5.5 人生論を問いなおす ~「少壮/人生二毛作」から「少壮老/人生三毛作」へ 2015年3月11日

1)「老人意識」なき現代日本人の人生論と社会思想 

2)「人生二毛作」思想時代の敬老思想のおわり

3)人生「二毛作」思想の価値観の問題

4)少子高齢化社会における「人生二毛作」思想の根本問題

5)あらたな敬老思想の「人生三毛作」思想へ

 

老人福祉法の目的と基本的理念への対案を、人生論と社会思想の視点から考える。

まず戦後日本人の人生論と社会思想が、「老人意識」を避けてきた現状を述べる。その現状で、戦前までの「少壮/人生二毛作」の敬老思想が、形骸化したことを確認する。つぎに現状の人生観が、人生「二毛作」思想であると定義して、その思想の根本問題を考える。

それをふまえて、これからの老人福祉の問題にむかうために、あらたな人生論と老人思想として「少壮老/人生三毛作」を提起する。

 

1)「老人意識」なき現代日本人の人生論と社会思想 

おおくの高齢者が、「老人」ということばをきらう。シニアとかシルバーとかでごまかす。死に逝く者としての自覚をさける。葬儀場といわずにセレモニーホールという。

いつまでも壮年期の延長でピンピンして生きる元気な高齢者をほめそやす。「70,80洟垂れ小僧、90で迎えがきたら、100まで待てと追い返せ」という戯れ歌がある。

 2013523日、冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんが、80歳でエベレスト(8848メートル)の登頂に成功した。世界最高齢者の登頂が新記録だそうだ。これを報じるマスコミは、「すごい、感動した、快挙だ、深く敬意を表したい」など称賛の声一色を報じる。

「彼は世界中の希望の星だよ。人間の本当の生き様をあの年で明かしてくれた。」

「まさに遺業そのもの。たくさんの人が勇気をもらった。挑戦したほうが人生は楽しいからね。」

「人間はいつだって不可能かもしれないことを超えてきた。目標を持って生きれば、わくわくできる。」 

「快挙に励まされて、<まだまだ若い人>が世に増えそうな、明るい予感がする。」

「評価されるべきは、高齢化社会の中で、80歳になっても目標を持って突き進む、その姿だろう。」

80歳の三浦さんが頑張る姿を見ると、自分もまだ何かできると思う同世代は多いだろう。」

80歳が人生のスタートだとすれば楽しくなる。」

「三浦さんに負けてなるものか。心と体を鍛えて現役をめざす。」

「何事も諦めずに挑み続ける気持ちが大切だと学びました。」

「まだまだ若い者には負けられんわい。」

 

80歳になっても「がんばりつづける」三浦さんを称賛する風潮を考えると、それはつぎのような社会思想じゃないかと思う。

青春とは年齢ではなく、心のあり方だ。生涯現役、死ぬまで元気に生きよう。アンチエイジング、ピンピンころりを願う。生きているかぎりもっと成長しよう、もっと発展しよう、どこまでも進歩しよう、前に進もう、もっと豊かに、もっと快適に、もっと便利に、もっと清潔に、もっと美しく、もっと多く、もっと高く、もっともっと、・・・・、ナンバーワンになろう、オンリーワンを目指そう、ひたすら頑張ろう、自然を征服しよう、人間万歳!・・・・・。

 

現代日本人の社会思想は、「高齢者=老人」ではない。「老人=弱者」ではない。年齢を気にしないでいつまでも若々しくありたいと欲望する社会思想である。還暦すぎたおおくの人でも、「自分は老人である」と自覚しない社会思想である。みずからを「数年したら死に逝く人」とは自覚しない。この世で生きた後始末への思想がない。あの世への旅支度をする思想がない。死にむきあうことを避けたがるシニアやシルバーだらけの超高齢化社会である。

老人思想の不在である。死生観の不在である。

個人思想は、「いつまでも生き続けたい」という単線的人生観である。

 社会思想は、「いつまでも生かし続けるべき」という福祉国家思想である。

 

この思想は、人生の生き方において年齢を特別に意識しない。老いを考えたくない人生論である。60歳の還暦、70歳の古希をすぎても死にむきあわない。老年期を壮年期の延長として位置づける。壮年期の職業生活の価値観のままで、老後を生きつづけたい。

