想」を提示する。

○健康思想への意見

老齢に伴う心身の変化を、老化=「死に向かう」自然現象として自覚する。健康であるうちに「発つ鳥跡を濁さず」、「この世の後始末、あの世への旅支度」をする。社会システムの存続は、要素個体の死=入れ替わり=新陳代謝を大原則とする。だから「システム論哲学」を提示する。

○尊厳思想への意見

 人命尊重、人権思想を「人間中心ゴーマン」思想とみなす。だから「敬天愛人」思想を提示する。敬天愛人とは、「天を介在して、人と関係する」思想である。「天を介在」とは、「則天去私」である。

 

 この「往還思想」の視点から、老人福祉の根拠=社会思想を問いなおす。問いなおす対象を、老人福祉法が述べる基本的理念を出発点とする。

老人福祉法は、第二条で基本的理念をつぎのように述べる。

「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。 」

まず後半の「生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。」を考える。この文章の射程は、老人世代にかぎらないだろう、ということが、ここでのポイント。

憲法が定める国民の「生存権」は、どの世代にあっても、どんな身心頭の機能変調にあっても、どんな生活条件にあっても、同じように適用される。老人福祉にかぎらず社会保障制度の根拠は、「公」国家が「私」国民の「健全で安らかな生活を保障」する憲法にある。「私」から「公」への福祉要求の根拠は、生命尊重、人権尊重、生存権、社会的権利思想=国家の義務に求められる。

この根拠は、うえに戦後世代の年代ごとにみた「戦前時代を経験した戦後世代、80歳以上」の意見の「人権思想」にほかならない。この「人権思想」が、「いざ支えられる立場になった時にも、住み慣れた地域において尊厳を持って生活できる生き方」を保障する根拠となる。「支援を要求することは、恥ずかしいことではない」という人権思想=啓蒙思想である。

では、この「人権思想」と「借金1千兆円、社会保障費が毎年1兆円の増加」との関係性をどう考えればよいか。

普遍的な原理といわれる「人権思想」も思考停止することなく、老人福祉の根拠=社会思想を問いなおすべきだと考える。

 

つぎに老人世代に固有の老人福祉の根拠を考える。

老人福祉法の基本的理念の二条の前半は、「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛される」という。だから老人世代に固有の社会保障制度の根拠は、「敬愛される」=「敬老思想」に求めなければならない。

では、いったい「だれ」が老人を敬愛するのか。老人は、「だれ」から敬愛されるのか。この老人福祉の根拠は、うえで戦後世代の年代ごとに意見をみた50歳代、40歳代にも説得力があるだろうか。

その世代の意見にたいして、わたしはつぎのようにコメントした。

~世代間格差は、祖父母世代による孫世代の「財政的幼児虐待」だと指摘する人もいる。50歳代の現役世代には、「敬老思想」など論外であろう、と。~

そしてわたしは、戦後の日本社会では「敬老思想」はすでに形骸化したと考える。そこで自問する。

わたしは、「多年にわたり社会の進展に寄与してきた」者であろうか。自分は、「豊富な知識と経験」を有する者であるだろうか。その知識と経験は、敬愛にあたいするものであろうか。次世代の者たちにむかって「わたしを敬老してください」とお願いできるだろうか。わたしは、次世代の者たちにむかって「わたしを敬老すべきである」と主張できるだろうか。

老人福祉法の「老人は敬愛される」思想は、老人福祉の根拠=社会思想を問いなおすべき対象だと考える。われわれ祖父母世代による孫世代へのツケは、次世代の国民への「人権侵害」ではないのか、と。

今回の考察の結論は、老人福祉の根拠=社会思想を問いなおす論点を、「人権思想」と「敬老思想」の二つとした。

次回の5.4では、「人命尊重、人権思想」を問いなおす。 

以上  5.2へ  5.4へ