この人生観は、人の一生を子ども世代と大人世代の二つにわけるだけである。子どもは20歳の成人式をもって大人に成る。子どもは大人として生きるために「成人義務教育」をうける。この人生観を「少壮/人生二毛作」とよぶ。

この人生観には、大人が死ぬまでの間に節目をもうけない。終わりにむかった人生まっしぐら、一直線である。人生行路を上り坂のままであるとみなす。往くだけである。還りがない。人生は片道切符。直線思考である。ひたすらがんばる成長、進歩、若さ希求である。死に向かう下り坂の逝き方を人生行路から避けたがる。

循環や定常や諦観よりも成長と革新と進歩をどこまでも追いかける。いつまでも可能性をもとめる。ひたすら勝者、強者、盛者、富者、野心家、不老長寿、善なる飽くなき欲望追及を称賛する。経済成長戦略は、「これしか道はない」とさけぶ。

その道には、生命論、死生観にもとづく人生論がない。「老いる」、「老人に成る」、「老成」、「老熟」という自然な生々流転の「人道・天道」思想が欠落している。

このような「老人意識」なき社会思想をベースにして、「社会保障費が毎年1兆円の増加、累積借金が1千兆円」の問題に対応できるのだろうか。

わたしは根本的な疑問をもつ。

 

2)「人生二毛作」思想時代の敬老思想のおわり

人類の歴史は、これまで人口構成がピラミッド型の「多子短命少老」社会であった。だから未成年期と成人期の人生二毛作でよかった。戦前までの平均的な家庭では、子どもの数は5,6人であった。そして少年期は10数年で卒業した。退職後の老年期は、せいぜい10年前後であった。壮年期の期間が、少と老の合計よりも長かった。平均寿命は50歳代。家制度のもとで老人は、長男の家で老後を余生としてすごした。三世代家族であった。

仕事をする壮年世代が、仕事をしない「子どもを育て、老親のめんどうをみる」という思想でよかった。忙しい両親に代わって、兄が弟を、姉が妹に長幼の序を教え、子どもどうしで人間学を学びあい、鍛えあった。祖父母が孫の世話をしながら「お天道様」の道徳を語りつたえた。三世代家族が、地域共同体における社会保障の基本単位であった。

「短命少老」社会では、古老は古稀であり、長命は喜寿であった。老後は、貧しくても悠々自適、のんびりと孫子と付き合いながら天寿・天命にしたがって逝けた。60歳の還暦をすぎた70歳の古老は「古稀」としてチヤホヤされた。

これまでの敬老思想は、「高齢者=退職者=老人=隠居生活=数年したら死に逝く人」という人生観、社会常識、社会思想を根っ子とした。「楢山節考」(深澤七郎)の思想である。だから現役世代の少年と壮年たちは、老人にむかって「これまでのお仕事お疲れ様でした。老後はゆっくり、のんびり過ごしてください」という気持ちをもてた。これは、古今東西おおくの人間にとって自然な感情だろう。

 

その敬老思想は、貧しい時代の「短命少老」社会の反映である。年老いて体に不調があっても医者に診てもらえる人は、ひとにぎりの特権階級であった。ボケになっても自然な老化現象とみなされた。「老人はボケて死ぬのは当たり前」の思想であった。だから「近いうちに死を迎える老人」をだいじにして敬老した。長幼の序、先人を敬い、親に孝行する道徳思想でもあった。「孝行したくても親はなし」の短命社会であった。

江戸の庶民は、「老いの木登り」を冷かした。いつまでも元気に壮年きどりの立ち居振舞は、「年寄りの冷や水」として敬遠されたのであった。

年寄りが、強がって冷たい水を浴びたり飲んだりしたら腹を壊すよ。年甲斐もなく年寄りが無分別に若者のマネなどしなさんな。自分の年齢も考えずに無茶をすることはみっともない、はしたない。「老いては子に従え」と教えさとした。

 

だけどそれは、家制度や村落共同体や下町長屋があった戦前までの時代のはなし。現代の庶民は、核家族で少子かつ高齢化社会を生きるしかない。家督をゆずって隠居暮らしというわけにはいかなくなった。「年寄りの冷や水」という江戸の故事は死語となった。

戦後70年、いまや時代が決定的に変わった。「老人」という言葉自体が、敬遠される時代である。高齢者だのシニアだのシルバーだのといいかえる。「<高齢者=何歳以上>と年齢で一律に区切るのをやめよう」などと、社会保障制度を検討する学識経験者たちはいう。

5080歳男女への生活意識調査アンケートで「自分の年齢にとらわれず意欲的に暮らしたいか?」に、77%のひとが「はい」とこたえる世の中である。ピンピンころり願望の元気老人がふえた。

さて少年/学業期と壮年/職業期の現役世代は、こういう元気老人たちを「敬老」するだろうか。ピンピン元気なお年寄りにむかって「これまでのお仕事お疲れ様でした。老後はゆっくり、のんびり過ごしてください」といおうものなら、バカヤローと怒られるだろう。

 

その一方では、生活保護や医療や介護などの支援を必要とする「要支援老人」もふえた。仕事をしたくても職場がみつからない老人もおおい。

そこで日本国憲法の出番である。憲法は、国民の基本的人権、生存権を保証する。だから「要支援老人」の増加=「社会保障費が毎年1兆円の増加」となる。それでも日本の社会保障制度は、諸外国にくらべて老/終業期世代に極端に手厚いといわれている。少年/学業期の子育て、教育費の公的負担が少ない、壮年/職業期の職業訓練と転職支援が少ないといわれている。

それを補完してきたのが、三世代家族同居、家内制家業、地域共同体の互助、終身雇用職場などであった。だがそれらはいまや崩壊している。

だから、ますます「要支援老人」は増える。「社会保障費が毎年1兆円の増加」は必然となる。

このような時代になって、少年/学業期と壮年/職業期の現役世代が、要介護状態で生かされる両親や祖父母にむかって、「これまでのお仕事お疲れ様でした。老後はゆっくり、のんびり過ごしてください」と言えるだろうか。「ゆっくり」してもらう期間が長すぎる。「敬老」というよりも「老人を敬遠」したい心境の「敬遠老」ではなかろうか。

 

このように元気高齢者も「要支援老人」も、「終わりなく生き続けたい/生き続けるべき」という「人生二毛作」人生観という人生論は同じである。そこには、老人に成る、老成、老生、老後を生きるという「成老思想」はない。老人思想の不在である。

世の風潮は、壮で在りつづけることを善とする。「老」の否定である。「少壮/二毛作」人生観を基本とする現代社会思想では、「敬老」という言葉が死後となった。そもそも「老」が存在しないからである。どうじに「隠居」、「悠々自適」も死後になった。「年寄りの冷や水」も死後になった。「ボケ老人」も死後になった。「老人」という言葉が不在だからである。

かくして、不衛生で貧しい生活ではあったが、お互いに身を寄せ合って生きるしかない「人生二毛作」のふるきよき時代の「敬老思想」はおわったのである。

ではこれまでの「敬老思想」に代わるどのような「老人思想」=高齢者意識をベースにして、「社会保障費が毎年1兆円の増加」の問題に対応できるのだろうか。

 

3)人生「二毛作」思想の価値観の問題

人生二毛作は、個人の人生を少/子ども時代と壮/大人時代の二つに区切る。世の中の人間を子ども世代と大人世代に分ける。子どもは、20歳になって成人となる。子供には「大人に成る」ための「成人義務教育」をほどこす。成人式という通過儀礼がある。

しかし60歳の還暦すぎても「老人に成る」という考えはない。「老人義務教育」という言葉はない。ちゃんちゃんこ着て還暦を祝い「成老式」に参加したあとは、隠居くらしという通過儀礼はない。

子ども世代と大人世代で構成されるこの社会を仕切るのは、大人である。大人の本業は仕事である。仕事は、衣食住をえるための労働である。仕事は、労働であると同時に自らの潜在性と可能性を実現する生活そのものとなる。生活は、他者が必要とする物事を他者に提供する人間関係がもたらす充実感でもある。

人生の満足の中心に仕事がある。人生二毛作の現代文明社会は、大人の仕事中心価値でまわる。仕事中心価値の社会は、自由を原理とする資本主義思想にもとづく厳しい生存競争社会である。競争に勝つという上昇志向を人々に追いたてる。

 

幼稚園から「上に向かう」競争がはじまる。少中高の学生時代は、偏差値競争である。受験競争をのりこえた大学生は、三年生の後半から就職競争に入る。会社に入れば、社内の出世競争だけでなく、他社との受注競争である。生き延びる、生き続けなければならない競争である。

世の中には、ゲーム、スポーツ、証券や株売買のギャンブル、宣伝広告から選挙運動まで、各種の競争があふれかえる。個人レベルの競争は、民族や国家レベルの競争にまいあがる。その先に紛争があり、殺戮をもたらす戦争がある。平和と民主主義を標榜するどの国家であっても、戦争勃発への可能性にそなえる。多額の軍事費を費やし、死の商人たちを肥え太らせる。

人類は、競争を好み、勝敗に一喜一憂する。勝つことによってえられる価値を追求する。地位、富、名声、権力、名誉などを至上価値とする。それらは、努力をせきたてる仕事中心価値の具体的な果実である。

競争ルールに従うかぎり、敗者は勝者にしたがう。勝者/強者の価値観が、世の中を仕切ることは必然となる。仕事中心価値の社会は、勝ち負けの競争原理を前提にしなければ成立しえないのだ。

私的な競争社会では、勝者は敗者を産出する。敗者がいなければ勝者は存在しえない。強者が弱者を生み出す。弱者がいるからこそ強者たりえるからである。

勝者や強者たちの価値観が、世の中の主流になるのは必然。勝者や強者たちが、世の中をひっぱる。自由競争にもとづく資本主義社会は、必然的に勝者/敗者、強者/弱者の格差を生み出す。そして、勝者の数は、敗者よりもはるかに少ない。敗者の数は、勝者よりもはるかに多い。

 

資本主義の近代文明社会は、マネー価値至上社会である。各種のルールに基づく多様なゲーム競争は、万能交換メディアのマネーの蓄積に収斂する。資本主義社会は、必然的にマネー保有量の貧富の格差社会=不平等社会でもある。

そこで生まれる敗者や弱者や貧者などと称される貧困者は、「未来に希望をもてない、自分に自信がない、何をしてもダメ、だれにも受け入れてもらえない、世の中がわるい」などと、自分と社会に不平不満をつのらせる。これは、不幸である。幸せな人生ではない。

不幸な人がふえる社会秩序は、不安定になる。少数の勝者の地位は、多数をしめる敗者階層から転覆されるかもしれない。下克上、一揆、反乱、革命、世直し、維新である。

そこで、世の中を仕切る勝者たちは、統治者としておおくの国民の支持をえるために知恵をしぼる。学者や評論家たちも秩序維持の論理と学説と思想を、為政者に提供する。

 

古代では、哲人政治や徳治や聖人支配の人道が論じられた。それは、倫理、宗教といったいとなって人道と天道が説教され、人民は啓蒙されてきた。

近代では、貧民救済策としての富の再配分が当然視される。社会福祉思想である。国家秩序の安全網として、弱者を底支えする社会保障制度の重要性が増す。「公」である国家政府に要求する人権尊重と生存権などの社会的権利が主張される。福祉国家思想である。

この主義主張は、資本主義思想の裏側にはりつく社会主義的な補完思想として登場した。自民党と社会党の共存体制である。

社会の上層と表側を構成する勝者・強者たちは、資本主義的な自由競争の価値観を信奉する。この価値観は、利己的個人主義と親和性がたかい。その活動主体は、私的企業のマネービジネスである。活動領域は、国境を越えてグローバルに展開する。

社会の下層と裏側を構成する敗者・弱者たちは、社会主義的な平等救済の価値観を信奉する。この価値観は、管理的全体主義、国家主義、大きな政府思想と親和性がたかい。その活動主体は、「公共」事業を独占する役所のナショナルな税金ビジネスである。

私的企業・グローバル/公的役所・ナショナルという両輪が、現代世界の市場を席巻する近代文明国家の構図である。国家構造は、「共」不在の「私と公」の二階建国家である。

この国家構造は、人生二毛作/子ども世代と大人世代の二世代社会とクロスする。

「社会保障費が毎年1兆円の増加」問題は、このような国家構造の産物である。「私公二階建」国家思想と「人生二毛作」思想の人生論が、もっと根本的に問題にされなければならないのではないか。

 

4)少子高齢化社会における「人生二毛作」思想の根本問題

世界の先進的な文明国家は、例外なく「少子高齢化」社会に向かっている。人生二毛作は、これまでの「多子短命少老」人口構成を前提にした人生観と社会思想である。ところが現実は「少子長命多老」時代になった。そして「毎年1兆円」の社会保障コストがふえる。

そこで「人生二毛作」思想による老人福祉政策は、「高齢者の壮年期延長」となる。高齢者も働き続けることができる社会が目標となる。「人生二毛作」思想は、仕事中心価値なのだから当然の帰結である。

この問題解決の思想の鍵は、経済合理性である。「借金1千兆円」問題の基本は、経済成長戦略による税収増と消費税増税というマネー問題、金融政策と経済政策に還元される。

だから、「人生二毛作」思想の社会保障制度では、容易に「生涯現役」、「いつまでも若さを保とう」などの個人的な覚悟と「定年延長」という社会的政策にむかう。資本主義社会の基本的な価値観からみれば、「少子高齢化」の社会問題は、つぎのように要約できる。

a.将来の人口が減る。労働力と需要が縮小する。経済成長が困難になる。国が衰退する。

b.学業期間がながくなって子どもの教育費が増える。

c.老人の社会保障費の社会的コストが増える。経済成長を阻害する。

 

「人生二毛作」思想の価値原則では、社会保障問題を負担と給付のマネーバランスの問題に集約するしかない。人生二毛作では、「老人世代」に固有の問題を定義できないからである。仕事中心価値の社会思想では、世代間倫理や次世代へのツケをテーマとする倫理思想は、ほとんど話題にならない。

話題になるとすれば、人生論とは関係のない「生活保護費の不正受給」のモラルぐらいのレベルでしかない。内閣府の「高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」も人生論、社会思想を本格的にはテーマにしない。

「人生二毛作」思想の根本問題は、社会保障制度設計、老人福祉政策立案において「老人」および「老人世代」を明確に定義できないことである。

だから「社会保障費が毎年1兆円の増加」問題に対応するためには、「人生二毛作」思想に代わる人生論が必須となる。これまでの「敬老思想」に代わるあらたな「老人思想」を構想しなければならない。

その人生論は、「老人の定義」、「老人世代に固有の問題の定義」を明確にしなければならない。

 

5)あらたな敬老思想の「人生三毛作」思想へ

高齢化社会の時代にあって、「老人」ではなくシニア・シルバーとして「いつまでも元気に!」という価値観だけでよいのだろうか。

それは身心が欲するがままの、私利私欲ではないのか。

身心が欲する「したい・できる」ことを、きりなく「やり続けたい」欲望だけでいいのか。

身心頭の「頭」の怠慢、思考停止ではないか。

現代思想には、身・心の欲望を抑制する規範がない。自由を自制する知性=倫理思想がない。その社会常識、社会思想は無責任=不道徳ではないか。

次世代に「1千兆円のツケ」を残すことは恥ずかしいことじゃないのか。

 

世に氾濫している「元気に老後を過ごそう」広告宣伝は、老人の「頭」を「体力」と「気力」だけにしか向かわせない。「人間が生きて死ぬ」というきわめて明白な潜在的な必然性に「頭」で向かい合わない。

きわめて近視眼的に目先と身辺の利害と快楽と健康状態と生活条件だけを「現実論」と称して課題とする。長期的展望と根底的な施策は、妄想として相手にされない。

原子力発電の再稼働および沖縄県に米軍基地をおしつける問題も同じ根の「現実論的近視眼」思想であろう。

私利私欲がみえみえの実業家が、「若者にまだまだ負けない」などと言って、70歳こえてバリバリ元気に活躍している姿は、老成、成熟、人格者、配慮、他者の受容、諦観などの「自然」のイメージからほど遠い。

 

「いつまでも生き続けたい」という願いは未熟じゃないか。

わたしはひとりの老人として、この社会思想にあらがいたい。いつまでも若くありたいと欲望するのは不自然である。生命の現実に目をふさぐ思考停止であると確信する。

そこでわたしは、往還思想の人生論を少壮老の「人生三毛作」とする。

平均寿命は延びる。老人世代がふえる。「社会保障費が毎年1兆円の増加」する。これまでの老人福祉制度が破綻する。

この問題は、たんに国家財政、税制、保険料などの費用と負担の金銭問題ではない。人間論、人生観、社会思想の問題である。

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